夢中問答集 / 『夢中問答集』縁生の火と性火のたとえ
問孔子老子等も皆菩薩の化現と申せども、皆この慮知の心をおさむる道を敎へられたり、敎門の諸宗其の所談ことなりといへども此の慮知の心について、日來の邪心をひるがへして正智となさしむる法門なり、しかるを圓覺楞嚴一向に、此の緣心をば龜毛兎角のやうに說事は何の故ぞや。 答色心の二法に皆緣生と法爾との差別あり、諸緣和合してかりに生ずる相あるをば緣生となづく、如來藏の中に圓具せる性德をば法爾といへり。世間緣生の火は實體なしといへ共、緣に隨ひて其の用をほどこす故に、此の火をよく用ふる時は、寒をふせぎ食を調ふる大益あり。あしく用ふる時は、家をやき財をうしなふ大損あり。しかれば、此の火を損なきやうに用ふべきよしを敎ふるは、世間の益のためなり。此の敎へのまゝに火を用ふるやうをしりたりとも、いまだ法爾廣大の性火をばしらざる人なり。若し此の性火をしらしめんと思はば此の因緣生の火の損益に目をかくることをば制すべし。此の心法も又かくのごとし、此の緣生の幻心實體なしといへども、此の心若し惡を作せば、惡趣に墮して種々の苦を受け、此の心若し善を作せば、善處に生じて種々の樂を受く、此の理をしる故に、凡夫外道の中にも、此の心をおさめて惡事をばせざる者あり。しかれ共緣生の幻心をおさめて一旦人中天上の果報を得たる益ばかりにていまだ本心をしらざる故に、つひに輪廻をまぬがれず、乃至三賢十聖の菩薩も 此の幻心の邪僻をひるがへして、幻智となせるばかりにて、いまだ本心に契當せず。この故に變易生死をまぬがれず、皆な是れ世間の緣生の火をよく受用してあやまちせざる分齊にあたれり。然らば卽ち圓覺楞嚴の中には此の緣火をはなれて性火のある事を明かし緣心をはなれて、其の心のある事を談ずるなり。餘宗の法門にはしばらく幻智を起して幻妄をつくして、後は自然に本心に契當すべきことを談せり。又圓覺楞嚴にも幻智を起して、幻妄を除いて後境智俱に妄じて、非幻の處に到るべきことを說けるはこの謂れなり。しかるを末學の中にこの幻智を談ずるを佛祖の本意なりと思へる人あり。圓覺に云く、幻身滅するが故に幻心も亦滅す、幻心滅するが故に幻塵も又滅す、幻塵滅するが故に、幻滅も亦滅す幻滅々するが故に非幻は滅せず。たとへば鏡をとぐに垢盡て明の現ずるがごとしまさに知るべし、身心はみな幻垢たり、垢相ながく盡きて十方清淨なりと云云。かやうの經文をあしく心得ていまだ本心を悟らざる人、身心すべて滅盡して空寂なる處を眞實の佛法なりと思へる人あり。此れ二乘の滅盡定外道の悲想定なり。たとへば緣生の火を眞火にあらずときらへるを聞きて、此の緣火をみな打滅して暗冥なる處を眞火と思はんがごとし。孔子老子乃至小乘權敎の中に此の幻心を修することを談せば皆な是れ方便の說なり。
新字:問孔子老子等も皆菩薩の化現と申せども、皆この慮知の心をおさむる道を教へられたり、教門の諸宗其の所談ことなりといへども此の慮知の心について、日来の邪心をひるがへして正智となさしむる法門なり、しかるを円覚楞厳一向に、此の縁心をば亀毛兎角のやうに説事は何の故ぞや。 答色心の二法に皆縁生と法爾との差別あり、諸縁和合してかりに生ずる相あるをば縁生となづく、如来蔵の中に円具せる性徳をば法爾といへり。世間縁生の火は実体なしといへ共、縁に随ひて其の用をほどこす故に、此の火をよく用ふる時は、寒をふせぎ食を調ふる大益あり。あしく用ふる時は、家をやき財をうしなふ大損あり。しかれば、此の火を損なきやうに用ふべきよしを教ふるは、世間の益のためなり。此の教へのまゝに火を用ふるやうをしりたりとも、いまだ法爾広大の性火をばしらざる人なり。若し此の性火をしらしめんと思はば此の因縁生の火の損益に目をかくることをば制すべし。此の心法も又かくのごとし、此の縁生の幻心実体なしといへども、此の心若し悪を作せば、悪趣に堕して種々の苦を受け、此の心若し善を作せば、善処に生じて種々の楽を受く、此の理をしる故に、凡夫外道の中にも、此の心をおさめて悪事をばせざる者あり。