夢中問答集 / 『夢中問答集』大乗に戒は要らないのか
問大乘の行人はかならずしも、戒相をば護るべからずと申す人あり、其の義あたれりや。 答諸佛の說法無邊なれども、戒定慧の三學をいでず、其の三學と者衆生の一心に具はれり、故に若し一心の本源に到りぬれば、三學の妙德皆悉く滿足すたとへば、如意寳珠を求め得ぬれば、一切の財寳其の中よりふらすがごとし。然らば卽ち一心の本源を究むるを、大乘修行となづくかならずしも、戒相とてとりわきて守るべからずと申すは此の意なり。涅槃經に云く、大乘を行じて心におこたることなきを持戒となづくと云云。しかるを大乘の行人は、破戒なるもくるしからずと申すは惡見なり、佛在世の時は申すに及ばず、佛滅後如來の法を紹隆し玉へる敎禪の宗旨、皆な同じく戒相を具足し玉へり、佛在世の時は禪敎律の僧とて、形服のかはれることばなかりき、其の形は皆な律義をとゝのへ其の心は同じく定慧を修す、末代になりて兼學の人はありがたき故に、其の家三種にわかれたる事は、其の謂れなきにあらず。各一學を本としてたがひに、そしりあへるは謬りなり。像法決疑經の中に、末世の時禪僧律僧敎僧其の品類差別してたがひにそしりあふて、我が佛法を破滅すべし、獅子身中の虫の獅子の肉を食するがごとしと云云。禪敎律の僧たとひ凡情、いまだつきざる故に我執起ることありとも、佛弟子と號しながら何ぞ、佛の遺勅をそむき玉はんや晨旦の佛法は、後漢の明帝の時始めてわたれり。其の後も僧形は皆な佛在世のごとし、唐の代になりて、百丈の大智禪師の時より始めて禪僧は、律家に居せず、別に禪院をたてゝ威儀法則も律院に同じからず、百丈其の旨趣をのべて云く、末代は鈍根にして戒定慧兼學の人はありがたし、禪を行ずる人、若し律家に居せば、戒相の持犯開遮五第七聚等の種々の律法を、習學するとて一大事の因緣をば忘じぬべし、是の故に別に禪院を建立せりと云云。百丈の意も禪僧は戒を用ゆることなかれとにはあらず、然れば淸規の中に禪僧の威儀を、おさむべきやうを說かれたる事微細也。
新字:問大乗の行人はかならずしも、戒相をば護るべからずと申す人あり、其の義あたれりや。 答諸仏の説法無辺なれども、戒定慧の三学をいでず、其の三学と者衆生の一心に具はれり、故に若し一心の本源に到りぬれば、三学の妙徳皆悉く満足すたとへば、如意宝珠を求め得ぬれば、一切の財宝其の中よりふらすがごとし。然らば即ち一心の本源を究むるを、大乗修行となづくかならずしも、戒相とてとりわきて守るべからずと申すは此の意なり。涅槃経に云く、大乗を行じて心におこたることなきを持戒となづくと云云。しかるを大乗の行人は、破戒なるもくるしからずと申すは悪見なり、仏在世の時は申すに及ばず、仏滅後如来の法を紹隆し玉へる教禅の宗旨、皆な同じく戒相を具足し玉へり、仏在世の時は禅教律の僧とて、形服のかはれることばなかりき、其の形は皆な律義をとゝのへ其の心は同じく定慧を修す、末代になりて兼学の人はありがたき故に、其の家三種にわかれたる事は、其の謂れなきにあらず。各一学を本としてたがひに、そしりあへるは謬りなり。像法決疑経の中に、末世の時禅僧律僧教僧其の品類差別してたがひにそしりあふて、我が仏法を破滅すべし、獅子身中の虫の獅子の肉を食するがごとしと云云。禅教律の僧たとひ凡情、いまだつきざる故に我執起ることありとも、仏弟子と号しながら何ぞ、仏の遺勅をそむき玉はんや晨旦の仏法は、後漢の明帝の時始めてわたれり。其の後も僧形は皆な仏在世のごとし、唐の代になりて、百丈の大智禅師の時より始めて禅僧は、律家に居せず、別に禅院をたてゝ威儀法則も律院に同じからず、百丈其の旨趣をのべて云く、末代は鈍根にして戒定慧兼学の人はありがたし、禅を行ずる人、若し律家に居せば、戒相の持犯開遮五第七聚等の種々の律法を、習学するとて一大事の因縁をば忘じぬべし、是の故に別に禅院を建立せりと云云。百丈の意も禅僧は戒を用ゆることなかれとにはあらず、然れば清規の中に禅僧の威儀を、おさむべきやうを説かれたる事微細也。
