夢中問答集 / 『夢中問答集』禅宗の禅定は諸宗と違うか
問禪定は諸宗に、皆明せりしかるを、敎外別傳を禪宗と申す事は何ぞや。 答禪定を修する事は佛敎のみにあらず、外道の敎にもこれを修す、色界無色界に生るゝことは皆禪定の力なり、四禪八定なしと申すは是なり。外道はこれを修して至極究竟と思へり、禪宗と申せばとて諸宗に明せる禪定を修するにはあらず、しかれども末代諸宗の禪定其の義を談ずる事はたへせね共、其の行を修する人は、まれに成て禪宗を信ずる人のみ、坐禪とて行ずる故に禪宗とは禪定を修する宗なりと餘宗の人も申し、此の宗を信ずる人も亦此の思をなせり、若ししからば、祖師西來の本意所詮なきことなるべし、楞伽經の中に四種の禪をあかせり、一つには愚夫所行禪謂ゆる凡夫外道の心念を起す分別を生ぜざるを禪定と思へる者なり、二つには觀察相義禪謂ゆる小乘及び三賢の菩薩の法門の義理を觀察思惟する分劑なり、三つには攀緣如實禪謂ゆる地上の菩薩の中道實相の眞理に安住して功用をからざる妙行なり、四つには如來淸淨禪謂ゆる如來地に入て自覺聖智のあらはれたる相なり、祖師門下に如來禪と申すはこれを指すなり、古人學者に向つて、汝只如來禪を明めて、いまだ祖師禪をさとらずといへることあり。是を以てしるべし禪宗と申せばとて、諸宗所談の禪定には同じからざることを禪と者梵語なり、具さには禪那といふ、漢語には正思惟と翻せり、亦は靜慮ともいへり。圓覺經等に三觀を明せる中に、禪那といへるは是れなり。定慧二觀の外に別にこれを立たり、圭峯の蜜禪師これを絕待靈心觀と名け玉へり、圭峯の禪源諸詮の中には、唯達磨所傳の宗旨のみ眞實の禪那に相應せり、この故に禪宗と名づけたりと云云。
新字:問禅定は諸宗に、皆明せりしかるを、教外別伝を禅宗と申す事は何ぞや。 答禅定を修する事は仏教のみにあらず、外道の教にもこれを修す、色界無色界に生るゝことは皆禅定の力なり、四禅八定なしと申すは是なり。外道はこれを修して至極究竟と思へり、禅宗と申せばとて諸宗に明せる禅定を修するにはあらず、しかれども末代諸宗の禅定其の義を談ずる事はたへせね共、其の行を修する人は、まれに成て禅宗を信ずる人のみ、坐禅とて行ずる故に禅宗とは禅定を修する宗なりと余宗の人も申し、此の宗を信ずる人も亦此の思をなせり、若ししからば、祖師西来の本意所詮なきことなるべし、楞伽経の中に四種の禅をあかせり、一つには愚夫所行禅謂ゆる凡夫外道の心念を起す分別を生ぜざるを禅定と思へる者なり、二つには観察相義禅謂ゆる小乗及び三賢の菩薩の法門の義理を観察思惟する分剤なり、三つには攀縁如実禅謂ゆる地上の菩薩の中道実相の真理に安住して功用をからざる妙行なり、四つには如来清浄禅謂ゆる如来地に入て自覚聖智のあらはれたる相なり、祖師門下に如来禅と申すはこれを指すなり、古人学者に向つて、汝只如来禅を明めて、いまだ祖師禅をさとらずといへることあり。是を以てしるべし禅宗と申せばとて、諸宗所談の禅定には同じからざることを禅と者梵語なり、具さには禅那といふ、漢語には正思惟と翻せり、亦は静慮ともいへり。円覚経等に三観を明せる中に、禅那といへるは是れなり。定慧二観の外に別にこれを立たり、圭峯の蜜禅師これを絶待霊心観と名け玉へり、圭峯の禅源諸詮の中には、唯達磨所伝の宗旨のみ真実の禅那に相応せり、この故に禅宗と名づけたりと云云。
書き下し
