夢中問答集 / 『夢中問答集』問答を書き残してよいか
問日來相看の次でに、問答申たることを、何となく假名字にて記し置きたり、これを淸書して、在家の女姓なんとの道に志しある者にみせばやと、存ずるはくるしかるまじきやらん。 答禪僧の法門は敎家のごとく、習ひ傳へたる法門を胸の中にたくはへ紙の上にかきつけて展轉して、人に授け與ふる事なし、たゞ機に對する時直下に指示するのみなり、これを觀面提持となづく、擊石火閃電光にたとへたり。其の蹤をもとむべからず。古人の云く、言外に意をさとるも、既に第二に墮すと云云。何かに況んや其の言を記錄して人にあたへて見せしめんをや、しかる故に古の宗師皆同く言句を記する事を制し玉へり、しかれども若し一向に記する事なくば誘引の路たへぬべし、これによりてやむことを得ず、古人の語錄天下に流布せり、禪宗の本意にはあらず、古人は大略內外典を博覽して、後に禪門に入り玉へり、是の故に其の所解皆な偏見におちず、末代禪宗を信ずる人の中にいまだ因果の道理をもわきまへず、眞妄の差別をもしらざる人あり、さやうの人の中にも、若道心いるがせならず、百不知百不會の處について二六時中直に本分を參決せば、なましいなる小智のある人よりもまされり。世間を見れば坐禪工夫は綿密ならず經論聖敎をば聽聞することなし、或は坐中に外道二乘の見解の起れるをも、これは坐中より得たる智慧なれば、得法なりと思へる人あり、或は自然に敎家に談ずるところの法門を解了して、我は禪僧なれば所解も亦禪の宗旨なりと思へり。予つねに經論を講ずることはかやうなる今時の弊をすくはんためなり、文言義理の上について委曲に談ずる因果眞妄の法門をたにも・愚存のごとくうけとる人はすくなし、各あらぬかたへ聞きなめ、或は褒め或は貶る、褒貶ともに愚存にはあらずいはんや。夢中の問答を記し置き給はん事其益あるべしとも存せず・しかれ共褒貶の語によりて、順逆の緣をむすばんこと、何ぞこれをいとなまんや。
新字:問日来相看の次でに、問答申たることを、何となく仮名字にて記し置きたり、これを清書して、在家の女姓なんとの道に志しある者にみせばやと、存ずるはくるしかるまじきやらん。 答禅僧の法門は教家のごとく、習ひ伝へたる法門を胸の中にたくはへ紙の上にかきつけて展転して、人に授け与ふる事なし、たゞ機に対する時直下に指示するのみなり、これを観面提持となづく、撃石火閃電光にたとへたり。其の蹤をもとむべからず。古人の云く、言外に意をさとるも、既に第二に堕すと云云。何かに況んや其の言を記録して人にあたへて見せしめんをや、しかる故に古の宗師皆同く言句を記する事を制し玉へり、しかれども若し一向に記する事なくば誘引の路たへぬべし、これによりてやむことを得ず、古人の語録天下に流布せり、禅宗の本意にはあらず、古人は大略内外典を博覧して、後に禅門に入り玉へり、是の故に其の所解皆な偏見におちず、末代禅宗を信ずる人の中にいまだ因果の道理をもわきまへず、真妄の差別をもしらざる人あり、さやうの人の中にも、若道心いるがせならず、百不知百不会の処について二六時中直に本分を参決せば、なましいなる小智のある人よりもまされり。世間を見れば坐禅工夫は綿密ならず経論聖教をば聴聞することなし、或は坐中に外道二乗の見解の起れるをも、これは坐中より得たる智慧なれば、得法なりと思へる人あり、或は自然に教家に談ずるところの法門を解了して、我は禅僧なれば所解も亦禅の宗旨なりと思へり。予つねに経論を講ずることはかやうなる今時の弊をすくはんためなり、文言義理の上について委曲に談ずる因果真妄の法門をたにも・愚存のごとくうけとる人はすくなし、各あらぬかたへ聞きなめ、或は褒め或は貶る、褒貶ともに愚存にはあらずいはんや。夢中の問答を記し置き給はん事其益あるべしとも存せず・しかれ共褒貶の語によりて、順逆の縁をむすばんこと、何ぞこれをいとなまんや。
書き下し
