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夢中問答集 / 『夢中問答集』放下を履き違える剷子禅

問古人の云く、別に工夫なし、放下すれば便是なり。又云一切の善惡すべて思量することなかれ。又云く得夫是非一時に放却せよ。かようにしめさるゝごとくならば、一切の所解を掃ひ、捨るを禪宗の工夫と申すべし。若し爾らば花嚴宗にあかせる頓敎の法門に一切の名相をきらふて、自性清淨の處を貴ぶに事ならず。三論宗に獨空畢竟空を談ずるにも似たり。密宗に談ずる遮情の法門にも何ぞことならんや。 答其の言句は似たりといへども、其の旨趣同じからず。先づ一切の所解を掃ひ捨つるを禪宗の修行と心得たることは、大なるあやまりなり。古人の云く有心を以ても求むべからず。無心を以ても得べからず。語言を以ても到るべからず。寂默を以ても通ずべからず。或は云く、有心無心語言寂默皆是れ佛法なりと云云。古人かやうにしめすこと天地はるかにことなり、いづれをか本とすべきや。皆な是れ宗師の手段なり、語のごとく心得べきことにあらず。然らば卽ち一切を放下せよとしめすも、敎門の掃蕩遮情の義にはあらず。眞妄の差別を談ずれども法相の建立の法門にはかはれり。當相卽道卽事而眞としめせ共、表德實相の所談にはことなり、其の旨趣は悟て後始めてしるべし、義理を以て會すべからず。若し言語の似たるを以て同じといはゞ、何ぞたゞ敎家の法門のみに限らんや。儒敎道敎乃至世間の狂言戲語にも亦同じかるべし。禪宗の學者の中に古人の語に隨つて解を生じて一切の義理をも用ひず、地位の階差をも立てず、佛法世法の蹤跡を胸の中にとゞめざるを宗旨と思へる者あり。古人これを笑ふて剷子禪となづけたり。こすきといふ物は一切の物をすきすつるを功能とする故に、一切の所解をはらひ捨つるを宗旨と思へるに譬へたり。

新字:問古人の云く、別に工夫なし、放下すれば便是なり。又云一切の善悪すべて思量することなかれ。又云く得夫是非一時に放却せよ。かようにしめさるゝごとくならば、一切の所解を掃ひ、捨るを禅宗の工夫と申すべし。若し爾らば花厳宗にあかせる頓教の法門に一切の名相をきらふて、自性清浄の処を貴ぶに事ならず。三論宗に独空畢竟空を談ずるにも似たり。密宗に談ずる遮情の法門にも何ぞことならんや。 答其の言句は似たりといへども、其の旨趣同じからず。先づ一切の所解を掃ひ捨つるを禅宗の修行と心得たることは、大なるあやまりなり。古人の云く有心を以ても求むべからず。無心を以ても得べからず。語言を以ても到るべからず。寂黙を以ても通ずべからず。或は云く、有心無心語言寂黙皆是れ仏法なりと云云。古人かやうにしめすこと天地はるかにことなり、いづれをか本とすべきや。皆な是れ宗師の手段なり、語のごとく心得べきことにあらず。然らば即ち一切を放下せよとしめすも、教門の掃蕩遮情の義にはあらず。真妄の差別を談ずれども法相の建立の法門にはかはれり。当相即道即事而真としめせ共、表徳実相の所談にはことなり、其の旨趣は悟て後始めてしるべし、義理を以て会すべからず。若し言語の似たるを以て同じといはゞ、何ぞたゞ教家の法門のみに限らんや。儒教道教乃至世間の狂言戯語にも亦同じかるべし。禅宗の学者の中に古人の語に随つて解を生じて一切の義理をも用ひず、地位の階差をも立てず、仏法世法の蹤跡を胸の中にとゞめざるを宗旨と思へる者あり。古人これを笑ふて剷子禅となづけたり。こすきといふ物は一切の物をすきすつるを功能とする故に、一切の所解をはらひ捨つるを宗旨と思へるに譬へたり。