問禪定は諸宗に、皆明せりしかるを、敎外別傳を禪宗と申す事は何ぞや。 答禪定を修する事は佛敎のみにあらず、外道の敎にもこれを修す、色界無色界に生るゝことは皆禪定の力なり、四禪八定なしと申すは是なり。外道はこれを修して至極究竟と思へり、禪宗と申せばとて諸宗に明せる禪定を修するにはあらず、しかれども末代諸宗の禪定其の義を談ずる事はたへせね共、其の行を修する人は、まれに成て禪宗を信ずる人のみ、坐禪とて行ずる故に禪宗とは禪定を修する宗なりと餘宗の人も申し、此の宗を信ずる人も亦此の思をなせり、若ししからば、祖師西來の本意所詮なきことなるべし、楞伽經の中に四種の禪をあかせり、一つには愚夫所行禪謂ゆる凡夫外道の心念を起す分別を生ぜざるを禪定と思へる者なり、二つには觀察相義禪謂ゆる小乘及び三賢の菩薩の法門の義理を觀察思惟する分劑なり、三つには攀緣如實禪謂ゆる地上の菩薩の中道實相の眞理に安住して功用をからざる妙行なり、四つには如來淸淨禪謂ゆる如來地に入て自覺聖智のあらはれたる相なり、祖師門下に如來禪と申すはこれを指すなり、古人學者に向つて、汝只如來禪を明めて、いまだ祖師禪をさとらずといへることあり。是を以てしるべし禪宗と申せばとて、諸宗所談の禪定には同じからざることを禪と者梵語なり、具さには禪那といふ、漢語には正思惟と翻せり、亦は靜慮ともいへり。圓覺經等に三觀を明せる中に、禪那といへるは是れなり。定慧二觀の外に別にこれを立たり、圭峯の蜜禪師これを絕待靈心觀と名け玉へり、圭峯の禪源諸詮の中には、唯達磨所傳の宗旨のみ眞實の禪那に相應せり、この故に禪宗と名づけたりと云云。
現代語訳
問:禅定は諸宗がみな明かしている。それなのに、教外別伝を禅宗と言うのはなぜか。 答:禅定を修めることは仏教だけではない。外道の教えにもこれを修める。色界・無色界に生まれるのは、みな禅定の力である。四禅八定がないと言うのは、これを指す。外道はこれを修めて至極の究極だと思っている。禅宗と言うからといって、諸宗が明かす禅定を修めるのではない。しかし末代には、諸宗の禅定についてその義を談じることは絶えないけれども、その行を修める人はまれになった。禅宗を信じる人だけが坐禅として行じているので、禅宗とは禅定を修める宗だと他宗の人も言い、この宗を信じる人もそう思っている。もしそうなら、祖師が西から来た本意は、結局何もなかったことになる。 楞伽経の中に、四種の禅が説かれている。第一は愚夫所行禅。いわゆる凡夫や外道が、心念を起こさず分別を生じないことを禅定と思っているものである。第二は観察相義禅。いわゆる小乗と三賢の菩薩が、法門の義理を観察し思惟する程度のものである。第三は攀縁如実禅。いわゆる地上の菩薩が、中道実相の真理に安住して、努力の力を借りない妙行である。第四は如来清浄禅。いわゆる如来の境地に入って、自ら覚った聖なる智慧が現れた相である。祖師門下で如来禅と言うのは、これを指す。古人が学ぶ者に向かって、あなたはただ如来禅を明らかにしただけで、まだ祖師禅を悟っていないと言ったことがある。これによって、禅宗と言うからといって、諸宗が談じる禅定と同じではないことを知るべきである。禅とは梵語である。詳しくは禅那という。漢語では正思惟と訳す。または静慮とも言う。円覚経などで三観を明かす中に、禅那と言っているのがこれである。定と慧の二観のほかに、別にこれを立てている。圭峰の密禅師は、これを絶待霊心観と名づけられた。圭峰の禅源諸詮集の中には、ただ達磨が伝えた宗旨だけが真実の禅那に相応している、そのため禅宗と名づけた、とある。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
