夢中問答集 / 『夢中問答集』砂を煮て飯にならず
問ゆがめる物をおしなをせば、すぐになるがごとく凡夫の妄心の邪僻なるを修練して、眞正になせば佛心ともなるべきとこそ覺ゆるを、妄心は第二の月に同じとて一向にきらふことは何ぞや、若し爾らば凡夫の佛に成ることはあるまじきやらん。 答此の疑は是圓覺經の中の普賢菩薩の疑問なり、首楞嚴經の中に阿難亦此の疑ひを生ぜり。佛阿難に告げて云はく、汝本心を失つて慮知分別の心をとめて自心と思へり。此れは汝が心にあらず、阿難疑つて云く六道に輪廻する事も此の心によれり、乃至佛果を得る事も亦此心によるべし。しかるを此の心若し我が心にあらずば何を以て修行して佛果を成ずべきや。若し此の心なくば土木瓦石と何ぞことならん、佛の言く、汝が心をおさへて無しと思へといふにはあらず。汝が心と思へるもの實に有る者ならばかならず、在る所あるべし、何れの處にか在るやと問ひ玉ふ時、阿難始めは此の心は身の內にありと答へ申さる。佛汝が身の內にも此の心なきよしを責め玉ふ時、阿難言く身の外にあり佛又これをしからずと責め玉ふ、阿難かくのごとく七處までさし申さる、最後には我が心は內にあるにもあらず、外にあるにもあらず、中間にあるにもあらず、一切無著なるは我が心なりとのべられき。しかれども、佛皆これをゆるし玉はず、この故に阿難茫然として分別する所なし。爾の時に佛の言はく一切衆生無始より、このかた妄りに輪廻を受けたることは、本心を失ふて慮知の心をとめて我が心と思へるによれり、此の故にたま〱佛法を修行すといへども二種の根本をしらずして錯つて修行する故に、二乘外道及び天魔の境界に墮つ、二種の根本とは一つには、本覺妙明元清淨の體なり、此は是れ衆生の自心の本源なり。此の根本をば忘失せり、二つには無始輪廻の根本なり、汝が慮知分別をとめて自心と思へる者なり。若し此の心を以て修行せば、輪廻の業とはなるとも、本源に到ることあるべからず、たとへば砂を煮て飯となさんと思はんがごとし、たとひ劫數をふるとも熟砂とはなるべし、飯とはなるべからずと云云。 南岳大師の一乘止觀に云く、止觀の行者先づ心識をして淨心に依止せしむべし。若し生滅の心を以て修行せば、成就すべからずと云云。大日經疏に云く、凡夫二乘外道は無生滅の心をしらざるのみにあらず、生滅の心をも亦しらずと云云。又云く心性は念をはなれたり、憶度の知るべき所にあらずと云云。占察業報經に云く、心相に二種あり。一つには眞二つには妄なり、眞とは心體如々清淨圓滿にして、一切の處に遍して一切の法を生長す、妄とは分別覺知の心なり、實體あとなくして虛僞の法を出生すと云云。
新字:問ゆがめる物をおしなをせば、すぐになるがごとく凡夫の妄心の邪僻なるを修練して、真正になせば仏心ともなるべきとこそ覚ゆるを、妄心は第二の月に同じとて一向にきらふことは何ぞや、若し爾らば凡夫の仏に成ることはあるまじきやらん。 答此の疑は是円覚経の中の普賢菩薩の疑問なり、首楞厳経の中に阿難亦此の疑ひを生ぜり。仏阿難に告げて云はく、汝本心を失つて慮知分別の心をとめて自心と思へり。此れは汝が心にあらず、阿難疑つて云く六道に輪廻する事も此の心によれり、乃至仏果を得る事も亦此心によるべし。しかるを此の心若し我が心にあらずば何を以て修行して仏果を成ずべきや。若し此の心なくば土木瓦石と何ぞことならん、仏の言く、汝が心をおさへて無しと思へといふにはあらず。汝が心と思へるもの実に有る者ならばかならず、在る所あるべし、何れの処にか在るやと問ひ玉ふ時、阿難始めは此の心は身の内にありと答へ申さる。仏汝が身の内にも此の心なきよしを責め玉ふ時、阿難言く身の外にあり仏又これをしからずと責め玉ふ、阿難かくのごとく七処までさし申さる、最後には我が心は内にあるにもあらず、外にあるにもあらず、中間にあるにもあらず、一切無著なるは我が心なりとのべられき。しかれども、仏皆これをゆるし玉はず、この故に阿難茫然として分別する所なし。