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夢中問答集 / 『夢中問答集』神我の見と識神を戒める

問神我の見とは、いかやうなる見ぞや。 答數論外道二十五諦を立て世間の諸法を判せり、其の第一をば冥諦となづく、天地いまだわかれざる前は、吉凶禍福にもあづからじ見聞覺知も及ぶことなし、名字をつけがたしといへ共、强て冥諦と號す。是は常住にして生住異滅にうつされず、第二十五を神我諦と名く、謂ゆるよのつねの凡夫の心と名づけ魂と思へる者なり、是をも計して常住なりといへり。其の中間の二十三諦は世間の吉凶禍福等の諸の轉變の相なり、是をば計して有爲の法とす。神我若し吉凶禍福の情を起せば、冥諦變じて其の相をなす、神我若し長短方圓の想を生ずれば、冥諦轉じて其の形を現ず。然らば卽ち世間の有爲の轉變する事は偏に神我の情を生ずるによれり、神我若し一切の情を生せずして冥諦に歸すれば、有爲の轉變永くやみて無爲の安樂自らいたる、色身は壞滅すれども神我は意住にして滅せず。たとへば家のやくる時、主は出で去るがごとしといへり、忠國師のそしり玉へる神我の見とは是なり、晨旦に流布せる莊老の見解もこれをいでず、老子の虛無莊子の無爲の大道といへるはかの外道の冥諦にあたれり。今時大乘の學者の中に、此の見をおこせる人あり、圓覺經に云くたとへば摩尼寳珠の五色に映じて其の色を現する時、愚人かの寳珠に實に五色ありと見るがごとし。圓覺の淨性にかりに身心の相を現する時、愚人これに迷つて實に身心の相ありとおもへり、この故に身心は幻垢なりと說くなりと云云。永嘉大師の云く、法財を損し功德をほろぼすこと、この心意識によらずといふことなし、長沙禪師の云く、學道の人の眞をしらざることは、只ひさしく識神をとむるがゆゑなりと云云。初心の學者坐禪となづけて返照する時、此心の形段もなく邊際もなく照す靈々たる處を見て、これを主人公と思ひ、本來の面目と計せり。古人これを精魂を弄し識神を認むとそしれり、圓覺經の中に賊をとめて子とすと說くもこの義なり。佛の言く、三界は唯一心なり。心外に別法なし一心といへる語は同じけれ共、諸宗の所解各ことなり、小乘の人は六識分別を一心と思へり。大乘の中に或は六識分別よりも、猶微細なる處に第七識第八識ある事を明せり。萬法はみな此れ八種の識の所變なりと談ずる故に、三界一心と說けるは、此れ八識心王の事なりと思へり。或は此の上に第九識を立て諸法は此識の隨緣の相なり、此の故に三界一心と說けりと談ず。小乘の學者は微細の心識ある事をしらざるが故に境界に對する時、執著分別の念だに發らねばこれを至極と思へり。今時大乘を行ずる人の中に一切の境に對する時分別にわたらず。山をば山と見水をば水と見、僧をば僧と見、俗をば俗と見れ共、是非善惡の執著にわたらぬ處を本心と思へる人あり。是れ卽ち六識の中の前五識の分なり、本心にはあらず、此の心法不可思議なり。太虛にわたれども廣からず、纖芥に入れどもすほからず、一切の相をはなれて一切の相を具し、無邊の德をそなへて無邊の德に墮ちず。然れば卽ち眞妄をもわかつべからず、麁細をも論じがたし。しかれ共、迷倒の前には眞妄麁細ひとしからず、しかるをいまだ迷倒の見をはなれざる人の卽心卽佛といへる語に隨つて解を生じて、喜怒哀樂の妄情、卽ち是れ佛心なりと談ず。其の語は佛法に似たれども、其の見は邪道にことならず、かやうの人のために諸の聖敎に其のわけめを說き置かれけり。若し能く此の理を分明に知り得たらば、たとひ大悟の分はなくとも、魚目をとめて明珠とするあやまりあるべからず、末代に生れたる人は宿習も淺近なるが故に、敎門を學する人は、諸宗に心法の理を說ける種々の文義を學得したるを至極として自ら其の心法の源をさとることもなし。禪門に入る人はかやうの事は敎家の所談なり、禪者の學すべきことにあらずと思へり。若しまことに世間の妄想出世の法門ともに放下して、眞に無上菩提に趣く人ならば、禪家にすゝむる所なり、しかれ共經論の文義をば學せず、自分の分別にひかれて妄想を起して識神をとめて、本心と思へるはあやまりにあらずや。

