夢中問答集 / 『夢中問答集』愚かな者の坐禅は無益か
問古人の云く、用心朦昧ならば坐禪無益なりと云云。然らば卽ち愚癡なる人の坐禪とて、壁に向つて坐するいたづらことゝ申す人あり。其の謂れありや。 答古人かやうにしめす事は、一大事のために志をはげます人の善知識にも參ぜず。たゞ坐禪となづけて蒙々として坐する人をすゝめて、其の用心を正しくなさんためなり。愚癡なる人は坐禪すること詮なしと申すにはあらず。用心くらき者は坐禪無益なりといふて、坐禪をばせずして愚癡のまゝにて日月を送る人は、何の益かあるべきや。佛法に入ること一世一時の熏修にあらず。今生に利根の姓を受て頓に悟る人は、前生朦昧にして坐禪したりし人なり。今生に朦昧にして坐禪する人は、當來かならず一聞千悟の人となるべし。或は云く坐禪は大事の所作なれば愚癡の身にはかなひがたし。經をよみ陀羅尼を誦し、念佛を申すことは事の行にてたやすければ、是は相應の行なるべしと云云。敎の中に云く、發心僻越しぬれば萬行從に施す。事行理行といへば一往の差別なり。何れの行なりとも用心あやまりぬれば、皆三界輪廻の業因なり。然らば卽ち大乘修行の用心たゞしき人は、其の中にして萬行をなせども錯なし。若し其の分なくば事理の行ともにいたづらなるべし。しかるを坐禪用心は大事なれば、先づ事の行を修せんといへるは偏案なり。坐禪を大事の行と思へるは、いまだ坐禪の玄旨をしらざる故なり。坐禪修行と申すことは、禪門ばかり用ふる事にあらす。顯密の諸宗にもあかせり。乃至小乘外道の法にもあり。坐禪といへる語は同じけれ共、其の旨趣各ことなり。小乘外道の坐禪は有漏無漏其の趣きことなれ共身を動ぜず。念をおこさじと修行する體はこれ同じ、淨土宗の坐禪は十六想觀等なり。盧山の遠法師等は此の行を專らにす。顯密の諸宗の坐禪かはれりといへども、各其の宗の深理を觀ずるを用心とす。末代になりて諸宗の坐禪大略はすたれたる故に、坐禪するは宗門の修行ばかりと思へるはあやまれり。宗門の坐禪と申は念をおさめ、身を動ぜじとするにもあらざれば、さやうに壁に向つて座して念をやむること大事なりともいふべからず。法理を觀ずることもあらざれば、我れは鈍根なる故に、法門の深理を習ふこと大事なりともいふべからず。財寶の入ることにもあらざれば、我れはまづしき故にかなひがたしともいふべからず。身力の入る事にもあらざれば、我は力弱ければ難議なりともいふべからず。塵勞の中には佛法なしともさだめねば、我れは俗人なる故に、修行の便りなしともいふべからず。燒香禮拜等の行は身を以てなす故に、其の身若し、餘の事をなす時は其の行かなはず。讀經誦呪念佛等の行は口を以てなす故に、別の事を談ずる時は、其の行じたる法理を觀ずることは意を以てなす故に、別事を思ふ時は其の觀はせられず。禪門の工夫は身を以てもなさず。口を以てもなさず。意を以てもなさず。何をか大事といふべきや。
新字:問古人の云く、用心朦昧ならば坐禅無益なりと云云。然らば即ち愚痴なる人の坐禅とて、壁に向つて坐するいたづらことゝ申す人あり。其の謂れありや。 答古人かやうにしめす事は、一大事のために志をはげます人の善知識にも参ぜず。たゞ坐禅となづけて蒙々として坐する人をすゝめて、其の用心を正しくなさんためなり。愚痴なる人は坐禅すること詮なしと申すにはあらず。用心くらき者は坐禅無益なりといふて、坐禅をばせずして愚痴のまゝにて日月を送る人は、何の益かあるべきや。仏法に入ること一世一時の熏修にあらず。今生に利根の姓を受て頓に悟る人は、前生朦昧にして坐禅したりし人なり。今生に朦昧にして坐禅する人は、当来かならず一聞千悟の人となるべし。或は云く坐禅は大事の所作なれば愚痴の身にはかなひがたし。経をよみ陀羅尼を誦し、念仏を申すことは事の行にてたやすければ、是は相応の行なるべしと云云。教の中に云く、発心僻越しぬれば万行従に施す。事行理行といへば一往の差別なり。何れの行なりとも用心あやまりぬれば、皆三界輪廻の業因なり。