夢中問答集 / 『夢中問答集』邪正を見分けるには
問眞實に大悟せる人は、邪正に迷ふべからず、然ば天魔外道來りて種々の法門を說く共、誑惑せらるべからず、いまだ正悟を得ざる人は、いかでか邪正をもわかつべき、しかるに古の先達所談の法門も一致ならず、今時の知識のしめさるゝ修行用心も亦まち〱なり、初心の學者いかにしてか、其の邪正を辨すべきや。 答末代は邪說さかりにして、正法を亂る事多し、世間の相撲、競馬、圍碁、雙六なんとは、其の勝負のすがたをかねてより定め置きたる故に、これをたゞす事まぎれなし、所領の相論罪科の輕重ごときは、其の理非まことに決斷しがたき事ありといへ共、上裁を仰ぐ故についに落居せずといふ事なし、佛法にはかねてより定め置きたる勝負の體もなし、面々たゞ我が心得たるを本として、我が法門勝れたりと思へども、別人はこれをゆるさず、世間の沙汰のごとくならねば上裁とて仰ぐべき人もなし、面々の引くところの證文は、佛祖の言語なれども文は執見によりてかはることなれば、證據とするにたらず。各我が信ずる所の知識の印可を以て證明とす、それも緣者の證人なれば、信用にたらず、しかるを愚人、我が妄想の信を本として何に宗にても、先づ一法門を信じぬれば、餘宗をば皆これをきらふ、我が知識とて信じそめぬれば、餘人の法門は皆劣なりと思ふて、耳にも觸れんとする者あり、此れは是れ愚人の中の愚人なり、或は諸宗の法門もかはり、知識の示すことも同じからざる處に、自ら決斷することあたはず、茫然として浪にもつかず、磯にもつかぬ人あり。かやうの人はいづれも、いまだ敎外別傳の題目を信ぜざる者なり、たとひ悟りを開かず共、若しよく敎外の題目を信ずる人は、眞實の正法は言語の上にあらざる事を知れる故に、一師の言語を堅執してこれをのみ貴ぶこともあるべからず、諸師の言語のかはれるによりて、迷惑することもあるべからず、世間の食物其の味ひ一種にあらず、其の中に何をか本と定むべきや、人の天性まち〱なる故に甘き物をこのむ人もあり、辛き物を愛する人もあり、若し我がこのむ味を本として餘の味ひは、皆いたづらなりと言はゞ愚人なるべし、法門も亦かくのごとし、衆生の性欲同からざる故に我が心には、此の法門を貴しと思ふと、いはゞさもありぬべし、若し我が思ひの本として此の法門は正理なり、餘の法門は皆眞實にあらずと執せば是れ邪說なり、法花經に云く、有を破する法王、世に出て衆生の性欲に隨つて種々に說法すと云云。しるべし如來種々の法門は衆生迷倒の性欲に隨つてかりに說かれたる事なり。若し直に衆生と佛といまだわかれざる本分に向ふ人は、種々の法門を聞くとも、其の勝劣是非の中に心を勞せんや、古人の云く、佛一切の法を說くことは、一切の心を度せんがためなり。我れに一切の心なし何ぞ一切法を用やと云云。
新字:問真実に大悟せる人は、邪正に迷ふべからず、然ば天魔外道来りて種々の法門を説く共、誑惑せらるべからず、いまだ正悟を得ざる人は、いかでか邪正をもわかつべき、しかるに古の先達所談の法門も一致ならず、今時の知識のしめさるゝ修行用心も亦まち〱なり、初心の学者いかにしてか、其の邪正を弁すべきや。 答末代は邪説さかりにして、正法を乱る事多し、世間の相撲、競馬、囲碁、双六なんとは、其の勝負のすがたをかねてより定め置きたる故に、これをたゞす事まぎれなし、所領の相論罪科の軽重ごときは、其の理非まことに決断しがたき事ありといへ共、上裁を仰ぐ故についに落居せずといふ事なし、仏法にはかねてより定め置きたる勝負の体もなし、面々たゞ我が心得たるを本として、我が法門勝れたりと思へども、別人はこれをゆるさず、世間の沙汰のごとくならねば上裁とて仰ぐべき人もなし、面々の引くところの証文は、仏祖の言語なれども文は執見によりてかはることなれば、証拠とするにたらず。各我が信ずる所の知識の印可を以て証明とす、それも縁者の証人なれば、信用にたらず、しかるを愚人、我が妄想の信を本として何に宗にても、先づ一法門を信じぬれば、余宗をば皆これをきらふ、我が知識とて信じそめぬれば、余人の法門は皆劣なりと思ふて、耳にも触れんとする者あり、此れは是れ愚人の中の愚人なり、或は諸宗の法門もかはり、知識の示すことも同じからざる処に、自ら決断することあたはず、茫然として浪にもつかず、磯にもつかぬ人あり。