新字:問神我の見とは、いかやうなる見ぞや。 答数論外道二十五諦を立て世間の諸法を判せり、其の第一をば冥諦となづく、天地いまだわかれざる前は、吉凶禍福にもあづからじ見聞覚知も及ぶことなし、名字をつけがたしといへ共、強て冥諦と号す。是は常住にして生住異滅にうつされず、第二十五を神我諦と名く、謂ゆるよのつねの凡夫の心と名づけ魂と思へる者なり、是をも計して常住なりといへり。其の中間の二十三諦は世間の吉凶禍福等の諸の転変の相なり、是をば計して有為の法とす。神我若し吉凶禍福の情を起せば、冥諦変じて其の相をなす、神我若し長短方円の想を生ずれば、冥諦転じて其の形を現ず。然らば即ち世間の有為の転変する事は偏に神我の情を生ずるによれり、神我若し一切の情を生せずして冥諦に帰すれば、有為の転変永くやみて無為の安楽自らいたる、色身は壊滅すれども神我は意住にして滅せず。たとへば家のやくる時、主は出で去るがごとしといへり、忠国師のそしり玉へる神我の見とは是なり、晨旦に流布せる荘老の見解もこれをいでず、老子の虚無荘子の無為の大道といへるはかの外道の冥諦にあたれり。今時大乗の学者の中に、此の見をおこせる人あり、円覚経に云くたとへば摩尼宝珠の五色に映じて其の色を現する時、愚人かの宝珠に実に五色ありと見るがごとし。円覚の浄性にかりに身心の相を現する時、愚人これに迷つて実に身心の相ありとおもへり、この故に身心は幻垢なりと説くなりと云云。永嘉大師の云く、法財を損し功徳をほろぼすこと、この心意識によらずといふことなし、長沙禅師の云く、学道の人の真をしらざることは、只ひさしく識神をとむるがゆゑなりと云云。初心の学者坐禅となづけて返照する時、此心の形段もなく辺際もなく照す霊々たる処を見て、これを主人公と思ひ、本来の面目と計せり。古人これを精魂を弄し識神を認むとそしれり、円覚経の中に賊をとめて子とすと説くもこの義なり。仏の言く、三界は唯一心なり。心外に別法なし一心といへる語は同じけれ共、諸宗の所解各ことなり、小乗の人は六識分別を一心と思へり。大乗の中に或は六識分別よりも、猶微細なる処に第七識第八識ある事を明せり。万法はみな此れ八種の識の所変なりと談ずる故に、三界一心と説けるは、此れ八識心王の事なりと思へり。或は此の上に第九識を立て諸法は此識の随縁の相なり、此の故に三界一心と説けりと談ず。小乗の学者は微細の心識ある事をしらざるが故に境界に対する時、執著分別の念だに発らねばこれを至極と思へり。今時大乗を行ずる人の中に一切の境に対する時分別にわたらず。山をば山と見水をば水と見、僧をば僧と見、俗をば俗と見れ共、是非善悪の執著にわたらぬ処を本心と思へる人あり。是れ即ち六識の中の前五識の分なり、本心にはあらず、此の心法不可思議なり。太虚にわたれども広からず、繊芥に入れどもすほからず、一切の相をはなれて一切の相を具し、無辺の徳をそなへて無辺の徳に堕ちず。然れば即ち真妄をもわかつべからず、麁細をも論じがたし。しかれ共、迷倒の前には真妄麁細ひとしからず、しかるをいまだ迷倒の見をはなれざる人の即心即仏といへる語に随つて解を生じて、喜怒哀楽の妄情、即ち是れ仏心なりと談ず。其の語は仏法に似たれども、其の見は邪道にことならず、かやうの人のために諸の聖教に其のわけめを説き置かれけり。若し能く此の理を分明に知り得たらば、たとひ大悟の分はなくとも、魚目をとめて明珠とするあやまりあるべからず、末代に生れたる人は宿習も浅近なるが故に、教門を学する人は、諸宗に心法の理を説ける種々の文義を学得したるを至極として自ら其の心法の源をさとることもなし。禅門に入る人はかやうの事は教家の所談なり、禅者の学すべきことにあらずと思へり。若しまことに世間の妄想出世の法門ともに放下して、真に無上菩提に趣く人ならば、禅家にすゝむる所なり、しかれ共経論の文義をば学せず、自分の分別にひかれて妄想を起して識神をとめて、本心と思へるはあやまりにあらずや。

