夢中問答集 / 『夢中問答集』竺仙梵僊の跋と仮名の方便
一日等持古先禪師携此帙以示余曰此乃左武衛將軍古山大居士久參夢窓國師問答之語茲欲方便引導一切在家出家或女流等志於道者或有學無學使其便於觀覽之故乃以日本字書所謂假字者繕之目曰夢中問答國師之參學在家弟子大高伊與太守者以鏤版爾宜著語爲證明歟余曰吁世之不有至人出興以智方便千變萬化逆順縱橫以導之不知世之人若之何其爲狀耶抑佛爲一切智人然其唯能度彼有緣而不能化無緣也又能以一切譬喩說種種事無有譬喩能說此法以心智路絕言語道斷不思議故然其所有不盡經敎無非方便以假名假字聊爲誘引之耳佛不云乎除佛方便說但以假名字引導於衆生此之謂也然此方便之說自佛去後謾也無有繼其聲者今其是作非佛再來孰能爲哉惜余不能誦其假字以觀其眞義玩其眞味於節角之處爲之撫掌擊節爲恨耳或曰未之能誦然而而何以知其然而輒褒之直以謂佛再來歟余曰天何言乎四時行焉百物生焉是天之道雖聾瞽者莫不知之也唯能知其道之所以者鮮之耳國師之道亦猶是歟吾旣知且久矣雖無此書亦莫不知之也況有之哉唯莫能知其道之所以耳又且佛者覺也以其能覺斯道也旣能自覺乃能覺人卽前所謂專引之說是也所謂以先覺而覺後覺以斯道而覺斯民其揆一耳而斯道也亦大矣哉橫亘十方竪窮三際森森萬有何莫由斯道也所謂人々本具各々圓成物々皆然豈唯國師獨然乎哉其不然者唯覺與未覺一間之耳然而々孰不有哉且夫爾之未始覺也余則指爾而謂之曰爾卽是佛當是之時除爾不覺使卽覺之則何怪哉其或怪者是未覺而未知之也茲亦復何怪哉曰是則信然矣夫然又所謂至人出興者嘗聞至人無夢而此至人之書乃曰夢中問答亦何謂也曰爾固嘗聞之而亦固未嘗知之也其所謂無者豈所謂有無之無歟以夢非夢也然則爾其無復誥於我也我不爲爾重言矣何則爾其不聞古之謬語乎正所謂癡人・面前不可說夢然又如舍利弗問須菩薩云夢中說六波羅蜜與覺時同別須菩薩云此義幽深吾不能說此會有彌勒大士汝往彼問若復於茲或有以夢中問答如舍利弗所問余則曰此義幽深吾不能說汝往作禮國師時康永改元歲在壬午重陽後十日中華沙門梵僊書于南禪方丈
新字:一日等持古先禅師携此帙以示余曰此乃左武衛将軍古山大居士久参夢窓国師問答之語茲欲方便引導一切在家出家或女流等志於道者或有学無学使其便於観覧之故乃以日本字書所謂仮字者繕之目曰夢中問答国師之参学在家弟子大高伊与太守者以鏤版爾宜著語為証明歟余曰吁世之不有至人出興以智方便千変万化逆順縦横以導之不知世之人若之何其為状耶抑仏為一切智人然其唯能度彼有縁而不能化無縁也又能以一切譬喩説種種事無有譬喩能説此法以心智路絶言語道断不思議故然其所有不尽経教無非方便以仮名仮字聊為誘引之耳仏不云乎除仏方便説但以仮名字引導於衆生此之謂也然此方便之説自仏去後謾也無有継其声者今其是作非仏再来孰能為哉惜余不能誦其仮字以観其真義玩其真味於節角之処為之撫掌撃節為恨耳或曰未之能誦然而而何以知其然而輒褒之直以謂仏再来歟余曰天何言乎四時行焉百物生焉是天之道雖聾瞽者莫不知之也唯能知其道之所以者鮮之耳国師之道亦猶是歟吾既知且久矣雖無此書亦莫不知之也況有之哉唯莫能知其道之所以耳又且仏者覚也以其能覚斯道也既能自覚乃能覚人即前所謂専引之説是也所謂以先覚而覚後覚以斯道而覚斯民其揆一耳而斯道也亦大矣哉横亘十方竪窮三際森森万有何莫由斯道也所謂人々本具各々円成物々皆然豈唯国師独然乎哉其不然者唯覚与未覚一間之耳然而々孰不有哉且夫爾之未始覚也余則指爾而謂之曰爾即是仏当是之時除爾不覚使即覚之則何怪哉其或怪者是未覚而未知之也茲亦復何怪哉曰是則信然矣夫然又所謂至人出興者嘗聞至人無夢而此至人之書乃曰夢中問答亦何謂也曰爾固嘗聞之而亦固未嘗知之也其所謂無者豈所謂有無之無歟以夢非夢也然則爾其無復誥於我也我不為爾重言矣何則爾其不聞古之謬語乎正所謂痴人・面前不可説夢然又如舎利弗問須菩薩云夢中説六波羅蜜与覚時同別須菩薩云此義幽深吾不能説此会有弥勒大士汝往彼問若復於茲或有以夢中問答如舎利弗所問余則曰此義幽深吾不能説汝往作礼国師時康永改元歳在壬午重陽後十日中華沙門梵僊書于南禅方丈
