夢中問答集 / 『夢中問答集』虚妄と常住は方便の説
問經の中に諸法は皆是れ虛妄といへる說もあり、或は諸法は皆是れ常住實相なりとも明せり、何れをか實義とせんや。 答本分の處には常住の相もなく虛妄の義もなし、しかれ共凡夫の所見によせてはこれを虛妄と說き、聖人の所見によせてはこれを常住と明かすに眞實大悟の人は凡夫の所見にもあらず、聖人の所見にもあらず。然らば卽ち虛妄と說き常住と談ずるは皆な是れ方便の說なり、楞伽經の中に外道佛に問ひ奉るは諸法は皆な無常なりや。佛の言はく、汝が所問は世間の戯論なり、外道又問て云く諸法は皆常住なりや。佛の言はく、此の問も亦是れ世論なり。維摩經に云く、生滅の心を以て實相を談ずる事なかれと云云。若し人其の所見は凡夫にかはらずして諸法實相の旨を談せば皆是れ戯論なり。邪人正法をとけば正法も亦邪法となる正人邪法をとけば、邪法すなはち正法となるといへるは此の義なり。
新字:問経の中に諸法は皆是れ虚妄といへる説もあり、或は諸法は皆是れ常住実相なりとも明せり、何れをか実義とせんや。 答本分の処には常住の相もなく虚妄の義もなし、しかれ共凡夫の所見によせてはこれを虚妄と説き、聖人の所見によせてはこれを常住と明かすに真実大悟の人は凡夫の所見にもあらず、聖人の所見にもあらず。然らば即ち虚妄と説き常住と談ずるは皆な是れ方便の説なり、楞伽経の中に外道仏に問ひ奉るは諸法は皆な無常なりや。仏の言はく、汝が所問は世間の戯論なり、外道又問て云く諸法は皆常住なりや。仏の言はく、此の問も亦是れ世論なり。維摩経に云く、生滅の心を以て実相を談ずる事なかれと云云。若し人其の所見は凡夫にかはらずして諸法実相の旨を談せば皆是れ戯論なり。邪人正法をとけば正法も亦邪法となる正人邪法をとけば、邪法すなはち正法となるといへるは此の義なり。
書き下し
問經の中に諸法は皆是れ虛妄といへる說もあり、或は諸法は皆是れ常住實相なりとも明せり、何れをか實義とせんや。 答本分の處には常住の相もなく虛妄の義もなし、しかれ共凡夫の所見によせてはこれを虛妄と說き、聖人の所見によせてはこれを常住と明かすに眞實大悟の人は凡夫の所見にもあらず、聖人の所見にもあらず。然らば卽ち虛妄と說き常住と談ずるは皆な是れ方便の說なり、楞伽經の中に外道佛に問ひ奉るは諸法は皆な無常なりや。佛の言はく、汝が所問は世間の戯論なり、外道又問て云く諸法は皆常住なりや。佛の言はく、此の問も亦是れ世論なり。維摩經に云く、生滅の心を以て實相を談ずる事なかれと云云。若し人其の所見は凡夫にかはらずして諸法實相の旨を談せば皆是れ戯論なり。邪人正法をとけば正法も亦邪法となる正人邪法をとけば、邪法すなはち正法となるといへるは此の義なり。
現代語訳
問:経の中に「諸法はみな虚妄である」と説くものもあり、あるいは「諸法はみな常住の実相である」と明かすものもある。どちらを実義とすべきか。 答:本分の所には、常住の相もなく虚妄の意味もない。しかし凡夫の見に合わせてはこれを虚妄と説き、聖人の見に合わせてはこれを常住と明かす。真実に大悟した人は、凡夫の見でもなく、聖人の見でもない。だから、虚妄と説き、常住と説くのは、すべて方便の説である。『楞伽経』の中で、外道が仏に尋ねた。「諸法はみな無常ですか」。仏は言われた。「あなたの問いは世間の戯論である」。外道がまた尋ねた。「諸法はみな常住ですか」。仏は言われた。「この問いもまた世間の戯論である」。『維摩経』に「生滅の心で実相を語ってはならない」とある。もしその人の見が凡夫と変わらないまま諸法実相の趣旨を語るなら、すべて戯論である。邪な人が正法を説けば正法も邪法となり、正しい人が邪法を説けば邪法がそのまま正法となる、と言うのはこの意味である。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
