夢中問答集 / 『夢中問答集』心とは何か、身心は幻か
問此の身は貴賤ことなりといへども、同じく生老病死にうつさる、實に幻化のごとし。此の心は色形なければ、常住不滅なるべししかるを身心俱に幻化のごとしといへることは、何ぞや經の中にも心は幻のごとしと說ける文もあり、心は常住不滅と明せる言もあり、何れの中をか正とすべきや。 答心といへる言は同じけれども、其の義に種々の差別あり、樹木の皮膚は皆朽失せて其の中の堅實にして、くちのこれる處をも木心となづく、梵語にはこれを乾栗駄といへり、紇栗陀耶ともいへり。密宗に肉團心を明せり、宗鏡錄の中には肉團心の梵語は、紇利陀耶といへり。木石等の年を經て精靈あるをも心といふ。梵語にはこれを矣栗駄といへり、慮知分別するをも心となづく有情の類にこれあり、梵語には質多といへり、凡夫の我心と計する者のは是なり。小乘敎の中に心といへるも、此の質多心をさすなり、眞言敎に質多心を菩提心と談ずる事あり、凡夫所計の質多にはあらず、梵語には阿賴耶といへるをば漢語には含藏識といへり、卽ち是れ第八識なり。梵語には末那といへるは漢語には染汚意となづく、卽ち是第七識なり、これらは皆有情の具足せる心法の類なり。此の二つは大乘に始めてあかせり凡夫小乘はかやうの心ありともしらず、第八識は無明と法性と和合する處なるが故に、唯妄にもあらず唯眞にもあらず、此の八識を心王と談ずる敎もあり。或は此の上に第九識を立たり梵語には庵摩羅と名けたり。漢語には清淨無垢識といへり、此は是れ衆生の本心なり、迷倒の時も迷倒に染せられず、故に清淨無垢となづけたり、かゝる種々の謂れあるによりて一心についてしばらく眞妄をわかてり、凡夫の慮知分別は悉く是れ妄心なり、四大和合する時假りに此の相あり、すべて實體なし故にこれを空花にたとへ幻化にたとふかやうの妄心眞心によりてかりに起れり。故にすべて目體なし、たとへば人の本月によりて、第二の月を見るがごとし。月に二相はなけれ共、目をひねる者の所見によせて第二月とは名けたり。心に二相はなけれ共迷人の我心と思へるものは實にあらず、故に幻心となづく實は生滅心ともいへり。妄心とて實に生滅する物あるにはあらず、聖人の所見に約すれば常住不滅なり、故にこれを眞心と名けたり。かやうのわけめをしらしめんために、眞心を梵語に說く時は、乾栗駄といへり、樹木の堅實不壞の義になぞらへて衆生の本心の金剛不壞なる事をあかせり。楞伽經の中に、或は自心と說き、或は妙心と說ける心の字の下に皆梵語は、乾栗駄と註せるは此の意なり。梵語の心經に心の字をば紇栗駄耶といへり、宗鏡錄の中には、心にあまたのしなある事を明かして、今は乾栗駄心を宗とすといへり。凡夫の心と思へる者は色形見えずといへ共、刹那に生滅してしばらくも停住せざる事水の流注し燈の焰を續がごとし。色身と同じく、生住異滅すしかるを身は、生滅すれども心は常住なりと思へるは外道の見なり。心を常住といふ事は、凡聖同體にして色心不二なる一心法界をしめすなり。されば語人の所見に約すれば、たゞ心のみ常住なるにあらず身も亦常住なり。しかるを身は生滅し、心は常住なりと申すは、大乘の法門にあらず、大日經の疏に云く、一切衆生の色心實相にして、本より毘盧遮那の平等智身なりと云云。昔南陽の忠國師僧に問て云く、汝何れの處よりか來る僧の云く、南方より來れり。國師の云く、南方の知識如何か人にしめすや。僧云く、身は壞滅すといへ共、心は常住不滅なり。國師の云く、此は是れ外道の神我の見なり。僧の云く。和尙如何か人にしめす。國師の云く、我は說く身心一如なりと云云。そのかみ馮濟川といへる俗人ありき、壁の上に死屍を繪にかけるを見て、これを題して一偈を述ぶ。屍は這裏にあり、其の人何くにか在る、乃ち知んぬ一靈皮袋に居せざる事を、此の偈の意は、一靈とは心をさし皮袋とは身をたとへたり、此の人いまだ神我の見をまぬがれず、故に大慧禪師うけがはず、別に一偈を作り給へり。此の形骸に卽して便ち是其の人なり、一靈皮袋、皮袋一靈、濟川が偈は其の意やしりやすし、大慧の頌をばいかゞ心得べき、身心一如なる法門は、大乘の通理なる故に其口頭の所談を取らば、大慧の意にそむくことあらんや。其の心中の計著を論せば、濟川が見を越ざる人も多かるべし、眞心妄心の差別は圓覺楞嚴等の經の中にくはしく明せり、具さに引くに及ばず。
