夢中問答集 / 『夢中問答集』本分の題を忘れぬ修行
問禪門には生佛以前を擧揚する故に、一心三密の觀行をも論ぜずと申すに、古來の禪宗の學者皆坐禪工夫をたしなみ、知識も亦修行用心の邪正をしめす事は何ぞや。 答詩をつくり歌をよむ人は、先づ其の題をよく心得べし。月の題をとりて花の事を案ぜばよろしからず。佛法も亦かくのごとし。禪宗に本分の事といへるは何の事ぞや。凡にありても減ぜず。聖にありても增せず。人々具足し、箇々圓成すといへり。此の本分の題をとりながら、我れは迷人なりと思ふて悟りをひらくべき修行を習はんとする人は本分の題にそむける人なり。たとひ詩歌の風情は心にうかばざれ共、月の題をとりたる人は花のことをば案せぬがごとく、本分の題を信ずる人、我れは迷人なりと執著して別に悟りを求むる事はあるべからず。しかれども、いまだ箇々圓成せる處を分明にうけがふことのなき程は、日來の迷悟を存し、凡聖をへだてつる妄情を放下して、或は自ら直下に參究し、或は知識に參ずさはあれども念佛を申して往生の行にあて、陀羅尼を誦して悉地をもとめ、乃至敎門の中にあかせる觀念をこらして、證理をまつには同じからず。かやうの人は本分の題をわすれぬ學者なり。古人悟道の機緣を見れば上代なりし故にや、直下に大悟することはなかりし人も、本分の題をば信ぜし故に本分にかなふべきため、工夫用心とて、人にたづね問へることはなし。たゞ直に問て云く、如何なるか是れ佛、如何なるか是れ禪、如何なるか是れ佛法的々の大意、如何なるか是れ祖師西來の意、如何なるか是れ諸佛出身の處と云云。學者の問もかやうに直問なり。知識の答も亦直答にして、或は卽信卽佛とこたへ、或は庭前柏樹子としめし。或は東山水上に行くといふ。宗師かやうに答ふる事、皆な是れ本分の直示なり。此の語を以て修行の資糧となさしめんためにはあらず。然れども學者若し鈍にして、知識の直示をあきらめざれば、彼のしめすところの話頭に額をついて、或は一兩日、或は一兩月、乃至五年十年も此の直示を參決せり其の間をば修行とも申しぬべし。されども敎家に解行證をたてゝ、諸の觀を修する用心には同じからず。敎外別傳といへる題目は此の謂れなり。今時の人多くは是れ此の題をわすれて、善知識にあふて修行用心をたづね問ふ知識たる人の中にも、學者のために修行用心をおしへらる。或は公案を人にあたふるも往生のために念佛を申し、悉地のために陀羅尼をみつるがごとく、此の公案を提撕して本分に到らしめんと思へり。この故に學者も各用心の體をかたりて勝劣をたくらへ、知識の言のかはれる處について是非を批判す。皆な是れ世俗の戯論なり。
新字:問禅門には生仏以前を挙揚する故に、一心三密の観行をも論ぜずと申すに、古来の禅宗の学者皆坐禅工夫をたしなみ、知識も亦修行用心の邪正をしめす事は何ぞや。 答詩をつくり歌をよむ人は、先づ其の題をよく心得べし。月の題をとりて花の事を案ぜばよろしからず。仏法も亦かくのごとし。禅宗に本分の事といへるは何の事ぞや。凡にありても減ぜず。聖にありても增せず。人々具足し、箇々円成すといへり。此の本分の題をとりながら、我れは迷人なりと思ふて悟りをひらくべき修行を習はんとする人は本分の題にそむける人なり。たとひ詩歌の風情は心にうかばざれ共、月の題をとりたる人は花のことをば案せぬがごとく、本分の題を信ずる人、我れは迷人なりと執著して別に悟りを求むる事はあるべからず。しかれども、いまだ箇々円成せる処を分明にうけがふことのなき程は、日来の迷悟を存し、凡聖をへだてつる妄情を放下して、或は自ら直下に参究し、或は知識に参ずさはあれども念仏を申して往生の行にあて、陀羅尼を誦して悉地をもとめ、乃至教門の中にあかせる観念をこらして、証理をまつには同じからず。