夢中問答集・『夢中問答集』如来の説法も小玉をよぶ問如來一代の說法の時も、かやうの手段をほどこし給ふことありや。 答禪門の眼にて見る時は一代の所說も、皆是れ小玉をよぶ手段なり、有る時は諸法無常と說き、有る時は諸法常住と談ず、或は諸法皆是虛妄と明かし、或は諸法實相と演ぶ、或は一切の文字は佛法にあらずとしめし、或は言說皆是れ法身なりと言へり、かやうの種々の法門は、皆是れ小玉をよびて有る時は障子をあけよといひ、有る時はたてよといへるがごとし。如來の本意はかやうの言句の上にあるにあらず、しかるを佛意をしらざる人其の言句の義理をとりて我が妄情にかなへる言を信じて佛の本意なりと思へり、小玉をよぶ言について障子をたてよといふこそ、此の女人の本意よあけよといふこそ本意よと、論せんがごとし。或は云く、如來は法に定相なきことを悟り給へる故に、一定の所說なし有る時は無相と說き給ふことは、實際の理地に一塵も立せざる謂れなり、有る時は諸相歷然たりと說き給ふことは、隨緣の事門に十界の依正ある事を示し給ふ故なり云云。かやうに心をやる人は、佛の一法門を信じて偏執に墮ちたる人よりも勝れたりといへども、是も亦佛の本意を知らざる人なり、小玉をよぶ處について推量をめぐらして、障子をたてよといふは風をおそるゝ故なり、あけよといふは氣のこもりたるを散ぜんためなり。是故に定說なし一槪を信ずべからずといはんがごとしかやうに料簡するも女人の本意をばしらぬ故なり、起世經に云く火神の水に入る時は水も火となり、水神の火に入る時は火も水となると云云。法門も又かくのごとし禪の眼にて見れば敎法も亦禪の宗旨なり、敎の眼にて見れば禪の宗旨も、又敎法とことならず、敎禪の差別のみにあらず佛法世法の差別も、又かくのごとし。佛法の慧解ひらけぬれば、世間の相も皆佛法なり世間の情を出脫せぬ時は甚深の妙理と心得たるも皆是れ世法なり。
-
夢中問答集・『夢中問答集』如幻の観は大乗の入口問大乘經の中に多くは、如夢如幻の法門を說けり。禪師の語の中にも亦此の法門あり。しかれは大乘の行人は、如幻の觀をなすを本とすべしや。 答諸法は夢幻の如しといへる法門、其語は同じけれ共、諸宗に談ずる其の旨趣各ことなりしかりといへ共、其の大概はこれかはらず、世人の諺に世の中は夢幻のごとしなんど申すは、無常の謂れなり。大乘に夢幻のたとへを取るはしからず。夢の中にみゆるところの種々の物像、すべて實體なし。實體なしといへども、諸の形相宛然たり。幻術師の巾をわがねて、或は人の形となし。或は馬の形となせども、實には人馬の相にあらず。幻のごとしといへるは是れなり。天竺に此の術をなす者多し。この故に譬とせり。かやうの謂れを以て萬法の實體なくして、しかも諸相歷然たるに譬へたり。水中の月鏡中の像なんどいへる譬も又此の意なり。又敎の中に不思議幻なんと談する法門あり。 緣生如幻の義にはことなり。佛法修行の人やゝもすれば外道二乘の見解に墮つ。外道の見は多しといへども、斷常の二見を本とす。斷とは無なり。常とは有なり。是れに四句あり。色心の諸法において或は一向に有なりと計するは常見なり。或は一向に無なりと計するは斷見なり。或は有なる方もあり。無なる方もありと計するは亦有亦無の見なり。或は一向に有にもあらず。無にもあらずと計するをば非有非無の見と名く。今時大乘修行の人語には、談ずる法門は大乘に似たれども、其の所見をさくる時は、外道の四句の見を出さる人あり。佛の說法も四句をいでずといへども、眞實の佛智の四句の内にあるにはあらず。有の見を破せんためには諸法の空無なる事を說き、無の見をやぶらんためには諸法の常住なるよしを演給へり。佛意をしらざる人は、方便をとめて眞實と思へり。