夢中問答集 / 『夢中問答集』第二の月のたとえ
問若し爾は則ち妄心の外に別に眞心を求むるあやまりにあらずや。 答眞妄の差別たやすく說きがたし、同と說き別と說く皆な是れあやまりなり、たとへば人の指にて目をおす時、眞月の外に第二の月をみるが如し。此の第二の月といふ事は目をおす人の前にあり、實には第二の月として眞月の外に其の形ある事なし。然れば卽ち第二の月をみるをきらへばとて、此の妄月をはらひのけて別に眞月を見よといふにはあらず、たゞ其の目をおす指をのくれば本月の外に第二の月ある事なし、若し其の指をばのけずして、此の第二の月をはらはんと思はゞ永劫にもはらひ得る事あるべからず、或は此の第二の月の外に眞月なしとてこれを愛する人あり。亦是大なる錯なり、目をおす事なき人は本より第二の月をみる事なし、何ぞ此の第二の月をはらふべしはらふべからずとの兩論あらんや。然らば卽ち妄心眞心の同別を論ずる事は迷倒の指を以て本分の目をおす故なり。
新字:問若し爾は則ち妄心の外に別に真心を求むるあやまりにあらずや。 答真妄の差別たやすく説きがたし、同と説き別と説く皆な是れあやまりなり、たとへば人の指にて目をおす時、真月の外に第二の月をみるが如し。此の第二の月といふ事は目をおす人の前にあり、実には第二の月として真月の外に其の形ある事なし。然れば即ち第二の月をみるをきらへばとて、此の妄月をはらひのけて別に真月を見よといふにはあらず、たゞ其の目をおす指をのくれば本月の外に第二の月ある事なし、若し其の指をばのけずして、此の第二の月をはらはんと思はゞ永劫にもはらひ得る事あるべからず、或は此の第二の月の外に真月なしとてこれを愛する人あり。亦是大なる錯なり、目をおす事なき人は本より第二の月をみる事なし、何ぞ此の第二の月をはらふべしはらふべからずとの両論あらんや。然らば即ち妄心真心の同別を論ずる事は迷倒の指を以て本分の目をおす故なり。
書き下し
問若し爾は則ち妄心の外に別に眞心を求むるあやまりにあらずや。 答眞妄の差別たやすく說きがたし、同と說き別と說く皆な是れあやまりなり、たとへば人の指にて目をおす時、眞月の外に第二の月をみるが如し。此の第二の月といふ事は目をおす人の前にあり、實には第二の月として眞月の外に其の形ある事なし。然れば卽ち第二の月をみるをきらへばとて、此の妄月をはらひのけて別に眞月を見よといふにはあらず、たゞ其の目をおす指をのくれば本月の外に第二の月ある事なし、若し其の指をばのけずして、此の第二の月をはらはんと思はゞ永劫にもはらひ得る事あるべからず、或は此の第二の月の外に眞月なしとてこれを愛する人あり。亦是大なる錯なり、目をおす事なき人は本より第二の月をみる事なし、何ぞ此の第二の月をはらふべしはらふべからずとの兩論あらんや。然らば卽ち妄心眞心の同別を論ずる事は迷倒の指を以て本分の目をおす故なり。
現代語訳
問:もしそうなら、妄心の外に別に真心を求めるのは誤りではないか。 答:真と妄の違いは、たやすく説けない。同じだと説き、別だと説くのは、どちらも誤りである。たとえば人が指で目を押すとき、本物の月の外に第二の月を見るようなものである。この第二の月は目を押す人の前にあるだけで、実際には第二の月として本物の月の外に形があるわけではない。だとすれば、第二の月を見るのを嫌うからといって、この妄の月を払いのけて別に本物の月を見よというのではない。ただ、目を押す指をのければ、本物の月の外に第二の月があることはない。もし指をのけずに、この第二の月を払おうと思うなら、永遠に払い得ることはない。あるいは、この第二の月の外に本物の月はないと言って、これを愛する人がいる。これもまた大きな誤りである。目を押すことのない人は、もとより第二の月を見ることがない。どうして、この第二の月を払うべきか払うべきでないかという二つの議論があろうか。つまり、妄心と真心が同じか別かを論じるのは、迷い転倒の指で本分の目を押しているからである。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『玉勝間』四の巻 兼好法師が詞のあげつらひすべて何事も、なべての世の人の真心にさかいて、ことなるを善き事にするは、外国のならいのうつれるにて、心を作り飾れる物と知るべし。
