夢中問答集 / 『夢中問答集』神我の見と識神を戒める
問神我の見とは、いかやうなる見ぞや。 答數論外道二十五諦を立て世間の諸法を判せり、其の第一をば冥諦となづく、天地いまだわかれざる前は、吉凶禍福にもあづからじ見聞覺知も及ぶことなし、名字をつけがたしといへ共、强て冥諦と號す。是は常住にして生住異滅にうつされず、第二十五を神我諦と名く、謂ゆるよのつねの凡夫の心と名づけ魂と思へる者なり、是をも計して常住なりといへり。其の中間の二十三諦は世間の吉凶禍福等の諸の轉變の相なり、是をば計して有爲の法とす。神我若し吉凶禍福の情を起せば、冥諦變じて其の相をなす、神我若し長短方圓の想を生ずれば、冥諦轉じて其の形を現ず。然らば卽ち世間の有爲の轉變する事は偏に神我の情を生ずるによれり、神我若し一切の情を生せずして冥諦に歸すれば、有爲の轉變永くやみて無爲の安樂自らいたる、色身は壞滅すれども神我は意住にして滅せず。たとへば家のやくる時、主は出で去るがごとしといへり、忠國師のそしり玉へる神我の見とは是なり、晨旦に流布せる莊老の見解もこれをいでず、老子の虛無莊子の無爲の大道といへるはかの外道の冥諦にあたれり。今時大乘の學者の中に、此の見をおこせる人あり、圓覺經に云くたとへば摩尼寳珠の五色に映じて其の色を現する時、愚人かの寳珠に實に五色ありと見るがごとし。圓覺の淨性にかりに身心の相を現する時、愚人これに迷つて實に身心の相ありとおもへり、この故に身心は幻垢なりと說くなりと云云。永嘉大師の云く、法財を損し功德をほろぼすこと、この心意識によらずといふことなし、長沙禪師の云く、學道の人の眞をしらざることは、只ひさしく識神をとむるがゆゑなりと云云。初心の學者坐禪となづけて返照する時、此心の形段もなく邊際もなく照す靈々たる處を見て、これを主人公と思ひ、本來の面目と計せり。古人これを精魂を弄し識神を認むとそしれり、圓覺經の中に賊をとめて子とすと說くもこの義なり。佛の言く、三界は唯一心なり。心外に別法なし一心といへる語は同じけれ共、諸宗の所解各ことなり、小乘の人は六識分別を一心と思へり。大乘の中に或は六識分別よりも、猶微細なる處に第七識第八識ある事を明せり。萬法はみな此れ八種の識の所變なりと談ずる故に、三界一心と說けるは、此れ八識心王の事なりと思へり。或は此の上に第九識を立て諸法は此識の隨緣の相なり、此の故に三界一心と說けりと談ず。小乘の學者は微細の心識ある事をしらざるが故に境界に對する時、執著分別の念だに發らねばこれを至極と思へり。今時大乘を行ずる人の中に一切の境に對する時分別にわたらず。山をば山と見水をば水と見、僧をば僧と見、俗をば俗と見れ共、是非善惡の執著にわたらぬ處を本心と思へる人あり。是れ卽ち六識の中の前五識の分なり、本心にはあらず、此の心法不可思議なり。太虛にわたれども廣からず、纖芥に入れどもすほからず、一切の相をはなれて一切の相を具し、無邊の德をそなへて無邊の德に墮ちず。然れば卽ち眞妄をもわかつべからず、麁細をも論じがたし。しかれ共、迷倒の前には眞妄麁細ひとしからず、しかるをいまだ迷倒の見をはなれざる人の卽心卽佛といへる語に隨つて解を生じて、喜怒哀樂の妄情、卽ち是れ佛心なりと談ず。其の語は佛法に似たれども、其の見は邪道にことならず、かやうの人のために諸の聖敎に其のわけめを說き置かれけり。若し能く此の理を分明に知り得たらば、たとひ大悟の分はなくとも、魚目をとめて明珠とするあやまりあるべからず、末代に生れたる人は宿習も淺近なるが故に、敎門を學する人は、諸宗に心法の理を說ける種々の文義を學得したるを至極として自ら其の心法の源をさとることもなし。禪門に入る人はかやうの事は敎家の所談なり、禪者の學すべきことにあらずと思へり。若しまことに世間の妄想出世の法門ともに放下して、眞に無上菩提に趣く人ならば、禪家にすゝむる所なり、しかれ共經論の文義をば學せず、自分の分別にひかれて妄想を起して識神をとめて、本心と思へるはあやまりにあらずや。