二乘の見とは聲聞緣覺其の所學の法門は、すこしきことなりといへども、身心を滅盡して無爲涅槃に歸して、三界の輪廻をまぬがるべしと思へり。はなはだ大乘の法理にそむけり。若し人如幻の法門を解了しぬれば、自然に外道二乘の見には墮せず。然らば卽ち如幻の法門を解了する人は、諸法有なりといへ共、其の所見實有にあらず。諸法は空なりと說けども其の智慧實空に墮せず。故に中道實相の眞理を證得するに便りあり。是を以て如幻の法門をば大乘の初門となづけたり。是れを眞實究竟の法門とするにはあらず。しかれども、凡夫外道の實有實空の見をやぶり、二乘沈空の解をなさしめざらんために、敎の中にかりに如幻の觀をすゝめたり。大日經の住心品にも緣生の諸法はみな如法なる理をのみ明せり。圓覺楞嚴の中には如幻の智をも遠離すべしと說かれたり。然れ共三種の觀行を明す時、三摩波提といへるは是れ如幻の觀なり。是れ卽ちしばらく幻智を起して幻妄を消して、本分清淨の寶殿にのぼらしめん爲なり。かやの方便をば敎門にうつる故に、禪宗の學者は如幻の觀をも用ふべからず。禪門の宗師の夢幻の法門を說くことは、此の理を心において觀念せよとにはあらず。佛法世法皆夢幻のごとしとしりなば、一切放下して直に本分に向はん事をすゝむるなり。三祖大師の云く、夢幻空花豈把捉することを勞せんや得失是非一時に放却せよと云云。
-
夢中問答集・『夢中問答集』あらゆる見方が妄想である問何をか妄想といふや。 答淨土穢土へたてあり。迷悟凡聖同じからずと思へるは妄想なり。聖凡のへだてもなく、淨穢の別ちなしと思へるも亦妄想なり。佛法に大小權實顯密禪敎の差別ありと思へるも妄想なり。佛法は一味平等にして、すべて勝劣なしと思へるも妄想なり。行住坐臥見聞覺知皆な是れ佛法なりと思へるも妄想なり。一切の所作所爲をはなれて、別に佛法ありと思へるも妄想なり。萬法は皆實有なりとみるは凡夫の妄想なり。萬法は皆な是れ無常なりとみるは、小乘の妄想なり、萬法の上において常見斷見を起すは外道の妄想なり。或は如幻卽空としり、或は中道實相と悟るは菩薩の妄想なり。敎外別傳の宗旨あることをしらずして、敎門を執著するは敎者の妄想なり。敎外別傳とて敎門よりも勝れたる法門ありと思へるは、禪者の妄想なり。かやうの法門を信じて、さては一切皆な是れ妄想なりと思はゞ亦是れ妄想なり。昔無業國師一生の間學者の問を答ふるに、たゞ莫妄想の一句を以てす。若し人此の一句を透得せば、本有の智慧德相便ち現前すべし。
-
夢中問答集・『夢中問答集』夢と本分の家(下)佛法も亦かくのごとし、本分の田地には凡聖の相もなく淨穢の境もなし、無明業識の一夢起るが故に、無相の中に淨穢の境界を現じ、無爲の中に凡聖の差別を見る、我は凡夫也と思ふ時は東西に馳走して名利を求む求め得ざる時はなげきかなしむ。我は智人也と思ふ時は、一切の人をかろしめて高慢の心を起す、かゝる種々の顚倒にばかされて本分安樂の田地ある事を信ぜず。是れ卽ち夢中の妄境に心を轉せられてうつゝの境界を信せざるがごとし、其の中にたま〱利根の人ありて、凡聖淨穢業識の上に浮べる假相也。本分の田地にはすべてかやうの事なしと信ずれ共、いまだ大悟せざる故に、やゝもすれば幻化に誑惑せられて、我は是れ迷人也と思ひならはせる我執いまだ忘せざる故に、得法悟道をねがひ機辨神通ををうらやむ。しかる故に修行用心について邪正を論じ、應用問答において勝劣をあらそふ。此れは是れ夢みる人の我が所見は皆な夢也と信ずれ共、大夢いまださめざる故に、夢の境界にばかはされて其の中について、是非得失を論ずるがごとし。若し是れ最上根の人はたとひいまだ大悟の分はなけれ共、自他身心を計する事皆是れ業識の妄想也と分明に信解する故に、輪廻をもいとはず、解脫をも求めず、若しかくのごとくならば趣向の正しき人と申すべし。趣向のたゞしきをたのみて、滿足の思をなさば亦謬りなり。