爾の時に仏の言はく一切衆生無始より、このかた妄りに輪廻を受けたることは、本心を失ふて慮知の心をとめて我が心と思へるによれり、此の故にたま〱仏法を修行すといへども二種の根本をしらずして錯つて修行する故に、二乗外道及び天魔の境界に堕つ、二種の根本とは一つには、本覚妙明元清浄の体なり、此は是れ衆生の自心の本源なり。此の根本をば忘失せり、二つには無始輪廻の根本なり、汝が慮知分別をとめて自心と思へる者なり。若し此の心を以て修行せば、輪廻の業とはなるとも、本源に到ることあるべからず、たとへば砂を煮て飯となさんと思はんがごとし、たとひ劫数をふるとも熟砂とはなるべし、飯とはなるべからずと云云。 南岳大師の一乗止観に云く、止観の行者先づ心識をして浄心に依止せしむべし。若し生滅の心を以て修行せば、成就すべからずと云云。大日経疏に云く、凡夫二乗外道は無生滅の心をしらざるのみにあらず、生滅の心をも亦しらずと云云。又云く心性は念をはなれたり、憶度の知るべき所にあらずと云云。占察業報経に云く、心相に二種あり。一つには真二つには妄なり、真とは心体如々清浄円満にして、一切の処に遍して一切の法を生長す、妄とは分別覚知の心なり、実体あとなくして虚偽の法を出生すと云云。
書き下し
問ゆがめる物をおしなをせば、すぐになるがごとく凡夫の妄心の邪僻なるを修練して、眞正になせば佛心ともなるべきとこそ覺ゆるを、妄心は第二の月に同じとて一向にきらふことは何ぞや、若し爾らば凡夫の佛に成ることはあるまじきやらん。 答此の疑は是圓覺經の中の普賢菩薩の疑問なり、首楞嚴經の中に阿難亦此の疑ひを生ぜり。佛阿難に告げて云はく、汝本心を失つて慮知分別の心をとめて自心と思へり。此れは汝が心にあらず、阿難疑つて云く六道に輪廻する事も此の心によれり、乃至佛果を得る事も亦此心によるべし。しかるを此の心若し我が心にあらずば何を以て修行して佛果を成ずべきや。若し此の心なくば土木瓦石と何ぞことならん、佛の言く、汝が心をおさへて無しと思へといふにはあらず。汝が心と思へるもの實に有る者ならばかならず、在る所あるべし、何れの處にか在るやと問ひ玉ふ時、阿難始めは此の心は身の內にありと答へ申さる。佛汝が身の內にも此の心なきよしを責め玉ふ時、阿難言く身の外にあり佛又これをしからずと責め玉ふ、阿難かくのごとく七處までさし申さる、最後には我が心は內にあるにもあらず、外にあるにもあらず、中間にあるにもあらず、一切無著なるは我が心なりとのべられき。しかれども、佛皆これをゆるし玉はず、この故に阿難茫然として分別する所なし。爾の時に佛の言はく一切衆生無始より、このかた妄りに輪廻を受けたることは、本心を失ふて慮知の心をとめて我が心と思へるによれり、此の故にたま〱佛法を修行すといへども二種の根本をしらずして錯つて修行する故に、二乘外道及び天魔の境界に墮つ、二種の根本とは一つには、本覺妙明元清淨の體なり、此は是れ衆生の自心の本源なり。此の根本をば忘失せり、二つには無始輪廻の根本なり、汝が慮知分別をとめて自心と思へる者なり。若し此の心を以て修行せば、輪廻の業とはなるとも、本源に到ることあるべからず、たとへば砂を煮て飯となさんと思はんがごとし、たとひ劫數をふるとも熟砂とはなるべし、飯とはなるべからずと云云。 南岳大師の一乘止觀に云く、止觀の行者先づ心識をして淨心に依止せしむべし。若し生滅の心を以て修行せば、成就すべからずと云云。大日經疏に云く、凡夫二乘外道は無生滅の心をしらざるのみにあらず、生滅の心をも亦しらずと云云。又云く心性は念をはなれたり、憶度の知るべき所にあらずと云云。占察業報經に云く、心相に二種あり。一つには眞二つには妄なり、眞とは心體如々清淨圓滿にして、一切の處に遍して一切の法を生長す、妄とは分別覺知の心なり、實體あとなくして虛僞の法を出生すと云云。
現代語訳