書き下し
一日、等持の古先禪師、此の帙を携へて以て余に示して曰く、此れ乃ち左武衛將軍古山大居士の、久しく夢窓國師に參ぜし問答の語なり。茲に一切の在家出家、或いは女流等の道に志す者、或いは有學無學をして、其の觀覽に便ならしめんと欲す。故に乃ち日本の字書の所謂假字を以て之を繕し、目して夢中問答と曰ふ。國師の參學の在家の弟子、大高伊與太守は、以て鏤版せんとす。爾、宜しく語を著けて證明すべきか、と。 余曰く、吁、世に至人の出興して、智方便を以て千變萬化、逆順縱橫、之を導く有らずんば、世の人、之れ若何なる其の狀と爲らんかを知らず。抑も佛は一切智人たり。然れども其れ唯だ能く彼の有緣を度して、無緣を化する能はざるなり。又た能く一切の譬喩を以て種種の事を說くも、譬喩の能く此の法を說く有ること無し。心智の路絕え、言語の道斷え、不思議なるを以ての故なり。然れども其の有する所、經敎を盡くさず、方便ならざるは無し。假名假字を以て聊か之を誘引するのみ。佛云はずや、佛の方便の說を除き、但だ假名字を以て衆生を引導す、と。此れを之れ謂ふなり。然れども此の方便の說は、佛の去りてより謾なり、其の聲を繼ぐ者有ること無し。今、其れ是れを作る、佛の再來に非ずんば孰か能く爲さん。惜しむらくは余、其の假字を誦して以て其の眞義を觀、其の眞味を節角の處に玩び、之が爲に掌を撫し節を擊つこと能はざるを。恨みと爲すのみ。 或ひと曰く、未だ之を誦する能はず、然り而して何を以て其の然るを知りて輒ち之を褒め、直ちに以て佛の再來と謂ふや、と。余曰く、天、何をか言はんや。四時行はれ、百物生ず。是れ天の道なり。聾瞽といへども之を知らざる莫きなり。唯だ其の道の所以を能く知る者の鮮きのみ。國師の道も亦た猶ほ是くのごときか。吾れ既に知ること且つ久し。此の書無しと雖も亦た之を知らざる莫し、況んや之れ有るをや。唯だ其の道の所以を知る能はざるのみ。又た且つ佛とは覺なり。其の能く斯の道を覺するを以てなり。既に能く自ら覺すれば、乃ち能く人を覺せしむ。即ち前に所謂專ら引くの說是れなり。所謂先覺を以て後覺を覺し、斯の道を以て斯の民を覺す、其の揆一なるのみ。而して斯の道や亦た大なるかな。十方に橫亘し三際を竪窮す。森森たる萬有、何れか斯の道に由らざらん。所謂人人本具し各各圓成す、物物皆な然り。豈に唯だ國師のみ獨り然らんや。其の然らざる者は、唯だ覺と未覺との一間のみ。然り而して、孰れか有せざらん。且つ夫れ爾の未だ始めより覺せざるや、余は則ち爾を指して之を謂ひて曰く、爾は即ち是れ佛なり、と。是の時に當りて、爾の不覺を除き、即ち之を覺せしむ、則ち何ぞ怪しまんや。其れ或いは怪しむ者は、是れ未だ覺せずして未だ之を知らざるなり。茲れ亦た復た何ぞ怪しまんや。 曰く、是れ則ち信に然り。夫れ然るに又、所謂至人の出興とは、嘗て聞く、至人は夢無し、と。而るに此の至人の書、乃ち夢中問答と曰ふ。亦た何の謂ぞや、と。曰く、爾は固より嘗て之を聞けども亦た固より未だ嘗て之を知らざるなり。其の所謂無とは、豈に所謂有無の無ならんや。夢を以て夢に非ざるなり。然らば則ち爾、其れ復た我に誥ぐること無かれ。我れ爾が爲に重ねて言はず。何となれば則ち、爾、古の謬語を聞かずや。正に所謂、癡人の面前に夢を說くべからず、と。然れども又た、舍利弗の須菩提に問ひて云ふが如し、夢中に六波羅蜜を說くは覺時と同じか別なるか、と。須菩提云く、此の義幽深にして吾れ說く能はず。此の會に彌勒大士有り、汝れ彼に往きて問へ、と。若し復た茲に或いは夢中問答を以て舍利弗の問ふ所の如くする有らば、余は則ち曰く、此の義幽深にして吾れ說く能はず、汝れ往きて國師に作禮せよ、と。時に康永改元、歲は壬午に在り、重陽後十日、中華の沙門梵僊、南禪の方丈に書す。
現代語訳