新字:問神我の見とは、いかやうなる見ぞや。 答数論外道二十五諦を立て世間の諸法を判せり、其の第一をば冥諦となづく、天地いまだわかれざる前は、吉凶禍福にもあづからじ見聞覚知も及ぶことなし、名字をつけがたしといへ共、強て冥諦と号す。是は常住にして生住異滅にうつされず、第二十五を神我諦と名く、謂ゆるよのつねの凡夫の心と名づけ魂と思へる者なり、是をも計して常住なりといへり。其の中間の二十三諦は世間の吉凶禍福等の諸の転変の相なり、是をば計して有為の法とす。神我若し吉凶禍福の情を起せば、冥諦変じて其の相をなす、神我若し長短方円の想を生ずれば、冥諦転じて其の形を現ず。然らば即ち世間の有為の転変する事は偏に神我の情を生ずるによれり、神我若し一切の情を生せずして冥諦に帰すれば、有為の転変永くやみて無為の安楽自らいたる、色身は壊滅すれども神我は意住にして滅せず。たとへば家のやくる時、主は出で去るがごとしといへり、忠国師のそしり玉へる神我の見とは是なり、晨旦に流布せる荘老の見解もこれをいでず、老子の虚無荘子の無為の大道といへるはかの外道の冥諦にあたれり。今時大乗の学者の中に、此の見をおこせる人あり、円覚経に云くたとへば摩尼宝珠の五色に映じて其の色を現する時、愚人かの宝珠に実に五色ありと見るがごとし。円覚の浄性にかりに身心の相を現する時、愚人これに迷つて実に身心の相ありとおもへり、この故に身心は幻垢なりと説くなりと云云。永嘉大師の云く、法財を損し功徳をほろぼすこと、この心意識によらずといふことなし、長沙禅師の云く、学道の人の真をしらざることは、只ひさしく識神をとむるがゆゑなりと云云。初心の学者坐禅となづけて返照する時、此心の形段もなく辺際もなく照す霊々たる処を見て、これを主人公と思ひ、本来の面目と計せり。古人これを精魂を弄し識神を認むとそしれり、円覚経の中に賊をとめて子とすと説くもこの義なり。仏の言く、三界は唯一心なり。心外に別法なし一心といへる語は同じけれ共、諸宗の所解各ことなり、小乗の人は六識分別を一心と思へり。大乗の中に或は六識分別よりも、猶微細なる処に第七識第八識ある事を明せり。万法はみな此れ八種の識の所変なりと談ずる故に、三界一心と説けるは、此れ八識心王の事なりと思へり。或は此の上に第九識を立て諸法は此識の随縁の相なり、此の故に三界一心と説けりと談ず。小乗の学者は微細の心識ある事をしらざるが故に境界に対する時、執著分別の念だに発らねばこれを至極と思へり。今時大乗を行ずる人の中に一切の境に対する時分別にわたらず。山をば山と見水をば水と見、僧をば僧と見、俗をば俗と見れ共、是非善悪の執著にわたらぬ処を本心と思へる人あり。是れ即ち六識の中の前五識の分なり、本心にはあらず、此の心法不可思議なり。太虚にわたれども広からず、繊芥に入れどもすほからず、一切の相をはなれて一切の相を具し、無辺の徳をそなへて無辺の徳に堕ちず。然れば即ち真妄をもわかつべからず、麁細をも論じがたし。しかれ共、迷倒の前には真妄麁細ひとしからず、しかるをいまだ迷倒の見をはなれざる人の即心即仏といへる語に随つて解を生じて、喜怒哀楽の妄情、即ち是れ仏心なりと談ず。其の語は仏法に似たれども、其の見は邪道にことならず、かやうの人のために諸の聖教に其のわけめを説き置かれけり。若し能く此の理を分明に知り得たらば、たとひ大悟の分はなくとも、魚目をとめて明珠とするあやまりあるべからず、末代に生れたる人は宿習も浅近なるが故に、教門を学する人は、諸宗に心法の理を説ける種々の文義を学得したるを至極として自ら其の心法の源をさとることもなし。禅門に入る人はかやうの事は教家の所談なり、禅者の学すべきことにあらずと思へり。若しまことに世間の妄想出世の法門ともに放下して、真に無上菩提に趣く人ならば、禅家にすゝむる所なり、しかれ共経論の文義をば学せず、自分の分別にひかれて妄想を起して識神をとめて、本心と思へるはあやまりにあらずや。