書き下し

問古人の云く、別に工夫なし、放下すれば便是なり。又云一切の善惡すべて思量することなかれ。又云く得夫是非一時に放却せよ。かようにしめさるゝごとくならば、一切の所解を掃ひ、捨るを禪宗の工夫と申すべし。若し爾らば花嚴宗にあかせる頓敎の法門に一切の名相をきらふて、自性清淨の處を貴ぶに事ならず。三論宗に獨空畢竟空を談ずるにも似たり。密宗に談ずる遮情の法門にも何ぞことならんや。 答其の言句は似たりといへども、其の旨趣同じからず。先づ一切の所解を掃ひ捨つるを禪宗の修行と心得たることは、大なるあやまりなり。古人の云く有心を以ても求むべからず。無心を以ても得べからず。語言を以ても到るべからず。寂默を以ても通ずべからず。或は云く、有心無心語言寂默皆是れ佛法なりと云云。古人かやうにしめすこと天地はるかにことなり、いづれをか本とすべきや。皆な是れ宗師の手段なり、語のごとく心得べきことにあらず。然らば卽ち一切を放下せよとしめすも、敎門の掃蕩遮情の義にはあらず。眞妄の差別を談ずれども法相の建立の法門にはかはれり。當相卽道卽事而眞としめせ共、表德實相の所談にはことなり、其の旨趣は悟て後始めてしるべし、義理を以て會すべからず。若し言語の似たるを以て同じといはゞ、何ぞたゞ敎家の法門のみに限らんや。儒敎道敎乃至世間の狂言戲語にも亦同じかるべし。禪宗の學者の中に古人の語に隨つて解を生じて一切の義理をも用ひず、地位の階差をも立てず、佛法世法の蹤跡を胸の中にとゞめざるを宗旨と思へる者あり。古人これを笑ふて剷子禪となづけたり。こすきといふ物は一切の物をすきすつるを功能とする故に、一切の所解をはらひ捨つるを宗旨と思へるに譬へたり。

現代語訳

問:古人は「別に工夫はない。放下すればそれでよい」と言い、また「あらゆる善悪をすべて思い量ってはならない」と言い、また「得失も是非も一時に捨て去れ」と言う。このとおりなら、あらゆる理解を払い捨てることを禅宗の工夫と言うことになる。そうなると、華厳宗が説く頓教の法門が、あらゆる名や相を嫌って自性清浄の境を尊ぶのと違わない。三論宗が説く独空・畢竟空にも似ている。密教が説く遮情の法門とも、どこが違うのか。 答:言葉は似ていても、その趣旨は同じではない。まず、あらゆる理解を払い捨てることを禅宗の修行と心得るのは、大きな誤りである。古人は「有心でも求められない。無心でも得られない。言葉でも到れない。沈黙でも通じない」と言い、また「有心も無心も、言葉も沈黙も、すべて仏法である」とも言った。古人のこうした示し方は天地ほど違うが、どれを根本とすべきか。これはみな師の手段であって、言葉どおりに受け取るべきではない。だから、あらゆるものを放下せよと示すのも、教門の払い除いて情を遮る教えの意味ではない。真と妄の別を語っても、法相宗のように法の体系を立てる教えとは違う。「そのままが道であり、事がそのまま真である」と示しても、徳を表し実相を説く教えとは異なる。その趣旨は悟ってから初めてわかるもので、理屈で会得できるものではない。もし言葉が似ていることをもって同じだとするなら、教門の法門に限らず、儒教や道教から世間の冗談や戯れ言まで、同じになってしまうだろう。禅宗の学人のなかに、古人の語にしたがって理解を作り、あらゆる義理を用いず、修行の段階も立てず、仏法も世法も跡を胸にとどめないことを宗旨と思っている者がいる。古人はこれを笑って「剷子禅(こすき禅)」と呼んだ。こすきという道具はあらゆる物をすき捨てるのが働きなので、あらゆる理解を払い捨てるのを宗旨と思い込んでいることにたとえたのである。

解説

何もかも捨てれば悟れるのか、という素朴な疑いへの答えです。夢窓疎石は、放下や無思量といった禅語を言葉どおりに受け取って、理解や分別を全部払い捨てることを修行とするのは大きな誤りだと退けます。言葉が似ているだけで他宗と同じにするなら、儒教や冗談まで同じになるという反論は鋭いものです。理屈ぬきを売り物にして学びを放棄する姿を、剷子禅と古人が笑った例も引いています。現代でも、考えない、型を捨てる、が成果と混同される場面があります。捨てることと学ぶことの区別が試されます。
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この章句が説くこと

放下剷子禅遮情教外別伝言句と旨趣

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