かやうの人はいづれも、いまだ教外別伝の題目を信ぜざる者なり、たとひ悟りを開かず共、若しよく教外の題目を信ずる人は、真実の正法は言語の上にあらざる事を知れる故に、一師の言語を堅執してこれをのみ貴ぶこともあるべからず、諸師の言語のかはれるによりて、迷惑することもあるべからず、世間の食物其の味ひ一種にあらず、其の中に何をか本と定むべきや、人の天性まち〱なる故に甘き物をこのむ人もあり、辛き物を愛する人もあり、若し我がこのむ味を本として余の味ひは、皆いたづらなりと言はゞ愚人なるべし、法門も亦かくのごとし、衆生の性欲同からざる故に我が心には、此の法門を貴しと思ふと、いはゞさもありぬべし、若し我が思ひの本として此の法門は正理なり、余の法門は皆真実にあらずと執せば是れ邪説なり、法花経に云く、有を破する法王、世に出て衆生の性欲に随つて種々に説法すと云云。しるべし如来種々の法門は衆生迷倒の性欲に随つてかりに説かれたる事なり。若し直に衆生と仏といまだわかれざる本分に向ふ人は、種々の法門を聞くとも、其の勝劣是非の中に心を労せんや、古人の云く、仏一切の法を説くことは、一切の心を度せんがためなり。我れに一切の心なし何ぞ一切法を用やと云云。
書き下し
問眞實に大悟せる人は、邪正に迷ふべからず、然ば天魔外道來りて種々の法門を說く共、誑惑せらるべからず、いまだ正悟を得ざる人は、いかでか邪正をもわかつべき、しかるに古の先達所談の法門も一致ならず、今時の知識のしめさるゝ修行用心も亦まち〱なり、初心の學者いかにしてか、其の邪正を辨すべきや。 答末代は邪說さかりにして、正法を亂る事多し、世間の相撲、競馬、圍碁、雙六なんとは、其の勝負のすがたをかねてより定め置きたる故に、これをたゞす事まぎれなし、所領の相論罪科の輕重ごときは、其の理非まことに決斷しがたき事ありといへ共、上裁を仰ぐ故についに落居せずといふ事なし、佛法にはかねてより定め置きたる勝負の體もなし、面々たゞ我が心得たるを本として、我が法門勝れたりと思へども、別人はこれをゆるさず、世間の沙汰のごとくならねば上裁とて仰ぐべき人もなし、面々の引くところの證文は、佛祖の言語なれども文は執見によりてかはることなれば、證據とするにたらず。各我が信ずる所の知識の印可を以て證明とす、それも緣者の證人なれば、信用にたらず、しかるを愚人、我が妄想の信を本として何に宗にても、先づ一法門を信じぬれば、餘宗をば皆これをきらふ、我が知識とて信じそめぬれば、餘人の法門は皆劣なりと思ふて、耳にも觸れんとする者あり、此れは是れ愚人の中の愚人なり、或は諸宗の法門もかはり、知識の示すことも同じからざる處に、自ら決斷することあたはず、茫然として浪にもつかず、磯にもつかぬ人あり。かやうの人はいづれも、いまだ敎外別傳の題目を信ぜざる者なり、たとひ悟りを開かず共、若しよく敎外の題目を信ずる人は、眞實の正法は言語の上にあらざる事を知れる故に、一師の言語を堅執してこれをのみ貴ぶこともあるべからず、諸師の言語のかはれるによりて、迷惑することもあるべからず、世間の食物其の味ひ一種にあらず、其の中に何をか本と定むべきや、人の天性まち〱なる故に甘き物をこのむ人もあり、辛き物を愛する人もあり、若し我がこのむ味を本として餘の味ひは、皆いたづらなりと言はゞ愚人なるべし、法門も亦かくのごとし、衆生の性欲同からざる故に我が心には、此の法門を貴しと思ふと、いはゞさもありぬべし、若し我が思ひの本として此の法門は正理なり、餘の法門は皆眞實にあらずと執せば是れ邪說なり、法花經に云く、有を破する法王、世に出て衆生の性欲に隨つて種々に說法すと云云。しるべし如來種々の法門は衆生迷倒の性欲に隨つてかりに說かれたる事なり。若し直に衆生と佛といまだわかれざる本分に向ふ人は、種々の法門を聞くとも、其の勝劣是非の中に心を勞せんや、古人の云く、佛一切の法を說くことは、一切の心を度せんがためなり。我れに一切の心なし何ぞ一切法を用やと云云。
現代語訳