新字:問此の身は貴賤ことなりといへども、同じく生老病死にうつさる、実に幻化のごとし。此の心は色形なければ、常住不滅なるべししかるを身心倶に幻化のごとしといへることは、何ぞや経の中にも心は幻のごとしと説ける文もあり、心は常住不滅と明せる言もあり、何れの中をか正とすべきや。 答心といへる言は同じけれども、其の義に種々の差別あり、樹木の皮膚は皆朽失せて其の中の堅実にして、くちのこれる処をも木心となづく、梵語にはこれを乾栗駄といへり、紇栗陀耶ともいへり。密宗に肉団心を明せり、宗鏡録の中には肉団心の梵語は、紇利陀耶といへり。木石等の年を経て精霊あるをも心といふ。梵語にはこれを矣栗駄といへり、慮知分別するをも心となづく有情の類にこれあり、梵語には質多といへり、凡夫の我心と計する者のは是なり。小乗教の中に心といへるも、此の質多心をさすなり、真言教に質多心を菩提心と談ずる事あり、凡夫所計の質多にはあらず、梵語には阿頼耶といへるをば漢語には含蔵識といへり、即ち是れ第八識なり。梵語には末那といへるは漢語には染汚意となづく、即ち是第七識なり、これらは皆有情の具足せる心法の類なり。此の二つは大乗に始めてあかせり凡夫小乗はかやうの心ありともしらず、第八識は無明と法性と和合する処なるが故に、唯妄にもあらず唯真にもあらず、此の八識を心王と談ずる教もあり。或は此の上に第九識を立たり梵語には庵摩羅と名けたり。漢語には清浄無垢識といへり、此は是れ衆生の本心なり、迷倒の時も迷倒に染せられず、故に清浄無垢となづけたり、かゝる種々の謂れあるによりて一心についてしばらく真妄をわかてり、凡夫の慮知分別は悉く是れ妄心なり、四大和合する時仮りに此の相あり、すべて実体なし故にこれを空花にたとへ幻化にたとふかやうの妄心真心によりてかりに起れり。故にすべて目体なし、たとへば人の本月によりて、第二の月を見るがごとし。月に二相はなけれ共、目をひねる者の所見によせて第二月とは名けたり。心に二相はなけれ共迷人の我心と思へるものは実にあらず、故に幻心となづく実は生滅心ともいへり。妄心とて実に生滅する物あるにはあらず、聖人の所見に約すれば常住不滅なり、故にこれを真心と名けたり。かやうのわけめをしらしめんために、真心を梵語に説く時は、乾栗駄といへり、樹木の堅実不壊の義になぞらへて衆生の本心の金剛不壊なる事をあかせり。楞伽経の中に、或は自心と説き、或は妙心と説ける心の字の下に皆梵語は、乾栗駄と註せるは此の意なり。梵語の心経に心の字をば紇栗駄耶といへり、宗鏡録の中には、心にあまたのしなある事を明かして、今は乾栗駄心を宗とすといへり。凡夫の心と思へる者は色形見えずといへ共、刹那に生滅してしばらくも停住せざる事水の流注し灯の炎を続がごとし。色身と同じく、生住異滅すしかるを身は、生滅すれども心は常住なりと思へるは外道の見なり。心を常住といふ事は、凡聖同体にして色心不二なる一心法界をしめすなり。されば語人の所見に約すれば、たゞ心のみ常住なるにあらず身も亦常住なり。しかるを身は生滅し、心は常住なりと申すは、大乗の法門にあらず、大日経の疏に云く、一切衆生の色心実相にして、本より毘盧遮那の平等智身なりと云云。昔南陽の忠国師僧に問て云く、汝何れの処よりか来る僧の云く、南方より来れり。国師の云く、南方の知識如何か人にしめすや。僧云く、身は壊滅すといへ共、心は常住不滅なり。国師の云く、此は是れ外道の神我の見なり。僧の云く。和尚如何か人にしめす。国師の云く、我は説く身心一如なりと云云。そのかみ馮済川といへる俗人ありき、壁の上に死屍を絵にかけるを見て、これを題して一偈を述ぶ。