然らば即ち大乗修行の用心たゞしき人は、其の中にして万行をなせども錯なし。若し其の分なくば事理の行ともにいたづらなるべし。しかるを坐禅用心は大事なれば、先づ事の行を修せんといへるは偏案なり。坐禅を大事の行と思へるは、いまだ坐禅の玄旨をしらざる故なり。坐禅修行と申すことは、禅門ばかり用ふる事にあらす。顕密の諸宗にもあかせり。乃至小乗外道の法にもあり。坐禅といへる語は同じけれ共、其の旨趣各ことなり。小乗外道の坐禅は有漏無漏其の趣きことなれ共身を動ぜず。念をおこさじと修行する体はこれ同じ、浄土宗の坐禅は十六想観等なり。盧山の遠法師等は此の行を専らにす。顕密の諸宗の坐禅かはれりといへども、各其の宗の深理を観ずるを用心とす。末代になりて諸宗の坐禅大略はすたれたる故に、坐禅するは宗門の修行ばかりと思へるはあやまれり。宗門の坐禅と申は念をおさめ、身を動ぜじとするにもあらざれば、さやうに壁に向つて座して念をやむること大事なりともいふべからず。法理を観ずることもあらざれば、我れは鈍根なる故に、法門の深理を習ふこと大事なりともいふべからず。財宝の入ることにもあらざれば、我れはまづしき故にかなひがたしともいふべからず。身力の入る事にもあらざれば、我は力弱ければ難議なりともいふべからず。塵労の中には仏法なしともさだめねば、我れは俗人なる故に、修行の便りなしともいふべからず。焼香礼拝等の行は身を以てなす故に、其の身若し、余の事をなす時は其の行かなはず。読経誦呪念仏等の行は口を以てなす故に、別の事を談ずる時は、其の行じたる法理を観ずることは意を以てなす故に、別事を思ふ時は其の観はせられず。禅門の工夫は身を以てもなさず。口を以てもなさず。意を以てもなさず。何をか大事といふべきや。
書き下し
問古人の云く、用心朦昧ならば坐禪無益なりと云云。然らば卽ち愚癡なる人の坐禪とて、壁に向つて坐するいたづらことゝ申す人あり。其の謂れありや。 答古人かやうにしめす事は、一大事のために志をはげます人の善知識にも參ぜず。たゞ坐禪となづけて蒙々として坐する人をすゝめて、其の用心を正しくなさんためなり。愚癡なる人は坐禪すること詮なしと申すにはあらず。用心くらき者は坐禪無益なりといふて、坐禪をばせずして愚癡のまゝにて日月を送る人は、何の益かあるべきや。佛法に入ること一世一時の熏修にあらず。今生に利根の姓を受て頓に悟る人は、前生朦昧にして坐禪したりし人なり。今生に朦昧にして坐禪する人は、當來かならず一聞千悟の人となるべし。或は云く坐禪は大事の所作なれば愚癡の身にはかなひがたし。經をよみ陀羅尼を誦し、念佛を申すことは事の行にてたやすければ、是は相應の行なるべしと云云。敎の中に云く、發心僻越しぬれば萬行從に施す。事行理行といへば一往の差別なり。何れの行なりとも用心あやまりぬれば、皆三界輪廻の業因なり。然らば卽ち大乘修行の用心たゞしき人は、其の中にして萬行をなせども錯なし。若し其の分なくば事理の行ともにいたづらなるべし。しかるを坐禪用心は大事なれば、先づ事の行を修せんといへるは偏案なり。坐禪を大事の行と思へるは、いまだ坐禪の玄旨をしらざる故なり。坐禪修行と申すことは、禪門ばかり用ふる事にあらす。顯密の諸宗にもあかせり。乃至小乘外道の法にもあり。坐禪といへる語は同じけれ共、其の旨趣各ことなり。小乘外道の坐禪は有漏無漏其の趣きことなれ共身を動ぜず。念をおこさじと修行する體はこれ同じ、淨土宗の坐禪は十六想觀等なり。盧山の遠法師等は此の行を專らにす。顯密の諸宗の坐禪かはれりといへども、各其の宗の深理を觀ずるを用心とす。末代になりて諸宗の坐禪大略はすたれたる故に、坐禪するは宗門の修行ばかりと思へるはあやまれり。宗門の坐禪と申は念をおさめ、身を動ぜじとするにもあらざれば、さやうに壁に向つて座して念をやむること大事なりともいふべからず。法理を觀ずることもあらざれば、我れは鈍根なる故に、法門の深理を習ふこと大事なりともいふべからず。