問:真実に大悟した人は、邪と正に迷うことがない。だから天魔や外道が来て種々の法門を説いても、だまされることがない。しかしまだ正しい悟りを得ていない人は、どうして邪と正を見分けられようか。ところが昔の先達が談じた法門も一致せず、今の師匠が示す修行の心がまえもまちまちである。初心の学者は、どうしてその邪正を弁えたらよいのか。 答:末代は邪説が盛んで、正法を乱すことが多い。世間の相撲・競馬・囲碁・双六などは、勝負の姿をあらかじめ決めてあるので、これを判定することに迷いがない。所領の争い、罪科の軽重のようなものは、その理非を決断しがたいこともあるが、上の裁きを仰ぐので、ついに決着しないということはない。仏法にはあらかじめ決めた勝負の形もなく、各々がただ自分の心得たところを本として、自分の法門が優れていると思うけれども、他の人はこれを許さない。世間の裁きのように、上の裁きとして仰ぐべき人もいない。各々が引く証文は、仏祖の言葉ではあるけれども、文は執着した見解によって意味が変わるものであるから、証拠にはならない。各々が信じる師匠の印可を証明とする。それも縁者の証人であるから、信用するに足りない。それなのに愚かな者は、自分の妄想の信を本として、どの宗であっても、まず一つの法門を信じると、他宗をみな嫌う。自分の師匠だと信じ始めると、他の人の法門はみな劣ると思って、耳にも触れようとしない者がいる。これは愚かな人の中の愚かな人である。あるいは、諸宗の法門が異なり、師匠の示すことも同じでないところで、自分で決断することができず、茫然として波にもつかず磯にもつかない人がいる。こうした人は、いずれもまだ教外別伝という題目を信じていない者である。 たとえ悟りを開かなくても、もしよく教外の題目を信じる人は、真実の正法は言葉の上にないことを知っているので、一人の師の言葉に固執してそれだけを貴ぶこともなく、諸師の言葉が違うからといって迷うこともない。世間の食べ物は、その味が一種ではない。その中で何を本と定めようか。人の天性はまちまちなので、甘い物を好む人もいれば、辛い物を愛する人もいる。もし自分が好む味を本として、他の味はみな無駄だと言うなら、愚かな人である。法門もまたこのとおりである。衆生の性分や欲が同じでないから、私の心にはこの法門が貴く思われる、と言うのなら、それも道理であろう。もし自分の思いを本として、この法門は正しい道理で、他の法門はみな真実ではないと執着するなら、それは邪説である。法華経にいう。有を破る法王が世に出て、衆生の性分や欲に従って種々に説法する、と。如来の種々の法門は、衆生の迷い倒れた性分や欲に従って、仮に説かれたものであると知るべきである。もし直ちに、衆生と仏がまだ分かれていない本分に向かう人は、種々の法門を聞いても、その勝劣や是非の中に心を労することがあろうか。古人はいう。仏が一切の法を説くのは、一切の心を救うためである。私には一切の心がない。何のために一切の法を用いようか、と。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』教外別伝は思い込みか(一)問敎者の中に禪宗を難じて云く、佛說にもよらず、義理をもたゞさず、敎外別傳と號して、胸臆の說をほしいまゝにす信じ用ふるにたらずと云云、其の謂れあることやらん。 答かやうに申すことは、たゞ敎の文字を學して、敎の本意をしらざる人なり、若し佛の敎門を設け玉へる本意をしらばかならず、敎外別傳を信ずべし。これを眞實の敎者とは申すなり。楞伽經に云く、始め鹿野苑より終り、跋提河に至るまで、其の二中間においていまだかつて一字をもとかずと云云、若し此の經文によらば、一代の敎法とて實に有と執著すべしや、像法決疑經に云く、文のごとく義をとる者は、三世の諸佛のあだなりと云云。經論の文にまかせて義理を論ずる事、何ぞ佛意にかなはんや。圓覺經に云く、修多羅の敎は月をさすゆびの如しと云云。指を以て月をさす事は人をして、直に月を見せしめんためなりもし其の指に目をつけたる人は月をみる事あたはず、贍さへ其の指の長短を論じ大小を諍ふ、實に是れ迷ひ中の迷ひなり、古の敎家の先德は皆佛の本意を悟り玉へる故に、敎の指にかゝはらず、しかれ共中下の機根の直に月を見る事あたはざる者のために假りに敎の指を用ひ玉へり。