先日、等持寺の古先禅師がこの一冊を携えて私に示し、こう言った。これは、左武衛将軍・古山大居士が、長く夢窓国師に参じて交わした問答の言葉である。ここに、在家・出家を問わずすべての人、あるいは女性など、道に志す者、学びの途上にある者も学び終えた者も、これを見やすくしたいと思う。そこで日本の文字、いわゆる仮名で清書し、題を夢中問答とした。国師に参学した在家の弟子・大高伊与守は、これを版木に刻もうとしている。あなたにぜひ言葉を添えて、証明してもらいたい、と。 私は言った。ああ、世に至人が現れ、智慧と方便で千変万化、逆にも順にも縦横に人々を導くことがなければ、世の人はどのような有様になっていたか分からない。そもそも仏は一切智者である。しかし仏が救うことができるのは、縁のある者だけで、縁のない者を教化することはできない。また、あらゆる譬喩を用いて種々のことを説くことはできても、この法を説き得る譬喩はない。心や知の道が絶え、言語の道が断たれた、不可思議なものだからである。そうである以上、仏が説かれたものは経教に尽きるものではなく、方便でないものはない。仮の名、仮の文字によって、いささか人を誘い導くだけである。仏は言われたではないか。仏の方便の説を除いては、ただ仮の名と文字をもって衆生を導くだけである、と。これはこのことを言っている。しかしこの方便の説は、仏が世を去ってから空しくなり、その声を継ぐ者はいなかった。今これを作った人は、仏の再来でなければ誰が成し得ようか。惜しいことに、私はその仮名の文を読んで、その真の意義を見、その真の味わいを要所で味わい、そのために手を打ち拍子を取って感嘆することができない。それが残念でならない。 ある人が言った。まだ読むこともできないのに、どうしてそうだと分かって、すぐにこれを褒め、そのまま仏の再来とまで言うのか、と。私は言った。天は何を言うだろうか。四季はめぐり、万物は生まれる。これが天の道である。耳の聞こえない者や目の見えない者でも、これを知らない者はない。ただ、その道の「そうである理由」をよく知る者が少ないだけである。国師の道もこれと同じであろう。私はすでに知って久しい。この書がなくても知らないことはなかった。まして今はこの書があるのだから。ただ、その道の所以を知ることができないだけである。さらに、仏とは覚である。この道を覚ることができるからである。すでに自ら覚れば、他の人をも覚らせることができる。これが先に述べた、専ら導くという説である。先に覚った者が後に覚る者を覚らせ、この道によってこの民を覚らせるというのは、その理は一つである。そしてこの道は大きいことよ。十方に横たわり、三際を縦に貫き、茂り並ぶ万物のうち、どれがこの道によらないものがあろうか。いわゆる、人々は本来そなわり、一人ひとり完成しており、ものごとはすべてそうである、ということだ。どうして国師だけがそうだと言えようか。そうでない者は、ただ覚めているか、まだ覚めていないかの、紙一重の差にすぎない。そのように覚める素質を持たない者があろうか。そもそも、あなたがまだ覚めていないとき、私はあなたを指して、あなたこそ仏だと言う。その時に、あなたの不覚を除いて、すぐに覚めさせるなら、何を怪しむことがあろうか。これを怪しむ者は、まだ覚めておらず、これを知らないからである。それもまた怪しむには当たらない。 (ある人が)言った。それはまことにそのとおりだ。ところで、至人が世に現れるというが、かつて至人は夢を見ないと聞いている。それなのに、この至人の書を夢中問答と名づけるのは、どういうことか、と。答えた。あなたは確かにそれを聞いたことはあるが、確かにまだ知ってはいない。その無というのは、有無の無のことではない。夢は夢ではないという意味である。そうであれば、あなたはもう私に問い詰めるな。私はあなたのために重ねて言わない。