夢中問答集 / 『夢中問答集』禅の祈りと密教の加持(上)
問眞言宗には衆生の苦厄をやむる加持門あり。禪宗はかやうの利益かけたりと難ずる人あり。其の謂れありや。 答密宗は十界の凡聖本位をあらためず、全く是れ大日如來なりと談ず。しかれば、賢愚貴賤の勝劣もなし、禍福苦樂の差別もあるべからず。何をか祈り何をか求むべきや。しかれ共、いまだ此の深理に達せざる人を誘引せんために有相の悉地を明せり。かやうの方便をば敎門にゆづる故に、禪門には直に本分をしめすのみなり。若し、本分に到りぬれば、本より生死の相なきことをしる乃し是れ眞實の延命の法なり、災殃の相をみず、乃是眞實の息災なり。貧福の相をはなれたり。乃し是れ眞實の增益なり。怨敵とて厭ふべき者もなし、乃是眞實の調伏なり。憎愛のへだてもなし、乃是眞實の敬愛なり。若し此の理を信ずる人は禪宗には苦厄をやむる利益かけたりと難すべからず。眞言の加持門と申も、よのつね行ずる息災增益等の加持門は愚人を引導する方便なり。衆生の全體六大四曼具足して、大日覺皇と無二無別なりといへども、愚人これをしらざる故に、如來方便をたれて三密の加持にてあらはさしむるを、眞實のかぢとは申なり。近代も眞言を信じ給へる御事は、たへせねども祕藏の奧旨をきはめて、眞實の加持門に趣ひて、卽身成佛の理を證せんとおぼしめすことはまれになりて、ひたすら世間の御祈りのためばかりになれる故に、密宗を紹隆し給ふ高僧も、自宗の本意とは思ひ給はね共、大法祕法を行ふて、これを奉公にあてらるゝよしになれり。其の中に密宗の奧旨をもしり給はぬ事相眞言師は、これを本意と思ふて、自身の名利のために檀方の御祈りを申して、奉公につのり給ふこともありけなり、かゝる故に密宗漸くすたれて、陰陽師の法なんどにかはらぬありさまなり。されば、今も心ある眞言師はこれをのみ歎き給へり。されども密宗にはかゝる方便をかまへ置かれたれば今のありさまにても、一分の利益はある方もあり、禪宗を信じ給へる人のさせる天下の大事にもあらぬ事に禪院へ御祈りせよと仰せらるゝ事は、禪法破滅の因緣なり。若し爾らば罪業をばうけ給ふ共、御禱りとはなるべからず。然らば卽ち禪僧には坐禪工夫を專らにして、祖宗を紹隆せよと仰せられて、我が御身も又行道の用心をも僧に御たづねありて、眞實に祖師の宗旨を悟らんと御志をだにはげまされば、三寶も定めて哀憐し、諸神も亦た納受し給ふべし。若し爾らばたとひ悟道得法まではなく共、世間の御祈りになる程の益はかならずあるべきをや。鎌倉の最明寺の禪門建長寺を建立して、禪門を崇めらる其の比は、禪僧とて衆にまじはる者をば同じく坐禪を專らにして、經論論錄を學するをだに、尙を無道心の僧なりと開山大覺禪師いましめ給ひけり。
新字:問真言宗には衆生の苦厄をやむる加持門あり。禅宗はかやうの利益かけたりと難ずる人あり。其の謂れありや。 答密宗は十界の凡聖本位をあらためず、全く是れ大日如来なりと談ず。しかれば、賢愚貴賤の勝劣もなし、禍福苦楽の差別もあるべからず。何をか祈り何をか求むべきや。しかれ共、いまだ此の深理に達せざる人を誘引せんために有相の悉地を明せり。かやうの方便をば教門にゆづる故に、禅門には直に本分をしめすのみなり。若し、本分に到りぬれば、本より生死の相なきことをしる乃し是れ真実の延命の法なり、災殃の相をみず、乃是真実の息災なり。貧福の相をはなれたり。乃し是れ真実の增益なり。怨敵とて厭ふべき者もなし、乃是真実の調伏なり。憎愛のへだてもなし、乃是真実の敬愛なり。若し此の理を信ずる人は禅宗には苦厄をやむる利益かけたりと難すべからず。真言の加持門と申も、よのつね行ずる息災增益等の加持門は愚人を引導する方便なり。衆生の全体六大四曼具足して、大日覚皇と無二無別なりといへども、愚人これをしらざる故に、如来方便をたれて三密の加持にてあらはさしむるを、真実のかぢとは申なり。近代も真言を信じ給へる御事は、たへせねども秘蔵の奥旨をきはめて、真実の加持門に趣ひて、即身成仏の理を証せんとおぼしめすことはまれになりて、ひたすら世間の御祈りのためばかりになれる故に、密宗を紹隆し給ふ高僧も、自宗の本意とは思ひ給はね共、大法秘法を行ふて、これを奉公にあてらるゝよしになれり。