夢中問答集 / 『夢中問答集』心地・仏性と本分の田地
問敎の中に或は心地と談じ或は佛性と申すは本分の田地といへるにことなりや。 答敎門も了義の大乘に談ずるところは、別ならずしかれども敎門は一念の無明起れる上に、かりに衆生佛のわかれたる處について、しばらく心地を談じ、佛性を論ずこの故に禪門に生佛いまだわかれざる所を、本分の田地と申すには同じからず。若し人此の本分の田地に相應せば敎門に談ずる處の佛性心地如來藏眞如法性等乃至凡夫所見の山河大地草木瓦石にいたるまで、皆こと〱く本分の田地なるべし、必ずしも本分の田地といへる名目を貴ぶべきにはあらす。
新字:問教の中に或は心地と談じ或は仏性と申すは本分の田地といへるにことなりや。 答教門も了義の大乗に談ずるところは、別ならずしかれども教門は一念の無明起れる上に、かりに衆生仏のわかれたる処について、しばらく心地を談じ、仏性を論ずこの故に禅門に生仏いまだわかれざる所を、本分の田地と申すには同じからず。若し人此の本分の田地に相応せば教門に談ずる処の仏性心地如来蔵真如法性等乃至凡夫所見の山河大地草木瓦石にいたるまで、皆こと〱く本分の田地なるべし、必ずしも本分の田地といへる名目を貴ぶべきにはあらす。
書き下し
問敎の中に或は心地と談じ或は佛性と申すは本分の田地といへるにことなりや。 答敎門も了義の大乘に談ずるところは、別ならずしかれども敎門は一念の無明起れる上に、かりに衆生佛のわかれたる處について、しばらく心地を談じ、佛性を論ずこの故に禪門に生佛いまだわかれざる所を、本分の田地と申すには同じからず。若し人此の本分の田地に相應せば敎門に談ずる處の佛性心地如來藏眞如法性等乃至凡夫所見の山河大地草木瓦石にいたるまで、皆こと〱く本分の田地なるべし、必ずしも本分の田地といへる名目を貴ぶべきにはあらす。
現代語訳
問:経典の教えでは、心地と言ったり仏性と言ったりするが、これは本分の田地と言うのとは違うのか。 答:教門でも、了義の大乗が説くところは別ではない。しかし教門は、一念の無明が起こった上で、仮に衆生と仏が分かれた所について、しばらく心地を説き、仏性を論じる。だから、禅門が衆生と仏がまだ分かれていない所を本分の田地と呼ぶのとは同じではない。もし人がこの本分の田地にかなえば、教門に説く仏性・心地・如来蔵・真如・法性などはもちろん、凡夫が見る山河大地・草木瓦石に至るまで、ことごとく本分の田地である。必ずしも本分の田地という名称を貴ぶべきではない。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』本分の田地はどこにあるか問本分の田地は人々具足し、箇々圓成すといへ共、いまだ其の形を見ず、何れの所にかあるや身の中にありとせん、心の中にありとやせん、此の身心全體是れ本分の田地ありとやせん、此の身心をはなれて別にありとやせん。 答古人の云く、當處をはなれす常に湛然たり、もとむれば卽ちしんぬ君がるべからざる事をと云云。本分の田地は身心の中にあるにもあらず、身心の外見にあるにもあらず、身心全く是れ本分の所也といふもあたらず、有情非情の品類にもあらず、諸佛賢聖の智慧にもあらず、諸佛賢聖の智慧乃至衆生の身心及び世界國土は皆此の中より出生せり、しかる故にかりに本分の田地と名けたり金剛經に云く、諸佛及び諸佛の阿耨多羅三藐三菩提法も、皆此の經より出たりと云云、金剛般若といへるは本分の田地なり。圓覺經に云く、一切の清淨眞如菩提涅槃及諸の波羅蜜も、圓覺より流出せりと云云。圓覺とは本分田地なり。蓮華三昧經に云く、三十七尊も心城に住すと云云、心城とは本分田地なり、密宗に談ずる大日如來金剛薩埵等の三十七尊も、みな此の心城に住し玉へりしるべし。本分田地は眞如の妙理及び一切の佛菩薩の所依也いはんや、一切の淨穢世界衆生も皆これをはなれず。