なぜなら、あなたは昔の戒めの言葉を聞いたことがないか。まさに、愚かな人の面前で夢を語ってはならない、というものである。さらにまた、舎利弗が須菩提に、夢の中で六波羅蜜を説くのは、目覚めているときと同じか、別か、と問うた話がある。須菩提は、この義は奥深く、私には説けない。この会座に弥勒大士がいる。あなたはそこへ行って尋ねなさい、と言った。もしここにまた、舎利弗が問うたように夢中問答のことを問う者があれば、私は、この義は奥深く私には説けない、あなたは行って国師を礼拝しなさい、と言おう。時は康永元年、壬午の年、重陽の後十日、中国の僧・梵僊、南禅寺の方丈にて書す。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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夢中問答集・『夢中問答集』問答を書き残してよいか問日來相看の次でに、問答申たることを、何となく假名字にて記し置きたり、これを淸書して、在家の女姓なんとの道に志しある者にみせばやと、存ずるはくるしかるまじきやらん。 答禪僧の法門は敎家のごとく、習ひ傳へたる法門を胸の中にたくはへ紙の上にかきつけて展轉して、人に授け與ふる事なし、たゞ機に對する時直下に指示するのみなり、これを觀面提持となづく、擊石火閃電光にたとへたり。其の蹤をもとむべからず。古人の云く、言外に意をさとるも、既に第二に墮すと云云。何かに況んや其の言を記錄して人にあたへて見せしめんをや、しかる故に古の宗師皆同く言句を記する事を制し玉へり、しかれども若し一向に記する事なくば誘引の路たへぬべし、これによりてやむことを得ず、古人の語錄天下に流布せり、禪宗の本意にはあらず、古人は大略內外典を博覽して、後に禪門に入り玉へり、是の故に其の所解皆な偏見におちず、末代禪宗を信ずる人の中にいまだ因果の道理をもわきまへず、眞妄の差別をもしらざる人あり、さやうの人の中にも、若道心いるがせならず、百不知百不會の處について二六時中直に本分を參決せば、なましいなる小智のある人よりもまされり。世間を見れば坐禪工夫は綿密ならず經論聖敎をば聽聞することなし、或は坐中に外道二乘の見解の起れるをも、これは坐中より得たる智慧なれば、得法なりと思へる人あり、或は自然に敎家に談ずるところの法門を解了して、我は禪僧なれば所解も亦禪の宗旨なりと思へり。予つねに經論を講ずることはかやうなる今時の弊をすくはんためなり、文言義理の上について委曲に談ずる因果眞妄の法門をたにも・愚存のごとくうけとる人はすくなし、各あらぬかたへ聞きなめ、或は褒め或は貶る、褒貶ともに愚存にはあらずいはんや。夢中の問答を記し置き給はん事其益あるべしとも存せず・しかれ共褒貶の語によりて、順逆の緣をむすばんこと、何ぞこれをいとなまんや。
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夢中問答集・『夢中問答集』再跋に記す刊行の経緯余、此の書を書して三載を越ゆ。一日、法延首座、携へて以て余に誥げて曰く、至れるかな、是の書有りて之を書することの是くの若きは。此れ佛と佛との相を異にして心を同じくし、途を殊にして致を同じくし、彼此相ひ表裏と爲りて以て有情を化するに非ずや。曷ぞ是れ有らんや。然り而して師は夫の大高伊與太守の刊する所の此の意を知るや否や、と。余曰く、唯だ其の人の是れ鼻孔有る者なるを知ること年有り。而して實は未だ刊する所の意の如何を知らざるのみ。然れども人を利益せんと欲するに過ぎざるのみ。復た何の意かあらん、と。曰く、其の人は師の所謂鼻孔有るが如きに因りての故に、然る後に其の香臭を知りて、乃ち之を刊せんと欲するなり。始め則ち國師許さず。高曰く、或いは未だ始めより此の寫本有らずんば則ち已む。