夢中問答集 / 『夢中問答集』如幻の観は大乗の入口
問大乘經の中に多くは、如夢如幻の法門を說けり。禪師の語の中にも亦此の法門あり。しかれは大乘の行人は、如幻の觀をなすを本とすべしや。 答諸法は夢幻の如しといへる法門、其語は同じけれ共、諸宗に談ずる其の旨趣各ことなりしかりといへ共、其の大概はこれかはらず、世人の諺に世の中は夢幻のごとしなんど申すは、無常の謂れなり。大乘に夢幻のたとへを取るはしからず。夢の中にみゆるところの種々の物像、すべて實體なし。實體なしといへども、諸の形相宛然たり。幻術師の巾をわがねて、或は人の形となし。或は馬の形となせども、實には人馬の相にあらず。幻のごとしといへるは是れなり。天竺に此の術をなす者多し。この故に譬とせり。かやうの謂れを以て萬法の實體なくして、しかも諸相歷然たるに譬へたり。水中の月鏡中の像なんどいへる譬も又此の意なり。又敎の中に不思議幻なんと談する法門あり。 緣生如幻の義にはことなり。佛法修行の人やゝもすれば外道二乘の見解に墮つ。外道の見は多しといへども、斷常の二見を本とす。斷とは無なり。常とは有なり。是れに四句あり。色心の諸法において或は一向に有なりと計するは常見なり。或は一向に無なりと計するは斷見なり。或は有なる方もあり。無なる方もありと計するは亦有亦無の見なり。或は一向に有にもあらず。無にもあらずと計するをば非有非無の見と名く。今時大乘修行の人語には、談ずる法門は大乘に似たれども、其の所見をさくる時は、外道の四句の見を出さる人あり。佛の說法も四句をいでずといへども、眞實の佛智の四句の内にあるにはあらず。有の見を破せんためには諸法の空無なる事を說き、無の見をやぶらんためには諸法の常住なるよしを演給へり。佛意をしらざる人は、方便をとめて眞實と思へり。二乘の見とは聲聞緣覺其の所學の法門は、すこしきことなりといへども、身心を滅盡して無爲涅槃に歸して、三界の輪廻をまぬがるべしと思へり。はなはだ大乘の法理にそむけり。若し人如幻の法門を解了しぬれば、自然に外道二乘の見には墮せず。然らば卽ち如幻の法門を解了する人は、諸法有なりといへ共、其の所見實有にあらず。諸法は空なりと說けども其の智慧實空に墮せず。故に中道實相の眞理を證得するに便りあり。是を以て如幻の法門をば大乘の初門となづけたり。是れを眞實究竟の法門とするにはあらず。しかれども、凡夫外道の實有實空の見をやぶり、二乘沈空の解をなさしめざらんために、敎の中にかりに如幻の觀をすゝめたり。大日經の住心品にも緣生の諸法はみな如法なる理をのみ明せり。圓覺楞嚴の中には如幻の智をも遠離すべしと說かれたり。然れ共三種の觀行を明す時、三摩波提といへるは是れ如幻の觀なり。是れ卽ちしばらく幻智を起して幻妄を消して、本分清淨の寶殿にのぼらしめん爲なり。かやの方便をば敎門にうつる故に、禪宗の學者は如幻の觀をも用ふべからず。禪門の宗師の夢幻の法門を說くことは、此の理を心において觀念せよとにはあらず。佛法世法皆夢幻のごとしとしりなば、一切放下して直に本分に向はん事をすゝむるなり。三祖大師の云く、夢幻空花豈把捉することを勞せんや得失是非一時に放却せよと云云。
新字:問大乗経の中に多くは、如夢如幻の法門を説けり。禅師の語の中にも亦此の法門あり。しかれは大乗の行人は、如幻の観をなすを本とすべしや。 答諸法は夢幻の如しといへる法門、其語は同じけれ共、諸宗に談ずる其の旨趣各ことなりしかりといへ共、其の大概はこれかはらず、世人の諺に世の中は夢幻のごとしなんど申すは、無常の謂れなり。大乗に夢幻のたとへを取るはしからず。夢の中にみゆるところの種々の物像、すべて実体なし。実体なしといへども、諸の形相宛然たり。幻術師の巾をわがねて、或は人の形となし。或は馬の形となせども、実には人馬の相にあらず。幻のごとしといへるは是れなり。天竺に此の術をなす者多し。この故に譬とせり。かやうの謂れを以て万法の実体なくして、しかも諸相歴然たるに譬へたり。水中の月鏡中の像なんどいへる譬も又此の意なり。又教の中に不思議幻なんと談する法門あり。 縁生如幻の義にはことなり。仏法修行の人やゝもすれば外道二乗の見解に堕つ。外道の見は多しといへども、断常の二見を本とす。断とは無なり。常とは有なり。是れに四句あり。色心の諸法において或は一向に有なりと計するは常見なり。