夢中問答集・『夢中問答集』愚かな者の坐禅は無益か問古人の云く、用心朦昧ならば坐禪無益なりと云云。然らば卽ち愚癡なる人の坐禪とて、壁に向つて坐するいたづらことゝ申す人あり。其の謂れありや。 答古人かやうにしめす事は、一大事のために志をはげます人の善知識にも參ぜず。たゞ坐禪となづけて蒙々として坐する人をすゝめて、其の用心を正しくなさんためなり。愚癡なる人は坐禪すること詮なしと申すにはあらず。用心くらき者は坐禪無益なりといふて、坐禪をばせずして愚癡のまゝにて日月を送る人は、何の益かあるべきや。佛法に入ること一世一時の熏修にあらず。今生に利根の姓を受て頓に悟る人は、前生朦昧にして坐禪したりし人なり。今生に朦昧にして坐禪する人は、當來かならず一聞千悟の人となるべし。或は云く坐禪は大事の所作なれば愚癡の身にはかなひがたし。經をよみ陀羅尼を誦し、念佛を申すことは事の行にてたやすければ、是は相應の行なるべしと云云。敎の中に云く、發心僻越しぬれば萬行從に施す。事行理行といへば一往の差別なり。何れの行なりとも用心あやまりぬれば、皆三界輪廻の業因なり。然らば卽ち大乘修行の用心たゞしき人は、其の中にして萬行をなせども錯なし。若し其の分なくば事理の行ともにいたづらなるべし。しかるを坐禪用心は大事なれば、先づ事の行を修せんといへるは偏案なり。坐禪を大事の行と思へるは、いまだ坐禪の玄旨をしらざる故なり。坐禪修行と申すことは、禪門ばかり用ふる事にあらす。顯密の諸宗にもあかせり。乃至小乘外道の法にもあり。坐禪といへる語は同じけれ共、其の旨趣各ことなり。小乘外道の坐禪は有漏無漏其の趣きことなれ共身を動ぜず。念をおこさじと修行する體はこれ同じ、淨土宗の坐禪は十六想觀等なり。盧山の遠法師等は此の行を專らにす。顯密の諸宗の坐禪かはれりといへども、各其の宗の深理を觀ずるを用心とす。末代になりて諸宗の坐禪大略はすたれたる故に、坐禪するは宗門の修行ばかりと思へるはあやまれり。宗門の坐禪と申は念をおさめ、身を動ぜじとするにもあらざれば、さやうに壁に向つて座して念をやむること大事なりともいふべからず。法理を觀ずることもあらざれば、我れは鈍根なる故に、法門の深理を習ふこと大事なりともいふべからず。財寶の入ることにもあらざれば、我れはまづしき故にかなひがたしともいふべからず。身力の入る事にもあらざれば、我は力弱ければ難議なりともいふべからず。塵勞の中には佛法なしともさだめねば、我れは俗人なる故に、修行の便りなしともいふべからず。燒香禮拜等の行は身を以てなす故に、其の身若し、餘の事をなす時は其の行かなはず。讀經誦呪念佛等の行は口を以てなす故に、別の事を談ずる時は、其の行じたる法理を觀ずることは意を以てなす故に、別事を思ふ時は其の觀はせられず。禪門の工夫は身を以てもなさず。口を以てもなさず。意を以てもなさず。何をか大事といふべきや。
-