屍は這裏にあり、其の人何くにか在る、乃ち知んぬ一霊皮袋に居せざる事を、此の偈の意は、一霊とは心をさし皮袋とは身をたとへたり、此の人いまだ神我の見をまぬがれず、故に大慧禅師うけがはず、別に一偈を作り給へり。此の形骸に即して便ち是其の人なり、一霊皮袋、皮袋一霊、済川が偈は其の意やしりやすし、大慧の頌をばいかゞ心得べき、身心一如なる法門は、大乗の通理なる故に其口頭の所談を取らば、大慧の意にそむくことあらんや。其の心中の計著を論せば、済川が見を越ざる人も多かるべし、真心妄心の差別は円覚楞厳等の経の中にくはしく明せり、具さに引くに及ばず。
書き下し
問此の身は貴賤ことなりといへども、同じく生老病死にうつさる、實に幻化のごとし。此の心は色形なければ、常住不滅なるべししかるを身心俱に幻化のごとしといへることは、何ぞや經の中にも心は幻のごとしと說ける文もあり、心は常住不滅と明せる言もあり、何れの中をか正とすべきや。 答心といへる言は同じけれども、其の義に種々の差別あり、樹木の皮膚は皆朽失せて其の中の堅實にして、くちのこれる處をも木心となづく、梵語にはこれを乾栗駄といへり、紇栗陀耶ともいへり。密宗に肉團心を明せり、宗鏡錄の中には肉團心の梵語は、紇利陀耶といへり。木石等の年を經て精靈あるをも心といふ。梵語にはこれを矣栗駄といへり、慮知分別するをも心となづく有情の類にこれあり、梵語には質多といへり、凡夫の我心と計する者のは是なり。小乘敎の中に心といへるも、此の質多心をさすなり、眞言敎に質多心を菩提心と談ずる事あり、凡夫所計の質多にはあらず、梵語には阿賴耶といへるをば漢語には含藏識といへり、卽ち是れ第八識なり。梵語には末那といへるは漢語には染汚意となづく、卽ち是第七識なり、これらは皆有情の具足せる心法の類なり。此の二つは大乘に始めてあかせり凡夫小乘はかやうの心ありともしらず、第八識は無明と法性と和合する處なるが故に、唯妄にもあらず唯眞にもあらず、此の八識を心王と談ずる敎もあり。或は此の上に第九識を立たり梵語には庵摩羅と名けたり。漢語には清淨無垢識といへり、此は是れ衆生の本心なり、迷倒の時も迷倒に染せられず、故に清淨無垢となづけたり、かゝる種々の謂れあるによりて一心についてしばらく眞妄をわかてり、凡夫の慮知分別は悉く是れ妄心なり、四大和合する時假りに此の相あり、すべて實體なし故にこれを空花にたとへ幻化にたとふかやうの妄心眞心によりてかりに起れり。故にすべて目體なし、たとへば人の本月によりて、第二の月を見るがごとし。月に二相はなけれ共、目をひねる者の所見によせて第二月とは名けたり。心に二相はなけれ共迷人の我心と思へるものは實にあらず、故に幻心となづく實は生滅心ともいへり。妄心とて實に生滅する物あるにはあらず、聖人の所見に約すれば常住不滅なり、故にこれを眞心と名けたり。かやうのわけめをしらしめんために、眞心を梵語に說く時は、乾栗駄といへり、樹木の堅實不壞の義になぞらへて衆生の本心の金剛不壞なる事をあかせり。楞伽經の中に、或は自心と說き、或は妙心と說ける心の字の下に皆梵語は、乾栗駄と註せるは此の意なり。梵語の心經に心の字をば紇栗駄耶といへり、宗鏡錄の中には、心にあまたのしなある事を明かして、今は乾栗駄心を宗とすといへり。凡夫の心と思へる者は色形見えずといへ共、刹那に生滅してしばらくも停住せざる事水の流注し燈の焰を續がごとし。色身と同じく、生住異滅すしかるを身は、生滅すれども心は常住なりと思へるは外道の見なり。心を常住といふ事は、凡聖同體にして色心不二なる一心法界をしめすなり。されば語人の所見に約すれば、たゞ心のみ常住なるにあらず身も亦常住なり。しかるを身は生滅し、心は常住なりと申すは、大乘の法門にあらず、大日經の疏に云く、一切衆生の色心實相にして、本より毘盧遮那の平等智身なりと云云。昔南陽の忠國師僧に問て云く、汝何れの處よりか來る僧の云く、南方より來れり。