或は一向に無なりと計するは断見なり。或は有なる方もあり。無なる方もありと計するは亦有亦無の見なり。或は一向に有にもあらず。無にもあらずと計するをば非有非無の見と名く。今時大乗修行の人語には、談ずる法門は大乗に似たれども、其の所見をさくる時は、外道の四句の見を出さる人あり。仏の説法も四句をいでずといへども、真実の仏智の四句の内にあるにはあらず。有の見を破せんためには諸法の空無なる事を説き、無の見をやぶらんためには諸法の常住なるよしを演給へり。仏意をしらざる人は、方便をとめて真実と思へり。二乗の見とは声聞縁覚其の所学の法門は、すこしきことなりといへども、身心を滅尽して無為涅槃に帰して、三界の輪廻をまぬがるべしと思へり。はなはだ大乗の法理にそむけり。若し人如幻の法門を解了しぬれば、自然に外道二乗の見には堕せず。然らば即ち如幻の法門を解了する人は、諸法有なりといへ共、其の所見実有にあらず。諸法は空なりと説けども其の智慧実空に堕せず。故に中道実相の真理を証得するに便りあり。是を以て如幻の法門をば大乗の初門となづけたり。是れを真実究竟の法門とするにはあらず。しかれども、凡夫外道の実有実空の見をやぶり、二乗沈空の解をなさしめざらんために、教の中にかりに如幻の観をすゝめたり。大日経の住心品にも縁生の諸法はみな如法なる理をのみ明せり。円覚楞厳の中には如幻の智をも遠離すべしと説かれたり。然れ共三種の観行を明す時、三摩波提といへるは是れ如幻の観なり。是れ即ちしばらく幻智を起して幻妄を消して、本分清浄の宝殿にのぼらしめん為なり。かやの方便をば教門にうつる故に、禅宗の学者は如幻の観をも用ふべからず。禅門の宗師の夢幻の法門を説くことは、此の理を心において観念せよとにはあらず。仏法世法皆夢幻のごとしとしりなば、一切放下して直に本分に向はん事をすゝむるなり。三祖大師の云く、夢幻空花豈把捉することを労せんや得失是非一時に放却せよと云云。
書き下し
問大乘經の中に多くは、如夢如幻の法門を說けり。禪師の語の中にも亦此の法門あり。しかれは大乘の行人は、如幻の觀をなすを本とすべしや。 答諸法は夢幻の如しといへる法門、其語は同じけれ共、諸宗に談ずる其の旨趣各ことなりしかりといへ共、其の大概はこれかはらず、世人の諺に世の中は夢幻のごとしなんど申すは、無常の謂れなり。大乘に夢幻のたとへを取るはしからず。夢の中にみゆるところの種々の物像、すべて實體なし。實體なしといへども、諸の形相宛然たり。幻術師の巾をわがねて、或は人の形となし。或は馬の形となせども、實には人馬の相にあらず。幻のごとしといへるは是れなり。天竺に此の術をなす者多し。この故に譬とせり。かやうの謂れを以て萬法の實體なくして、しかも諸相歷然たるに譬へたり。水中の月鏡中の像なんどいへる譬も又此の意なり。又敎の中に不思議幻なんと談する法門あり。 緣生如幻の義にはことなり。佛法修行の人やゝもすれば外道二乘の見解に墮つ。外道の見は多しといへども、斷常の二見を本とす。斷とは無なり。常とは有なり。是れに四句あり。色心の諸法において或は一向に有なりと計するは常見なり。或は一向に無なりと計するは斷見なり。或は有なる方もあり。無なる方もありと計するは亦有亦無の見なり。或は一向に有にもあらず。無にもあらずと計するをば非有非無の見と名く。今時大乘修行の人語には、談ずる法門は大乘に似たれども、其の所見をさくる時は、外道の四句の見を出さる人あり。佛の說法も四句をいでずといへども、眞實の佛智の四句の内にあるにはあらず。有の見を破せんためには諸法の空無なる事を說き、無の見をやぶらんためには諸法の常住なるよしを演給へり。佛意をしらざる人は、方便をとめて眞實と思へり。二乘の見とは聲聞緣覺其の所學の法門は、すこしきことなりといへども、身心を滅盡して無爲涅槃に歸して、三界の輪廻をまぬがるべしと思へり。はなはだ大乘の法理にそむけり。若し人如幻の法門を解了しぬれば、自然に外道二乘の見には墮せず。然らば卽ち如幻の法門を解了する人は、諸法有なりといへ共、其の所見實有にあらず。諸法は空なりと說けども其の智慧實空に墮せず。故に中道實相の眞理を證得するに便りあり。是を以て如幻の法門をば大乘の初門となづけたり。是れを眞實究竟の法門とするにはあらず。