夢中問答集・『夢中問答集』禅と教えは同じか(上)問敎の中にも佛の相もなく、衆生の相もなしと談ぜり、禪宗に生佛いまだわかれざる處といふに同じからずや。 答敎の中に凡聖の相なしと申すは、凡聖わかれたる處について、其の體性の無相なることを談ぜり。禪宗に生佛已前と申すは此の義にあらず、其の語の似たるを以て禪敎同とは申すべからず、たとへば人の面のやうをそらに語る時額の中に眉あり眉の下に眼あり眼の下に鼻あり鼻の下に口ありと申せば、貴賤男女みな同じ面なるやうに聞ゆれ共、若し實に其の面をみる時は、各ことなるがごとし、敎門には言句義理を以て法門とする故に、義理の分劑について大小權實を判せり、敎外別傳不立文字といへる題目を見ながら宗師の言句について敎禪の同意を論せばあたるべからず、今時の禪者の中に宗師の人に示さる言句の中に敎家の法門にかはりたる事のあるを見て、これを禪の勝れたる證據とす。若し敎の法門にかはりたる故に禪は勝れたりといはゞ禪にかはりたる故に敎をも勝れたりといふべし。然らば卽ち敎外別傳の宗旨何ぞ言句義理の同異にあづからんや、或は云く敎は皆な言句義理の上に談せり、言句義理にあづからざる處禪門の宗旨なりと云云。若ししからば敎の中に言句義理を立ざる法門あり、これを禪宗といはんや、或は敎者の中に敎外別傳不立文字といへども禪師の人にしめす言句多し不立文字といはんやと難する人あり、禪師の言句多しといへ共此の言句の義理を人に習學せしめんためにはあらず、ただ佛法の正理は言句の上にあらざる事をしめさんためなり、言句の上にあらずと申せばとて言語道斷の處を宗旨とするにもあらず、寂默沈空の所を指示するにもあらず、古人の云く達磨西來の別に一法の人のために傳授するなしたゞ人々具足し、箇々圓成する底を指出するのみなりと云云、旣に人々具足といへり、何ぞひとり禪者のみ具足して敎者にはかけたりといはんや、たゞ敎者禪者のみ圓成するにあらず。田夫野人の農業をはげむ所にもあり、鍛冶番匠の工巧をいとなむ所にもあり、要を取ていはゞ、一切衆生の所作所爲見聞覺知行住坐臥遊戯談論の所皆な悉く西來の玄旨にあらずといふ事なし、何にいはん佛の敎へに隨つて種々の善行を修する人をや。しかれども、此の玄旨あることを知らざる故に、世間の幻相はばかされて妄りに輪廻を受くる者多し。佛此の妄想をやめんために種々の法門を說き玉へば、又此の法門を執著して玄旨をくらませる人あり。是の故に祖師西來して、本分の一段を指出す、この心を以て心に傳ふる、敎外の玄旨となづく。敎外の玄旨とて諸敎にかはりたる一段の法門を相承するにはあらず、若し言句にて相承すべき法門ならばたゞ是れめづらしき敎法なるべし、敎外別傳とはいふべからず、六祖よりこのかた五家わかれて各の宗風を立つといへ共、亦同じく人々具足することを悟らしめんためなり。
-
夢中問答集・『夢中問答集』本分の題を忘れぬ修行問禪門には生佛以前を擧揚する故に、一心三密の觀行をも論ぜずと申すに、古來の禪宗の學者皆坐禪工夫をたしなみ、知識も亦修行用心の邪正をしめす事は何ぞや。 答詩をつくり歌をよむ人は、先づ其の題をよく心得べし。月の題をとりて花の事を案ぜばよろしからず。佛法も亦かくのごとし。禪宗に本分の事といへるは何の事ぞや。凡にありても減ぜず。聖にありても增せず。人々具足し、箇々圓成すといへり。此の本分の題をとりながら、我れは迷人なりと思ふて悟りをひらくべき修行を習はんとする人は本分の題にそむける人なり。たとひ詩歌の風情は心にうかばざれ共、月の題をとりたる人は花のことをば案せぬがごとく、本分の題を信ずる人、我れは迷人なりと執著して別に悟りを求むる事はあるべからず。