書き下し

問神我の見とは、いかやうなる見ぞや。 答數論外道二十五諦を立て世間の諸法を判せり、其の第一をば冥諦となづく、天地いまだわかれざる前は、吉凶禍福にもあづからじ見聞覺知も及ぶことなし、名字をつけがたしといへ共、强て冥諦と號す。是は常住にして生住異滅にうつされず、第二十五を神我諦と名く、謂ゆるよのつねの凡夫の心と名づけ魂と思へる者なり、是をも計して常住なりといへり。其の中間の二十三諦は世間の吉凶禍福等の諸の轉變の相なり、是をば計して有爲の法とす。神我若し吉凶禍福の情を起せば、冥諦變じて其の相をなす、神我若し長短方圓の想を生ずれば、冥諦轉じて其の形を現ず。然らば卽ち世間の有爲の轉變する事は偏に神我の情を生ずるによれり、神我若し一切の情を生せずして冥諦に歸すれば、有爲の轉變永くやみて無爲の安樂自らいたる、色身は壞滅すれども神我は意住にして滅せず。たとへば家のやくる時、主は出で去るがごとしといへり、忠國師のそしり玉へる神我の見とは是なり、晨旦に流布せる莊老の見解もこれをいでず、老子の虛無莊子の無爲の大道といへるはかの外道の冥諦にあたれり。今時大乘の學者の中に、此の見をおこせる人あり、圓覺經に云くたとへば摩尼寳珠の五色に映じて其の色を現する時、愚人かの寳珠に實に五色ありと見るがごとし。圓覺の淨性にかりに身心の相を現する時、愚人これに迷つて實に身心の相ありとおもへり、この故に身心は幻垢なりと說くなりと云云。永嘉大師の云く、法財を損し功德をほろぼすこと、この心意識によらずといふことなし、長沙禪師の云く、學道の人の眞をしらざることは、只ひさしく識神をとむるがゆゑなりと云云。初心の學者坐禪となづけて返照する時、此心の形段もなく邊際もなく照す靈々たる處を見て、これを主人公と思ひ、本來の面目と計せり。古人これを精魂を弄し識神を認むとそしれり、圓覺經の中に賊をとめて子とすと說くもこの義なり。佛の言く、三界は唯一心なり。心外に別法なし一心といへる語は同じけれ共、諸宗の所解各ことなり、小乘の人は六識分別を一心と思へり。大乘の中に或は六識分別よりも、猶微細なる處に第七識第八識ある事を明せり。萬法はみな此れ八種の識の所變なりと談ずる故に、三界一心と說けるは、此れ八識心王の事なりと思へり。或は此の上に第九識を立て諸法は此識の隨緣の相なり、此の故に三界一心と說けりと談ず。小乘の學者は微細の心識ある事をしらざるが故に境界に對する時、執著分別の念だに發らねばこれを至極と思へり。今時大乘を行ずる人の中に一切の境に對する時分別にわたらず。山をば山と見水をば水と見、僧をば僧と見、俗をば俗と見れ共、是非善惡の執著にわたらぬ處を本心と思へる人あり。是れ卽ち六識の中の前五識の分なり、本心にはあらず、此の心法不可思議なり。太虛にわたれども廣からず、纖芥に入れどもすほからず、一切の相をはなれて一切の相を具し、無邊の德をそなへて無邊の德に墮ちず。然れば卽ち眞妄をもわかつべからず、麁細をも論じがたし。しかれ共、迷倒の前には眞妄麁細ひとしからず、しかるをいまだ迷倒の見をはなれざる人の卽心卽佛といへる語に隨つて解を生じて、喜怒哀樂の妄情、卽ち是れ佛心なりと談ず。其の語は佛法に似たれども、其の見は邪道にことならず、かやうの人のために諸の聖敎に其のわけめを說き置かれけり。若し能く此の理を分明に知り得たらば、たとひ大悟の分はなくとも、魚目をとめて明珠とするあやまりあるべからず、末代に生れたる人は宿習も淺近なるが故に、敎門を學する人は、諸宗に心法の理を說ける種々の文義を學得したるを至極として自ら其の心法の源をさとることもなし。禪門に入る人はかやうの事は敎家の所談なり、禪者の學すべきことにあらずと思へり。若しまことに世間の妄想出世の法門ともに放下して、眞に無上菩提に趣く人ならば、禪家にすゝむる所なり、しかれ共經論の文義をば學せず、自分の分別にひかれて妄想を起して識神をとめて、本心と思へるはあやまりにあらずや。