問日來相看の次でに、問答申たることを、何となく假名字にて記し置きたり、これを淸書して、在家の女姓なんとの道に志しある者にみせばやと、存ずるはくるしかるまじきやらん。 答禪僧の法門は敎家のごとく、習ひ傳へたる法門を胸の中にたくはへ紙の上にかきつけて展轉して、人に授け與ふる事なし、たゞ機に對する時直下に指示するのみなり、これを觀面提持となづく、擊石火閃電光にたとへたり。其の蹤をもとむべからず。古人の云く、言外に意をさとるも、既に第二に墮すと云云。何かに況んや其の言を記錄して人にあたへて見せしめんをや、しかる故に古の宗師皆同く言句を記する事を制し玉へり、しかれども若し一向に記する事なくば誘引の路たへぬべし、これによりてやむことを得ず、古人の語錄天下に流布せり、禪宗の本意にはあらず、古人は大略內外典を博覽して、後に禪門に入り玉へり、是の故に其の所解皆な偏見におちず、末代禪宗を信ずる人の中にいまだ因果の道理をもわきまへず、眞妄の差別をもしらざる人あり、さやうの人の中にも、若道心いるがせならず、百不知百不會の處について二六時中直に本分を參決せば、なましいなる小智のある人よりもまされり。世間を見れば坐禪工夫は綿密ならず經論聖敎をば聽聞することなし、或は坐中に外道二乘の見解の起れるをも、これは坐中より得たる智慧なれば、得法なりと思へる人あり、或は自然に敎家に談ずるところの法門を解了して、我は禪僧なれば所解も亦禪の宗旨なりと思へり。予つねに經論を講ずることはかやうなる今時の弊をすくはんためなり、文言義理の上について委曲に談ずる因果眞妄の法門をたにも・愚存のごとくうけとる人はすくなし、各あらぬかたへ聞きなめ、或は褒め或は貶る、褒貶ともに愚存にはあらずいはんや。夢中の問答を記し置き給はん事其益あるべしとも存せず・しかれ共褒貶の語によりて、順逆の緣をむすばんこと、何ぞこれをいとなまんや。
現代語訳
問:先ごろ会見したついでに、問答したことを、何となく仮名で書き留めておいた。これを清書して、在家の女性など、道に志のある者に見せたいと思うのだが、差し支えないだろうか。 答:禅僧の法門は、教家のように、習い伝えた法門を胸の中に蓄え、紙の上に書きつけて、次々に人へ授け与えることをしない。ただ機に対するとき、直下に指し示すだけである。これを観面提持と名づけ、石を打つ火花や稲妻の光にたとえる。その跡を求めてはならない。古人はいう。言葉の外に意を悟ることさえ、すでに第二義に堕ちている、と。まして、その言葉を記録して人に与えて見せるなど言うまでもない。そのため昔の宗師はみな同じく、言句を記録することを禁じられた。けれどもまったく記録しなければ、誘い導く道が絶えてしまう。そこで、やむを得ず古人の語録が天下に流布している。これは禅宗の本意ではない。古人は大体、内典・外典を広く読んだ後に禅門に入られた。そのため、その理解はみな偏った見解に落ちなかった。 末代に禅宗を信じる人の中には、まだ因果の道理もわきまえず、真と妄の差別も知らない人がいる。そのような人の中にも、もし道心がおろそかでなく、百不知百不会のところについて、昼夜を通して直ちに本分を参究すれば、なまじ小智のある人よりも勝っている。世間を見ると、坐禅の工夫は綿密でなく、経論や聖教は聴聞することがない。あるいは坐禅の最中に外道・二乗の見解が起こっても、これは坐の中から得た智慧だから得法したのだと思う人がいる。あるいは自然と、教家が談じる法門を理解して、自分は禅僧だから理解したことも禅の宗旨だと思う人がいる。私がいつも経論を講じるのは、このような今の弊害を救うためである。文言や義理について細かに談じる因果や真妄の法門でさえ、私の思うとおりに受け取る人は少ない。各々あらぬ方へ聞きなして、あるいは褒め、あるいは貶す。褒貶ともに私の思いではない。ましてや夢中の問答を書き留めておかれるのは、その益があるとも思わない。けれども褒貶の言葉によって、順縁・逆縁を結ぶことになるなら、どうしてこれを断ることがあろうか。
解説

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