其の中に密宗の奥旨をもしり給はぬ事相真言師は、これを本意と思ふて、自身の名利のために檀方の御祈りを申して、奉公につのり給ふこともありけなり、かゝる故に密宗漸くすたれて、陰陽師の法なんどにかはらぬありさまなり。されば、今も心ある真言師はこれをのみ嘆き給へり。されども密宗にはかゝる方便をかまへ置かれたれば今のありさまにても、一分の利益はある方もあり、禅宗を信じ給へる人のさせる天下の大事にもあらぬ事に禅院へ御祈りせよと仰せらるゝ事は、禅法破滅の因縁なり。若し爾らば罪業をばうけ給ふ共、御祷りとはなるべからず。然らば即ち禅僧には坐禅工夫を専らにして、祖宗を紹隆せよと仰せられて、我が御身も又行道の用心をも僧に御たづねありて、真実に祖師の宗旨を悟らんと御志をだにはげまされば、三宝も定めて哀憐し、諸神も亦た納受し給ふべし。若し爾らばたとひ悟道得法まではなく共、世間の御祈りになる程の益はかならずあるべきをや。鎌倉の最明寺の禅門建長寺を建立して、禅門を崇めらる其の比は、禅僧とて衆にまじはる者をば同じく坐禅を専らにして、経論論録を学するをだに、尚を無道心の僧なりと開山大覚禅師いましめ給ひけり。
書き下し
問眞言宗には衆生の苦厄をやむる加持門あり。禪宗はかやうの利益かけたりと難ずる人あり。其の謂れありや。 答密宗は十界の凡聖本位をあらためず、全く是れ大日如來なりと談ず。しかれば、賢愚貴賤の勝劣もなし、禍福苦樂の差別もあるべからず。何をか祈り何をか求むべきや。しかれ共、いまだ此の深理に達せざる人を誘引せんために有相の悉地を明せり。かやうの方便をば敎門にゆづる故に、禪門には直に本分をしめすのみなり。若し、本分に到りぬれば、本より生死の相なきことをしる乃し是れ眞實の延命の法なり、災殃の相をみず、乃是眞實の息災なり。貧福の相をはなれたり。乃し是れ眞實の增益なり。怨敵とて厭ふべき者もなし、乃是眞實の調伏なり。憎愛のへだてもなし、乃是眞實の敬愛なり。若し此の理を信ずる人は禪宗には苦厄をやむる利益かけたりと難すべからず。眞言の加持門と申も、よのつね行ずる息災增益等の加持門は愚人を引導する方便なり。衆生の全體六大四曼具足して、大日覺皇と無二無別なりといへども、愚人これをしらざる故に、如來方便をたれて三密の加持にてあらはさしむるを、眞實のかぢとは申なり。近代も眞言を信じ給へる御事は、たへせねども祕藏の奧旨をきはめて、眞實の加持門に趣ひて、卽身成佛の理を證せんとおぼしめすことはまれになりて、ひたすら世間の御祈りのためばかりになれる故に、密宗を紹隆し給ふ高僧も、自宗の本意とは思ひ給はね共、大法祕法を行ふて、これを奉公にあてらるゝよしになれり。其の中に密宗の奧旨をもしり給はぬ事相眞言師は、これを本意と思ふて、自身の名利のために檀方の御祈りを申して、奉公につのり給ふこともありけなり、かゝる故に密宗漸くすたれて、陰陽師の法なんどにかはらぬありさまなり。されば、今も心ある眞言師はこれをのみ歎き給へり。されども密宗にはかゝる方便をかまへ置かれたれば今のありさまにても、一分の利益はある方もあり、禪宗を信じ給へる人のさせる天下の大事にもあらぬ事に禪院へ御祈りせよと仰せらるゝ事は、禪法破滅の因緣なり。若し爾らば罪業をばうけ給ふ共、御禱りとはなるべからず。然らば卽ち禪僧には坐禪工夫を專らにして、祖宗を紹隆せよと仰せられて、我が御身も又行道の用心をも僧に御たづねありて、眞實に祖師の宗旨を悟らんと御志をだにはげまされば、三寶も定めて哀憐し、諸神も亦た納受し給ふべし。若し爾らばたとひ悟道得法まではなく共、世間の御祈りになる程の益はかならずあるべきをや。鎌倉の最明寺の禪門建長寺を建立して、禪門を崇めらる其の比は、禪僧とて衆にまじはる者をば同じく坐禪を專らにして、經論論錄を學するをだに、尙を無道心の僧なりと開山大覺禪師いましめ給ひけり。
現代語訳
