夢中問答集 / 『夢中問答集』見心成仏でなく見性成仏
問古人の云く、達磨西來して文字を立せず、直に人の心を指て性を見て成佛せしむと云云。大乘の法門は皆自心是佛と談ず、しかるを見心成佛とはいはずして、見性成佛といへる其の意いかん。 答昔僧ありて此の疑ひを起して、忠國師に參じて、心と性との差別を問ひたてまつる。國師の云く、たとへば寒の時は水を結びて氷とし、暖の時は氷をとかして水となすがごとし。迷ふ時は性を結びて心とし、悟る時は心を融して性とす。心性同じといへ共、迷悟によりて差別せりと云云。忠國師かやうに心性のわけめをしめされたるも一往の說なり。語に隨つて解を生すべからず性といへる文字は一つなれ共其の義あまたあり。敎の中にしばらく三種の義をあかせり、一つには不改の義謂ゆる胡椒甘草等の性各かはりて胡椒はあまくならず、甘草は辛くならざるがごとし。二つには差別の義謂ゆる有情非情の各差別の體性なり。三つには法性の義謂ゆる萬法の本源不二の自性なり、外典乃至小乘敎の中には法性を談せず、たゞ不改の性差別の性について性の義を論せり。大乘敎の中に法性を談ずるについて、諸宗の義理差別あり。禪門はこれ敎外別傳なりまさにしるべし。見性といへども、敎門所談の法性の義にもあらざることを、いはんや外典等にあかせる性の義ならんや。人々本分の一段は心とも名くべからず性とも談ずべからずしかれども、此の心性の言によせて、本分をしらしめんために有る時は一心と說き、有る時は一性と談ず、直指人心見性成佛といふ事は、よのつねの迷人の心と思へることは、第二の月のごとくなる事をしらしめんために性と云ふて心とはいはざるなり。見性と申せばとて眼にて見るべきことにあらず、心識にてあきらむる事にもあらず、成佛と申すも今始めて佛に成りて相好を具し光明を放つべきにはあらず。たとへば酒に醉ふて本心を失へる人の時節到來して醉狂、忽ちにさめて本心になるがごとし、日來の迷倒忽ちに休歇して直下に本分に契當するを見性成佛と名けたり。大慧禪師の云く、無眼の宗師の人にしめすことは、皆な是れ曲て人心をさして性を說いて成佛せしむるなりと云云。今時の知識の中にたゞ心性の義理を說いて人にしらしむるを直指と思へる人あり、學者の中にもかやうの法門を解了するを得法と思へる人あり。これをば說性といふべし見性とはいふべからず。
新字:問古人の云く、達磨西来して文字を立せず、直に人の心を指て性を見て成仏せしむと云云。大乗の法門は皆自心是仏と談ず、しかるを見心成仏とはいはずして、見性成仏といへる其の意いかん。 答昔僧ありて此の疑ひを起して、忠国師に参じて、心と性との差別を問ひたてまつる。国師の云く、たとへば寒の時は水を結びて氷とし、暖の時は氷をとかして水となすがごとし。迷ふ時は性を結びて心とし、悟る時は心を融して性とす。心性同じといへ共、迷悟によりて差別せりと云云。忠国師かやうに心性のわけめをしめされたるも一往の説なり。語に随つて解を生すべからず性といへる文字は一つなれ共其の義あまたあり。教の中にしばらく三種の義をあかせり、一つには不改の義謂ゆる胡椒甘草等の性各かはりて胡椒はあまくならず、甘草は辛くならざるがごとし。二つには差別の義謂ゆる有情非情の各差別の体性なり。三つには法性の義謂ゆる万法の本源不二の自性なり、外典乃至小乗教の中には法性を談せず、たゞ不改の性差別の性について性の義を論せり。大乗教の中に法性を談ずるについて、諸宗の義理差別あり。禅門はこれ教外別伝なりまさにしるべし。見性といへども、教門所談の法性の義にもあらざることを、いはんや外典等にあかせる性の義ならんや。人々本分の一段は心とも名くべからず性とも談ずべからずしかれども、此の心性の言によせて、本分をしらしめんために有る時は一心と説き、有る時は一性と談ず、直指人心見性成仏といふ事は、よのつねの迷人の心と思へることは、第二の月のごとくなる事をしらしめんために性と云ふて心とはいはざるなり。見性と申せばとて眼にて見るべきことにあらず、心識にてあきらむる事にもあらず、成仏と申すも今始めて仏に成りて相好を具し光明を放つべきにはあらず。たとへば酒に酔ふて本心を失へる人の時節到来して酔狂、忽ちにさめて本心になるがごとし、日来の迷倒忽ちに休歇して直下に本分に契当するを見性成仏と名けたり。大慧禅師の云く、無眼の宗師の人にしめすことは、皆な是れ曲て人心をさして性を説いて成仏せしむるなりと云云。今時の知識の中にたゞ心性の義理を説いて人にしらしむるを直指と思へる人あり、学者の中にもかやうの法門を解了するを得法と思へる人あり。これをば説性といふべし見性とはいふべからず。
書き下し
