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夢中問答集 / 『夢中問答集』禅と教えは同じか(上)

問敎の中にも佛の相もなく、衆生の相もなしと談ぜり、禪宗に生佛いまだわかれざる處といふに同じからずや。 答敎の中に凡聖の相なしと申すは、凡聖わかれたる處について、其の體性の無相なることを談ぜり。禪宗に生佛已前と申すは此の義にあらず、其の語の似たるを以て禪敎同とは申すべからず、たとへば人の面のやうをそらに語る時額の中に眉あり眉の下に眼あり眼の下に鼻あり鼻の下に口ありと申せば、貴賤男女みな同じ面なるやうに聞ゆれ共、若し實に其の面をみる時は、各ことなるがごとし、敎門には言句義理を以て法門とする故に、義理の分劑について大小權實を判せり、敎外別傳不立文字といへる題目を見ながら宗師の言句について敎禪の同意を論せばあたるべからず、今時の禪者の中に宗師の人に示さる言句の中に敎家の法門にかはりたる事のあるを見て、これを禪の勝れたる證據とす。若し敎の法門にかはりたる故に禪は勝れたりといはゞ禪にかはりたる故に敎をも勝れたりといふべし。然らば卽ち敎外別傳の宗旨何ぞ言句義理の同異にあづからんや、或は云く敎は皆な言句義理の上に談せり、言句義理にあづからざる處禪門の宗旨なりと云云。若ししからば敎の中に言句義理を立ざる法門あり、これを禪宗といはんや、或は敎者の中に敎外別傳不立文字といへども禪師の人にしめす言句多し不立文字といはんやと難する人あり、禪師の言句多しといへ共此の言句の義理を人に習學せしめんためにはあらず、ただ佛法の正理は言句の上にあらざる事をしめさんためなり、言句の上にあらずと申せばとて言語道斷の處を宗旨とするにもあらず、寂默沈空の所を指示するにもあらず、古人の云く達磨西來の別に一法の人のために傳授するなしたゞ人々具足し、箇々圓成する底を指出するのみなりと云云、旣に人々具足といへり、何ぞひとり禪者のみ具足して敎者にはかけたりといはんや、たゞ敎者禪者のみ圓成するにあらず。田夫野人の農業をはげむ所にもあり、鍛冶番匠の工巧をいとなむ所にもあり、要を取ていはゞ、一切衆生の所作所爲見聞覺知行住坐臥遊戯談論の所皆な悉く西來の玄旨にあらずといふ事なし、何にいはん佛の敎へに隨つて種々の善行を修する人をや。しかれども、此の玄旨あることを知らざる故に、世間の幻相はばかされて妄りに輪廻を受くる者多し。佛此の妄想をやめんために種々の法門を說き玉へば、又此の法門を執著して玄旨をくらませる人あり。是の故に祖師西來して、本分の一段を指出す、この心を以て心に傳ふる、敎外の玄旨となづく。敎外の玄旨とて諸敎にかはりたる一段の法門を相承するにはあらず、若し言句にて相承すべき法門ならばたゞ是れめづらしき敎法なるべし、敎外別傳とはいふべからず、六祖よりこのかた五家わかれて各の宗風を立つといへ共、亦同じく人々具足することを悟らしめんためなり。