書き下し
問大乘の行人はかならずしも、戒相をば護るべからずと申す人あり、其の義あたれりや。 答諸佛の說法無邊なれども、戒定慧の三學をいでず、其の三學と者衆生の一心に具はれり、故に若し一心の本源に到りぬれば、三學の妙德皆悉く滿足すたとへば、如意寳珠を求め得ぬれば、一切の財寳其の中よりふらすがごとし。然らば卽ち一心の本源を究むるを、大乘修行となづくかならずしも、戒相とてとりわきて守るべからずと申すは此の意なり。涅槃經に云く、大乘を行じて心におこたることなきを持戒となづくと云云。しかるを大乘の行人は、破戒なるもくるしからずと申すは惡見なり、佛在世の時は申すに及ばず、佛滅後如來の法を紹隆し玉へる敎禪の宗旨、皆な同じく戒相を具足し玉へり、佛在世の時は禪敎律の僧とて、形服のかはれることばなかりき、其の形は皆な律義をとゝのへ其の心は同じく定慧を修す、末代になりて兼學の人はありがたき故に、其の家三種にわかれたる事は、其の謂れなきにあらず。各一學を本としてたがひに、そしりあへるは謬りなり。像法決疑經の中に、末世の時禪僧律僧敎僧其の品類差別してたがひにそしりあふて、我が佛法を破滅すべし、獅子身中の虫の獅子の肉を食するがごとしと云云。禪敎律の僧たとひ凡情、いまだつきざる故に我執起ることありとも、佛弟子と號しながら何ぞ、佛の遺勅をそむき玉はんや晨旦の佛法は、後漢の明帝の時始めてわたれり。其の後も僧形は皆な佛在世のごとし、唐の代になりて、百丈の大智禪師の時より始めて禪僧は、律家に居せず、別に禪院をたてゝ威儀法則も律院に同じからず、百丈其の旨趣をのべて云く、末代は鈍根にして戒定慧兼學の人はありがたし、禪を行ずる人、若し律家に居せば、戒相の持犯開遮五第七聚等の種々の律法を、習學するとて一大事の因緣をば忘じぬべし、是の故に別に禪院を建立せりと云云。百丈の意も禪僧は戒を用ゆることなかれとにはあらず、然れば淸規の中に禪僧の威儀を、おさむべきやうを說かれたる事微細也。
現代語訳
問:大乗の修行者は、必ずしも戒の相を守らなくてもよい、と言う人がいる。その言い分は当たっているか。 答:諸仏の説法は限りないが、戒・定・慧の三学を出ない。その三学は衆生の一心にそなわっている。だからもし一心の本源に至れば、三学の妙なる徳は皆ことごとく満ち足りる。たとえば如意宝珠を求め得れば、一切の財宝がその中から降るようなものである。そうであれば、一心の本源を究めることを大乗の修行と名づけ、必ずしも戒の相をとりたてて守らなくてもよい、と言うのはこの意味である。涅槃経にいう。大乗を行じて心に怠ることがないのを、持戒と名づける、と。それなのに、大乗の修行者は破戒でも差し支えないと言うのは悪い見解である。仏の在世の時は言うまでもなく、仏の滅後、如来の法を受け継ぎ盛んにされた教宗・禅宗の宗旨の人々も、みな同じく戒の相を具えておられた。仏の在世の時は、禅・教・律の僧といって、姿かたちや衣服が違うことはなかった。その姿はみな律の作法を整え、その心は同じく定と慧を修めた。末代になって、兼ねて学ぶ人は得がたくなったので、その家が三種に分かれたのには理由がないわけではない。それぞれ一つの学を本として互いに謗り合うのは誤りである。像法決疑経の中に、末世の時、禅僧・律僧・教僧がその種類を分けて互いに謗り合い、わが仏法を破滅させるであろう、獅子の身中の虫が獅子の肉を食うようなものだ、とある。禅・教・律の僧は、たとえ凡夫の情がまだ尽きていないために我執が起こることがあっても、仏弟子と名乗りながら、どうして仏の遺言に背かれようか。 