國師の云く、南方の知識如何か人にしめすや。僧云く、身は壞滅すといへ共、心は常住不滅なり。國師の云く、此は是れ外道の神我の見なり。僧の云く。和尙如何か人にしめす。國師の云く、我は說く身心一如なりと云云。そのかみ馮濟川といへる俗人ありき、壁の上に死屍を繪にかけるを見て、これを題して一偈を述ぶ。屍は這裏にあり、其の人何くにか在る、乃ち知んぬ一靈皮袋に居せざる事を、此の偈の意は、一靈とは心をさし皮袋とは身をたとへたり、此の人いまだ神我の見をまぬがれず、故に大慧禪師うけがはず、別に一偈を作り給へり。此の形骸に卽して便ち是其の人なり、一靈皮袋、皮袋一靈、濟川が偈は其の意やしりやすし、大慧の頌をばいかゞ心得べき、身心一如なる法門は、大乘の通理なる故に其口頭の所談を取らば、大慧の意にそむくことあらんや。其の心中の計著を論せば、濟川が見を越ざる人も多かるべし、眞心妄心の差別は圓覺楞嚴等の經の中にくはしく明せり、具さに引くに及ばず。
現代語訳
問:この身は身分の高い低いに関わらず、同じく生老病死に移り変わる。まことに幻のようである。この心は色も形もないから、常住不滅のはずである。それなのに身も心もともに幻のようだと言うのは、どういうことか。経の中にも心は幻のようだと説く文があり、心は常住不滅だと明かす言葉もある。どちらを正しいとすべきか。 答:心という言葉は同じでも、その意味にはさまざまな違いがある。樹木の皮はみな朽ち失せて、その中の堅く実があって朽ち残る部分も木心と名づける。梵語ではこれを乾栗駄といい、また紇栗陀耶ともいう。密教では肉団心を説く。『宗鏡録』では肉団心の梵語は紇利陀耶という。木や石が年を経て精霊を持つのも心という。梵語ではこれを矣栗駄という。思い量り知り分別するのも心と呼ぶ。有情の類にこれがあり、梵語では質多という。凡夫が我が心と思い込むものはこれである。小乗の教えの中で心というのも、この質多心を指す。真言教で質多心を菩提心として説くこともあるが、それは凡夫が思う質多ではない。梵語で阿頼耶というのを漢語では含蔵識という。つまり第八識である。梵語で末那というのを漢語では染汚意といい、つまり第七識である。これらはみな有情がそなえる心の法の類である。この二つは大乗が初めて説いたもので、凡夫や小乗はこうした心があることも知らない。第八識は無明と法性が和合する所なので、ただ妄でもなくただ真でもない。この八識を心王として説く教えもある。さらにその上に第九識を立てる。梵語で庵摩羅といい、漢語で清浄無垢識という。これは衆生の本心である。迷い転倒するときも迷いに染まらない。だから清浄無垢と名づけた。こうしたさまざまな理由があって、一つの心についてしばらく真と妄を分けた。凡夫の思い量り分別するものはことごとく妄心である。四大が和合するとき仮にこの相がある。すべて実体がない。だから空中の花にたとえ、幻にたとえる。こうした妄心は真心によって仮に起こった。だから全く自体がない。たとえば人が本当の月によって第二の月を見るようなものである。月に二つの相はないが、目をひねった人の見るものにしたがって第二の月と名づけた。心にも二つの相はないが、迷う人が我が心と思うものは実ではない。だから幻の心という。実は生滅心ともいう。妄心といっても実際に生滅する物があるわけではない。聖人の見方からすれば常住不滅である。だからこれを真心と名づけた。こうした区別を知らせるために、真心を梵語で説くときは乾栗駄という。樹木の堅く壊れない意味になぞらえて、衆生の本心が金剛のように壊れないことを明かした。『楞伽経』に、あるいは自心と説き、あるいは妙心と説く心の字の下に、みな梵語で乾栗駄と注があるのはこの意味である。梵語の『心経』では心の字を紇栗駄耶という。『宗鏡録』には、心にたくさんの種類があることを示し、今は乾栗駄心を宗とすると述べている。凡夫が心と思うものは、色や形が見えなくても、刹那に生じ滅びて、しばらくも留まらない。