然らば卽ち其本意をあらはさんために、法相の廢詮三論の聖默天台の妙旨花嚴の果分とて、諸宗に皆言說も及ばず、思慮も到らざる法門を立られたり、密宗には顯敎の無言無說と談ずるをば、猶是れ遮情の法門なりときらふて、其の上に如義言說を談ず。如義言說といへるは、有言無言の域を超出して、三世常恒に談ずる所の祕密不思議の言說なり、妄執言說等のごとく心得べきにあらず、是故に至極深祕の處には我れ本と言ある事なし、たゞ利益のために說くといへる經文あり、大日經の疏に云く、如來自證の境は觀る者も見ることなく、說く者も言なし、言語を以て人に授くべからず、傳敎大師の弘法大師の御もとへ、理趣釋を借り申させ玉ひける御返事に云、祕藏の奥旨は文字の傳ふるところにあらず、只是れ心を以て心に傳ふるのみなり、文字は是糟粕、文字は是れ瓦礫と云云。敎文の本意も文字語言の上にあらざること分明なり、敎外別傳といへること、何ぞ胸臆の說ならんや。傳敎大師內證佛法相承血脈の譜に云く、達磨大師付法相承師々の血脈一首天台法花宗の相承、師々の血脈一首天台圓頓菩薩戒の相承、師々の血脈一首胎藏金剛兩曼茶羅の相承、師々の血脈一首と云云。
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夢中問答集・『夢中問答集』他人の是非を見る前に問う者を見よ問古人の云く、眞實修道の人は、他人の是と非をとかずと云云。此の語をば信ずれども、僧俗に對する時やゝもすれば、是非の念の起るをば如何か對治すべきや。 答眞實の道人の他人の是非をとかずといへることは、是非は實にあれ共、これを說かずと申すにはあらず。自他の相を見ざれば、是非のとくべきがなき故なり。三祖大師の云く、眞如法界には他もなく自もなし。敎中に云く、法性は大海のごとし。是非ありと說くべからずと云云。此の理に相應せざる故に自他の相あり。自他の相あるならば爭か是非を見ることなからんや。若し是非の相を見ば、たとひ口には解かずとも眞實修道の人にはあらず。然らば卽ち大乘の學者、他人の是非をとかじとせんよりは、たゞ自ら翻覆して看るべし。他人の是非をとく者はこれ誰ぞ。圓覺經に云く、四大を認めて自身の相とし、六塵の緣影を自心の相とす。此の經の意は凡夫の自己と思へるは眞實の自己にあらず。自己と思へる者の若しあやまりならば、他人とみるも亦あたらず。自他もし實ならずば、何れの是非をかとくべきや、よのつね道者とて他人の是非をばとかぬ人も自心において、善惡の相をわかち利鈍の品をたて、所解に淺深を論じ、修行に邪正をたくらぶ。かやうの人は直に無上菩提におもむくことあたはず。是の故に一切の是非を目にかくる事なかれとすゝめたり。一切の是非を放下して、自他の相をみずとも若いまだ父母未生前の本來の面目を見ずば、眞實の道人といふべからず。廻光返照して看るべし。自他身心の相をわかち、是非得失の念をうかぶる物は是れ何に物ぞ。昔南岳の讓和尙六祖に參ず。六祖他の來るを見て、問て云く、なに物か、かくのごとく來れる南岳、答ふることあたはずして退き給ひぬ。其後八年ありて始めて大悟す。再び六祖に參じて前の問を答て云く、一物に說似すれば、卽ちあたらずと云云。此の時始めて六祖の印證をうけ給ひき。南岳和尙の六祖に參じ給ひし時、一言の下に直に契當せられざる事は、鈍根なるに似たれ共、來る者は何に物ぞと問はれて、やがてつまりて歸り給へるは怜利なる故なり。かやうにならましかば、たとひ千生をふるとも大悟することあたはじ。今時鈍根の人來りて、佛法を問ふ時、かやうに佛法を問ふ者は、これ誰ぞといへば、或はもう〱として、日來の妄想を本として、某となのる者のあり。或は問ふ者は、是誰ぞと疑ふて見るべきかといふ者もあり。或は自心これ佛といへる語に隨つて解を生じて、眉をあげ、目をまじろかし、手をあげ、拳をさゝぐる者もあり。或は識心の實體なくして諸の形相をはなれたる處をとめて、南岳の說似一物卽不中と答へ給へる語にとりあはせて、上に攀仰なく下に己躬を絕すと答ふる者のあり。