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夢中問答集・『夢中問答集』見心成仏でなく見性成仏問古人の云く、達磨西來して文字を立せず、直に人の心を指て性を見て成佛せしむと云云。大乘の法門は皆自心是佛と談ず、しかるを見心成佛とはいはずして、見性成佛といへる其の意いかん。 答昔僧ありて此の疑ひを起して、忠國師に參じて、心と性との差別を問ひたてまつる。國師の云く、たとへば寒の時は水を結びて氷とし、暖の時は氷をとかして水となすがごとし。迷ふ時は性を結びて心とし、悟る時は心を融して性とす。心性同じといへ共、迷悟によりて差別せりと云云。忠國師かやうに心性のわけめをしめされたるも一往の說なり。語に隨つて解を生すべからず性といへる文字は一つなれ共其の義あまたあり。敎の中にしばらく三種の義をあかせり、一つには不改の義謂ゆる胡椒甘草等の性各かはりて胡椒はあまくならず、甘草は辛くならざるがごとし。二つには差別の義謂ゆる有情非情の各差別の體性なり。三つには法性の義謂ゆる萬法の本源不二の自性なり、外典乃至小乘敎の中には法性を談せず、たゞ不改の性差別の性について性の義を論せり。大乘敎の中に法性を談ずるについて、諸宗の義理差別あり。禪門はこれ敎外別傳なりまさにしるべし。見性といへども、敎門所談の法性の義にもあらざることを、いはんや外典等にあかせる性の義ならんや。人々本分の一段は心とも名くべからず性とも談ずべからずしかれども、此の心性の言によせて、本分をしらしめんために有る時は一心と說き、有る時は一性と談ず、直指人心見性成佛といふ事は、よのつねの迷人の心と思へることは、第二の月のごとくなる事をしらしめんために性と云ふて心とはいはざるなり。見性と申せばとて眼にて見るべきことにあらず、心識にてあきらむる事にもあらず、成佛と申すも今始めて佛に成りて相好を具し光明を放つべきにはあらず。たとへば酒に醉ふて本心を失へる人の時節到來して醉狂、忽ちにさめて本心になるがごとし、日來の迷倒忽ちに休歇して直下に本分に契當するを見性成佛と名けたり。大慧禪師の云く、無眼の宗師の人にしめすことは、皆な是れ曲て人心をさして性を說いて成佛せしむるなりと云云。今時の知識の中にたゞ心性の義理を說いて人にしらしむるを直指と思へる人あり、學者の中にもかやうの法門を解了するを得法と思へる人あり。これをば說性といふべし見性とはいふべからず。
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夢中問答集・『夢中問答集』禅と教えは同じか(上)問敎の中にも佛の相もなく、衆生の相もなしと談ぜり、禪宗に生佛いまだわかれざる處といふに同じからずや。 答敎の中に凡聖の相なしと申すは、凡聖わかれたる處について、其の體性の無相なることを談ぜり。禪宗に生佛已前と申すは此の義にあらず、其の語の似たるを以て禪敎同とは申すべからず、たとへば人の面のやうをそらに語る時額の中に眉あり眉の下に眼あり眼の下に鼻あり鼻の下に口ありと申せば、貴賤男女みな同じ面なるやうに聞ゆれ共、若し實に其の面をみる時は、各ことなるがごとし、敎門には言句義理を以て法門とする故に、義理の分劑について大小權實を判せり、敎外別傳不立文字といへる題目を見ながら宗師の言句について敎禪の同意を論せばあたるべからず、今時の禪者の中に宗師の人に示さる言句の中に敎家の法門にかはりたる事のあるを見て、これを禪の勝れたる證據とす。若し敎の法門にかはりたる故に禪は勝れたりといはゞ禪にかはりたる故に敎をも勝れたりといふべし。然らば卽ち敎外別傳の宗旨何ぞ言句義理の同異にあづからんや、或は云く敎は皆な言句義理の上に談せり、言句義理にあづからざる處禪門の宗旨なりと云云。若ししからば敎の中に言句義理を立ざる法門あり、これを禪宗といはんや、或は敎者の中に敎外別傳不立文字といへども禪師の人にしめす言句多し不立文字といはんやと難する人あり、禪師の言句多しといへ共此の言句の義理を人に習學せしめんためにはあらず、ただ佛法の正理は言句の上にあらざる事をしめさんためなり、言句の上にあらずと申せばとて言語道斷の處を宗旨とするにもあらず、寂默沈空の所を指示するにもあらず、古人の云く達磨西來の別に一法の人のために傳授するなしたゞ人々具足し、箇々圓成する底を指出するのみなりと云云、旣に人々具足といへり、何ぞひとり禪者のみ具足して敎者にはかけたりといはんや、たゞ敎者禪者のみ圓成するにあらず。