都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
佛ヨリ二十八世達摩大師、見性成佛ト說リ、又儒ニハ、道ノ大原ハ天ニ出、依テ天ノ命コレヲ性ト云、性ニ率ハ人ノ道ナリト說玉フ、性ト云モ、天地人ノ體ナリ、神儒佛トモニ、悟ル心ハ一ナリ、何レノ法ニテ得ルトモ、皆我心ヲ得ルナリ、又禪家ノ僧ナドハ、天地ハ大豆粒ノヤウナル小キ者ナルヲ、己トシ止マランヤト云、此ハ法性不思善不思惡ノ地位ニ至レバ、天地ノ名ヲ離レタル者ナルユヘニ、此假ノ名ニ泥ミ止マラヌコトヲ云ナリ、然レドモ、天地ノ外ヘ去トイフコトニハ非ズ、又性理ニクラキ儒學者ナドハ、此事ヲ聞驚テ、コレハ禪家ノコト、格別ナリト云テ、除キ置ナリ、是ヲ除キ置バ、告子ガ弟子ニ成テ、不得言勿求心トイフ者ニシテ、
新字:仏ヨリ二十八世達摩大師、見性成仏ト説リ、又儒ニハ、道ノ大原ハ天ニ出、依テ天ノ命コレヲ性ト云、性ニ率ハ人ノ道ナリト説玉フ、性ト云モ、天地人ノ体ナリ、神儒仏トモニ、悟ル心ハ一ナリ、何レノ法ニテ得ルトモ、皆我心ヲ得ルナリ、又禅家ノ僧ナドハ、天地ハ大豆粒ノヤウナル小キ者ナルヲ、己トシ止マランヤト云、此ハ法性不思善不思悪ノ地位ニ至レバ、天地ノ名ヲ離レタル者ナルユヘニ、此仮ノ名ニ泥ミ止マラヌコトヲ云ナリ、然レドモ、天地ノ外ヘ去トイフコトニハ非ズ、又性理ニクラキ儒学者ナドハ、此事ヲ聞驚テ、コレハ禅家ノコト、格別ナリト云テ、除キ置ナリ、是ヲ除キ置バ、告子ガ弟子ニ成テ、不得言勿求心トイフ者ニシテ、
書き下し
仏より二十八世達摩大師、見性成仏と説けり。又儒には、道の大原は天に出づ、依りて天の命これを性と云ひ、性に率ふは人の道なりと説き給ふ。性と云ふも、天地人の体なり。神儒仏ともに、悟る心は一なり。何れの法にて得るとも、皆我が心を得るなり。又禅家の僧などは、天地は大豆粒のやうなる小さき者なるを、己とし止まらんやと云ふ。此れは法性不思善不思悪の地位に至れば、天地の名を離れたる者なるゆゑに、此の仮の名に泥み止まらぬことを云ふなり。然れども、天地の外へ去るといふことには非ず。又性理にくらき儒学者などは、此の事を聞き驚きて、これは禅家のこと、格別なりと云ひて、除き置くなり。是を除き置かば、告子が弟子に成りて、言に得ずんば心に求むること勿れといふ者にして、
現代語訳
釈迦から二十八代の達磨大師は「見性成仏(本性を見て仏となる)」と説きました。また儒では「道の大もとは天から出る」とし、天の命ずるものを性と言い、性に従うのが人の道だと説かれます。性というのも天地人の本体です。神道・儒教・仏教ともに、悟る心は一つです。どの法で得ても、みな自分の心を得るのです。また禅の僧などは、天地など大豆粒のような小さなもので、そこにとどまっていられようかと言います。これは善悪を思わない法性の境地に至れば天地という名を離れるので、この仮の名にとらわれないことを言っているのです。けれども天地の外へ去るということではありません。また性理に暗い儒学者などは、これを聞いて驚き、これは禅家のことで別物だと言って除けておきます。これを除けておくなら、告子の弟子になって「言葉で納得できないことを心に求めるな」と言う者と同じで、
解説

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