しかれども、いまだ箇々圓成せる處を分明にうけがふことのなき程は、日來の迷悟を存し、凡聖をへだてつる妄情を放下して、或は自ら直下に參究し、或は知識に參ずさはあれども念佛を申して往生の行にあて、陀羅尼を誦して悉地をもとめ、乃至敎門の中にあかせる觀念をこらして、證理をまつには同じからず。かやうの人は本分の題をわすれぬ學者なり。古人悟道の機緣を見れば上代なりし故にや、直下に大悟することはなかりし人も、本分の題をば信ぜし故に本分にかなふべきため、工夫用心とて、人にたづね問へることはなし。たゞ直に問て云く、如何なるか是れ佛、如何なるか是れ禪、如何なるか是れ佛法的々の大意、如何なるか是れ祖師西來の意、如何なるか是れ諸佛出身の處と云云。學者の問もかやうに直問なり。知識の答も亦直答にして、或は卽信卽佛とこたへ、或は庭前柏樹子としめし。或は東山水上に行くといふ。宗師かやうに答ふる事、皆な是れ本分の直示なり。此の語を以て修行の資糧となさしめんためにはあらず。然れども學者若し鈍にして、知識の直示をあきらめざれば、彼のしめすところの話頭に額をついて、或は一兩日、或は一兩月、乃至五年十年も此の直示を參決せり其の間をば修行とも申しぬべし。されども敎家に解行證をたてゝ、諸の觀を修する用心には同じからず。敎外別傳といへる題目は此の謂れなり。今時の人多くは是れ此の題をわすれて、善知識にあふて修行用心をたづね問ふ知識たる人の中にも、學者のために修行用心をおしへらる。或は公案を人にあたふるも往生のために念佛を申し、悉地のために陀羅尼をみつるがごとく、此の公案を提撕して本分に到らしめんと思へり。この故に學者も各用心の體をかたりて勝劣をたくらへ、知識の言のかはれる處について是非を批判す。皆な是れ世俗の戯論なり。
-
『六祖壇経』坐禅品第五善知識よ、若し不動を修する者は、但だ一切の人を見る時、人の是非善惡過患を見ざる、即ち是れ自性不動なり。善知識よ、迷人は身動かずと雖も、口を開けば便ち他人の是非長短好惡を説く。道と違背す。若し心に著し淨に著せば、即ち道を障ふるなり。師眾に示して云く、善知識よ、何をか坐禪と名づくる。此の法門の中に、障無く礙無し。外一切の善惡の境界に於て、心念起こらざる、坐と名づく。內に自性の不動なるを見る、禪と名づく。善知識よ、何をか禪定と名づくる。外相を離るるを禪と為し、內亂れざるを定と為す。外若し相に著せば、內心即ち亂る。外若し相を離るれば、心即ち亂れず。本性は自ら淨く自ら定まる。只だ境を見て境を思ふが為に即ち亂る。若し諸境を見て心亂れざる者は、是れ真の定なり。善知識よ、外相を離るれば即ち禪、內亂れざれば即ち定。外禪內定、是れを禪定と為す。菩薩戒經に云く、「我が本元の自性は清淨なり」と。善知識よ、念念の中に於て、自ら本性の清淨なるを見て、自ら修し自ら行じ、自ら佛道を成ぜよ。
-
夢中問答集・『夢中問答集』教外別伝は思い込みか(一)問敎者の中に禪宗を難じて云く、佛說にもよらず、義理をもたゞさず、敎外別傳と號して、胸臆の說をほしいまゝにす信じ用ふるにたらずと云云、其の謂れあることやらん。 答かやうに申すことは、たゞ敎の文字を學して、敎の本意をしらざる人なり、若し佛の敎門を設け玉へる本意をしらばかならず、敎外別傳を信ずべし。これを眞實の敎者とは申すなり。楞伽經に云く、始め鹿野苑より終り、跋提河に至るまで、其の二中間においていまだかつて一字をもとかずと云云、若し此の經文によらば、一代の敎法とて實に有と執著すべしや、像法決疑經に云く、文のごとく義をとる者は、三世の諸佛のあだなりと云云。