既に之有りて人人遞ひに相ひ抄錄せば、啻だ烏の焉に馬と成るのみならず、毫厘も差有れば天地懸隔す。否ずんば則ち展展轉轉、誤を以て誤を傳へ、而して又誤り、本各各相ひ同じからざれば、則ち乃ち人人疑惑して歸する所を知る莫からん。本と人を利せんと欲するに、奈何ぞ反りて人を誤らんや、と。然れども固より是れ作始め左武衞將軍一人の爲に酬答するのみにして、他人の爲にせざるなり。譬へば佛の一代時敎を說くが如し、一時の說と雖も皆な後世及び無邊の衆生の爲なるのみ。如し結集せずんば、亦た安くんぞ今日有らんや、と。是に於いて國師、其の說を然りとす。故に之を刊す。是に由りて人皆な歸するを知り、安んじて大道を行き、復た妄りに邪徑に趨かざるなり、と。余曰く、是くの若きかな、是くの若きかな。然れども亦た爾、夫の大道は顯然として三世の諸佛・諸代の宗師、皆な夢言なるを知るか、と。延曰く、請ふ、書して以て誌せ、と。余曰く、是れ則ち妨げ無し、と。又た一个を添ふ。延、復た余の爲に曰く、大高伊與太守は海岸居士と號し、深き法門に入り、心大なること海の如く、殊に淨名の風有り、衆生を饒益すること誠に未だ艾止せざるなり。今年の春、又た若狹太守に遷ると云ふ、と。故に并せて之を書す。甲申十月初八日寅、南禪東堂の東軒、梵僊再跋す。
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夢中問答集・『夢中問答集』夢と本分の家(下)佛法も亦かくのごとし、本分の田地には凡聖の相もなく淨穢の境もなし、無明業識の一夢起るが故に、無相の中に淨穢の境界を現じ、無爲の中に凡聖の差別を見る、我は凡夫也と思ふ時は東西に馳走して名利を求む求め得ざる時はなげきかなしむ。我は智人也と思ふ時は、一切の人をかろしめて高慢の心を起す、かゝる種々の顚倒にばかされて本分安樂の田地ある事を信ぜず。是れ卽ち夢中の妄境に心を轉せられてうつゝの境界を信せざるがごとし、其の中にたま〱利根の人ありて、凡聖淨穢業識の上に浮べる假相也。本分の田地にはすべてかやうの事なしと信ずれ共、いまだ大悟せざる故に、やゝもすれば幻化に誑惑せられて、我は是れ迷人也と思ひならはせる我執いまだ忘せざる故に、得法悟道をねがひ機辨神通ををうらやむ。しかる故に修行用心について邪正を論じ、應用問答において勝劣をあらそふ。此れは是れ夢みる人の我が所見は皆な夢也と信ずれ共、大夢いまださめざる故に、夢の境界にばかはされて其の中について、是非得失を論ずるがごとし。若し是れ最上根の人はたとひいまだ大悟の分はなけれ共、自他身心を計する事皆是れ業識の妄想也と分明に信解する故に、輪廻をもいとはず、解脫をも求めず、若しかくのごとくならば趣向の正しき人と申すべし。趣向のたゞしきをたのみて、滿足の思をなさば亦謬りなり。圓覺經に云く、衆生顚倒して妄に四大をとめて自身の相とし、六塵の緣影を自身の相とす、たとへば病目の空中の花及び第二の月を見るがごとし。是れによりて、妄に生死に輪轉する事あり、この故に無明となづく。此の無明といふは、實に體あるにあらず、夢中に人を見るときは其の體なきにあらざれ共、夢さめぬれば其の人ある事なきがごとし。首楞嚴經に云く、妙性圓明にして諸の名相をはなれたり、本より世界衆生ある事なしと云云。諸大乘經みな同じくかやうに說けり、何ぞこれを信ぜずして、身心を勞役して外に向つて馳求するや。世間の吉凶其の相いまだあらはれざる時は、愚人これをしらず。然れども世間の巫女陰陽師等のうらなひしめす言を信じて、それにまかせてふるまへば、時節到來して其の效をみる事あり。本分の一段は人々具足すれども、いまだ契當せざる人は、日に用ひて知る事なし。是の故に佛祖大慈をたれて叮嚀にしめし玉へり。たとひ宿習うすくして、直下に契當する事なくとも世間の陰陽師等を信ずるがごとく、佛祖の言を信じて、それにまかせて用心せば、何ぞしるしなからんや。