水が流れ、灯火が次々に続くようなものである。色身と同じく生・住・異・滅する。それなのに身は生滅しても心は常住だと思うのは外道の見である。心を常住だと言うのは、凡夫も聖者も同体で、色と心が二つでない一心法界を示すものである。だから悟った人の見方からすれば、心だけが常住なのではなく、身もまた常住である。身は生滅し心は常住だというのは、大乗の法門ではない。『大日経疏』に「すべての衆生の色と心は実相であり、もとより毘盧遮那の平等智身である」とある。昔、南陽の忠国師が僧に尋ねた。あなたはどこから来たか。僧は南方から来たと答えた。国師は、南方の師は人にどう示しているかと問う。僧は、身は壊れ滅びても、心は常住不滅だと言うと答えた。国師は、それは外道の神我の見だと言った。僧が、和尚はどう人に示されるのかと問うと、国師は、私は身心一如と説くと答えた。むかし馮済川という俗人がいた。壁に死体を描いた絵を見て、偈を詠んだ。「屍はここにある、その人はどこにいるのか。ならば一霊は皮袋にいないと知る」。この偈の意味は、一霊は心を指し、皮袋は身にたとえたものである。この人はまだ神我の見を免れていなかったので、大慧禅師は認めず、別に偈を作られた。「この形骸のままで、これがその人である。一霊は皮袋、皮袋は一霊」。済川の偈はその意味がわかりやすい。大慧の頌はどう心得るべきか。身心一如の法門は大乗に通ずる道理であるから、口先の言葉だけを取れば、大慧の意にそむくことはない。その心中の執着を論じれば、済川の見を超えていない人も多いだろう。真心と妄心の違いは『円覚経』『楞厳経』などの経の中に詳しく説かれているので、詳しく引くには及ばない。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』凡夫と聖者の見方の違い問凡聖所見の差別いかん。 答禪宗には直に本分をしめす、故にかやうの事を論せず、敎の中には種々の義あり、しばらく首楞嚴經の說相について粗申すべし。彼の經の中に七大を明せり謂ゆる地大水大火大風大空大根大識大なり。此の七大皆な是れ如來藏の中の性德として、法界に周遍し融通無礙なり。これを性火性風等となづく眞言敎の中に六大無礙にして諸法の體なりと談ずるもこの意なり。たゞし眞言敎には根大をあかさず、根大とは眼耳等の六根も皆な法界に周遍せる義なり。眞言には六大を法界の體とす、楞嚴經には如來藏を諸法の體とす、七大は皆如來藏所具の德用なりとあかせり。皆な是れ如來の隨宜說法なり、眞言に六大と申すも緣生の水火等をさすにはあらず、楞嚴經に性火性水等といへる六大なり。四曼と談ずるは緣生の諸法なり。この故に六大を體とし四曼を相とし三密を用とすと明せり、七大に皆な同じく性德と緣生との差別あり。先づ一大をよく〱心得ぬれば諸大も亦同じかるべし。世間に木の中より鑽出し石の中より打出せる火はこれ緣生の火なり。此の火は實體なし薪にても油にても其の緣なくてはもゆることなし。薪油等の緣ある時かりに其の相を現ず、故に虛妄にして實體なしと說けり。顯密の諸經にも緣生の諸法の實體なす事は同一說なり、性火といへるは法界に周遍して、燃ゆることもなく滅する事もなし。凡夫はたゞ緣生の火をのみ見て性火をばしらず。若し知り得ぬれば緣火とてきらふべきことなし、緣火は是性火の用なるが故に此の火大のごとく餘大も亦然り。乃至識大とは衆生の心識なり、それもよのつね凡夫の心と思へるは緣生の心なり、經の中にこれを緣心と說けり。此の心はすべて實體なし、六塵の緣によりてかりに見聞覺知の相あり、緣生の火の薪油等の緣によりて、かりにもゆる相あるがごとし。愚人はたゞ緣心をのみ知りて性心をしらず、外典乃至小乘敎の中に心といへるは皆是緣心なり、大乘の中に八識を談ずるも猶是れ緣心の分劑なり、是を以て極大乘の中に第九識を立てたり、是れ卽ち性德の識大をしらしめんためなり。諸法といへるは色心二法なり、七大の中に識大はこれ心法なり、其の餘の六大は皆色法なり。