問:曲がった物を押し直せばまっすぐになるように、凡夫の妄心の邪な癖を鍛えて正しくすれば、仏心にもなるのだと思われるのに、妄心を第二の月と同じだと言って一方的に嫌うのはなぜか。もしそうなら、凡夫が仏になることはないのではないか。 答:この疑いは『円覚経』の中の普賢菩薩の疑問であり、『首楞厳経』の中では阿難もこの疑いを起こした。仏は阿難に告げて言われた。あなたは本心を失って、思い量り分別する心をとどめて自分の心と思っている。これはあなたの心ではない。阿難は疑って言った。六道に輪廻するのもこの心によるのだし、仏果を得るのもこの心によるはずです。それなのに、この心がもし私の心でないなら、何によって修行して仏果を成就できるのでしょうか。もしこの心がなければ、土や木や瓦や石とどう違うのでしょうか。仏は言われた。あなたの心を抑えて無いと思えというのではない。あなたが心と思うものが実際にあるものなら、必ずある所があるはずだ。どこにあるのか、と問われたとき、阿難は初め、この心は身の内にあると答えた。仏はあなたの身の内にもこの心がないことを責められた。阿難は身の外にあると言った。仏はまたこれを責めた。阿難はこのように七つの所まで指し示した。最後には、私の心は内にあるのでもなく、外にあるのでもなく、中間にあるのでもなく、一切に執着しないのが私の心です、と述べた。しかし仏はそれらをすべてお許しにならなかった。それで阿難は茫然として、分別する所がなくなった。そのとき仏は言われた。すべての衆生が始めのない昔から、みだりに輪廻を受けているのは、本心を失い、思い量る心をとどめて我が心と思っているからだ。だからたまたま仏法を修行しても、二種の根本を知らないで誤って修行するので、二乗や外道、天魔の境に堕ちる。二種の根本とは、一つは本覚の妙明で、もともと清浄な体である。これは衆生の自心の本源である。この根本は忘れ失われている。二つ目は、始めのない輪廻の根本で、あなたが思い量り分別する心をとどめて自心と思っているものである。もしこの心で修行するなら、輪廻の業とはなっても、本源に至ることはない。たとえば砂を煮て飯にしようと思うようなものだ。たとえ何劫を経ても、熟した砂にはなっても飯にはならない、と。 南岳大師の『一乗止観』に「止観の行者はまず心識を清浄心に依らせよ。もし生滅の心で修行すれば成就しない」とある。『大日経疏』に「凡夫・二乗・外道は、生滅のない心を知らないだけでなく、生滅の心もまた知らない」とある。また「心性は念を離れており、思い量って知れるものではない」ともある。『占察業報経』に「心の相に二種ある。一つは真、二つは妄である。真とは心体が如々として清浄円満で、一切の所に遍満し、一切の法を生長する。妄とは分別覚知の心である。実体の跡がなく、偽りの法を生み出す」とある。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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夢中問答集・『夢中問答集』縁生の火と性火のたとえ問孔子老子等も皆菩薩の化現と申せども、皆この慮知の心をおさむる道を敎へられたり、敎門の諸宗其の所談ことなりといへども此の慮知の心について、日來の邪心をひるがへして正智となさしむる法門なり、しかるを圓覺楞嚴一向に、此の緣心をば龜毛兎角のやうに說事は何の故ぞや。 答色心の二法に皆緣生と法爾との差別あり、諸緣和合してかりに生ずる相あるをば緣生となづく、如來藏の中に圓具せる性德をば法爾といへり。世間緣生の火は實體なしといへ共、緣に隨ひて其の用をほどこす故に、此の火をよく用ふる時は、寒をふせぎ食を調ふる大益あり。あしく用ふる時は、家をやき財をうしなふ大損あり。しかれば、此の火を損なきやうに用ふべきよしを敎ふるは、世間の益のためなり。此の敎へのまゝに火を用ふるやうをしりたりとも、いまだ法爾廣大の性火をばしらざる人なり。若し此の性火をしらしめんと思はば此の因緣生の火の損益に目をかくることをば制すべし。