-
『玉勝間』五の巻 業平ノ朝臣のいまはの言葉古今集に、やまいして、弱くなりにける時詠める、なりひらの朝臣、「ついにゆく道とはかねて聞きしかどきのうきょうとは思わざりしを。契沖云わく、これ人のまことの心にて、教えにも善き歌なり。後々の人は、死なんとするきわに到りて、ことごとしき歌を詠み、或いは道をさとれるよしなど詠める、まことしからずして、いと憎し。ただなる時こそ、狂言綺語をもまじえめ、いまはと有らん時にだに、心の誠にかえれかし。この朝臣は、一生のまこと、この歌に現れ、後の人は、一生の偽りをあらわして死ぬるなりと云えるは、法師のことばにも似ず、いといとたふとし。やまとだましいなる人は、法師ながら、斯くこそ有りけれ。から心なる神道者歌学者、まさに斯うは云わんや。契沖法師は、世の人にまことを教え、神道者、歌学者は、偽りをぞ教うなる。
-
『玉勝間』四の巻 うはべをつくる世のならひうまき物くわまほしく、よききぬ着まほしく、よき家に住ままほしく、宝得ままほしく、人に尊まれまほしく、命ながからまほしくするは、皆人の真心なり。然るにこれらを皆よからぬ事にし、ねがわざるをいみしき事にして、すべてほしからず、ねがわぬ顔する者の、世に多かるは、例のうるさきいつわりなり。また世に先生などあおがるる物知り人、あるいは上人など尊まるる法師など、月花を見ては、あわれとめづる顔すれども、よき女を見ては、目にもかからぬかおして過ぐるは、まことに然るにや。もし月花をあわれと見る情しあらば、ましてよき女には、などか目の移らざらむ。月花はあわれなり、女の色は目にもとまらずと云わんは、人とあらむ者の心にあらず、いみしきいつわりにこそ有りけれ。しかは有れども、万づにうわべを作りかざるは、なべての世のならいにし有れば、これらは、いつわりとて、さしもとがむべきには有らずなん。
-
『玉勝間』四の巻 兼好法師が詞のあげつらひ人の心は、うれしき事は、さしも深くは覚えぬものにて、ただ心にかなわぬ事ぞ、深く身にしみては覚ゆるわざなれば、すべてうれしきを詠める歌には、心深きは少なくて、心にかなわぬすじを、悲しみ憂えたるに、哀れなるは多きぞかし。然りとて、わびしく悲しきを、みやびたりとてねがわむは、人のまことの情ならめや。また同じ法師の、人はよそじに足らで死なむこそ、めやすかるべけれと云えるなどは、中ごろよりこなたの人の、みな歌にも詠み、常にも云うすじにて、命長からん事をねがうをば、心ぎたなき事とし、早く死ぬるを、めやすき事に云い、この世をいとい捨つるを、いさぎよき事とするは、これみな仏の道にへつらえるものにて、多くはいつわりなり。言にこそさも云え、心のうちには、誰かはさは思わむ。たとい、まれまれには、まことに然か思う人の有らんも、もとよりの真心には有らず、仏の教えにまどえるなり。人のまごころは、いかにわびしき身も、早く死なばやとは思わず、命惜しまぬ者は無し。されば万葉などの頃までの歌には、ただ長く生きたらん事をこそねがいたれ、中頃よりこなたの歌とは、その心うらうえなり。
-
『玉勝間』一の巻 学問して道を知る事学問して道を知らむとならば、まづ漢意をきよくのぞき去るべし。から意のきよくのぞこらぬ程は、いかに古書を読みても考えても、古の意は知りがたく、古の心を知らでは、道は知りがたきわざになむ有りける。そもそも道は、もと学問をして知る事にはあらず、生まれながらの真心なるぞ、道には有りける。真心とは、善くも悪しくも、生まれつきたるままの心を云う。然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意にのみ移りて、真心をば失いはてたれば、今は学問せざれば、道をえ知らざるにこそ有れ。
-
『呻吟語』外篇・治道・純王の心有りて、方に純王の政有り只だ己むを容れざるの真心有らば、自ら易ふ可からざるの良法有り。其の之に處すること未だ當たらざる者は、必ず其の之を思ふこと精しからざる者なり。其の之を思ふこと精しからざる者は、必ず其の心の切ならざる者なり。故に純王の心有りて、方に純王の政有り。