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夢中問答集 / 『夢中問答集』竺仙梵僊の跋と仮名の方便

一日等持古先禪師携此帙以示余曰此乃左武衛將軍古山大居士久參夢窓國師問答之語茲欲方便引導一切在家出家或女流等志於道者或有學無學使其便於觀覽之故乃以日本字書所謂假字者繕之目曰夢中問答國師之參學在家弟子大高伊與太守者以鏤版爾宜著語爲證明歟余曰吁世之不有至人出興以智方便千變萬化逆順縱橫以導之不知世之人若之何其爲狀耶抑佛爲一切智人然其唯能度彼有緣而不能化無緣也又能以一切譬喩說種種事無有譬喩能說此法以心智路絕言語道斷不思議故然其所有不盡經敎無非方便以假名假字聊爲誘引之耳佛不云乎除佛方便說但以假名字引導於衆生此之謂也然此方便之說自佛去後謾也無有繼其聲者今其是作非佛再來孰能爲哉惜余不能誦其假字以觀其眞義玩其眞味於節角之處爲之撫掌擊節爲恨耳或曰未之能誦然而而何以知其然而輒褒之直以謂佛再來歟余曰天何言乎四時行焉百物生焉是天之道雖聾瞽者莫不知之也唯能知其道之所以者鮮之耳國師之道亦猶是歟吾旣知且久矣雖無此書亦莫不知之也況有之哉唯莫能知其道之所以耳又且佛者覺也以其能覺斯道也旣能自覺乃能覺人卽前所謂專引之說是也所謂以先覺而覺後覺以斯道而覺斯民其揆一耳而斯道也亦大矣哉橫亘十方竪窮三際森森萬有何莫由斯道也所謂人々本具各々圓成物々皆然豈唯國師獨然乎哉其不然者唯覺與未覺一間之耳然而々孰不有哉且夫爾之未始覺也余則指爾而謂之曰爾卽是佛當是之時除爾不覺使卽覺之則何怪哉其或怪者是未覺而未知之也茲亦復何怪哉曰是則信然矣夫然又所謂至人出興者嘗聞至人無夢而此至人之書乃曰夢中問答亦何謂也曰爾固嘗聞之而亦固未嘗知之也其所謂無者豈所謂有無之無歟以夢非夢也然則爾其無復誥於我也我不爲爾重言矣何則爾其不聞古之謬語乎正所謂癡人・面前不可說夢然又如舍利弗問須菩薩云夢中說六波羅蜜與覺時同別須菩薩云此義幽深吾不能說此會有彌勒大士汝往彼問若復於茲或有以夢中問答如舍利弗所問余則曰此義幽深吾不能說汝往作禮國師時康永改元歲在壬午重陽後十日中華沙門梵僊書于南禪方丈

新字:一日等持古先禅師携此帙以示余曰此乃左武衛将軍古山大居士久参夢窓国師問答之語茲欲方便引導一切在家出家或女流等志於道者或有学無学使其便於観覧之故乃以日本字書所謂仮字者繕之目曰夢中問答国師之参学在家弟子大高伊与太守者以鏤版爾宜著語為証明歟余曰吁世之不有至人出興以智方便千変万化逆順縦横以導之不知世之人若之何其為状耶抑仏為一切智人然其唯能度彼有縁而不能化無縁也又能以一切譬喩説種種事無有譬喩能説此法以心智路絶言語道断不思議故然其所有不尽経教無非方便以仮名仮字聊為誘引之耳仏不云乎除仏方便説但以仮名字引導於衆生此之謂也然此方便之説自仏去後謾也無有継其声者今其是作非仏再来孰能為哉惜余不能誦其仮字以観其真義玩其真味於節角之処為之撫掌撃節為恨耳或曰未之能誦然而而何以知其然而輒褒之直以謂仏再来歟余曰天何言乎四時行焉百物生焉是天之道雖聾瞽者莫不知之也唯能知其道之所以者鮮之耳国師之道亦猶是歟吾既知且久矣雖無此書亦莫不知之也況有之哉唯莫能知其道之所以耳又且仏者覚也以其能覚斯道也既能自覚乃能覚人即前所謂専引之説是也所謂以先覚而覚後覚以斯道而覚斯民其揆一耳而斯道也亦大矣哉横亘十方竪窮三際森森万有何莫由斯道也所謂人々本具各々円成物々皆然豈唯国師独然乎哉其不然者唯覚与未覚一間之耳然而々孰不有哉且夫爾之未始覚也余則指爾而謂之曰爾即是仏当是之時除爾不覚使即覚之則何怪哉其或怪者是未覚而未知之也茲亦復何怪哉曰是則信然矣夫然又所謂至人出興者嘗聞至人無夢而此至人之書乃曰夢中問答亦何謂也曰爾固嘗聞之而亦固未嘗知之也其所謂無者豈所謂有無之無歟以夢非夢也然則爾其無復誥於我也我不為爾重言矣何則爾其不聞古之謬語乎正所謂痴人・面前不可説夢然又如舎利弗問須菩薩云夢中説六波羅蜜与覚時同別須菩薩云此義幽深吾不能説此会有弥勒大士汝往彼問若復於茲或有以夢中問答如舎利弗所問余則曰此義幽深吾不能説汝往作礼国師時康永改元歳在壬午重陽後十日中華沙門梵僊書于南禅方丈