此の心法も又かくのごとし、此の緣生の幻心實體なしといへども、此の心若し惡を作せば、惡趣に墮して種々の苦を受け、此の心若し善を作せば、善處に生じて種々の樂を受く、此の理をしる故に、凡夫外道の中にも、此の心をおさめて惡事をばせざる者あり。しかれ共緣生の幻心をおさめて一旦人中天上の果報を得たる益ばかりにていまだ本心をしらざる故に、つひに輪廻をまぬがれず、乃至三賢十聖の菩薩も 此の幻心の邪僻をひるがへして、幻智となせるばかりにて、いまだ本心に契當せず。この故に變易生死をまぬがれず、皆な是れ世間の緣生の火をよく受用してあやまちせざる分齊にあたれり。然らば卽ち圓覺楞嚴の中には此の緣火をはなれて性火のある事を明かし緣心をはなれて、其の心のある事を談ずるなり。餘宗の法門にはしばらく幻智を起して幻妄をつくして、後は自然に本心に契當すべきことを談せり。又圓覺楞嚴にも幻智を起して、幻妄を除いて後境智俱に妄じて、非幻の處に到るべきことを說けるはこの謂れなり。しかるを末學の中にこの幻智を談ずるを佛祖の本意なりと思へる人あり。圓覺に云く、幻身滅するが故に幻心も亦滅す、幻心滅するが故に幻塵も又滅す、幻塵滅するが故に、幻滅も亦滅す幻滅々するが故に非幻は滅せず。たとへば鏡をとぐに垢盡て明の現ずるがごとしまさに知るべし、身心はみな幻垢たり、垢相ながく盡きて十方清淨なりと云云。かやうの經文をあしく心得ていまだ本心を悟らざる人、身心すべて滅盡して空寂なる處を眞實の佛法なりと思へる人あり。此れ二乘の滅盡定外道の悲想定なり。たとへば緣生の火を眞火にあらずときらへるを聞きて、此の緣火をみな打滅して暗冥なる處を眞火と思はんがごとし。孔子老子乃至小乘權敎の中に此の幻心を修することを談せば皆な是れ方便の說なり。
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夢中問答集・『夢中問答集』神我の見と識神を戒める問神我の見とは、いかやうなる見ぞや。 答數論外道二十五諦を立て世間の諸法を判せり、其の第一をば冥諦となづく、天地いまだわかれざる前は、吉凶禍福にもあづからじ見聞覺知も及ぶことなし、名字をつけがたしといへ共、强て冥諦と號す。是は常住にして生住異滅にうつされず、第二十五を神我諦と名く、謂ゆるよのつねの凡夫の心と名づけ魂と思へる者なり、是をも計して常住なりといへり。其の中間の二十三諦は世間の吉凶禍福等の諸の轉變の相なり、是をば計して有爲の法とす。神我若し吉凶禍福の情を起せば、冥諦變じて其の相をなす、神我若し長短方圓の想を生ずれば、冥諦轉じて其の形を現ず。然らば卽ち世間の有爲の轉變する事は偏に神我の情を生ずるによれり、神我若し一切の情を生せずして冥諦に歸すれば、有爲の轉變永くやみて無爲の安樂自らいたる、色身は壞滅すれども神我は意住にして滅せず。たとへば家のやくる時、主は出で去るがごとしといへり、忠國師のそしり玉へる神我の見とは是なり、晨旦に流布せる莊老の見解もこれをいでず、老子の虛無莊子の無爲の大道といへるはかの外道の冥諦にあたれり。今時大乘の學者の中に、此の見をおこせる人あり、圓覺經に云くたとへば摩尼寳珠の五色に映じて其の色を現する時、愚人かの寳珠に實に五色ありと見るがごとし。圓覺の淨性にかりに身心の相を現する時、愚人これに迷つて實に身心の相ありとおもへり、この故に身心は幻垢なりと說くなりと云云。永嘉大師の云く、法財を損し功德をほろぼすこと、この心意識によらずといふことなし、長沙禪師の云く、學道の人の眞をしらざることは、只ひさしく識神をとむるがゆゑなりと云云。初心の學者坐禪となづけて返照する時、此心の形段もなく邊際もなく照す靈々たる處を見て、これを主人公と思ひ、本來の面目と計せり。古人これを精魂を弄し識神を認むとそしれり、圓覺經の中に賊をとめて子とすと說くもこの義なり。佛の言く、三界は唯一心なり。心外に別法なし一心といへる語は同じけれ共、諸宗の所解各ことなり、小乘の人は六識分別を一心と思へり。