しかれ共縁生の幻心をおさめて一旦人中天上の果報を得たる益ばかりにていまだ本心をしらざる故に、つひに輪廻をまぬがれず、乃至三賢十聖の菩薩も 此の幻心の邪僻をひるがへして、幻智となせるばかりにて、いまだ本心に契当せず。この故に変易生死をまぬがれず、皆な是れ世間の縁生の火をよく受用してあやまちせざる分斉にあたれり。然らば即ち円覚楞厳の中には此の縁火をはなれて性火のある事を明かし縁心をはなれて、其の心のある事を談ずるなり。余宗の法門にはしばらく幻智を起して幻妄をつくして、後は自然に本心に契当すべきことを談せり。又円覚楞厳にも幻智を起して、幻妄を除いて後境智倶に妄じて、非幻の処に到るべきことを説けるはこの謂れなり。しかるを末学の中にこの幻智を談ずるを仏祖の本意なりと思へる人あり。円覚に云く、幻身滅するが故に幻心も亦滅す、幻心滅するが故に幻塵も又滅す、幻塵滅するが故に、幻滅も亦滅す幻滅々するが故に非幻は滅せず。たとへば鏡をとぐに垢尽て明の現ずるがごとしまさに知るべし、身心はみな幻垢たり、垢相ながく尽きて十方清浄なりと云云。かやうの経文をあしく心得ていまだ本心を悟らざる人、身心すべて滅尽して空寂なる処を真実の仏法なりと思へる人あり。此れ二乗の滅尽定外道の悲想定なり。たとへば縁生の火を真火にあらずときらへるを聞きて、此の縁火をみな打滅して暗冥なる処を真火と思はんがごとし。孔子老子乃至小乗権教の中に此の幻心を修することを談せば皆な是れ方便の説なり。
書き下し
問孔子老子等も皆菩薩の化現と申せども、皆この慮知の心をおさむる道を敎へられたり、敎門の諸宗其の所談ことなりといへども此の慮知の心について、日來の邪心をひるがへして正智となさしむる法門なり、しかるを圓覺楞嚴一向に、此の緣心をば龜毛兎角のやうに說事は何の故ぞや。 答色心の二法に皆緣生と法爾との差別あり、諸緣和合してかりに生ずる相あるをば緣生となづく、如來藏の中に圓具せる性德をば法爾といへり。世間緣生の火は實體なしといへ共、緣に隨ひて其の用をほどこす故に、此の火をよく用ふる時は、寒をふせぎ食を調ふる大益あり。あしく用ふる時は、家をやき財をうしなふ大損あり。しかれば、此の火を損なきやうに用ふべきよしを敎ふるは、世間の益のためなり。此の敎へのまゝに火を用ふるやうをしりたりとも、いまだ法爾廣大の性火をばしらざる人なり。若し此の性火をしらしめんと思はば此の因緣生の火の損益に目をかくることをば制すべし。此の心法も又かくのごとし、此の緣生の幻心實體なしといへども、此の心若し惡を作せば、惡趣に墮して種々の苦を受け、此の心若し善を作せば、善處に生じて種々の樂を受く、此の理をしる故に、凡夫外道の中にも、此の心をおさめて惡事をばせざる者あり。しかれ共緣生の幻心をおさめて一旦人中天上の果報を得たる益ばかりにていまだ本心をしらざる故に、つひに輪廻をまぬがれず、乃至三賢十聖の菩薩も 此の幻心の邪僻をひるがへして、幻智となせるばかりにて、いまだ本心に契當せず。この故に變易生死をまぬがれず、皆な是れ世間の緣生の火をよく受用してあやまちせざる分齊にあたれり。然らば卽ち圓覺楞嚴の中には此の緣火をはなれて性火のある事を明かし緣心をはなれて、其の心のある事を談ずるなり。餘宗の法門にはしばらく幻智を起して幻妄をつくして、後は自然に本心に契當すべきことを談せり。又圓覺楞嚴にも幻智を起して、幻妄を除いて後境智俱に妄じて、非幻の處に到るべきことを說けるはこの謂れなり。しかるを末學の中にこの幻智を談ずるを佛祖の本意なりと思へる人あり。圓覺に云く、幻身滅するが故に幻心も亦滅す、幻心滅するが故に幻塵も又滅す、幻塵滅するが故に、幻滅も亦滅す幻滅々するが故に非幻は滅せず。たとへば鏡をとぐに垢盡て明の現ずるがごとしまさに知るべし、身心はみな幻垢たり、垢相ながく盡きて十方清淨なりと云云。かやうの經文をあしく心得ていまだ本心を悟らざる人、身心すべて滅盡して空寂なる處を眞實の佛法なりと思へる人あり。此れ二乘の滅盡定外道の悲想定なり。たとへば緣生の火を眞火にあらずときらへるを聞きて、此の緣火をみな打滅して暗冥なる處を眞火と思はんがごとし。孔子老子乃至小乘權敎の中に此の幻心を修することを談せば皆な是れ方便の說なり。
