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夢中問答集 / 『夢中問答集』随他意と随自意の区別

問如來の說法に二種あり、一には隨他意語佛の機に隨つてしめし玉へる方便の語なり、二には隨自意語佛の本意のごとく說き給へる語なり、禪門に小玉をよぶ手段といへるは、隨他意語にあたるにあらずや。 答如來の說敎については、是は隨他意是は隨自意と決定して談ずるは、敎門の施說なり、禪門の宗師の佛說を擧揚する時、或は是を隨他意說としめし、或は是を隨自意語といふ。皆是小玉をよぶ手段なり決定の說にあらず。然らば卽ち今日隨自意語といへる、佛說を明日は隨他意語といふこともあるべし。唯此兩語のみにあらず、淺略深祕乃至妄執言說如義言說等の法門も又かくのごとし。古人の云く禪門の宗旨は敎家の法門の一尺はつひに一尺、二尺はつひに二尺なるには同じからずと云云。釋迦如來我は敎者とも仰られず、禪者ともなのり給はず所說の法門においても是は敎の分なり、是は禪の分なりともわけられず、如來の內證は敎にもあらず、禪にもあらざる故なり、此內證不思議の應用機に隨つて敎禪の差異をなせり。經に云く、佛は一音を以て法を說き給へば衆生其の類に隨つて、各解することを得と云云。佛在世の時は其の解了ことなりといへ共禪僧敎僧とてわかれたる事はなかりき、佛滅後に始めて禪敎二門わかれて敎に顯密の諸宗あり、禪に五家の差別あり、其故は先づ各解の性欲に隨つて方便をたれて、如來の本分の宗旨をしらしめんために、如來の化儀を紹隆し玉ふ、大智高德の人、或は敎家の宗師となり、或は禪門の祖師となりて各一雙の手を出だして迷倒の偏執を破り、敎禪の兩岐を越えて本分の田地に到らしめんとす。然らば卽ち眞實の敎師の其の本意敎の內にあるにあらず、明眼の禪師其の本意禪の中にあるにあらず、しかれども面々所談のかはれることは皆是れ小玉をよぶ手段なるが故なり、末代に至りて禪けうの學者の中に偏執を先とする人は是非海の裏にしづみて佛祖の本意をくらませり、像法決疑經に云く文のごとく義をとるは三世諸佛のあだなりと云云、明眼の宗師は胸の中にかねてよりたくはへたる法門なし、只是れ機に當りて提持し口に信せて道著す、すべて定まれる窠窟なし若し人禪を問ふ時、或は孔孟老莊の言を以て答ふる事もあり、或は敎家所談の法門を以て答ふる時もあり、或は世俗の諺を以て答ふる事もあり、或は目前の境界をしめす時もあり、或は棒を行じ喝を下し指を擧げ拳をさゝぐ、皆是宗師の手段なり、これを禪門の活弄となづく、いまだ此の田地に到らざる者の情識を以て計度すべき事にあらず。