しかれども、凡夫外道の實有實空の見をやぶり、二乘沈空の解をなさしめざらんために、敎の中にかりに如幻の觀をすゝめたり。大日經の住心品にも緣生の諸法はみな如法なる理をのみ明せり。圓覺楞嚴の中には如幻の智をも遠離すべしと說かれたり。然れ共三種の觀行を明す時、三摩波提といへるは是れ如幻の觀なり。是れ卽ちしばらく幻智を起して幻妄を消して、本分清淨の寶殿にのぼらしめん爲なり。かやの方便をば敎門にうつる故に、禪宗の學者は如幻の觀をも用ふべからず。禪門の宗師の夢幻の法門を說くことは、此の理を心において觀念せよとにはあらず。佛法世法皆夢幻のごとしとしりなば、一切放下して直に本分に向はん事をすゝむるなり。三祖大師の云く、夢幻空花豈把捉することを勞せんや得失是非一時に放却せよと云云。
現代語訳
問:大乗経の中には、多くが如夢如幻の教えを説いている。禅師の語の中にもこの教えがある。ならば大乗の行者は、幻のごとしと観ずることを根本にすべきか。 答:諸法は夢幻のごとし、という教えは、ことばは同じでも、諸宗で説くその趣旨はそれぞれ異なる。しかしその大要は変わらない。世間の人が、世の中は夢まぼろしのようだ、などと言うのは、無常のいわれである。大乗で夢幻のたとえを取るのは、そうではない。夢の中に見える種々の物の像には、すべて実体がない。実体がないのに、諸々の形相ははっきりしている。幻術師が布切れを丸めて、あるいは人の形にし、あるいは馬の形にしても、実際には人や馬の姿ではない。幻のごとし、というのはこれである。インドにはこの術を行う者が多い。だからたとえとした。このようないわれによって、万法には実体がないのに、諸相は歴然としていることをたとえたのである。水中の月、鏡中の像などというたとえも、同じ意味である。また教の中には、不思議幻などと談ずる教えもある。 縁生如幻の義とは異なる。仏法修行の人は、ともすれば外道や二乗の見解に落ちる。外道の見解は多いが、断見と常見の二つを根本とする。断とは無であり、常とは有である。これに四句がある。色や心の諸法について、ひたすら有であると考えるのは常見である。ひたすら無であると考えるのは断見である。有である面もあり、無である面もあると考えるのは亦有亦無の見である。ひたすら有でも無でもないと考えるのは、非有非無の見と呼ぶ。今の大乗修行の人の中には、語る教えは大乗に似ているけれども、その見解を探ってみると、外道の四句の見解を出ていない人がいる。仏の説法も四句を出てはいないけれども、真実の仏智が四句の内にあるわけではない。有の見を破るためには諸法が空無であることを説き、無の見を破るためには諸法が常住であることを説かれた。仏の意を知らない人は、方便をとどめて真実だと思っている。二乗の見解とは、声聞・縁覚のことで、その学ぶ教えは少し異なるが、身心を滅し尽くして無為の涅槃に帰し、三界の輪廻を免れようと思っている。大乗の法理にははなはだしくそむいている。もし人が如幻の教えを理解すれば、自然に外道や二乗の見解には落ちない。そうであれば、如幻の教えを理解した人は、諸法は有であると言っても、その見解は実有ではなく、諸法は空であると説いても、その智慧は実空に落ちない。だから中道実相の真理を証得するのに便りがある。このため如幻の教えを大乗の初門と名づけた。これを真実究極の教えとするのではない。しかし、凡夫や外道の実有・実空の見を破り、二乗が空に沈む理解をしないように、教の中に仮に如幻の観を勧めたのである。大日経の住心品にも、縁生の諸法はみなあるがままの法であるという理を明かしている。円覚経や楞厳経の中には、如幻の智さえも遠く離れよと説かれている。けれども三種の観行を明かすとき、三摩波提というのが如幻の観である。これは、しばらく幻の智を起こして幻の妄想を消し、本分清浄の宝殿に登らせるためである。こうした方便は教門に属するので、禅宗の学人は如幻の観を用いてはならない。禅門の宗師が夢幻の教えを説くのは、この理を心に置いて観念せよというのではない。仏法も世法もみな夢幻のようだと知ったなら、一切を投げ捨てて直ちに本分に向かえ、と勧めるのである。三祖大師は言う。夢幻や空中の花を、どうして掴もうと骨を折るのか。得失も是非も、一時に投げ捨てよ、と。
解説

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