現代語訳
問:孔子や老子らもみな菩薩の化身だというが、みなこの思い量る心を治める道を教えられた。教門の諸宗も、その説くところは異なるが、この思い量る心について、日ごろの邪な心を翻して正しい智にさせる法門である。それなのに『円覚経』『楞厳経』が一方的にこの縁心を亀の毛や兎の角のように説くのはなぜか。 答:色と心の二つの法には、ともに縁生と法爾との区別がある。さまざまな縁が和合して仮に生じる相があるのを縁生と名づける。如来蔵の中に円かにそなわる性徳を法爾という。世間の縁生の火は実体がないが、縁に随ってその働きを施すので、この火をうまく使うときは寒さを防ぎ食事を調える大きな益がある。悪く使うときは家を焼き財産を失う大損がある。だから、この火を損のないように使うべきだと教えるのは、世間の益のためである。この教えのとおりに火を使うことを知ったとしても、まだ法爾広大の性火を知らない人である。もしこの性火を知らせたいと思うなら、この因縁生の火の損益に目を向けることを止めなければならない。この心の法もこれと同じである。この縁生の幻の心は実体がないといっても、この心がもし悪を作れば、悪趣に堕ちてさまざまな苦を受け、この心がもし善を作れば、善い所に生じてさまざまな楽を受ける。この理を知るので、凡夫や外道のなかにも、この心を治めて悪事をしない者がいる。しかし縁生の幻の心を治めて、いっとき人間界・天上界の果報を得た利益だけで、まだ本心を知らないので、結局は輪廻を免れない。三賢十聖の菩薩も、この幻の心の邪な癖を翻して幻の智としただけで、まだ本心にかなっていない。だから変易生死を免れない。これらはみな、世間の縁生の火をうまく使って過ちをしない程度にあたる。だから『円覚経』『楞厳経』では、この縁火を離れて性火があることを明かし、縁心を離れてその心があることを説くのである。他の宗の法門は、しばらく幻の智を起こして幻の妄をなくし、そのあとは自然に本心にかなうことを説く。また『円覚経』『楞厳経』にも、幻の智を起こして幻の妄を除き、その後に境も智もともに妄として、幻でない所に到ることを説いているのは、この理由による。それなのに末学のなかに、この幻智を説くことを仏祖の本意だと思っている人がいる。『円覚経』に「幻の身が滅ぶから幻の心も滅ぶ。幻の心が滅ぶから幻の塵も滅ぶ。幻の塵が滅ぶから幻の滅も滅ぶ。幻の滅が滅ぶから幻でないものは滅しない。たとえば鏡を磨いて垢が尽きると明るさが現れるようなものだ。まさに知れ、身心はみな幻の垢であり、垢の相が永久に尽きて十方が清浄になる」とある。こうした経文を悪く解釈して、まだ本心を悟らない人が、身心がすべて滅び尽きて静まり返った所を真実の仏法だと思っている。これは二乗の滅尽定、外道の無想定である。たとえば、縁生の火は真の火ではないと嫌うのを聞いて、この縁の火をすべて打ち消して暗闇になった所を真の火と思うようなものである。孔子や老子、さらに小乗や権教のなかでこの幻の心を修めることを説くのは、すべて方便の説である。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』砂を煮て飯にならず問ゆがめる物をおしなをせば、すぐになるがごとく凡夫の妄心の邪僻なるを修練して、眞正になせば佛心ともなるべきとこそ覺ゆるを、妄心は第二の月に同じとて一向にきらふことは何ぞや、若し爾らば凡夫の佛に成ることはあるまじきやらん。 答此の疑は是圓覺經の中の普賢菩薩の疑問なり、首楞嚴經の中に阿難亦此の疑ひを生ぜり。佛阿難に告げて云はく、汝本心を失つて慮知分別の心をとめて自心と思へり。