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夢中問答集・『夢中問答集』禅と教えは同じか(上)問敎の中にも佛の相もなく、衆生の相もなしと談ぜり、禪宗に生佛いまだわかれざる處といふに同じからずや。 答敎の中に凡聖の相なしと申すは、凡聖わかれたる處について、其の體性の無相なることを談ぜり。禪宗に生佛已前と申すは此の義にあらず、其の語の似たるを以て禪敎同とは申すべからず、たとへば人の面のやうをそらに語る時額の中に眉あり眉の下に眼あり眼の下に鼻あり鼻の下に口ありと申せば、貴賤男女みな同じ面なるやうに聞ゆれ共、若し實に其の面をみる時は、各ことなるがごとし、敎門には言句義理を以て法門とする故に、義理の分劑について大小權實を判せり、敎外別傳不立文字といへる題目を見ながら宗師の言句について敎禪の同意を論せばあたるべからず、今時の禪者の中に宗師の人に示さる言句の中に敎家の法門にかはりたる事のあるを見て、これを禪の勝れたる證據とす。若し敎の法門にかはりたる故に禪は勝れたりといはゞ禪にかはりたる故に敎をも勝れたりといふべし。然らば卽ち敎外別傳の宗旨何ぞ言句義理の同異にあづからんや、或は云く敎は皆な言句義理の上に談せり、言句義理にあづからざる處禪門の宗旨なりと云云。若ししからば敎の中に言句義理を立ざる法門あり、これを禪宗といはんや、或は敎者の中に敎外別傳不立文字といへども禪師の人にしめす言句多し不立文字といはんやと難する人あり、禪師の言句多しといへ共此の言句の義理を人に習學せしめんためにはあらず、ただ佛法の正理は言句の上にあらざる事をしめさんためなり、言句の上にあらずと申せばとて言語道斷の處を宗旨とするにもあらず、寂默沈空の所を指示するにもあらず、古人の云く達磨西來の別に一法の人のために傳授するなしたゞ人々具足し、箇々圓成する底を指出するのみなりと云云、旣に人々具足といへり、何ぞひとり禪者のみ具足して敎者にはかけたりといはんや、たゞ敎者禪者のみ圓成するにあらず。田夫野人の農業をはげむ所にもあり、鍛冶番匠の工巧をいとなむ所にもあり、要を取ていはゞ、一切衆生の所作所爲見聞覺知行住坐臥遊戯談論の所皆な悉く西來の玄旨にあらずといふ事なし、何にいはん佛の敎へに隨つて種々の善行を修する人をや。しかれども、此の玄旨あることを知らざる故に、世間の幻相はばかされて妄りに輪廻を受くる者多し。佛此の妄想をやめんために種々の法門を說き玉へば、又此の法門を執著して玄旨をくらませる人あり。是の故に祖師西來して、本分の一段を指出す、この心を以て心に傳ふる、敎外の玄旨となづく。敎外の玄旨とて諸敎にかはりたる一段の法門を相承するにはあらず、若し言句にて相承すべき法門ならばたゞ是れめづらしき敎法なるべし、敎外別傳とはいふべからず、六祖よりこのかた五家わかれて各の宗風を立つといへ共、亦同じく人々具足することを悟らしめんためなり。
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夢中問答集・『夢中問答集』他人の是非を見る前に問う者を見よ問古人の云く、眞實修道の人は、他人の是と非をとかずと云云。此の語をば信ずれども、僧俗に對する時やゝもすれば、是非の念の起るをば如何か對治すべきや。 答眞實の道人の他人の是非をとかずといへることは、是非は實にあれ共、これを說かずと申すにはあらず。自他の相を見ざれば、是非のとくべきがなき故なり。三祖大師の云く、眞如法界には他もなく自もなし。敎中に云く、法性は大海のごとし。是非ありと說くべからずと云云。此の理に相應せざる故に自他の相あり。自他の相あるならば爭か是非を見ることなからんや。