經論の文にまかせて義理を論ずる事、何ぞ佛意にかなはんや。圓覺經に云く、修多羅の敎は月をさすゆびの如しと云云。指を以て月をさす事は人をして、直に月を見せしめんためなりもし其の指に目をつけたる人は月をみる事あたはず、贍さへ其の指の長短を論じ大小を諍ふ、實に是れ迷ひ中の迷ひなり、古の敎家の先德は皆佛の本意を悟り玉へる故に、敎の指にかゝはらず、しかれ共中下の機根の直に月を見る事あたはざる者のために假りに敎の指を用ひ玉へり。然らば卽ち其本意をあらはさんために、法相の廢詮三論の聖默天台の妙旨花嚴の果分とて、諸宗に皆言說も及ばず、思慮も到らざる法門を立られたり、密宗には顯敎の無言無說と談ずるをば、猶是れ遮情の法門なりときらふて、其の上に如義言說を談ず。如義言說といへるは、有言無言の域を超出して、三世常恒に談ずる所の祕密不思議の言說なり、妄執言說等のごとく心得べきにあらず、是故に至極深祕の處には我れ本と言ある事なし、たゞ利益のために說くといへる經文あり、大日經の疏に云く、如來自證の境は觀る者も見ることなく、說く者も言なし、言語を以て人に授くべからず、傳敎大師の弘法大師の御もとへ、理趣釋を借り申させ玉ひける御返事に云、祕藏の奥旨は文字の傳ふるところにあらず、只是れ心を以て心に傳ふるのみなり、文字は是糟粕、文字は是れ瓦礫と云云。敎文の本意も文字語言の上にあらざること分明なり、敎外別傳といへること、何ぞ胸臆の說ならんや。傳敎大師內證佛法相承血脈の譜に云く、達磨大師付法相承師々の血脈一首天台法花宗の相承、師々の血脈一首天台圓頓菩薩戒の相承、師々の血脈一首胎藏金剛兩曼茶羅の相承、師々の血脈一首と云云。
-
夢中問答集・『夢中問答集』放下を履き違える剷子禅問古人の云く、別に工夫なし、放下すれば便是なり。又云一切の善惡すべて思量することなかれ。又云く得夫是非一時に放却せよ。かようにしめさるゝごとくならば、一切の所解を掃ひ、捨るを禪宗の工夫と申すべし。若し爾らば花嚴宗にあかせる頓敎の法門に一切の名相をきらふて、自性清淨の處を貴ぶに事ならず。三論宗に獨空畢竟空を談ずるにも似たり。密宗に談ずる遮情の法門にも何ぞことならんや。 答其の言句は似たりといへども、其の旨趣同じからず。先づ一切の所解を掃ひ捨つるを禪宗の修行と心得たることは、大なるあやまりなり。古人の云く有心を以ても求むべからず。無心を以ても得べからず。語言を以ても到るべからず。寂默を以ても通ずべからず。或は云く、有心無心語言寂默皆是れ佛法なりと云云。古人かやうにしめすこと天地はるかにことなり、いづれをか本とすべきや。皆な是れ宗師の手段なり、語のごとく心得べきことにあらず。然らば卽ち一切を放下せよとしめすも、敎門の掃蕩遮情の義にはあらず。眞妄の差別を談ずれども法相の建立の法門にはかはれり。當相卽道卽事而眞としめせ共、表德實相の所談にはことなり、其の旨趣は悟て後始めてしるべし、義理を以て會すべからず。若し言語の似たるを以て同じといはゞ、何ぞたゞ敎家の法門のみに限らんや。儒敎道敎乃至世間の狂言戲語にも亦同じかるべし。禪宗の學者の中に古人の語に隨つて解を生じて一切の義理をも用ひず、地位の階差をも立てず、佛法世法の蹤跡を胸の中にとゞめざるを宗旨と思へる者あり。古人これを笑ふて剷子禪となづけたり。こすきといふ物は一切の物をすきすつるを功能とする故に、一切の所解をはらひ捨つるを宗旨と思へるに譬へたり。