圓覺經に云く、衆生顚倒して妄に四大をとめて自身の相とし、六塵の緣影を自身の相とす、たとへば病目の空中の花及び第二の月を見るがごとし。是れによりて、妄に生死に輪轉する事あり、この故に無明となづく。此の無明といふは、實に體あるにあらず、夢中に人を見るときは其の體なきにあらざれ共、夢さめぬれば其の人ある事なきがごとし。首楞嚴經に云く、妙性圓明にして諸の名相をはなれたり、本より世界衆生ある事なしと云云。諸大乘經みな同じくかやうに說けり、何ぞこれを信ぜずして、身心を勞役して外に向つて馳求するや。世間の吉凶其の相いまだあらはれざる時は、愚人これをしらず。然れども世間の巫女陰陽師等のうらなひしめす言を信じて、それにまかせてふるまへば、時節到來して其の效をみる事あり。本分の一段は人々具足すれども、いまだ契當せざる人は、日に用ひて知る事なし。是の故に佛祖大慈をたれて叮嚀にしめし玉へり。たとひ宿習うすくして、直下に契當する事なくとも世間の陰陽師等を信ずるがごとく、佛祖の言を信じて、それにまかせて用心せば、何ぞしるしなからんや。
-
夢中問答集・『夢中問答集』邪正を見分けるには問眞實に大悟せる人は、邪正に迷ふべからず、然ば天魔外道來りて種々の法門を說く共、誑惑せらるべからず、いまだ正悟を得ざる人は、いかでか邪正をもわかつべき、しかるに古の先達所談の法門も一致ならず、今時の知識のしめさるゝ修行用心も亦まち〱なり、初心の學者いかにしてか、其の邪正を辨すべきや。 答末代は邪說さかりにして、正法を亂る事多し、世間の相撲、競馬、圍碁、雙六なんとは、其の勝負のすがたをかねてより定め置きたる故に、これをたゞす事まぎれなし、所領の相論罪科の輕重ごときは、其の理非まことに決斷しがたき事ありといへ共、上裁を仰ぐ故についに落居せずといふ事なし、佛法にはかねてより定め置きたる勝負の體もなし、面々たゞ我が心得たるを本として、我が法門勝れたりと思へども、別人はこれをゆるさず、世間の沙汰のごとくならねば上裁とて仰ぐべき人もなし、面々の引くところの證文は、佛祖の言語なれども文は執見によりてかはることなれば、證據とするにたらず。各我が信ずる所の知識の印可を以て證明とす、それも緣者の證人なれば、信用にたらず、しかるを愚人、我が妄想の信を本として何に宗にても、先づ一法門を信じぬれば、餘宗をば皆これをきらふ、我が知識とて信じそめぬれば、餘人の法門は皆劣なりと思ふて、耳にも觸れんとする者あり、此れは是れ愚人の中の愚人なり、或は諸宗の法門もかはり、知識の示すことも同じからざる處に、自ら決斷することあたはず、茫然として浪にもつかず、磯にもつかぬ人あり。かやうの人はいづれも、いまだ敎外別傳の題目を信ぜざる者なり、たとひ悟りを開かず共、若しよく敎外の題目を信ずる人は、眞實の正法は言語の上にあらざる事を知れる故に、一師の言語を堅執してこれをのみ貴ぶこともあるべからず、諸師の言語のかはれるによりて、迷惑することもあるべからず、世間の食物其の味ひ一種にあらず、其の中に何をか本と定むべきや、人の天性まち〱なる故に甘き物をこのむ人もあり、辛き物を愛する人もあり、若し我がこのむ味を本として餘の味ひは、皆いたづらなりと言はゞ愚人なるべし、法門も亦かくのごとし、衆生の性欲同からざる故に我が心には、此の法門を貴しと思ふと、いはゞさもありぬべし、若し我が思ひの本として此の法門は正理なり、餘の法門は皆眞實にあらずと執せば是れ邪說なり、法花經に云く、有を破する法王、世に出て衆生の性欲に隨つて種々に說法すと云云。しるべし如來種々の法門は衆生迷倒の性欲に隨つてかりに說かれたる事なり。若し直に衆生と佛といまだわかれざる本分に向ふ人は、種々の法門を聞くとも、其の勝劣是非の中に心を勞せんや、古人の云く、佛一切の法を說くことは、一切の心を度せんがためなり。我れに一切の心なし何ぞ一切法を用やと云云。