書き下し

一日、等持の古先禪師、此の帙を携へて以て余に示して曰く、此れ乃ち左武衛將軍古山大居士の、久しく夢窓國師に參ぜし問答の語なり。茲に一切の在家出家、或いは女流等の道に志す者、或いは有學無學をして、其の觀覽に便ならしめんと欲す。故に乃ち日本の字書の所謂假字を以て之を繕し、目して夢中問答と曰ふ。國師の參學の在家の弟子、大高伊與太守は、以て鏤版せんとす。爾、宜しく語を著けて證明すべきか、と。 余曰く、吁、世に至人の出興して、智方便を以て千變萬化、逆順縱橫、之を導く有らずんば、世の人、之れ若何なる其の狀と爲らんかを知らず。抑も佛は一切智人たり。然れども其れ唯だ能く彼の有緣を度して、無緣を化する能はざるなり。又た能く一切の譬喩を以て種種の事を說くも、譬喩の能く此の法を說く有ること無し。心智の路絕え、言語の道斷え、不思議なるを以ての故なり。然れども其の有する所、經敎を盡くさず、方便ならざるは無し。假名假字を以て聊か之を誘引するのみ。佛云はずや、佛の方便の說を除き、但だ假名字を以て衆生を引導す、と。此れを之れ謂ふなり。然れども此の方便の說は、佛の去りてより謾なり、其の聲を繼ぐ者有ること無し。今、其れ是れを作る、佛の再來に非ずんば孰か能く爲さん。惜しむらくは余、其の假字を誦して以て其の眞義を觀、其の眞味を節角の處に玩び、之が爲に掌を撫し節を擊つこと能はざるを。恨みと爲すのみ。 或ひと曰く、未だ之を誦する能はず、然り而して何を以て其の然るを知りて輒ち之を褒め、直ちに以て佛の再來と謂ふや、と。余曰く、天、何をか言はんや。四時行はれ、百物生ず。是れ天の道なり。聾瞽といへども之を知らざる莫きなり。唯だ其の道の所以を能く知る者の鮮きのみ。國師の道も亦た猶ほ是くのごときか。吾れ既に知ること且つ久し。此の書無しと雖も亦た之を知らざる莫し、況んや之れ有るをや。唯だ其の道の所以を知る能はざるのみ。又た且つ佛とは覺なり。其の能く斯の道を覺するを以てなり。既に能く自ら覺すれば、乃ち能く人を覺せしむ。即ち前に所謂專ら引くの說是れなり。所謂先覺を以て後覺を覺し、斯の道を以て斯の民を覺す、其の揆一なるのみ。而して斯の道や亦た大なるかな。十方に橫亘し三際を竪窮す。森森たる萬有、何れか斯の道に由らざらん。所謂人人本具し各各圓成す、物物皆な然り。豈に唯だ國師のみ獨り然らんや。其の然らざる者は、唯だ覺と未覺との一間のみ。然り而して、孰れか有せざらん。且つ夫れ爾の未だ始めより覺せざるや、余は則ち爾を指して之を謂ひて曰く、爾は即ち是れ佛なり、と。是の時に當りて、爾の不覺を除き、即ち之を覺せしむ、則ち何ぞ怪しまんや。其れ或いは怪しむ者は、是れ未だ覺せずして未だ之を知らざるなり。茲れ亦た復た何ぞ怪しまんや。 曰く、是れ則ち信に然り。夫れ然るに又、所謂至人の出興とは、嘗て聞く、至人は夢無し、と。而るに此の至人の書、乃ち夢中問答と曰ふ。亦た何の謂ぞや、と。曰く、爾は固より嘗て之を聞けども亦た固より未だ嘗て之を知らざるなり。其の所謂無とは、豈に所謂有無の無ならんや。夢を以て夢に非ざるなり。然らば則ち爾、其れ復た我に誥ぐること無かれ。我れ爾が爲に重ねて言はず。何となれば則ち、爾、古の謬語を聞かずや。正に所謂、癡人の面前に夢を說くべからず、と。然れども又た、舍利弗の須菩提に問ひて云ふが如し、夢中に六波羅蜜を說くは覺時と同じか別なるか、と。須菩提云く、此の義幽深にして吾れ說く能はず。此の會に彌勒大士有り、汝れ彼に往きて問へ、と。若し復た茲に或いは夢中問答を以て舍利弗の問ふ所の如くする有らば、余は則ち曰く、此の義幽深にして吾れ說く能はず、汝れ往きて國師に作禮せよ、と。時に康永改元、歲は壬午に在り、重陽後十日、中華の沙門梵僊、南禪の方丈に書す。