新字:問教の中にも仏の相もなく、衆生の相もなしと談ぜり、禅宗に生仏いまだわかれざる処といふに同じからずや。 答教の中に凡聖の相なしと申すは、凡聖わかれたる処について、其の体性の無相なることを談ぜり。禅宗に生仏已前と申すは此の義にあらず、其の語の似たるを以て禅教同とは申すべからず、たとへば人の面のやうをそらに語る時額の中に眉あり眉の下に眼あり眼の下に鼻あり鼻の下に口ありと申せば、貴賤男女みな同じ面なるやうに聞ゆれ共、若し実に其の面をみる時は、各ことなるがごとし、教門には言句義理を以て法門とする故に、義理の分剤について大小権実を判せり、教外別伝不立文字といへる題目を見ながら宗師の言句について教禅の同意を論せばあたるべからず、今時の禅者の中に宗師の人に示さる言句の中に教家の法門にかはりたる事のあるを見て、これを禅の勝れたる証拠とす。若し教の法門にかはりたる故に禅は勝れたりといはゞ禅にかはりたる故に教をも勝れたりといふべし。然らば即ち教外別伝の宗旨何ぞ言句義理の同異にあづからんや、或は云く教は皆な言句義理の上に談せり、言句義理にあづからざる処禅門の宗旨なりと云云。若ししからば教の中に言句義理を立ざる法門あり、これを禅宗といはんや、或は教者の中に教外別伝不立文字といへども禅師の人にしめす言句多し不立文字といはんやと難する人あり、禅師の言句多しといへ共此の言句の義理を人に習学せしめんためにはあらず、ただ仏法の正理は言句の上にあらざる事をしめさんためなり、言句の上にあらずと申せばとて言語道断の処を宗旨とするにもあらず、寂黙沈空の所を指示するにもあらず、古人の云く達磨西来の別に一法の人のために伝授するなしたゞ人々具足し、箇々円成する底を指出するのみなりと云云、既に人々具足といへり、何ぞひとり禅者のみ具足して教者にはかけたりといはんや、たゞ教者禅者のみ円成するにあらず。田夫野人の農業をはげむ所にもあり、鍛冶番匠の工巧をいとなむ所にもあり、要を取ていはゞ、一切衆生の所作所為見聞覚知行住坐臥遊戯談論の所皆な悉く西来の玄旨にあらずといふ事なし、何にいはん仏の教へに随つて種々の善行を修する人をや。しかれども、此の玄旨あることを知らざる故に、世間の幻相はばかされて妄りに輪廻を受くる者多し。仏此の妄想をやめんために種々の法門を説き玉へば、又此の法門を執著して玄旨をくらませる人あり。是の故に祖師西来して、本分の一段を指出す、この心を以て心に伝ふる、教外の玄旨となづく。教外の玄旨とて諸教にかはりたる一段の法門を相承するにはあらず、若し言句にて相承すべき法門ならばたゞ是れめづらしき教法なるべし、教外別伝とはいふべからず、六祖よりこのかた五家わかれて各の宗風を立つといへ共、亦同じく人々具足することを悟らしめんためなり。

書き下し

問敎の中にも佛の相もなく、衆生の相もなしと談ぜり、禪宗に生佛いまだわかれざる處といふに同じからずや。 答敎の中に凡聖の相なしと申すは、凡聖わかれたる處について、其の體性の無相なることを談ぜり。禪宗に生佛已前と申すは此の義にあらず、其の語の似たるを以て禪敎同とは申すべからず、たとへば人の面のやうをそらに語る時額の中に眉あり眉の下に眼あり眼の下に鼻あり鼻の下に口ありと申せば、貴賤男女みな同じ面なるやうに聞ゆれ共、若し實に其の面をみる時は、各ことなるがごとし、敎門には言句義理を以て法門とする故に、義理の分劑について大小權實を判せり、敎外別傳不立文字といへる題目を見ながら宗師の言句について敎禪の同意を論せばあたるべからず、今時の禪者の中に宗師の人に示さる言句の中に敎家の法門にかはりたる事のあるを見て、これを禪の勝れたる證據とす。若し敎の法門にかはりたる故に禪は勝れたりといはゞ禪にかはりたる故に敎をも勝れたりといふべし。然らば卽ち敎外別傳の宗旨何ぞ言句義理の同異にあづからんや、或は云く敎は皆な言句義理の上に談せり、言句義理にあづからざる處禪門の宗旨なりと云云。若ししからば敎の中に言句義理を立ざる法門あり、これを禪宗といはんや、或は敎者の中に敎外別傳不立文字といへども禪師の人にしめす言句多し不立文字といはんやと難する人あり、禪師の言句多しといへ共此の言句の義理を人に習學せしめんためにはあらず、ただ佛法の正理は言句の上にあらざる事をしめさんためなり、言句の上にあらずと申せばとて言語道斷の處を宗旨とするにもあらず、寂默沈空の所を指示するにもあらず、古人の云く達磨西來の別に一法の人のために傳授するなしたゞ人々具足し、箇々圓成する底を指出するのみなりと云云、旣に人々具足といへり、何ぞひとり禪者のみ具足して敎者にはかけたりといはんや、たゞ敎者禪者のみ圓成するにあらず。田夫野人の農業をはげむ所にもあり、鍛冶番匠の工巧をいとなむ所にもあり、要を取ていはゞ、一切衆生の所作所爲見聞覺知行住坐臥遊戯談論の所皆な悉く西來の玄旨にあらずといふ事なし、何にいはん佛の敎へに隨つて種々の善行を修する人をや。しかれども、此の玄旨あることを知らざる故に、世間の幻相はばかされて妄りに輪廻を受くる者多し。佛此の妄想をやめんために種々の法門を說き玉へば、又此の法門を執著して玄旨をくらませる人あり。是の故に祖師西來して、本分の一段を指出す、この心を以て心に傳ふる、敎外の玄旨となづく。敎外の玄旨とて諸敎にかはりたる一段の法門を相承するにはあらず、若し言句にて相承すべき法門ならばたゞ是れめづらしき敎法なるべし、敎外別傳とはいふべからず、六祖よりこのかた五家わかれて各の宗風を立つといへ共、亦同じく人々具足することを悟らしめんためなり。