問:真言宗には衆生の苦厄をやめる加持門がある。禅宗にはこのような利益が欠けていると非難する人がいる。その言い分に理があるか。 答:密宗は、十界の凡夫と聖者が本来の位を改めず、そのまま大日如来であると語る。そうなれば、賢愚や貴賤の優劣もなく、禍福や苦楽の違いもあるはずがない。何を祈り何を求めるべきだろうか。けれども、まだこの深い理に達していない人を誘い導くために、有相の悉地を明らかにしている。このような方便は教門に譲っているので、禅門ではただちに本分を示すだけである。 もし本分に至れば、もとから生死の相がないことを知る。これがすなわち真実の延命の法である。災いの相を見ない。これがすなわち真実の息災である。貧富の相を離れている。これがすなわち真実の増益である。怨敵といって厭うべき者もいない。これがすなわち真実の調伏である。憎しみと愛しみの隔てもない。これがすなわち真実の敬愛である。もしこの理を信ずる人は、禅宗には苦厄をやめる利益が欠けていると非難してはならない。 真言の加持門といっても、通常行う息災や増益などの加持門は愚かな人を導く方便である。衆生の全体が六大と四曼を具え、大日覚王と二つでも別でもないが、愚かな人はこれを知らないので、如来が方便を垂れて三密の加持で現させることを、真実の加持と言うのである。 近ごろも真言を信じられる御事は絶えないが、秘蔵の奥義を極めて、真実の加持門に向かい、即身成仏の理を証しようとお思いになることは稀になり、ひたすら世間の御祈りのためばかりになっている。このため、密宗を盛んにされる高僧も、自宗の本意とは思われないのに、大法や秘法を行い、これを奉公に当てられるようになった。その中で、密宗の奥義を知らない事相の真言師は、これを本意と思って、自身の名利のために檀方の御祈りを申し上げ、奉公に励むこともあるようだ。こうして密宗はようやく廃れ、陰陽師の法などと変わらない有様である。だから今も心ある真言師はこのことばかりを嘆いておられる。 とはいえ、密宗にはこのような方便を設けて置かれたので、今のありさまでも、一部の利益がある場合もある。禅宗を信じられる人が、さほどの天下の大事でもないことで禅院へ御祈りせよと仰せられることは、禅法破滅の因縁である。もしそうなら、罪業は受けることがあっても、御祈りにはならない。そうであれば、禅僧には坐禅の工夫を専らにして祖宗を継ぎ興せと仰せられ、ご自身もまた修行の心得を僧に尋ねられて、真実に祖師の宗旨を悟ろうという御志を励まされるなら、三宝もきっと哀れみ、諸神もまた受け入れられるだろう。そうすれば、悟りを得て法を得るまでいかなくても、世間の御祈りになるほどの益は必ずあるはずである。 鎌倉の最明寺の禅門(北条時頼)が建長寺を建立し、禅門を崇められた当時は、禅僧として衆に交わる者は、皆、坐禅を専らにして、経論や語録を学ぶことさえ、なお無道心の僧であると、開山大覚禅師が戒められた。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』禅の祈りと密教の加持(下)况んや世間の名利をや。たゞ僧家のみにあらず、檀那及び其の家人達も、此の宗を信ずる人はひとへに、本分を悟らんことを要とす。其の後、兀庵佛源佛光諸大禪師相次で宋朝より渡り給ひき。皆同く僧俗を警策して本分を參究せしむる外には他事もなかりき。在家の信仰も亦かはらず、法光寺禪門の時弘安の比蒙古襲ひ來れりとて天下騷動しけれ共、檀那の禪門さはぎ給はず、日々に建長寺の長老佛光禪師及び諸の宿老達を召し請じて法談ありき。其のありさまのありがたかりし由を佛光の普說の中に載せられたり。其の後、圓覺寺を建立して祖宗の興行なをざりならずかゝりし故にや、蒙古も國をかたぶけず、父子二代世をたもたるゝこともつゝがなく終焉のありさまも殊勝におはしけると申し傳へたり。彼の二代の後も相續して佛法を崇敬せらるゝよしはありしかども、世間をば重く佛法をば輕しく信じ給ひし故に、さして天下の大事ならぬことまでも、御祈りをせよとひまなく禪院へも仰られし程に、寺々いつとなく祈禱の牌をかけて衆僧經をよみだらにをみつるを所作として、坐禪工夫は退轉す。