此れは汝が心にあらず、阿難疑つて云く六道に輪廻する事も此の心によれり、乃至佛果を得る事も亦此心によるべし。しかるを此の心若し我が心にあらずば何を以て修行して佛果を成ずべきや。若し此の心なくば土木瓦石と何ぞことならん、佛の言く、汝が心をおさへて無しと思へといふにはあらず。汝が心と思へるもの實に有る者ならばかならず、在る所あるべし、何れの處にか在るやと問ひ玉ふ時、阿難始めは此の心は身の內にありと答へ申さる。佛汝が身の內にも此の心なきよしを責め玉ふ時、阿難言く身の外にあり佛又これをしからずと責め玉ふ、阿難かくのごとく七處までさし申さる、最後には我が心は內にあるにもあらず、外にあるにもあらず、中間にあるにもあらず、一切無著なるは我が心なりとのべられき。しかれども、佛皆これをゆるし玉はず、この故に阿難茫然として分別する所なし。爾の時に佛の言はく一切衆生無始より、このかた妄りに輪廻を受けたることは、本心を失ふて慮知の心をとめて我が心と思へるによれり、此の故にたま〱佛法を修行すといへども二種の根本をしらずして錯つて修行する故に、二乘外道及び天魔の境界に墮つ、二種の根本とは一つには、本覺妙明元清淨の體なり、此は是れ衆生の自心の本源なり。此の根本をば忘失せり、二つには無始輪廻の根本なり、汝が慮知分別をとめて自心と思へる者なり。若し此の心を以て修行せば、輪廻の業とはなるとも、本源に到ることあるべからず、たとへば砂を煮て飯となさんと思はんがごとし、たとひ劫數をふるとも熟砂とはなるべし、飯とはなるべからずと云云。 南岳大師の一乘止觀に云く、止觀の行者先づ心識をして淨心に依止せしむべし。若し生滅の心を以て修行せば、成就すべからずと云云。大日經疏に云く、凡夫二乘外道は無生滅の心をしらざるのみにあらず、生滅の心をも亦しらずと云云。又云く心性は念をはなれたり、憶度の知るべき所にあらずと云云。占察業報經に云く、心相に二種あり。一つには眞二つには妄なり、眞とは心體如々清淨圓滿にして、一切の處に遍して一切の法を生長す、妄とは分別覺知の心なり、實體あとなくして虛僞の法を出生すと云云。
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夢中問答集・『夢中問答集』如幻の観は大乗の入口問大乘經の中に多くは、如夢如幻の法門を說けり。禪師の語の中にも亦此の法門あり。しかれは大乘の行人は、如幻の觀をなすを本とすべしや。 答諸法は夢幻の如しといへる法門、其語は同じけれ共、諸宗に談ずる其の旨趣各ことなりしかりといへ共、其の大概はこれかはらず、世人の諺に世の中は夢幻のごとしなんど申すは、無常の謂れなり。大乘に夢幻のたとへを取るはしからず。夢の中にみゆるところの種々の物像、すべて實體なし。實體なしといへども、諸の形相宛然たり。幻術師の巾をわがねて、或は人の形となし。或は馬の形となせども、實には人馬の相にあらず。幻のごとしといへるは是れなり。天竺に此の術をなす者多し。この故に譬とせり。かやうの謂れを以て萬法の實體なくして、しかも諸相歷然たるに譬へたり。水中の月鏡中の像なんどいへる譬も又此の意なり。又敎の中に不思議幻なんと談する法門あり。 緣生如幻の義にはことなり。佛法修行の人やゝもすれば外道二乘の見解に墮つ。外道の見は多しといへども、斷常の二見を本とす。斷とは無なり。常とは有なり。是れに四句あり。色心の諸法において或は一向に有なりと計するは常見なり。或は一向に無なりと計するは斷見なり。或は有なる方もあり。無なる方もありと計するは亦有亦無の見なり。或は一向に有にもあらず。無にもあらずと計するをば非有非無の見と名く。今時大乘修行の人語には、談ずる法門は大乘に似たれども、其の所見をさくる時は、外道の四句の見を出さる人あり。佛の說法も四句をいでずといへども、眞實の佛智の四句の内にあるにはあらず。有の見を破せんためには諸法の空無なる事を說き、無の見をやぶらんためには諸法の常住なるよしを演給へり。佛意をしらざる人は、方便をとめて眞實と思へり。