かやうの人は本分の題をわすれぬ学者なり。古人悟道の機縁を見れば上代なりし故にや、直下に大悟することはなかりし人も、本分の題をば信ぜし故に本分にかなふべきため、工夫用心とて、人にたづね問へることはなし。たゞ直に問て云く、如何なるか是れ仏、如何なるか是れ禅、如何なるか是れ仏法的々の大意、如何なるか是れ祖師西来の意、如何なるか是れ諸仏出身の処と云云。学者の問もかやうに直問なり。知識の答も亦直答にして、或は即信即仏とこたへ、或は庭前柏樹子としめし。或は東山水上に行くといふ。宗師かやうに答ふる事、皆な是れ本分の直示なり。此の語を以て修行の資糧となさしめんためにはあらず。然れども学者若し鈍にして、知識の直示をあきらめざれば、彼のしめすところの話頭に額をついて、或は一両日、或は一両月、乃至五年十年も此の直示を参決せり其の間をば修行とも申しぬべし。されども教家に解行証をたてゝ、諸の観を修する用心には同じからず。教外別伝といへる題目は此の謂れなり。今時の人多くは是れ此の題をわすれて、善知識にあふて修行用心をたづね問ふ知識たる人の中にも、学者のために修行用心をおしへらる。或は公案を人にあたふるも往生のために念仏を申し、悉地のために陀羅尼をみつるがごとく、此の公案を提撕して本分に到らしめんと思へり。この故に学者も各用心の体をかたりて勝劣をたくらへ、知識の言のかはれる処について是非を批判す。皆な是れ世俗の戯論なり。
書き下し
問禪門には生佛以前を擧揚する故に、一心三密の觀行をも論ぜずと申すに、古來の禪宗の學者皆坐禪工夫をたしなみ、知識も亦修行用心の邪正をしめす事は何ぞや。 答詩をつくり歌をよむ人は、先づ其の題をよく心得べし。月の題をとりて花の事を案ぜばよろしからず。佛法も亦かくのごとし。禪宗に本分の事といへるは何の事ぞや。凡にありても減ぜず。聖にありても增せず。人々具足し、箇々圓成すといへり。此の本分の題をとりながら、我れは迷人なりと思ふて悟りをひらくべき修行を習はんとする人は本分の題にそむける人なり。たとひ詩歌の風情は心にうかばざれ共、月の題をとりたる人は花のことをば案せぬがごとく、本分の題を信ずる人、我れは迷人なりと執著して別に悟りを求むる事はあるべからず。しかれども、いまだ箇々圓成せる處を分明にうけがふことのなき程は、日來の迷悟を存し、凡聖をへだてつる妄情を放下して、或は自ら直下に參究し、或は知識に參ずさはあれども念佛を申して往生の行にあて、陀羅尼を誦して悉地をもとめ、乃至敎門の中にあかせる觀念をこらして、證理をまつには同じからず。かやうの人は本分の題をわすれぬ學者なり。古人悟道の機緣を見れば上代なりし故にや、直下に大悟することはなかりし人も、本分の題をば信ぜし故に本分にかなふべきため、工夫用心とて、人にたづね問へることはなし。たゞ直に問て云く、如何なるか是れ佛、如何なるか是れ禪、如何なるか是れ佛法的々の大意、如何なるか是れ祖師西來の意、如何なるか是れ諸佛出身の處と云云。學者の問もかやうに直問なり。知識の答も亦直答にして、或は卽信卽佛とこたへ、或は庭前柏樹子としめし。或は東山水上に行くといふ。宗師かやうに答ふる事、皆な是れ本分の直示なり。此の語を以て修行の資糧となさしめんためにはあらず。然れども學者若し鈍にして、知識の直示をあきらめざれば、彼のしめすところの話頭に額をついて、或は一兩日、或は一兩月、乃至五年十年も此の直示を參決せり其の間をば修行とも申しぬべし。