面々に又小檀那ありて各〱の祈りをあつらへらる、僧家も亦我が身の名利を思ふ人は、これを大事と祈るとて一大事をばわすれたり。禪法破滅の因緣にあらずや。唐土の禪院には毎朝粥の後、大悲呪一遍なんど誦するばかり也。是れ卽ち坐禪を本とする故也。楞嚴會とて楞嚴呪をよむことも近代より始まれり。それもたゞ夏中ばかりなり。毎日の晩れごとに放參と名けて、楞嚴呪をよむことは、日本より始まれり。唐土に放參といへるは別のれいぎなり。建長寺の始めには日中のつとめばなかりけり。蒙古の襲ひ來りし時、天下の御祈りのために、日中に觀音經をよみたりけるそのまゝにしつけて、今まは三時のつとめとなりたり。かやうのつとめも禪家の本意にはあらねども、年來しつけたる事なれば、後代の長老達もとゞめ給ふことなし。又末世のありさま禪僧とてありながら、坐禪をば事の行よりものうく思へる人もありげなり。かゝる人のためには略せん事も無益なるべし。且は又世間を重くし給へる檀那の御意にもそむきぬべし。この故に禪院ごとに毎日三時のつとめおこたる事なし。その廻向の趣きはひとへに天下太平檀那安穩の御ためなり。毎月の朔望には祝聖の上堂あり、是又皇帝の御ためばかりにはあらず。四海清平萬氏和樂のためなり。禪僧は御祈りも申さぬ者とはそしるべからず。大悲呪楞嚴呪の功能を經中に說けること、何れの大法祕法にかおとらんや。觀音經金剛經の功力もいるがせなりと申さんや。かやうの經呪にて每日三時に祈り奉ることのかなはずば。此の外に經呪のかずを添へたりとも、坐禪工夫の障りとはなりて御祈りとはなるべからず。
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夢中問答集・『夢中問答集』有相と無相の本意問眞言師の中に有相の悉地こそ密敎の本意なれ、無相を貴ぶは顯敎の所談なりと申す人あり其義如何。 答眞實の法理に約せば、有相無相不可有異論迷悟の機情によせてしばらく兩岐を立たり。外道の法の中にも有相無相を論せり。小乘權敎にも亦これをあかせり。實に大乘の中にも又談せり。其語は同じといへ共、其義各ことなり、大日經に甚深無相法と說くるは、顯敎の所談にもあらず。いはんや外道の所解に同じからんや。大日經疏云空下不空と畢竟して無相なり、しかも一切の相を具するを大空三昧となづくと云々。空とは無相なり、不空とは有相なり有相無相共に無相といへるはいかなる處ぞや。此無相の上にしかも一切の相を具すといへるはこれ凡夫所見の有相ならんや。然らば卽密宗所談の無相法といへるは甚深微細の法門なり。凡情の及ぶ處ろにあらず故に、劣慧のかなはざる所と說けり。しかるを無相を貴ぶは眞言の本意にあらずといはんや。若人この無相の法を顯敎所談の無相のやうに心得たらばまことにきらふべし。若し、此の甚深無用の悉地の開きたる人の愚人を誘引せんために調伏等の法を行ふをば、有相の法とてきらふべからず。しかる故は其の行は有相なれ共、其の心無相なればなり。若し其の心世俗の有相に住著して名利を求むる故に、自身のため他人のために、大法祕法を行ふは有相の悉地を成ずることもかたかるべし。いはんや無相の悉地をや、たとへば利劔を以て稚子にあたへぬれば、身をやぶり、命をうしなふことあり。たとひあやまちなけれども、此の劔をもて泥土瓦石を切るほどに劔の刄つゐに損して寶とはならざるがごとし。密宗の先德も此理をのべ給へり。密宗に調伏の法と申すことは、惡心邪見の衆生の心を祕法の力を以て降伏して、佛法の正理に入れしむる事なり。或は佛法のために障礙をなす人のいかにする共、邪心をひるがへすことあるまじきをば先づ彼が命を奪つて、正法をして世に住せしめて後に方便をめぐらして、彼の惡人をも佛法に入しめんためなり。或は人の怨敵によりて心を惱亂して、佛法に入る事あたはぬを見て、彼の敵を調伏して佛法に入れしむることもあり。菩薩のかやうの逆行を修するは皆な是れ興法利生のためなり。世俗の名利のためにはあらず。涅槃經に云く、釋迦如來の因地に國王にていましゝ時、數多の惡僧ありて、一人の正法を行ずる僧をそねみて、さま〱にあだをなす。爾時に國王自ら彼の惡僧と合戰す。