或はわづかに問あり。答あれば、皆外邊の事なりと心得て一喝を下す人もあり。或はかやうの種々の計較安排にあづからざる處を宗旨と思ふて、袖を拂つて便ち去る人もあり。若しかやうならば、たとひ彌勒下生に到るとも大悟することあたはじ。百丈の大智禪師上堂說法の終りには、たびごとに大衆とよび給ふ大衆、これを聞て首べを廻らす百丈の云く、これ何ぞ。時の人これを百丈下堂の句と名けたり。百丈かやうに示し給ふことは學者に工夫用心ををしへ給へるにもあらず。面々の見解を問ひ給ふにもあらず。畢竟して其の意何れの處にかある。若人直下に承當せば、曠劫の無明一時に滅すべし。昔亮座主といへる敎者ありき。經論を博覽し、義理を通達して徒を集めて、法を說く事年久し。有る時馬祖に參じて種々の問答あり。亮座主これをうけかはずして出で去る。馬祖卽ち座主とよび給ふ。座主首をめぐらす。馬祖の云く、是れ何ぞ其の時亮座主豁然として大悟す。此座主年來經論の義理を通達すといへ共、いまだ悟入の分なし。馬祖の是れ何ぞとしめし給ふ一言の下に大悟する事は何の故ぞや。まさにしるべし。其の所悟は經論の義理にあらざる事を一生の間、身心を苦勞して學解をはげますいとまをひるがへして、行住坐臥念起念滅の處について直下に參決せば、南岳亮座主のごとくなる悟入もなどかなかるべきやといとまおしく覺えたり。まして他人の是非を談じ、世間の名利をのみはしりて、いたづらに一生をすごす人をば、たま〱人身を受たるしるしありといはんや。
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夢中問答集・『夢中問答集』随他意と随自意の区別問如來の說法に二種あり、一には隨他意語佛の機に隨つてしめし玉へる方便の語なり、二には隨自意語佛の本意のごとく說き給へる語なり、禪門に小玉をよぶ手段といへるは、隨他意語にあたるにあらずや。 答如來の說敎については、是は隨他意是は隨自意と決定して談ずるは、敎門の施說なり、禪門の宗師の佛說を擧揚する時、或は是を隨他意說としめし、或は是を隨自意語といふ。皆是小玉をよぶ手段なり決定の說にあらず。然らば卽ち今日隨自意語といへる、佛說を明日は隨他意語といふこともあるべし。唯此兩語のみにあらず、淺略深祕乃至妄執言說如義言說等の法門も又かくのごとし。古人の云く禪門の宗旨は敎家の法門の一尺はつひに一尺、二尺はつひに二尺なるには同じからずと云云。釋迦如來我は敎者とも仰られず、禪者ともなのり給はず所說の法門においても是は敎の分なり、是は禪の分なりともわけられず、如來の內證は敎にもあらず、禪にもあらざる故なり、此內證不思議の應用機に隨つて敎禪の差異をなせり。經に云く、佛は一音を以て法を說き給へば衆生其の類に隨つて、各解することを得と云云。佛在世の時は其の解了ことなりといへ共禪僧敎僧とてわかれたる事はなかりき、佛滅後に始めて禪敎二門わかれて敎に顯密の諸宗あり、禪に五家の差別あり、其故は先づ各解の性欲に隨つて方便をたれて、如來の本分の宗旨をしらしめんために、如來の化儀を紹隆し玉ふ、大智高德の人、或は敎家の宗師となり、或は禪門の祖師となりて各一雙の手を出だして迷倒の偏執を破り、敎禪の兩岐を越えて本分の田地に到らしめんとす。然らば卽ち眞實の敎師の其の本意敎の內にあるにあらず、明眼の禪師其の本意禪の中にあるにあらず、しかれども面々所談のかはれることは皆是れ小玉をよぶ手段なるが故なり、末代に至りて禪けうの學者の中に偏執を先とする人は是非海の裏にしづみて佛祖の本意をくらませり、像法決疑經に云く文のごとく義をとるは三世諸佛のあだなりと云云、明眼の宗師は胸の中にかねてよりたくはへたる法門なし、只是れ機に當りて提持し口に信せて道著す、すべて定まれる窠窟なし若し人禪を問ふ時、或は孔孟老莊の言を以て答ふる事もあり、或は敎家所談の法門を以て答ふる時もあり、或は世俗の諺を以て答ふる事もあり、或は目前の境界をしめす時もあり、或は棒を行じ喝を下し指を擧げ拳をさゝぐ、皆是宗師の手段なり、これを禪門の活弄となづく、いまだ此の田地に到らざる者の情識を以て計度すべき事にあらず。