されども敎家に解行證をたてゝ、諸の觀を修する用心には同じからず。敎外別傳といへる題目は此の謂れなり。今時の人多くは是れ此の題をわすれて、善知識にあふて修行用心をたづね問ふ知識たる人の中にも、學者のために修行用心をおしへらる。或は公案を人にあたふるも往生のために念佛を申し、悉地のために陀羅尼をみつるがごとく、此の公案を提撕して本分に到らしめんと思へり。この故に學者も各用心の體をかたりて勝劣をたくらへ、知識の言のかはれる處について是非を批判す。皆な是れ世俗の戯論なり。
現代語訳
問:禅門では衆生と仏以前を挙揚するので、一心三密の観行をも論じないと言うのに、古来の禅宗の学人はみな坐禅の工夫をたしなみ、師家もまた修行の用心の邪正を示すのは、どういうわけか。 答:詩を作り歌を詠む人は、まずその題をよく心得なければならない。月の題を取って花のことを案じるのはよくない。仏法もまたこのとおりである。禅宗で本分のことというのは何のことか。凡にあっても減らず、聖にあっても増えない。人々がみな具え、一人ひとりに完成している、と言う。この本分という題を取りながら、自分は迷っている人間だと思って、悟りを開くための修行を習おうとする人は、本分の題にそむく人である。たとえ詩歌の趣は心に浮かばなくても、月の題を取った人は花のことを案じないように、本分の題を信ずる人は、自分は迷っている人間だと執着して、別に悟りを求めることはないはずである。しかしながら、まだ一人ひとりに完成しているところをはっきり受け入れていないあいだは、日ごろの迷いと悟り、凡と聖を隔てていた妄情を投げ捨てて、あるいは自ら直下に参じ究め、あるいは師に参ずる。そうではあるが、念仏を称えて往生の行にあて、陀羅尼を誦して悉地を求め、さらに教門の中に説かれている観念をこらして、理を証することを待つのとは同じではない。このような人は、本分の題を忘れない学人である。古人の悟道の機縁を見ると、上代であったためか、直下に大悟できなかった人でも、本分の題を信じていたので、本分にかなうために工夫用心といって人に尋ね問うことはしなかった。ただ直接に問うて言った。何であるか、仏は。何であるか、禅は。何であるか、仏法のはっきりした大意は。何であるか、祖師西来の意は。何であるか、諸仏が身を現す所は、と。学人の問いもこのように直に問うものであった。師家の答えもまた直に答え、あるいは、即心即仏と答え、あるいは、庭前の柏樹子と示し、あるいは、東山が水の上を行く、と言った。宗師がこのように答えることは、みな本分の直示である。この語を修行の資糧にさせるためではない。しかし学人がもし鈍くて、師の直示をはっきり会得できなければ、その示された話頭に額をつけて、あるいは一、二日、あるいは一、二か月、さらには五年十年と、この直示を参じ究めた。その間を修行とも言ってよい。けれども、教家が解・行・証を立てて、諸々の観を修める用心とは同じではない。教外別伝という題目はこのいわれである。今の人の多くは、この題を忘れて、善知識に会って修行用心を尋ね問う。師家となる人の中にも、学人のために修行用心を教える人がいる。あるいは公案を人に与えるのも、往生のために念仏を称え、悉地のために陀羅尼を唱えるのと同じように、この公案を提撕して本分に到らせようと思っている。このため学人もそれぞれ用心のありさまを語って優劣を比べ、師家の言葉の違うところについて是非を批判する。みな世俗の戯論である。
解説

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