然れ共此の七大ともに如來藏の中に具足して五融無礙なるが故に色心の差別なし、これを眞法界となづく差別なしといへ共、色心混濫する事なし。然らば卽ち其の色法も生滅盛衰の形相にあらず、其心法も動靜起滅の轉變なし、經の中に諸法實相常住と說けるは此の義なり。凡夫の妄見起る時、此の如來藏虛妄の緣に隨つて色心諸法の相を現ず、凡夫の妄見轉變するが故に其の所見の諸法も亦皆な轉變の相あり。たとへば舟の行く時、岸のうつると見ゆるがごとし、又翳眼にて見る時、虛空皆な花となりて亂起亂滅するがごとし。諸法は皆な是れ虛妄と說けるは此の義なり、然らば則或は諸法虛妄と說き、或は諸法常住と談ず、其の言句は異なりといへども、其の法體はこれ同じ佛意をしらざる者のは其の言句の差別に隨つて此れを取て彼を捨つ皆な是れ世俗の戯論なり、翳眼の人と明眼の人と二人同所にありて虛空に向へる時、翳眼の前には積々の花ありて亂起亂滅する相あり。しかれ共明眼の人は亂起亂滅の處をあらためずして淸淨の虛空とみるがごとし、煩惱卽菩提生死卽涅槃常位卽妙不改本位といへるも此の義なり。當相卽道卽事而眞と申すも、此の謂れなりしかるを凡夫所見のまゝにて、やがて佛知見なりと心得たるは大なる錯なり。若しさやうならば諸佛の出世し玉ふこと何事のためとか申すべきや顯密の宗師みな學者のために修行をすゝめ玉へるは何事の對治のためぞや、古の大師達みな聚落の外に伽藍を立て女人を入れられず、酒肉等を制し玉へる事は何の謂ぞや。
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夢中問答集・『夢中問答集』砂を煮て飯にならず問ゆがめる物をおしなをせば、すぐになるがごとく凡夫の妄心の邪僻なるを修練して、眞正になせば佛心ともなるべきとこそ覺ゆるを、妄心は第二の月に同じとて一向にきらふことは何ぞや、若し爾らば凡夫の佛に成ることはあるまじきやらん。 答此の疑は是圓覺經の中の普賢菩薩の疑問なり、首楞嚴經の中に阿難亦此の疑ひを生ぜり。佛阿難に告げて云はく、汝本心を失つて慮知分別の心をとめて自心と思へり。此れは汝が心にあらず、阿難疑つて云く六道に輪廻する事も此の心によれり、乃至佛果を得る事も亦此心によるべし。しかるを此の心若し我が心にあらずば何を以て修行して佛果を成ずべきや。若し此の心なくば土木瓦石と何ぞことならん、佛の言く、汝が心をおさへて無しと思へといふにはあらず。汝が心と思へるもの實に有る者ならばかならず、在る所あるべし、何れの處にか在るやと問ひ玉ふ時、阿難始めは此の心は身の內にありと答へ申さる。佛汝が身の內にも此の心なきよしを責め玉ふ時、阿難言く身の外にあり佛又これをしからずと責め玉ふ、阿難かくのごとく七處までさし申さる、最後には我が心は內にあるにもあらず、外にあるにもあらず、中間にあるにもあらず、一切無著なるは我が心なりとのべられき。しかれども、佛皆これをゆるし玉はず、この故に阿難茫然として分別する所なし。爾の時に佛の言はく一切衆生無始より、このかた妄りに輪廻を受けたることは、本心を失ふて慮知の心をとめて我が心と思へるによれり、此の故にたま〱佛法を修行すといへども二種の根本をしらずして錯つて修行する故に、二乘外道及び天魔の境界に墮つ、二種の根本とは一つには、本覺妙明元清淨の體なり、此は是れ衆生の自心の本源なり。此の根本をば忘失せり、二つには無始輪廻の根本なり、汝が慮知分別をとめて自心と思へる者なり。若し此の心を以て修行せば、輪廻の業とはなるとも、本源に到ることあるべからず、たとへば砂を煮て飯となさんと思はんがごとし、たとひ劫數をふるとも熟砂とはなるべし、飯とはなるべからずと云云。 南岳大師の一乘止觀に云く、止觀の行者先づ心識をして淨心に依止せしむべし。若し生滅の心を以て修行せば、成就すべからずと云云。大日經疏に云く、凡夫二乘外道は無生滅の心をしらざるのみにあらず、生滅の心をも亦しらずと云云。又云く心性は念をはなれたり、憶度の知るべき所にあらずと云云。占察業報經に云く、心相に二種あり。一つには眞二つには妄なり、眞とは心體如々清淨圓滿にして、一切の處に遍して一切の法を生長す、妄とは分別覺知の心なり、實體あとなくして虛僞の法を出生すと云云。