現代語訳

先日、等持寺の古先禅師がこの一冊を携えて私に示し、こう言った。これは、左武衛将軍・古山大居士が、長く夢窓国師に参じて交わした問答の言葉である。ここに、在家・出家を問わずすべての人、あるいは女性など、道に志す者、学びの途上にある者も学び終えた者も、これを見やすくしたいと思う。そこで日本の文字、いわゆる仮名で清書し、題を夢中問答とした。国師に参学した在家の弟子・大高伊与守は、これを版木に刻もうとしている。あなたにぜひ言葉を添えて、証明してもらいたい、と。  私は言った。ああ、世に至人が現れ、智慧と方便で千変万化、逆にも順にも縦横に人々を導くことがなければ、世の人はどのような有様になっていたか分からない。そもそも仏は一切智者である。しかし仏が救うことができるのは、縁のある者だけで、縁のない者を教化することはできない。また、あらゆる譬喩を用いて種々のことを説くことはできても、この法を説き得る譬喩はない。心や知の道が絶え、言語の道が断たれた、不可思議なものだからである。そうである以上、仏が説かれたものは経教に尽きるものではなく、方便でないものはない。仮の名、仮の文字によって、いささか人を誘い導くだけである。仏は言われたではないか。仏の方便の説を除いては、ただ仮の名と文字をもって衆生を導くだけである、と。これはこのことを言っている。しかしこの方便の説は、仏が世を去ってから空しくなり、その声を継ぐ者はいなかった。今これを作った人は、仏の再来でなければ誰が成し得ようか。惜しいことに、私はその仮名の文を読んで、その真の意義を見、その真の味わいを要所で味わい、そのために手を打ち拍子を取って感嘆することができない。それが残念でならない。  ある人が言った。まだ読むこともできないのに、どうしてそうだと分かって、すぐにこれを褒め、そのまま仏の再来とまで言うのか、と。私は言った。天は何を言うだろうか。四季はめぐり、万物は生まれる。これが天の道である。耳の聞こえない者や目の見えない者でも、これを知らない者はない。ただ、その道の「そうである理由」をよく知る者が少ないだけである。国師の道もこれと同じであろう。私はすでに知って久しい。この書がなくても知らないことはなかった。まして今はこの書があるのだから。ただ、その道の所以を知ることができないだけである。さらに、仏とは覚である。この道を覚ることができるからである。すでに自ら覚れば、他の人をも覚らせることができる。これが先に述べた、専ら導くという説である。先に覚った者が後に覚る者を覚らせ、この道によってこの民を覚らせるというのは、その理は一つである。そしてこの道は大きいことよ。十方に横たわり、三際を縦に貫き、茂り並ぶ万物のうち、どれがこの道によらないものがあろうか。いわゆる、人々は本来そなわり、一人ひとり完成しており、ものごとはすべてそうである、ということだ。どうして国師だけがそうだと言えようか。そうでない者は、ただ覚めているか、まだ覚めていないかの、紙一重の差にすぎない。そのように覚める素質を持たない者があろうか。そもそも、あなたがまだ覚めていないとき、私はあなたを指して、あなたこそ仏だと言う。その時に、あなたの不覚を除いて、すぐに覚めさせるなら、何を怪しむことがあろうか。これを怪しむ者は、まだ覚めておらず、これを知らないからである。それもまた怪しむには当たらない。  (ある人が)言った。それはまことにそのとおりだ。ところで、至人が世に現れるというが、かつて至人は夢を見ないと聞いている。それなのに、この至人の書を夢中問答と名づけるのは、どういうことか、と。答えた。あなたは確かにそれを聞いたことはあるが、確かにまだ知ってはいない。その無というのは、有無の無のことではない。夢は夢ではないという意味である。そうであれば、あなたはもう私に問い詰めるな。私はあなたのために重ねて言わない。なぜなら、あなたは昔の戒めの言葉を聞いたことがないか。まさに、愚かな人の面前で夢を語ってはならない、というものである。さらにまた、舎利弗が須菩提に、夢の中で六波羅蜜を説くのは、目覚めているときと同じか、別か、と問うた話がある。須菩提は、この義は奥深く、私には説けない。この会座に弥勒大士がいる。あなたはそこへ行って尋ねなさい、と言った。もしここにまた、舎利弗が問うたように夢中問答のことを問う者があれば、私は、この義は奥深く私には説けない、あなたは行って国師を礼拝しなさい、と言おう。時は康永元年、壬午の年、重陽の後十日、中国の僧・梵僊、南禅寺の方丈にて書す。

解説

竺仙梵僊が書いた最初の跋です。古先禅師が本書を携えて、仮名で書き直した経緯を述べ、跋を頼む場面から始まります。梵僊は、仏の方便は仮の名と文字で衆生を導くことだと述べ、仮名で書かれた本書も同じ方便だと評価します。さらに、天の道を聾や盲の人さえ知るように、道は誰にもそなわり、あとは覚めているかどうかの差だと語ります。末尾の、夢中の問答という題への問いには、舎利弗と須菩提の例を引いて、国師を礼拝しなさいとかわします。本書がなぜ仮名で書かれたかの理由が、ここに明かされています。
『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

梵僊仮名方便覚夢中問答康永

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