夢中問答集 / 『夢中問答集』一心三密の観法をも許さず
問大乘敎の中に或は行者の一念について、三諦の觀行を修せしめ、或は行者の當體について、三密の加持を作しむ。かやうの法門は皆身心の所作なればいたづら事と申すべしや。 答佛事門の中には、有漏の戒善小乘の修行をも拾つる事なし。况んや顯密大乘の深旨をや、しかれ共衆生を化導する各の方便門は其差別なきにあらず。禪門の宗師の手段いかでか敎門と同じからんや。敎門は生佛すでにわかれたる處について、衆生を引導して、佛境界に入らしむる法門を設けたり。禪門は生佛いまだわかれざる本分の田地に直に到らしめんとす。然らば卽ち身口意業の修行をも論ぜず。一心三密の觀法をもゆるさず。三祖大師の云く、心を用ふるは大なる錯なり。古德の云く、無用心の處これ諸佛用心の處なりと云云。
新字:問大乗教の中に或は行者の一念について、三諦の観行を修せしめ、或は行者の当体について、三密の加持を作しむ。かやうの法門は皆身心の所作なればいたづら事と申すべしや。 答仏事門の中には、有漏の戒善小乗の修行をも拾つる事なし。況んや顕密大乗の深旨をや、しかれ共衆生を化導する各の方便門は其差別なきにあらず。禅門の宗師の手段いかでか教門と同じからんや。教門は生仏すでにわかれたる処について、衆生を引導して、仏境界に入らしむる法門を設けたり。禅門は生仏いまだわかれざる本分の田地に直に到らしめんとす。然らば即ち身口意業の修行をも論ぜず。一心三密の観法をもゆるさず。三祖大師の云く、心を用ふるは大なる錯なり。古徳の云く、無用心の処これ諸仏用心の処なりと云云。
書き下し
問大乘敎の中に或は行者の一念について、三諦の觀行を修せしめ、或は行者の當體について、三密の加持を作しむ。かやうの法門は皆身心の所作なればいたづら事と申すべしや。 答佛事門の中には、有漏の戒善小乘の修行をも拾つる事なし。况んや顯密大乘の深旨をや、しかれ共衆生を化導する各の方便門は其差別なきにあらず。禪門の宗師の手段いかでか敎門と同じからんや。敎門は生佛すでにわかれたる處について、衆生を引導して、佛境界に入らしむる法門を設けたり。禪門は生佛いまだわかれざる本分の田地に直に到らしめんとす。然らば卽ち身口意業の修行をも論ぜず。一心三密の觀法をもゆるさず。三祖大師の云く、心を用ふるは大なる錯なり。古德の云く、無用心の處これ諸佛用心の處なりと云云。
現代語訳
問:大乗の教えの中には、行者の一念について三諦の観行を修めさせ、あるいは行者の当体について三密の加持をさせる。こうした法門は、みな身心の所作であるから、むだなことと言うべきか。 答:仏事門の中では、有漏の戒善や小乗の修行をも捨てることがない。まして顕教・密教の大乗の深い趣旨はなおさらである。しかし、衆生を教え導く各々の方便門に、違いがないわけではない。禅門の宗師の手だてが、教門と同じであるはずがない。教門は、衆生と仏がすでに分かれたところについて、衆生を引き導き、仏の境界に入らせる法門を設けた。禅門は、衆生と仏がまだ分かれない本分の田地に、直ちに到らせようとする。だから、身口意の業の修行をも論じない。一心三密の観法をも許さない。三祖大師は言う。心を用いるのは大きな誤りである、と。古徳は言う。心を用いない所が、諸仏の用心の所である、と。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』禅の祈りと密教の加持(上)問眞言宗には衆生の苦厄をやむる加持門あり。禪宗はかやうの利益かけたりと難ずる人あり。其の謂れありや。 答密宗は十界の凡聖本位をあらためず、全く是れ大日如來なりと談ず。しかれば、賢愚貴賤の勝劣もなし、禍福苦樂の差別もあるべからず。何をか祈り何をか求むべきや。しかれ共、いまだ此の深理に達せざる人を誘引せんために有相の悉地を明せり。かやうの方便をば敎門にゆづる故に、禪門には直に本分をしめすのみなり。若し、本分に到りぬれば、本より生死の相なきことをしる乃し是れ眞實の延命の法なり、災殃の相をみず、乃是眞實の息災なり。貧福の相をはなれたり。乃し是れ眞實の增益なり。怨敵とて厭ふべき者もなし、乃是眞實の調伏なり。憎愛のへだてもなし、乃是眞實の敬愛なり。若し此の理を信ずる人は禪宗には苦厄をやむる利益かけたりと難すべからず。眞言の加持門と申も、よのつね行ずる息災增益等の加持門は愚人を引導する方便なり。衆生の全體六大四曼具足して、大日覺皇と無二無別なりといへども、愚人これをしらざる故に、如來方便をたれて三密の加持にてあらはさしむるを、眞實のかぢとは申なり。近代も眞言を信じ給へる御事は、たへせねども祕藏の奧旨をきはめて、眞實の加持門に趣ひて、卽身成佛の理を證せんとおぼしめすことはまれになりて、ひたすら世間の御祈りのためばかりになれる故に、密宗を紹隆し給ふ高僧も、自宗の本意とは思ひ給はね共、大法祕法を行ふて、これを奉公にあてらるゝよしになれり。其の中に密宗の奧旨をもしり給はぬ事相眞言師は、これを本意と思ふて、自身の名利のために檀方の御祈りを申して、奉公につのり給ふこともありけなり、かゝる故に密宗漸くすたれて、陰陽師の法なんどにかはらぬありさまなり。されば、今も心ある眞言師はこれをのみ歎き給へり。されども密宗にはかゝる方便をかまへ置かれたれば今のありさまにても、一分の利益はある方もあり、禪宗を信じ給へる人のさせる天下の大事にもあらぬ事に禪院へ御祈りせよと仰せらるゝ事は、禪法破滅の因緣なり。若し爾らば罪業をばうけ給ふ共、御禱りとはなるべからず。然らば卽ち禪僧には坐禪工夫を專らにして、祖宗を紹隆せよと仰せられて、我が御身も又行道の用心をも僧に御たづねありて、眞實に祖師の宗旨を悟らんと御志をだにはげまされば、三寶も定めて哀憐し、諸神も亦た納受し給ふべし。若し爾らばたとひ悟道得法まではなく共、世間の御祈りになる程の益はかならずあるべきをや。鎌倉の最明寺の禪門建長寺を建立して、禪門を崇めらる其の比は、禪僧とて衆にまじはる者をば同じく坐禪を專らにして、經論論錄を學するをだに、尙を無道心の僧なりと開山大覺禪師いましめ給ひけり。
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