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夢中問答集・『夢中問答集』縁生の火と性火のたとえ問孔子老子等も皆菩薩の化現と申せども、皆この慮知の心をおさむる道を敎へられたり、敎門の諸宗其の所談ことなりといへども此の慮知の心について、日來の邪心をひるがへして正智となさしむる法門なり、しかるを圓覺楞嚴一向に、此の緣心をば龜毛兎角のやうに說事は何の故ぞや。 答色心の二法に皆緣生と法爾との差別あり、諸緣和合してかりに生ずる相あるをば緣生となづく、如來藏の中に圓具せる性德をば法爾といへり。世間緣生の火は實體なしといへ共、緣に隨ひて其の用をほどこす故に、此の火をよく用ふる時は、寒をふせぎ食を調ふる大益あり。あしく用ふる時は、家をやき財をうしなふ大損あり。しかれば、此の火を損なきやうに用ふべきよしを敎ふるは、世間の益のためなり。此の敎へのまゝに火を用ふるやうをしりたりとも、いまだ法爾廣大の性火をばしらざる人なり。若し此の性火をしらしめんと思はば此の因緣生の火の損益に目をかくることをば制すべし。此の心法も又かくのごとし、此の緣生の幻心實體なしといへども、此の心若し惡を作せば、惡趣に墮して種々の苦を受け、此の心若し善を作せば、善處に生じて種々の樂を受く、此の理をしる故に、凡夫外道の中にも、此の心をおさめて惡事をばせざる者あり。しかれ共緣生の幻心をおさめて一旦人中天上の果報を得たる益ばかりにていまだ本心をしらざる故に、つひに輪廻をまぬがれず、乃至三賢十聖の菩薩も 此の幻心の邪僻をひるがへして、幻智となせるばかりにて、いまだ本心に契當せず。この故に變易生死をまぬがれず、皆な是れ世間の緣生の火をよく受用してあやまちせざる分齊にあたれり。然らば卽ち圓覺楞嚴の中には此の緣火をはなれて性火のある事を明かし緣心をはなれて、其の心のある事を談ずるなり。餘宗の法門にはしばらく幻智を起して幻妄をつくして、後は自然に本心に契當すべきことを談せり。又圓覺楞嚴にも幻智を起して、幻妄を除いて後境智俱に妄じて、非幻の處に到るべきことを說けるはこの謂れなり。しかるを末學の中にこの幻智を談ずるを佛祖の本意なりと思へる人あり。圓覺に云く、幻身滅するが故に幻心も亦滅す、幻心滅するが故に幻塵も又滅す、幻塵滅するが故に、幻滅も亦滅す幻滅々するが故に非幻は滅せず。たとへば鏡をとぐに垢盡て明の現ずるがごとしまさに知るべし、身心はみな幻垢たり、垢相ながく盡きて十方清淨なりと云云。かやうの經文をあしく心得ていまだ本心を悟らざる人、身心すべて滅盡して空寂なる處を眞實の佛法なりと思へる人あり。此れ二乘の滅盡定外道の悲想定なり。たとへば緣生の火を眞火にあらずときらへるを聞きて、此の緣火をみな打滅して暗冥なる處を眞火と思はんがごとし。孔子老子乃至小乘權敎の中に此の幻心を修することを談せば皆な是れ方便の說なり。
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万民徳用・武士日用・答その二後半二、遊山活計観楽の心。三、義理をしらざる心。四、因果の理をしらざる心。五、無常幻化をしらざる心。六、名聞利養を思ふ心。七、花美奢心。八、狐疑不信の心。九、物にすき好む一切着の心。十、怯弱にして勇のなき心。十一、慳貪無慈悲の心。十二、他の是非を思ふ心。十三、我執自慢の心。十四、愛念嫉妬の心。十五、恩をしらざる心。十六、諂証諂曲の心。十七、生死を忘るゝ心。又喜怒憂思悲恐驚の七情あり。此の七情より万病発るといへり。如此の心は、黒闇の中より出る心にして、品々限なしといへども、右の旨を以て察すべし、唯是れ執着を体として出るが故に、念々に発るに随て、其念に負て本心を失ひ、苦悩して沈む心也。