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夢中問答集 / 『夢中問答集』明眼と無眼、利根と鈍根

問凡聖一絲毫をもへだてずといへるに、知識に明眼と無眼とを論じ、學者に利根と鈍根とを、わかつことは何ぞや。 答人に利鈍をわかつことも常さまの論には同からず、たとひ一切の法門を解了すとも、佛祖にかはらざる事を信ぜざるを鈍根とは申すなり。實に愚人とて佛祖にかはりたるものあるにはあらず、知識に有眼無眼をわかつことは、迷悟の差別なきことをわすれて我は悟れり、學者は迷へりと思ふて、我執法執の上に居して、法門を談ずるを無眼の知識とは申すなり。本より愚癡にして明眼の宗師よりも、劣なる人のあるにはあらず、かやうの法門は情識を解すべき事ならず、此の境界に到れる人始めてしるべし。

新字:問凡聖一糸毫をもへだてずといへるに、知識に明眼と無眼とを論じ、学者に利根と鈍根とを、わかつことは何ぞや。 答人に利鈍をわかつことも常さまの論には同からず、たとひ一切の法門を解了すとも、仏祖にかはらざる事を信ぜざるを鈍根とは申すなり。実に愚人とて仏祖にかはりたるものあるにはあらず、知識に有眼無眼をわかつことは、迷悟の差別なきことをわすれて我は悟れり、学者は迷へりと思ふて、我執法執の上に居して、法門を談ずるを無眼の知識とは申すなり。本より愚痴にして明眼の宗師よりも、劣なる人のあるにはあらず、かやうの法門は情識を解すべき事ならず、此の境界に到れる人始めてしるべし。

書き下し

問凡聖一絲毫をもへだてずといへるに、知識に明眼と無眼とを論じ、學者に利根と鈍根とを、わかつことは何ぞや。 答人に利鈍をわかつことも常さまの論には同からず、たとひ一切の法門を解了すとも、佛祖にかはらざる事を信ぜざるを鈍根とは申すなり。實に愚人とて佛祖にかはりたるものあるにはあらず、知識に有眼無眼をわかつことは、迷悟の差別なきことをわすれて我は悟れり、學者は迷へりと思ふて、我執法執の上に居して、法門を談ずるを無眼の知識とは申すなり。本より愚癡にして明眼の宗師よりも、劣なる人のあるにはあらず、かやうの法門は情識を解すべき事ならず、此の境界に到れる人始めてしるべし。

現代語訳

問:凡夫と聖者には一毫の隔てもないと言いながら、師匠に明眼と無眼を論じ、学ぶ者に利根と鈍根を分けるのはなぜか。 答:人に利鈍を分けるのも、普通の論とは同じでない。たとえ一切の法門を理解し尽くしても、仏祖と変わらないことを信じない者を、鈍根と言うのである。実際には、愚かな人といって仏祖と違うものがあるわけではない。師匠に眼のある者とない者を分けるのは、迷いと悟りに差別がないことを忘れて、自分は悟った、学ぶ者は迷っていると思い、我執・法執の上に身を置いて法門を談じる者を、無眼の師匠と言うのである。もともと愚かで、眼の明らかな宗師より劣っている人がいるわけではない。このような法門は、分別の心で理解できることではなく、この境界に至った人が初めて知ることである。

解説

凡聖に隔てがないと言いながら、なぜ明眼と無眼、利根と鈍根を分けるのか。夢窓の答えは、分け方の基準が通常の能力ではないという点にあります。知識を網羅していても、仏祖と変わらないと信じられなければ鈍根です。反対に、自分は悟り相手は迷っていると考えて教える人が無眼の師匠なのです。能力の上下ではなく、相手との間に壁を作るか作らないかで見る。この基準は、管理職が部下を見るときにも当てはまります。自分は分かっている側だという前提が、すでに眼を曇らせているのかもしれません。
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この章句が説くこと

明眼無眼利根鈍根我執法執迷悟

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