田夫野人の農業をはげむ所にもあり、鍛冶番匠の工巧をいとなむ所にもあり、要を取ていはゞ、一切衆生の所作所爲見聞覺知行住坐臥遊戯談論の所皆な悉く西來の玄旨にあらずといふ事なし、何にいはん佛の敎へに隨つて種々の善行を修する人をや。しかれども、此の玄旨あることを知らざる故に、世間の幻相はばかされて妄りに輪廻を受くる者多し。佛此の妄想をやめんために種々の法門を說き玉へば、又此の法門を執著して玄旨をくらませる人あり。是の故に祖師西來して、本分の一段を指出す、この心を以て心に傳ふる、敎外の玄旨となづく。敎外の玄旨とて諸敎にかはりたる一段の法門を相承するにはあらず、若し言句にて相承すべき法門ならばたゞ是れめづらしき敎法なるべし、敎外別傳とはいふべからず、六祖よりこのかた五家わかれて各の宗風を立つといへ共、亦同じく人々具足することを悟らしめんためなり。
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夢中問答集・『夢中問答集』放下しきった静けさは本分か問一切放下の佛法世法を、胸中におかずば、これを本分の田地と申すべしや。 答達磨大師の云く、外に諸緣をおはず。內心あえぐことなくして、心墻壁のごとくならば、道に入べしと云云。大慧禪師此の語を擧げて云く、諸緣を放下して內心動せざるは道に入る。方便門なりといへる意なり。若しかやうなる處を眞實の道なりと思はゞ祖師の意にそむけりと云云。
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夢中問答集・『夢中問答集』夢と本分の家(下)佛法も亦かくのごとし、本分の田地には凡聖の相もなく淨穢の境もなし、無明業識の一夢起るが故に、無相の中に淨穢の境界を現じ、無爲の中に凡聖の差別を見る、我は凡夫也と思ふ時は東西に馳走して名利を求む求め得ざる時はなげきかなしむ。我は智人也と思ふ時は、一切の人をかろしめて高慢の心を起す、かゝる種々の顚倒にばかされて本分安樂の田地ある事を信ぜず。是れ卽ち夢中の妄境に心を轉せられてうつゝの境界を信せざるがごとし、其の中にたま〱利根の人ありて、凡聖淨穢業識の上に浮べる假相也。本分の田地にはすべてかやうの事なしと信ずれ共、いまだ大悟せざる故に、やゝもすれば幻化に誑惑せられて、我は是れ迷人也と思ひならはせる我執いまだ忘せざる故に、得法悟道をねがひ機辨神通ををうらやむ。しかる故に修行用心について邪正を論じ、應用問答において勝劣をあらそふ。此れは是れ夢みる人の我が所見は皆な夢也と信ずれ共、大夢いまださめざる故に、夢の境界にばかはされて其の中について、是非得失を論ずるがごとし。若し是れ最上根の人はたとひいまだ大悟の分はなけれ共、自他身心を計する事皆是れ業識の妄想也と分明に信解する故に、輪廻をもいとはず、解脫をも求めず、若しかくのごとくならば趣向の正しき人と申すべし。趣向のたゞしきをたのみて、滿足の思をなさば亦謬りなり。圓覺經に云く、衆生顚倒して妄に四大をとめて自身の相とし、六塵の緣影を自身の相とす、たとへば病目の空中の花及び第二の月を見るがごとし。是れによりて、妄に生死に輪轉する事あり、この故に無明となづく。此の無明といふは、實に體あるにあらず、夢中に人を見るときは其の體なきにあらざれ共、夢さめぬれば其の人ある事なきがごとし。首楞嚴經に云く、妙性圓明にして諸の名相をはなれたり、本より世界衆生ある事なしと云云。諸大乘經みな同じくかやうに說けり、何ぞこれを信ぜずして、身心を勞役して外に向つて馳求するや。世間の吉凶其の相いまだあらはれざる時は、愚人これをしらず。然れども世間の巫女陰陽師等のうらなひしめす言を信じて、それにまかせてふるまへば、時節到來して其の效をみる事あり。本分の一段は人々具足すれども、いまだ契當せざる人は、日に用ひて知る事なし。是の故に佛祖大慈をたれて叮嚀にしめし玉へり。たとひ宿習うすくして、直下に契當する事なくとも世間の陰陽師等を信ずるがごとく、佛祖の言を信じて、それにまかせて用心せば、何ぞしるしなからんや。