此の沈む心に住する時、忽ち出て死せよといは、苦患強かるへし。去れは己に勝つを賢とし、己か心に負てなやむを愚とす。己か心に勝ち得る時は、万事に勝ちて、物の上と成て自由なり。己か心に負くる時は、万事に負て物の下と成て、うかふ事あたはす。心に心を着けて、強く守るへし。「心こそ心まとはす心なれ心に心こゝろゆるすな。」此の歌尤も至極せり。心を恣にする時は、着相の念增長して、三途に落入るなり。心を殺し得る時は、直に仏果に至るなり。古語に殺生せよ殺生せよ、刹那も殺生せざれは、地獄に入ると矢のごとし。如此の語に眼を着くへし。正法念経に、智者常懐憂。如似獄中囚。愚者常歓楽。猶如光音天。仏説如此、先賢の用心皆以て猶疎なるべからす。一大事といふ事を能くしるべし。何ぞ夢幻の此の身を愛楽して、泥犂に沈みはてんや。時々に心を改むへし。我心面にあらはれいでんには、人中に交りかたかるへし。偏に慚愧の心強くして、正直の旨に住し、離相離名の大願力を発し、一切を放下して、勇猛精進の信力を以て身命を捨て、切に急に無上の道にすゝむへし。此の心昼夜閒断なく、通身堅固に夢中ともに守て、久々に純熟せは、自然に内外打成一片と成て、忽然として大夢さめて、仏法世法共に成就して、竪窮三際横亙十方へし。
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夢中問答集・『夢中問答集』夢と本分の家(下)佛法も亦かくのごとし、本分の田地には凡聖の相もなく淨穢の境もなし、無明業識の一夢起るが故に、無相の中に淨穢の境界を現じ、無爲の中に凡聖の差別を見る、我は凡夫也と思ふ時は東西に馳走して名利を求む求め得ざる時はなげきかなしむ。我は智人也と思ふ時は、一切の人をかろしめて高慢の心を起す、かゝる種々の顚倒にばかされて本分安樂の田地ある事を信ぜず。是れ卽ち夢中の妄境に心を轉せられてうつゝの境界を信せざるがごとし、其の中にたま〱利根の人ありて、凡聖淨穢業識の上に浮べる假相也。本分の田地にはすべてかやうの事なしと信ずれ共、いまだ大悟せざる故に、やゝもすれば幻化に誑惑せられて、我は是れ迷人也と思ひならはせる我執いまだ忘せざる故に、得法悟道をねがひ機辨神通ををうらやむ。しかる故に修行用心について邪正を論じ、應用問答において勝劣をあらそふ。此れは是れ夢みる人の我が所見は皆な夢也と信ずれ共、大夢いまださめざる故に、夢の境界にばかはされて其の中について、是非得失を論ずるがごとし。若し是れ最上根の人はたとひいまだ大悟の分はなけれ共、自他身心を計する事皆是れ業識の妄想也と分明に信解する故に、輪廻をもいとはず、解脫をも求めず、若しかくのごとくならば趣向の正しき人と申すべし。趣向のたゞしきをたのみて、滿足の思をなさば亦謬りなり。圓覺經に云く、衆生顚倒して妄に四大をとめて自身の相とし、六塵の緣影を自身の相とす、たとへば病目の空中の花及び第二の月を見るがごとし。是れによりて、妄に生死に輪轉する事あり、この故に無明となづく。此の無明といふは、實に體あるにあらず、夢中に人を見るときは其の體なきにあらざれ共、夢さめぬれば其の人ある事なきがごとし。首楞嚴經に云く、妙性圓明にして諸の名相をはなれたり、本より世界衆生ある事なしと云云。諸大乘經みな同じくかやうに說けり、何ぞこれを信ぜずして、身心を勞役して外に向つて馳求するや。世間の吉凶其の相いまだあらはれざる時は、愚人これをしらず。然れども世間の巫女陰陽師等のうらなひしめす言を信じて、それにまかせてふるまへば、時節到來して其の效をみる事あり。本分の一段は人々具足すれども、いまだ契當せざる人は、日に用ひて知る事なし。是の故に佛祖大慈をたれて叮嚀にしめし玉へり。たとひ宿習うすくして、直下に契當する事なくとも世間の陰陽師等を信ずるがごとく、佛祖の言を信じて、それにまかせて用心せば、何ぞしるしなからんや。