若し是非の相を見ば、たとひ口には解かずとも眞實修道の人にはあらず。然らば卽ち大乘の學者、他人の是非をとかじとせんよりは、たゞ自ら翻覆して看るべし。他人の是非をとく者はこれ誰ぞ。圓覺經に云く、四大を認めて自身の相とし、六塵の緣影を自心の相とす。此の經の意は凡夫の自己と思へるは眞實の自己にあらず。自己と思へる者の若しあやまりならば、他人とみるも亦あたらず。自他もし實ならずば、何れの是非をかとくべきや、よのつね道者とて他人の是非をばとかぬ人も自心において、善惡の相をわかち利鈍の品をたて、所解に淺深を論じ、修行に邪正をたくらぶ。かやうの人は直に無上菩提におもむくことあたはず。是の故に一切の是非を目にかくる事なかれとすゝめたり。一切の是非を放下して、自他の相をみずとも若いまだ父母未生前の本來の面目を見ずば、眞實の道人といふべからず。廻光返照して看るべし。自他身心の相をわかち、是非得失の念をうかぶる物は是れ何に物ぞ。昔南岳の讓和尙六祖に參ず。六祖他の來るを見て、問て云く、なに物か、かくのごとく來れる南岳、答ふることあたはずして退き給ひぬ。其後八年ありて始めて大悟す。再び六祖に參じて前の問を答て云く、一物に說似すれば、卽ちあたらずと云云。此の時始めて六祖の印證をうけ給ひき。南岳和尙の六祖に參じ給ひし時、一言の下に直に契當せられざる事は、鈍根なるに似たれ共、來る者は何に物ぞと問はれて、やがてつまりて歸り給へるは怜利なる故なり。かやうにならましかば、たとひ千生をふるとも大悟することあたはじ。今時鈍根の人來りて、佛法を問ふ時、かやうに佛法を問ふ者は、これ誰ぞといへば、或はもう〱として、日來の妄想を本として、某となのる者のあり。或は問ふ者は、是誰ぞと疑ふて見るべきかといふ者もあり。或は自心これ佛といへる語に隨つて解を生じて、眉をあげ、目をまじろかし、手をあげ、拳をさゝぐる者もあり。或は識心の實體なくして諸の形相をはなれたる處をとめて、南岳の說似一物卽不中と答へ給へる語にとりあはせて、上に攀仰なく下に己躬を絕すと答ふる者のあり。或はわづかに問あり。答あれば、皆外邊の事なりと心得て一喝を下す人もあり。或はかやうの種々の計較安排にあづからざる處を宗旨と思ふて、袖を拂つて便ち去る人もあり。若しかやうならば、たとひ彌勒下生に到るとも大悟することあたはじ。百丈の大智禪師上堂說法の終りには、たびごとに大衆とよび給ふ大衆、これを聞て首べを廻らす百丈の云く、これ何ぞ。時の人これを百丈下堂の句と名けたり。百丈かやうに示し給ふことは學者に工夫用心ををしへ給へるにもあらず。面々の見解を問ひ給ふにもあらず。畢竟して其の意何れの處にかある。若人直下に承當せば、曠劫の無明一時に滅すべし。昔亮座主といへる敎者ありき。經論を博覽し、義理を通達して徒を集めて、法を說く事年久し。有る時馬祖に參じて種々の問答あり。亮座主これをうけかはずして出で去る。馬祖卽ち座主とよび給ふ。座主首をめぐらす。馬祖の云く、是れ何ぞ其の時亮座主豁然として大悟す。此座主年來經論の義理を通達すといへ共、いまだ悟入の分なし。馬祖の是れ何ぞとしめし給ふ一言の下に大悟する事は何の故ぞや。まさにしるべし。其の所悟は經論の義理にあらざる事を一生の間、身心を苦勞して學解をはげますいとまをひるがへして、行住坐臥念起念滅の處について直下に參決せば、南岳亮座主のごとくなる悟入もなどかなかるべきやといとまおしく覺えたり。まして他人の是非を談じ、世間の名利をのみはしりて、いたづらに一生をすごす人をば、たま〱人身を受たるしるしありといはんや。
