夢中問答集 / 『夢中問答集』新羅の夜半に日が明るい
問如何なるか、是れ和尙眞實に、人にしめす法門。 答新維夜半に日頭明なり。
新字:問如何なるか、是れ和尚真実に、人にしめす法門。 答新維夜半に日頭明なり。
書き下し
問如何なるか、是れ和尙眞實に、人にしめす法門。 答新維夜半に日頭明なり。
現代語訳
問:どのようなものが、和尚が真実に人に示す法門か。 答:新羅の国では、真夜中に日の光が明るく輝いている。
解説
本書の最後の問答は、わずか数行の短さです。和尚が真実に人に示す法門は何か、と問われ、夜半に太陽が明るいと答えます。新羅の国の真夜中に日が明るいというのは、道理に合いません(原文の新維は新羅の誤記とみられます)。夢窓はこれまで長く説いてきた言葉の山を、ここで一語に解きほぐしています。言語や分別の外にある本分を、道理の通らない言葉で指す。禅問答の定型です。答えを説明せず、問いを相手に返す終わり方は、結論を先に言いたがる現代の会議とは対照的です。すぐに答えを出さず、問いを抱える時間も大事だと気づかされます。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
夜半日頭本分不立文字無理会話
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