無門関 / 第四十五則 他是阿誰
【無門曰】若也見得他分曉。譬如十字街頭撞見親爺相似。更不須問別人。道是與不是。【頌曰】他弓莫挽 他馬莫騎 他非莫辨 他事莫知
新字:【無門曰】若也見得他分暁。譬如十字街頭撞見親爺相似。更不須問別人。道是与不是。【頌曰】他弓莫挽 他馬莫騎 他非莫弁 他事莫知
書き下し
無門曰く、若也(も)し他を見得して分暁(ぶんぎょう)ならば、譬へば十字街頭に親爺(しんや)に撞見(どうけん)するが如くに相似て、更に別人に問うて是と不是とを道ふことを須ひず。頌に曰く、他の弓挽くこと莫れ、他の馬騎ること莫れ。他の非弁ずること莫れ、他の事知ること莫れ。
現代語訳
無門は言う。もしその「彼」をはっきりと見て取ることができたなら、それはたとえば十字路の真ん中で実の父親にばったり出くわすようなもので、ほかの人に「これが父か、そうでないか」と尋ねる必要などない。頌に言う。他人の弓を引くな。他人の馬に乗るな。他人の非をあげつらうな。他人の事に首を突っ込むな。
解説
本則で五祖法演(東山演師祖)は、釈迦も弥勒もなお「彼」の奴僕にすぎない、では「彼」とは誰か、と問う。仏よりも上に立つ「彼」とは何か、という挑発的な問いである。無門は、それが見えれば十字路で実の父に出会ったようなもので、他人に確かめる必要はないと言う。見間違えようのない、自分自身の本来の面目を指しているのだ。頌は、他人の弓を引くな、他人の馬に乗るなと、「他」を四度重ねる。借り物の立場や他人の評価に乗っているうちは、「彼」には会えない。上司の評価や世間の物差しで自分を確かめようとする人ほど、確かめるたびに不安になる。自分の足で立つとはどういうことかを問う則である。
関連する章句
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