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夢中問答集・『夢中問答集』根本智と後得智、長養の工夫問知識の一言の下に、さとりを開きて敎禪の法門もあづからざる處に到れる人は、化他の利益かけたるにあらずや。 答敎の中に佛智を明かにするに二種あり。一には根本智謂ゆる佛の內證なり。二つには後得智謂ゆる化他の方便なり。佛祖出世して敎禪の法門を說き給ふは皆な是れ化他の方便なり。然らば卽ち禪敎の學者の或は經敎を見、或は知識の語に隨つて心識の上に領解する法門は、皆是れ後得智の分域なり。若し人已に佛の內證の境界に契當せば、後得智を發して利益門に趣きて、敎禪の法門を說きて衆生を濟度すべし。三世の如來歷代の祖師皆な此の式なり。若しいまだ佛の根本智を證せざる人は、先づ此根本內證の境界に到らんことを思ふべし若し此の境界に到らんと思はゞ、敎禪の分域を超出して始めて到るべし。若し敎禪の法門を胸中にたくはへたる人は、本分に到ることあたはず。古人の云く佛祖は言敎を看ることあだがたきのごとくして、始めて相應の分あるべし。又云く只本を得ば末を愁ことなかれと云云。たとへば木を栽がごとし。其根本だに生著ぬれば、枝葉も自茂し、花菓も亦成す。然らば卽ち木をうふる始めには根本に心を入て、枝葉には目をかけず。是の故に根のかたまらぬほどは、少々ある枝をもきりすつるなり。さればとて木を栽ることはたゞ根本のためばかりと思はゞ僻案なり。根本を大事とやしなふことは枝葉花菓のためなり。たとひ本分に契當せる人もいまだ活祖の手段をあきらめざるをば、大法未明の人となづく。かゝる人の自證の分はあやまりなけれども、人のためにする方便手段のかけたる故に、善知識をたつることあたはず。意到句不到の人といへるは是なり。たとひまだすこしき古人の手段を推量し得たりといへ共、自眼若しあきらかならずば、亦善知識といふべからず。是れは句到意不到の人なり。古人の云く、未得底の人は句に參せんよりは唯意に參ずべし。到得底の人は意に參せんよりは只句に參ずべしと云云。意とは祖意なり。祖意とは人々具足の本分底なり。句は五家の宗風手段なり。意は是れ根本なり。句は是れ枝葉なり。然らば卽ち初心の學者は先づ祖意を參得すべし。句下に死在すべからず。古人意を得て後三十年五十年綿密に練磨して、舊業宿障をつくすを長養の工夫となづけたり。長養純熟しぬればこれを打成一片となづく。此の時自然に機辨妙用もあらはるゝ故に、人のためにする手段も亦活脫自在なり。これを意句倶到の人となづく。自眼もいまだあきらかならず。禪門の宗風手段をも亦しらざる人あり。意句倶不到といへるはこれなり。木を栽て後日數久しく成りぬれど、枝葉花菓の思ふほどもさかえざるをば、其の根のいまだありつかぬ故なりとしりて、土をかひ水をそゝぎて日ひさしく、月ふかく長養すれば根本自らかたくして枝葉もまたさかふべし。しからざる故とはしらずして、とくして枝をさゝせ、花をさかせんととかくするほどに、たま〱うゑたる根本のかれゆくことをもわすれたり。たとひ祖意を參得する分ありとも、機辨妙用も自在ならず。變化神通もいまだそなはらず枝葉に目をかけず。たゞ本分の正念に住して人我法我を除き、凡情聖量をつくすべし。古人の云く、法を得る事はやすく、法を守ることはかたしと云云。法をまもるといふは長養の工夫なり。未學の人の中にすこしき靈性ある人、眞實の大悟にはあらぬ光影邊を認得して、長養の工夫をもなさず我れは根本は眞正なれども、機辨神通いまだそなはらず。今は偏にかやうのことを具足せんとて、敎禪の法門を習學し、佛祖の妙用を悕望す。是の故にいよ〱本分をば昧まして、ついに魔道に入り、或は光影を認得して本分にかなへりと思ふて、これを守りゐたるを長養の工夫といふ人あり。たとひ、長養して千生萬劫をふるともたゞ是の無明を增長すべし。たとひ其の中にすこしきの德用をほどこすとも、つひには輪廻の基なり。たとへば根もなき木を栽て土をかけ水をそゝぐがごとし。かやうに養ふて年月を送らば春雨なんどの緣にあふて一旦は枝葉もきざし、あだ花なんどのさくことはありとも、つひには朽木となるべし。