中国の仏法は、後漢の明帝の時に初めて伝わった。その後も僧の姿はみな仏の在世のとおりであった。唐の代になって、百丈大智禅師の時から、禅僧は律家に居らず、別に禅院を建て、威儀や法則も律院と同じでなくなった。百丈はその趣旨を述べていう。末代は鈍根で、戒・定・慧を兼ねて学ぶ人は得がたい。禅を行じる人がもし律家に居ると、戒相の持犯・開遮、五篇七聚などの種々の律法を習い学ぶうちに、一大事の因縁を忘れてしまうだろう。そのため別に禅院を建立した、と。百丈の意も、禅僧は戒を用いるなという意味ではない。だから清規の中には、禅僧の威儀を整える方法を説いたものが細かく書かれている。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』禅と教えは同じか(上)問敎の中にも佛の相もなく、衆生の相もなしと談ぜり、禪宗に生佛いまだわかれざる處といふに同じからずや。 答敎の中に凡聖の相なしと申すは、凡聖わかれたる處について、其の體性の無相なることを談ぜり。禪宗に生佛已前と申すは此の義にあらず、其の語の似たるを以て禪敎同とは申すべからず、たとへば人の面のやうをそらに語る時額の中に眉あり眉の下に眼あり眼の下に鼻あり鼻の下に口ありと申せば、貴賤男女みな同じ面なるやうに聞ゆれ共、若し實に其の面をみる時は、各ことなるがごとし、敎門には言句義理を以て法門とする故に、義理の分劑について大小權實を判せり、敎外別傳不立文字といへる題目を見ながら宗師の言句について敎禪の同意を論せばあたるべからず、今時の禪者の中に宗師の人に示さる言句の中に敎家の法門にかはりたる事のあるを見て、これを禪の勝れたる證據とす。若し敎の法門にかはりたる故に禪は勝れたりといはゞ禪にかはりたる故に敎をも勝れたりといふべし。然らば卽ち敎外別傳の宗旨何ぞ言句義理の同異にあづからんや、或は云く敎は皆な言句義理の上に談せり、言句義理にあづからざる處禪門の宗旨なりと云云。若ししからば敎の中に言句義理を立ざる法門あり、これを禪宗といはんや、或は敎者の中に敎外別傳不立文字といへども禪師の人にしめす言句多し不立文字といはんやと難する人あり、禪師の言句多しといへ共此の言句の義理を人に習學せしめんためにはあらず、ただ佛法の正理は言句の上にあらざる事をしめさんためなり、言句の上にあらずと申せばとて言語道斷の處を宗旨とするにもあらず、寂默沈空の所を指示するにもあらず、古人の云く達磨西來の別に一法の人のために傳授するなしたゞ人々具足し、箇々圓成する底を指出するのみなりと云云、旣に人々具足といへり、何ぞひとり禪者のみ具足して敎者にはかけたりといはんや、たゞ敎者禪者のみ圓成するにあらず。田夫野人の農業をはげむ所にもあり、鍛冶番匠の工巧をいとなむ所にもあり、要を取ていはゞ、一切衆生の所作所爲見聞覺知行住坐臥遊戯談論の所皆な悉く西來の玄旨にあらずといふ事なし、何にいはん佛の敎へに隨つて種々の善行を修する人をや。しかれども、此の玄旨あることを知らざる故に、世間の幻相はばかされて妄りに輪廻を受くる者多し。佛此の妄想をやめんために種々の法門を說き玉へば、又此の法門を執著して玄旨をくらませる人あり。是の故に祖師西來して、本分の一段を指出す、この心を以て心に傳ふる、敎外の玄旨となづく。敎外の玄旨とて諸敎にかはりたる一段の法門を相承するにはあらず、若し言句にて相承すべき法門ならばたゞ是れめづらしき敎法なるべし、敎外別傳とはいふべからず、六祖よりこのかた五家わかれて各の宗風を立つといへ共、亦同じく人々具足することを悟らしめんためなり。
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