現代語訳

問:神我の見とは、どのような見解か。 答:数論派の外道は二十五諦を立てて、世間の諸法を判じた。その第一を冥諦と名づける。天地がまだ分かれる前は吉凶禍福にも関わらず、見聞覚知も及ばず、名をつけにくいが、あえて冥諦と呼ぶ。これは常住で生・住・異・滅に移らない。第二十五を神我諦と名づける。いわゆる普通の凡夫が心と呼び魂と思うものである。これも常住だと見なす。その中間の二十三諦は世間の吉凶禍福などの変化の相である。これを有為の法とする。神我がもし吉凶禍福の情を起こせば、冥諦が変じてその相となる。神我がもし長短方円の想いを生じれば、冥諦が転じてその形を現す。だから世間の有為の変化は、ひとえに神我が情を生じることによる。神我がもしすべての情を生じさせず冥諦に帰れば、有為の変化は永久にやみ、無為の安楽が自然に至る。色身は壊れ滅びても、神我は留まって滅びない。たとえば家が焼けるとき、主人は出て行くようなものだという。忠国師が謗られた神我の見とはこれである。中国に広まった荘子・老子の見解もこれを出ない。老子の虚無、荘子の無為の大道というのは、あの外道の冥諦にあたる。今の大乗の学人のなかにも、この見を起こしている人がいる。『円覚経』に「たとえば摩尼宝珠が五色に映って、その色を現すとき、愚かな人はその宝珠に実際に五色があると見るようなものである。円覚の清浄な性に仮に身心の相を現すとき、愚かな人はこれに迷って実際に身心の相があると思う。だから身心は幻の垢だと説く」とある。永嘉大師は「法財を損ない功徳を滅ぼすのは、この心意識によらないものはない」と言い、長沙禅師は「道を学ぶ人が真を知らないのは、ただ長く識神をとどめているからである」と言った。初心の学人が坐禅と名づけて返り照らすとき、この心が形も際限もなく照らし霊妙にはたらく所を見て、これを主人公と思い、本来の面目と決めつける。古人はこれを、精魂を弄び識神を認めるものと謗った。『円覚経』で賊を認めて子とすると説くのもこの意味である。仏は「三界はただ一心である。心の外に別の法はない」と言われた。一心という語は同じでも、諸宗の解釈はそれぞれ異なる。小乗の人は六識の分別を一心と思う。大乗のなかには、六識の分別よりもなお微細な所に第七識・第八識があると明かす。万法はみなこの八種の識の変化したものだと説くので、三界一心とはこの八識心王のことだと思う。あるいはその上に第九識を立て、諸法はこの識が縁に随った相であるから三界一心と説くのだと言う。小乗の学者は微細な心識があることを知らないので、境に対したとき執着や分別の念さえ起こらなければこれを究極と思う。今の大乗を行じる人のなかに、あらゆる境に対するとき分別に渡らず、山を山と見、水を水と見、僧を僧と見、俗を俗と見ても、是非善悪の執着に渡らない所を本心と思う人がいる。これは六識のうち前の五識の分であって、本心ではない。この心法は不可思議である。大空に広がっても広くなく、細かな芥子に入ってもせまくない。あらゆる相を離れてあらゆる相をそなえ、無辺の徳をそなえて無辺の徳に堕ちない。だから真と妄を分けることも、粗と細を論じることもできない。しかし迷い転倒した立場からすれば、真・妄・粗・細は等しくない。それなのに、まだ迷倒の見を離れていない人が「即心即仏」という語にしたがって理解を生じ、喜怒哀楽の妄情がそのまま仏心だと言う。言葉は仏法に似ていても、その見は邪道と変わらない。こういう人のために諸の聖教にその区別が説き置かれている。もしこの理をはっきり知り得たならば、たとえ大悟の分はなくても、魚の目を宝珠と取り違える誤りはあるはずがない。末世に生まれた人は宿世の習いも浅いので、教門を学ぶ人は、諸宗が心法の理を説く種々の文義を学び取ったことを至極として、自らその心法の源を悟ることもない。禅門に入る人は、こうしたことは教家の言うことで、禅者が学ぶことではないと思っている。もし本当に世間の妄想も出世の法門もともに放下して、真に無上菩提に向かう人であれば、それは禅家が勧めるところである。しかし経論の文義を学ばず、自分の分別に引かれて妄想を起こし、識神をとどめて本心と思うのは、誤りではないだろうか。

解説

神我の見とは、身は滅んでも魂だけは不変に残ると考える数論派の発想で、荘子・老子の虚無も同類だと夢窓疎石は見ます。さらに問題にするのは、坐禅で見えた霊妙な働きを主人公と思い込んだり、喜怒哀楽の妄情をそのまま仏心とする誤りです。経論を学ばず自分の分別だけに頼る禅者への戒めも明確です。現代に引き寄せれば、直感や自分の感覚を絶対視して、基礎知識の学びを軽んじる危うさに当たります。体験と学びの両方を求める姿勢が問われます。
『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

神我の見冥諦識神六識即心即仏経論

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