現代語訳

問:教えの中にも、仏の相もなく衆生の相もないと説いている。これは禅宗でいう、衆生と仏がまだ分かれていないところと同じではないか。 答:教えの中で凡夫と聖者の相がないというのは、凡夫と聖者が分かれたところについて、その本体の性が無相であることを説くのである。禅宗で衆生と仏の以前というのは、この意味ではない。言葉が似ているからといって、禅と教えが同じだと言ってはならない。たとえば人の顔かたちを空で語るとき、額の中ほどに眉があり、眉の下に眼があり、眼の下に鼻があり、鼻の下に口がある、と言えば、身分の高い者も低い者も、男も女も、みな同じ顔のように聞こえる。けれども実際にその顔を見ると、それぞれ違うようなものだ。教えの門では言葉や道理を法門とするので、その道理の範囲で大小・権実を判定する。教外別伝・不立文字という題目を見ていながら、宗師の言葉をとらえて、教えと禅が同じ意味だと論じるのは当たらない。 今の禅者の中には、宗師が人に示す言葉に教家の法門と違うところがあるのを見て、これを禅が優れている証拠とする者がいる。もし教えの法門と違うから禅が優れているというなら、禅と違うから教えも優れているということになってしまう。そうだとすれば、教外別伝の宗旨が、どうして言葉や道理の同異に関わろうか。あるいは、教えはすべて言葉と道理の上に説かれており、言葉や道理に関わらないところが禅門の宗旨だ、と言う者もいる。もしそうなら、教えの中に言葉と道理を立てない法門があれば、それを禅宗と呼ぶのか。あるいは教家の中に、教外別伝・不立文字と言いながら禅師が人に示す言葉は多い、不立文字と言えるのか、と非難する人もいる。禅師の言葉が多いとはいえ、その言葉の道理を人に習い学ばせるためではなく、ただ仏法の正しい道理は言葉の上にないことを示すためである。言葉の上にないと言っても、言葉の尽きたところを宗旨とするのでもなく、静まり黙って空に沈んだ境地を指し示すのでもない。 古人はいう。達磨が西から来たのは、人に伝授する一法があるからではない。ただ、人々に本来そなわり、一人ひとりが欠けるところなく完成しているものを指し出すだけだ、と。すでに人々にそなわるというのに、どうして禅者だけにそなわって、教者には欠けているということがあろう。教者や禅者だけが完成しているのではない。農夫や野の人が農業に励むところにもあり、鍛冶や大工が技を営むところにもある。要を取って言えば、一切衆生のすること、見聞き知ること、歩き、とどまり、坐り、臥すこと、遊び戯れ語り合うこと、そのすべてが達磨の来た玄妙な旨でないものはない。まして仏の教えに従って種々の善行を修める人はなおさらである。それでもこの玄旨があることを知らないので、世間の幻の相にだまされて、みだりに輪廻を受ける者が多い。仏はこの妄想をやめさせようと種々の法門を説かれたが、今度はその法門に執着して玄旨を見失う人が出た。そこで祖師は西から来て、本分の一段を指し出した。この心をもって心に伝えることを、教外の玄旨と名づける。教外の玄旨といっても、諸教と違う一段の法門を相承するのではない。もし言葉で相承できる法門なら、それはただ珍しい教法であって、教外別伝とは言えない。六祖以来、五家に分かれてそれぞれ宗風を立てたが、これもまた、人々にそなわっていることを悟らせるためである。

解説

夢窓がまず戒めるのは、言葉が似ているから同じだとする早合点と、違うから優れているとする早合点の両方です。顔かたちを言葉で語れば誰の顔も同じに聞こえるという比喩が示すのは、道理の言葉と、実際に見ることとの差です。禅が指すのは特別な教義ではなく、農夫や職人の営みにまで行き渡る、人に本来そなわるはたらきでした。ここで夢窓は禅の優位を誇らず、禅と教えの対立そのものを退けています。仕事に引き寄せれば、肩書きや手法の違いを競うより、現場で人が実際に動く姿の中に答えを見るべきだ、という読み方ができます。
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この章句が説くこと

教外別伝不立文字玄旨人々具足五家顔かたちの比喩

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