問古人の云く、達磨西來して文字を立せず、直に人の心を指て性を見て成佛せしむと云云。大乘の法門は皆自心是佛と談ず、しかるを見心成佛とはいはずして、見性成佛といへる其の意いかん。 答昔僧ありて此の疑ひを起して、忠國師に參じて、心と性との差別を問ひたてまつる。國師の云く、たとへば寒の時は水を結びて氷とし、暖の時は氷をとかして水となすがごとし。迷ふ時は性を結びて心とし、悟る時は心を融して性とす。心性同じといへ共、迷悟によりて差別せりと云云。忠國師かやうに心性のわけめをしめされたるも一往の說なり。語に隨つて解を生すべからず性といへる文字は一つなれ共其の義あまたあり。敎の中にしばらく三種の義をあかせり、一つには不改の義謂ゆる胡椒甘草等の性各かはりて胡椒はあまくならず、甘草は辛くならざるがごとし。二つには差別の義謂ゆる有情非情の各差別の體性なり。三つには法性の義謂ゆる萬法の本源不二の自性なり、外典乃至小乘敎の中には法性を談せず、たゞ不改の性差別の性について性の義を論せり。大乘敎の中に法性を談ずるについて、諸宗の義理差別あり。禪門はこれ敎外別傳なりまさにしるべし。見性といへども、敎門所談の法性の義にもあらざることを、いはんや外典等にあかせる性の義ならんや。人々本分の一段は心とも名くべからず性とも談ずべからずしかれども、此の心性の言によせて、本分をしらしめんために有る時は一心と說き、有る時は一性と談ず、直指人心見性成佛といふ事は、よのつねの迷人の心と思へることは、第二の月のごとくなる事をしらしめんために性と云ふて心とはいはざるなり。見性と申せばとて眼にて見るべきことにあらず、心識にてあきらむる事にもあらず、成佛と申すも今始めて佛に成りて相好を具し光明を放つべきにはあらず。たとへば酒に醉ふて本心を失へる人の時節到來して醉狂、忽ちにさめて本心になるがごとし、日來の迷倒忽ちに休歇して直下に本分に契當するを見性成佛と名けたり。大慧禪師の云く、無眼の宗師の人にしめすことは、皆な是れ曲て人心をさして性を說いて成佛せしむるなりと云云。今時の知識の中にたゞ心性の義理を說いて人にしらしむるを直指と思へる人あり、學者の中にもかやうの法門を解了するを得法と思へる人あり。これをば說性といふべし見性とはいふべからず。
現代語訳
問:古人は「達磨が西から来て、文字を立てず、直ちに人の心を指して、性を見て成仏させる」と言う。大乗の法門はみな自心是仏と説くのに、見心成仏と言わず、見性成仏と言うのはどういう意味か。 答:昔、ある僧がこの疑いを起こして、忠国師に参じ、心と性の違いを尋ねた。国師は言われた。たとえば寒いときは水が結んで氷となり、暖かいときは氷が溶けて水となるようなものだ。迷うときは性が結んで心となり、悟るときは心が融けて性となる。心と性は同じだが、迷いと悟りによって区別されると。忠国師がこのように心と性の区別を示されたのも、一応の説である。言葉にしたがって理解を生じてはならない。性という文字は一つでも、その意味は多い。教門ではしばらく三種の意味を説く。一つは不改の義で、胡椒や甘草などの性がそれぞれ変わらず、胡椒は甘くならず、甘草は辛くならないというようなものである。二つは差別の義で、有情・無情がそれぞれに別の体性を持つこと。三つは法性の義で、万法の本源である二つのない自性である。外典から小乗の教えの中までは法性を説かず、ただ不改の性・差別の性について性の意味を論じている。大乗の教えの中で法性を説くについては、諸宗で義理に違いがある。禅門は教外別伝である。まさに知るべきである。見性といっても、教門が説く法性の意味でもないことを。まして外典などの説く性の意味ではない。人々の本分の一段は、心とも名づけられず、性とも言えない。しかしこの心性の言葉を借りて、本分を知らせるために、あるときは一心と説き、あるときは一性と説く。直指人心・見性成仏というのは、普通の迷う人が心と思っているものは第二の月のようなものだと知らせるために、性と言って心とは言わないのである。見性といっても、眼で見るのでもなく、心識で明らかにするのでもない。成仏といっても、今始めて仏になって相好を備え光明を放つのではない。たとえば酒に酔って本心を失った人が、時が来て酔いがたちまち覚め、本心に戻るようなものである。日ごろの迷い転倒がたちまち休止して、ただちに本分にかなうことを見性成仏と名づける。大慧禅師は「眼のない師が人に示すのは、すべて曲げて人の心を指して性を説き、成仏させているのだ」と言われた。今の師のなかに、ただ心性の義理を説いて人に知らせることを直指と思う人がいる。学人のなかにも、こうした法門を理解することを得法と思う人がいる。これは説性と言うべきで、見性とは言えない。
解説

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