新字:問如来の説法に二種あり、一には随他意語仏の機に随つてしめし玉へる方便の語なり、二には随自意語仏の本意のごとく説き給へる語なり、禅門に小玉をよぶ手段といへるは、随他意語にあたるにあらずや。 答如来の説教については、是は随他意是は随自意と決定して談ずるは、教門の施説なり、禅門の宗師の仏説を挙揚する時、或は是を随他意説としめし、或は是を随自意語といふ。皆是小玉をよぶ手段なり決定の説にあらず。然らば即ち今日随自意語といへる、仏説を明日は随他意語といふこともあるべし。唯此両語のみにあらず、浅略深秘乃至妄執言説如義言説等の法門も又かくのごとし。古人の云く禅門の宗旨は教家の法門の一尺はつひに一尺、二尺はつひに二尺なるには同じからずと云云。釈迦如来我は教者とも仰られず、禅者ともなのり給はず所説の法門においても是は教の分なり、是は禅の分なりともわけられず、如来の内証は教にもあらず、禅にもあらざる故なり、此内証不思議の応用機に随つて教禅の差異をなせり。経に云く、仏は一音を以て法を説き給へば衆生其の類に随つて、各解することを得と云云。仏在世の時は其の解了ことなりといへ共禅僧教僧とてわかれたる事はなかりき、仏滅後に始めて禅教二門わかれて教に顕密の諸宗あり、禅に五家の差別あり、其故は先づ各解の性欲に随つて方便をたれて、如来の本分の宗旨をしらしめんために、如来の化儀を紹隆し玉ふ、大智高徳の人、或は教家の宗師となり、或は禅門の祖師となりて各一双の手を出だして迷倒の偏執を破り、教禅の両岐を越えて本分の田地に到らしめんとす。然らば即ち真実の教師の其の本意教の内にあるにあらず、明眼の禅師其の本意禅の中にあるにあらず、しかれども面々所談のかはれることは皆是れ小玉をよぶ手段なるが故なり、末代に至りて禅けうの学者の中に偏執を先とする人は是非海の裏にしづみて仏祖の本意をくらませり、像法決疑経に云く文のごとく義をとるは三世諸仏のあだなりと云云、明眼の宗師は胸の中にかねてよりたくはへたる法門なし、只是れ機に当りて提持し口に信せて道著す、すべて定まれる窠窟なし若し人禅を問ふ時、或は孔孟老荘の言を以て答ふる事もあり、或は教家所談の法門を以て答ふる時もあり、或は世俗の諺を以て答ふる事もあり、或は目前の境界をしめす時もあり、或は棒を行じ喝を下し指を挙げ拳をさゝぐ、皆是宗師の手段なり、これを禅門の活弄となづく、いまだ此の田地に到らざる者の情識を以て計度すべき事にあらず。

書き下し

問如來の說法に二種あり、一には隨他意語佛の機に隨つてしめし玉へる方便の語なり、二には隨自意語佛の本意のごとく說き給へる語なり、禪門に小玉をよぶ手段といへるは、隨他意語にあたるにあらずや。 答如來の說敎については、是は隨他意是は隨自意と決定して談ずるは、敎門の施說なり、禪門の宗師の佛說を擧揚する時、或は是を隨他意說としめし、或は是を隨自意語といふ。皆是小玉をよぶ手段なり決定の說にあらず。然らば卽ち今日隨自意語といへる、佛說を明日は隨他意語といふこともあるべし。唯此兩語のみにあらず、淺略深祕乃至妄執言說如義言說等の法門も又かくのごとし。古人の云く禪門の宗旨は敎家の法門の一尺はつひに一尺、二尺はつひに二尺なるには同じからずと云云。釋迦如來我は敎者とも仰られず、禪者ともなのり給はず所說の法門においても是は敎の分なり、是は禪の分なりともわけられず、如來の內證は敎にもあらず、禪にもあらざる故なり、此內證不思議の應用機に隨つて敎禪の差異をなせり。經に云く、佛は一音を以て法を說き給へば衆生其の類に隨つて、各解することを得と云云。佛在世の時は其の解了ことなりといへ共禪僧敎僧とてわかれたる事はなかりき、佛滅後に始めて禪敎二門わかれて敎に顯密の諸宗あり、禪に五家の差別あり、其故は先づ各解の性欲に隨つて方便をたれて、如來の本分の宗旨をしらしめんために、如來の化儀を紹隆し玉ふ、大智高德の人、或は敎家の宗師となり、或は禪門の祖師となりて各一雙の手を出だして迷倒の偏執を破り、敎禪の兩岐を越えて本分の田地に到らしめんとす。然らば卽ち眞實の敎師の其の本意敎の內にあるにあらず、明眼の禪師其の本意禪の中にあるにあらず、しかれども面々所談のかはれることは皆是れ小玉をよぶ手段なるが故なり、末代に至りて禪けうの學者の中に偏執を先とする人は是非海の裏にしづみて佛祖の本意をくらませり、像法決疑經に云く文のごとく義をとるは三世諸佛のあだなりと云云、明眼の宗師は胸の中にかねてよりたくはへたる法門なし、只是れ機に當りて提持し口に信せて道著す、すべて定まれる窠窟なし若し人禪を問ふ時、或は孔孟老莊の言を以て答ふる事もあり、或は敎家所談の法門を以て答ふる時もあり、或は世俗の諺を以て答ふる事もあり、或は目前の境界をしめす時もあり、或は棒を行じ喝を下し指を擧げ拳をさゝぐ、皆是宗師の手段なり、これを禪門の活弄となづく、いまだ此の田地に到らざる者の情識を以て計度すべき事にあらず。