財寶の入ることにもあらざれば、我れはまづしき故にかなひがたしともいふべからず。身力の入る事にもあらざれば、我は力弱ければ難議なりともいふべからず。塵勞の中には佛法なしともさだめねば、我れは俗人なる故に、修行の便りなしともいふべからず。燒香禮拜等の行は身を以てなす故に、其の身若し、餘の事をなす時は其の行かなはず。讀經誦呪念佛等の行は口を以てなす故に、別の事を談ずる時は、其の行じたる法理を觀ずることは意を以てなす故に、別事を思ふ時は其の觀はせられず。禪門の工夫は身を以てもなさず。口を以てもなさず。意を以てもなさず。何をか大事といふべきや。
現代語訳
問:古人は、用心が朦昧であれば坐禅は無益である、と言う。そうであれば、愚かな人が坐禅といって壁に向かって坐るのはむだなことだ、と言う人がいる。その言い分にはわけがあるか。 答:古人がそのように示したのは、一大事のために志を励ます人が、善知識にも参じず、ただ坐禅と名づけてぼんやり坐っている人を励まして、その用心を正しくさせるためである。愚かな人は坐禅しても仕方がない、と言うのではない。用心が暗い者は坐禅が無益だと言って坐禅をせず、愚かなままで月日を送る人に、何の益があるだろうか。仏法に入るのは、一世一時の熏修によるのではない。今生に利根の性を受けて頓に悟る人は、前の生でぼんやりと坐禅した人である。今生にぼんやりと坐禅する人は、来世に必ず、一を聞いて千を悟る人となるだろう。あるいはこう言う。坐禅は大事な行いなので、愚かな身にはかなえがたい。経を読み、陀羅尼を誦し、念仏を申すことは、事の行で容易であるから、これこそ自分にふさわしい行であろう、と。教の中に言う。発心が偏り誤れば、万行は従って施される(すべて誤る)、と。事行・理行というのは、一応の区別である。どの行であっても、用心を誤れば、みな三界輪廻の業の因である。そうであれば、大乗修行の用心が正しい人は、その中でどのような万行をしても誤りはない。もしその分がなければ、事の行も理の行も、ともにむだになるだろう。それなのに、坐禅の用心は大事であるから、まず事の行を修めよう、と言うのは、偏った考えである。坐禅を大事な行だと思うのは、まだ坐禅の玄旨を知らないからである。坐禅修行ということは、禅門だけが用いることではない。顕教・密教の諸宗にも説かれている。小乗や外道の法にもある。坐禅ということばは同じでも、その趣旨はそれぞれ異なる。小乗や外道の坐禅は、有漏・無漏とその趣きは異なるが、身を動かさず念を起こすまいと修行する形は同じである。浄土宗の坐禅は十六想観などである。廬山の慧遠法師らはこの行をもっぱらにした。顕教・密教の諸宗の坐禅は異なるが、それぞれその宗の深い理を観ずることを用心とする。末世になって諸宗の坐禅はおおむねすたれたので、坐禅をするのは宗門の修行だけだと思うのは誤りである。宗門の坐禅というのは、念を収め身を動かすまいとするものでもないから、そのように壁に向かって坐って念をやめることが大事だとも言えない。法理を観ずることもないから、自分は鈍根だから法門の深い理を習うのは大事だと思う、とも言えない。財宝が要ることでもないから、自分は貧しいのでかなえがたい、とも言えない。身の力が要ることでもないから、自分は力が弱いので難しい、とも言えない。俗世の煩労の中には仏法がないと定めてもいないから、自分は俗人なので修行の便りがない、とも言えない。焼香・礼拝などの行は身でするから、その身がもし他のことをするときは、その行はかなわない。読経・誦呪・念仏などの行は口でするから、別のことを話すときは、その行は成り立たない。法理を観ずることは意でするから、別のことを思うときには、その観はできない。禅門の工夫は、身でもしない。口でもしない。意でもしない。何を大事と言うことができようか。
解説

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