大乘の中に或は六識分別よりも、猶微細なる處に第七識第八識ある事を明せり。萬法はみな此れ八種の識の所變なりと談ずる故に、三界一心と說けるは、此れ八識心王の事なりと思へり。或は此の上に第九識を立て諸法は此識の隨緣の相なり、此の故に三界一心と說けりと談ず。小乘の學者は微細の心識ある事をしらざるが故に境界に對する時、執著分別の念だに發らねばこれを至極と思へり。今時大乘を行ずる人の中に一切の境に對する時分別にわたらず。山をば山と見水をば水と見、僧をば僧と見、俗をば俗と見れ共、是非善惡の執著にわたらぬ處を本心と思へる人あり。是れ卽ち六識の中の前五識の分なり、本心にはあらず、此の心法不可思議なり。太虛にわたれども廣からず、纖芥に入れどもすほからず、一切の相をはなれて一切の相を具し、無邊の德をそなへて無邊の德に墮ちず。然れば卽ち眞妄をもわかつべからず、麁細をも論じがたし。しかれ共、迷倒の前には眞妄麁細ひとしからず、しかるをいまだ迷倒の見をはなれざる人の卽心卽佛といへる語に隨つて解を生じて、喜怒哀樂の妄情、卽ち是れ佛心なりと談ず。其の語は佛法に似たれども、其の見は邪道にことならず、かやうの人のために諸の聖敎に其のわけめを說き置かれけり。若し能く此の理を分明に知り得たらば、たとひ大悟の分はなくとも、魚目をとめて明珠とするあやまりあるべからず、末代に生れたる人は宿習も淺近なるが故に、敎門を學する人は、諸宗に心法の理を說ける種々の文義を學得したるを至極として自ら其の心法の源をさとることもなし。禪門に入る人はかやうの事は敎家の所談なり、禪者の學すべきことにあらずと思へり。若しまことに世間の妄想出世の法門ともに放下して、眞に無上菩提に趣く人ならば、禪家にすゝむる所なり、しかれ共經論の文義をば學せず、自分の分別にひかれて妄想を起して識神をとめて、本心と思へるはあやまりにあらずや。
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万民徳用・武士日用・答その二後半二、遊山活計観楽の心。三、義理をしらざる心。四、因果の理をしらざる心。五、無常幻化をしらざる心。六、名聞利養を思ふ心。七、花美奢心。八、狐疑不信の心。九、物にすき好む一切着の心。十、怯弱にして勇のなき心。十一、慳貪無慈悲の心。十二、他の是非を思ふ心。十三、我執自慢の心。十四、愛念嫉妬の心。十五、恩をしらざる心。十六、諂証諂曲の心。十七、生死を忘るゝ心。又喜怒憂思悲恐驚の七情あり。此の七情より万病発るといへり。如此の心は、黒闇の中より出る心にして、品々限なしといへども、右の旨を以て察すべし、唯是れ執着を体として出るが故に、念々に発るに随て、其念に負て本心を失ひ、苦悩して沈む心也。此の沈む心に住する時、忽ち出て死せよといは、苦患強かるへし。去れは己に勝つを賢とし、己か心に負てなやむを愚とす。己か心に勝ち得る時は、万事に勝ちて、物の上と成て自由なり。己か心に負くる時は、万事に負て物の下と成て、うかふ事あたはす。心に心を着けて、強く守るへし。「心こそ心まとはす心なれ心に心こゝろゆるすな。」此の歌尤も至極せり。心を恣にする時は、着相の念增長して、三途に落入るなり。心を殺し得る時は、直に仏果に至るなり。古語に殺生せよ殺生せよ、刹那も殺生せざれは、地獄に入ると矢のごとし。如此の語に眼を着くへし。正法念経に、智者常懐憂。如似獄中囚。愚者常歓楽。猶如光音天。仏説如此、先賢の用心皆以て猶疎なるべからす。一大事といふ事を能くしるべし。何ぞ夢幻の此の身を愛楽して、泥犂に沈みはてんや。時々に心を改むへし。我心面にあらはれいでんには、人中に交りかたかるへし。偏に慚愧の心強くして、正直の旨に住し、離相離名の大願力を発し、一切を放下して、勇猛精進の信力を以て身命を捨て、切に急に無上の道にすゝむへし。此の心昼夜閒断なく、通身堅固に夢中ともに守て、久々に純熟せは、自然に内外打成一片と成て、忽然として大夢さめて、仏法世法共に成就して、竪窮三際横亙十方へし。