二乘の見とは聲聞緣覺其の所學の法門は、すこしきことなりといへども、身心を滅盡して無爲涅槃に歸して、三界の輪廻をまぬがるべしと思へり。はなはだ大乘の法理にそむけり。若し人如幻の法門を解了しぬれば、自然に外道二乘の見には墮せず。然らば卽ち如幻の法門を解了する人は、諸法有なりといへ共、其の所見實有にあらず。諸法は空なりと說けども其の智慧實空に墮せず。故に中道實相の眞理を證得するに便りあり。是を以て如幻の法門をば大乘の初門となづけたり。是れを眞實究竟の法門とするにはあらず。しかれども、凡夫外道の實有實空の見をやぶり、二乘沈空の解をなさしめざらんために、敎の中にかりに如幻の觀をすゝめたり。大日經の住心品にも緣生の諸法はみな如法なる理をのみ明せり。圓覺楞嚴の中には如幻の智をも遠離すべしと說かれたり。然れ共三種の觀行を明す時、三摩波提といへるは是れ如幻の觀なり。是れ卽ちしばらく幻智を起して幻妄を消して、本分清淨の寶殿にのぼらしめん爲なり。かやの方便をば敎門にうつる故に、禪宗の學者は如幻の觀をも用ふべからず。禪門の宗師の夢幻の法門を說くことは、此の理を心において觀念せよとにはあらず。佛法世法皆夢幻のごとしとしりなば、一切放下して直に本分に向はん事をすゝむるなり。三祖大師の云く、夢幻空花豈把捉することを勞せんや得失是非一時に放却せよと云云。
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夢中問答集・『夢中問答集』夢と本分の家(下)佛法も亦かくのごとし、本分の田地には凡聖の相もなく淨穢の境もなし、無明業識の一夢起るが故に、無相の中に淨穢の境界を現じ、無爲の中に凡聖の差別を見る、我は凡夫也と思ふ時は東西に馳走して名利を求む求め得ざる時はなげきかなしむ。我は智人也と思ふ時は、一切の人をかろしめて高慢の心を起す、かゝる種々の顚倒にばかされて本分安樂の田地ある事を信ぜず。是れ卽ち夢中の妄境に心を轉せられてうつゝの境界を信せざるがごとし、其の中にたま〱利根の人ありて、凡聖淨穢業識の上に浮べる假相也。本分の田地にはすべてかやうの事なしと信ずれ共、いまだ大悟せざる故に、やゝもすれば幻化に誑惑せられて、我は是れ迷人也と思ひならはせる我執いまだ忘せざる故に、得法悟道をねがひ機辨神通ををうらやむ。しかる故に修行用心について邪正を論じ、應用問答において勝劣をあらそふ。此れは是れ夢みる人の我が所見は皆な夢也と信ずれ共、大夢いまださめざる故に、夢の境界にばかはされて其の中について、是非得失を論ずるがごとし。若し是れ最上根の人はたとひいまだ大悟の分はなけれ共、自他身心を計する事皆是れ業識の妄想也と分明に信解する故に、輪廻をもいとはず、解脫をも求めず、若しかくのごとくならば趣向の正しき人と申すべし。趣向のたゞしきをたのみて、滿足の思をなさば亦謬りなり。圓覺經に云く、衆生顚倒して妄に四大をとめて自身の相とし、六塵の緣影を自身の相とす、たとへば病目の空中の花及び第二の月を見るがごとし。是れによりて、妄に生死に輪轉する事あり、この故に無明となづく。此の無明といふは、實に體あるにあらず、夢中に人を見るときは其の體なきにあらざれ共、夢さめぬれば其の人ある事なきがごとし。首楞嚴經に云く、妙性圓明にして諸の名相をはなれたり、本より世界衆生ある事なしと云云。諸大乘經みな同じくかやうに說けり、何ぞこれを信ぜずして、身心を勞役して外に向つて馳求するや。世間の吉凶其の相いまだあらはれざる時は、愚人これをしらず。然れども世間の巫女陰陽師等のうらなひしめす言を信じて、それにまかせてふるまへば、時節到來して其の效をみる事あり。本分の一段は人々具足すれども、いまだ契當せざる人は、日に用ひて知る事なし。是の故に佛祖大慈をたれて叮嚀にしめし玉へり。たとひ宿習うすくして、直下に契當する事なくとも世間の陰陽師等を信ずるがごとく、佛祖の言を信じて、それにまかせて用心せば、何ぞしるしなからんや。