現代語訳

問:如来の説法には二種ある。第一は随他意の語で、仏が相手の機に従って示された方便の語である。第二は随自意の語で、仏の本意のままに説かれた語である。禅門でいう小玉を呼ぶ手段とは、随他意の語にあたるのではないか。 答:如来の説法について、これは随他意、これは随自意と決めて論じるのは、教門の説き方である。禅門の宗師が仏説を取り上げるときは、ある時はこれを随他意の説と示し、ある時はこれを随自意の語と言う。みな小玉を呼ぶ手段であって、決まった説ではない。だから、今日随自意の語と言った仏説を、明日は随他意の語と言うこともある。この二つの語だけではない。浅略と深秘、さらに妄執言説と如義言説などの法門も、またこのとおりである。古人はいう。禅門の宗旨は、教家の法門で一尺はいつまでも一尺、二尺はいつまでも二尺であるのとは同じでない、と。 釈迦如来は、自分は教者だとも言われず、禅者だとも名乗られなかった。説かれた法門についても、これは教の分、これは禅の分と分けられなかった。如来の内証は、教でも禅でもないからである。この内証の不思議なはたらきが、機に応じて教と禅の違いを生んだ。経にいう。仏は一つの音で法を説かれ、衆生はそれぞれの類に従って、各々理解を得る、と。仏の在世の時は、理解の違いはあっても、禅僧・教僧と分かれることはなかった。仏の滅後に初めて禅と教の二門が分かれ、教に顕密の諸宗があり、禅に五家の差別がある。その理由は、各々の理解と性分に従って方便を垂れ、如来の本分の宗旨を知らせるために、如来の化儀を受け継がれたのである。大智・高徳の人は、あるいは教家の宗師となり、あるいは禅門の祖師となって、各々一双の手を出して、迷い倒れた偏執を破り、教と禅の二つの岐路を超えて、本分の境地に至らせようとする。そうだとすれば、真実の教師の本意は教の内にあるのではなく、眼の明らかな禅師の本意は禅の中にあるのでもない。それでも各々が説くところが違うのは、みな小玉を呼ぶ手段だからである。 末代になって、禅教の学者の中で偏執を先にする人は、是非の海に沈んで仏祖の本意をくらませている。像法決疑経にいう。文のとおりに義を取るのは、三世の諸仏の仇である、と。眼の明らかな宗師は、胸の中にあらかじめたくわえた法門がない。ただ機に当たって取り上げ、口に任せて言う。すべて決まった巣穴がない。人が禅を問うとき、ある時は孔子・孟子・老子・荘子の言葉で答え、ある時は教家が説く法門で答え、ある時は世間のことわざで答え、ある時は目の前の境界を示す。あるいは棒で打ち、喝を発し、指を立て、拳を挙げる。みな宗師の手段である。これを禅門の活弄と名づける。まだこの境地に至らない者が、分別の心で推し量れるものではない。

解説

随他意と随自意という区別そのものも、小玉を呼ぶ手段の一つにすぎない、と夢窓は答えます。昨日は随自意と言った仏説を、明日は随他意と言うこともあり得るのです。釈迦は教者とも禅者とも名乗らず、内証が機に応じて教と禅の違いを生んだ、という説明が背骨になっています。宗師が孔孟や諺、棒喝まで使うのは、決まった型を持たないからでした。現場を預かる人も、手順書の型に頼るだけでなく、相手と状況に応じて語り方を変える柔らかさが問われます。ただし、その根にある一つの意図は動かしません。
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人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

随他意随自意如義言説活弄教禅二門内証

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