-
夢中問答集・『夢中問答集』凡夫と聖者の見方の違い問凡聖所見の差別いかん。 答禪宗には直に本分をしめす、故にかやうの事を論せず、敎の中には種々の義あり、しばらく首楞嚴經の說相について粗申すべし。彼の經の中に七大を明せり謂ゆる地大水大火大風大空大根大識大なり。此の七大皆な是れ如來藏の中の性德として、法界に周遍し融通無礙なり。これを性火性風等となづく眞言敎の中に六大無礙にして諸法の體なりと談ずるもこの意なり。たゞし眞言敎には根大をあかさず、根大とは眼耳等の六根も皆な法界に周遍せる義なり。眞言には六大を法界の體とす、楞嚴經には如來藏を諸法の體とす、七大は皆如來藏所具の德用なりとあかせり。皆な是れ如來の隨宜說法なり、眞言に六大と申すも緣生の水火等をさすにはあらず、楞嚴經に性火性水等といへる六大なり。四曼と談ずるは緣生の諸法なり。この故に六大を體とし四曼を相とし三密を用とすと明せり、七大に皆な同じく性德と緣生との差別あり。先づ一大をよく〱心得ぬれば諸大も亦同じかるべし。世間に木の中より鑽出し石の中より打出せる火はこれ緣生の火なり。此の火は實體なし薪にても油にても其の緣なくてはもゆることなし。薪油等の緣ある時かりに其の相を現ず、故に虛妄にして實體なしと說けり。顯密の諸經にも緣生の諸法の實體なす事は同一說なり、性火といへるは法界に周遍して、燃ゆることもなく滅する事もなし。凡夫はたゞ緣生の火をのみ見て性火をばしらず。若し知り得ぬれば緣火とてきらふべきことなし、緣火は是性火の用なるが故に此の火大のごとく餘大も亦然り。乃至識大とは衆生の心識なり、それもよのつね凡夫の心と思へるは緣生の心なり、經の中にこれを緣心と說けり。此の心はすべて實體なし、六塵の緣によりてかりに見聞覺知の相あり、緣生の火の薪油等の緣によりて、かりにもゆる相あるがごとし。愚人はたゞ緣心をのみ知りて性心をしらず、外典乃至小乘敎の中に心といへるは皆是緣心なり、大乘の中に八識を談ずるも猶是れ緣心の分劑なり、是を以て極大乘の中に第九識を立てたり、是れ卽ち性德の識大をしらしめんためなり。諸法といへるは色心二法なり、七大の中に識大はこれ心法なり、其の餘の六大は皆色法なり。然れ共此の七大ともに如來藏の中に具足して五融無礙なるが故に色心の差別なし、これを眞法界となづく差別なしといへ共、色心混濫する事なし。然らば卽ち其の色法も生滅盛衰の形相にあらず、其心法も動靜起滅の轉變なし、經の中に諸法實相常住と說けるは此の義なり。凡夫の妄見起る時、此の如來藏虛妄の緣に隨つて色心諸法の相を現ず、凡夫の妄見轉變するが故に其の所見の諸法も亦皆な轉變の相あり。たとへば舟の行く時、岸のうつると見ゆるがごとし、又翳眼にて見る時、虛空皆な花となりて亂起亂滅するがごとし。諸法は皆な是れ虛妄と說けるは此の義なり、然らば則或は諸法虛妄と說き、或は諸法常住と談ず、其の言句は異なりといへども、其の法體はこれ同じ佛意をしらざる者のは其の言句の差別に隨つて此れを取て彼を捨つ皆な是れ世俗の戯論なり、翳眼の人と明眼の人と二人同所にありて虛空に向へる時、翳眼の前には積々の花ありて亂起亂滅する相あり。しかれ共明眼の人は亂起亂滅の處をあらためずして淸淨の虛空とみるがごとし、煩惱卽菩提生死卽涅槃常位卽妙不改本位といへるも此の義なり。當相卽道卽事而眞と申すも、此の謂れなりしかるを凡夫所見のまゝにて、やがて佛知見なりと心得たるは大なる錯なり。若しさやうならば諸佛の出世し玉ふこと何事のためとか申すべきや顯密の宗師みな學者のために修行をすゝめ玉へるは何事の對治のためぞや、古の大師達みな聚落の外に伽藍を立て女人を入れられず、酒肉等を制し玉へる事は何の謂ぞや。