書き下し
問神我の見とは、いかやうなる見ぞや。 答數論外道二十五諦を立て世間の諸法を判せり、其の第一をば冥諦となづく、天地いまだわかれざる前は、吉凶禍福にもあづからじ見聞覺知も及ぶことなし、名字をつけがたしといへ共、强て冥諦と號す。是は常住にして生住異滅にうつされず、第二十五を神我諦と名く、謂ゆるよのつねの凡夫の心と名づけ魂と思へる者なり、是をも計して常住なりといへり。其の中間の二十三諦は世間の吉凶禍福等の諸の轉變の相なり、是をば計して有爲の法とす。神我若し吉凶禍福の情を起せば、冥諦變じて其の相をなす、神我若し長短方圓の想を生ずれば、冥諦轉じて其の形を現ず。然らば卽ち世間の有爲の轉變する事は偏に神我の情を生ずるによれり、神我若し一切の情を生せずして冥諦に歸すれば、有爲の轉變永くやみて無爲の安樂自らいたる、色身は壞滅すれども神我は意住にして滅せず。たとへば家のやくる時、主は出で去るがごとしといへり、忠國師のそしり玉へる神我の見とは是なり、晨旦に流布せる莊老の見解もこれをいでず、老子の虛無莊子の無爲の大道といへるはかの外道の冥諦にあたれり。今時大乘の學者の中に、此の見をおこせる人あり、圓覺經に云くたとへば摩尼寳珠の五色に映じて其の色を現する時、愚人かの寳珠に實に五色ありと見るがごとし。圓覺の淨性にかりに身心の相を現する時、愚人これに迷つて實に身心の相ありとおもへり、この故に身心は幻垢なりと說くなりと云云。永嘉大師の云く、法財を損し功德をほろぼすこと、この心意識によらずといふことなし、長沙禪師の云く、學道の人の眞をしらざることは、只ひさしく識神をとむるがゆゑなりと云云。初心の學者坐禪となづけて返照する時、此心の形段もなく邊際もなく照す靈々たる處を見て、これを主人公と思ひ、本來の面目と計せり。古人これを精魂を弄し識神を認むとそしれり、圓覺經の中に賊をとめて子とすと說くもこの義なり。佛の言く、三界は唯一心なり。心外に別法なし一心といへる語は同じけれ共、諸宗の所解各ことなり、小乘の人は六識分別を一心と思へり。大乘の中に或は六識分別よりも、猶微細なる處に第七識第八識ある事を明せり。萬法はみな此れ八種の識の所變なりと談ずる故に、三界一心と說けるは、此れ八識心王の事なりと思へり。或は此の上に第九識を立て諸法は此識の隨緣の相なり、此の故に三界一心と說けりと談ず。小乘の學者は微細の心識ある事をしらざるが故に境界に對する時、執著分別の念だに發らねばこれを至極と思へり。今時大乘を行ずる人の中に一切の境に對する時分別にわたらず。山をば山と見水をば水と見、僧をば僧と見、俗をば俗と見れ共、是非善惡の執著にわたらぬ處を本心と思へる人あり。是れ卽ち六識の中の前五識の分なり、本心にはあらず、此の心法不可思議なり。太虛にわたれども廣からず、纖芥に入れどもすほからず、一切の相をはなれて一切の相を具し、無邊の德をそなへて無邊の德に墮ちず。然れば卽ち眞妄をもわかつべからず、麁細をも論じがたし。しかれ共、迷倒の前には眞妄麁細ひとしからず、しかるをいまだ迷倒の見をはなれざる人の卽心卽佛といへる語に隨つて解を生じて、喜怒哀樂の妄情、卽ち是れ佛心なりと談ず。其の語は佛法に似たれども、其の見は邪道にことならず、かやうの人のために諸の聖敎に其のわけめを說き置かれけり。若し能く此の理を分明に知り得たらば、たとひ大悟の分はなくとも、魚目をとめて明珠とするあやまりあるべからず、末代に生れたる人は宿習も淺近なるが故に、敎門を學する人は、諸宗に心法の理を說ける種々の文義を學得したるを至極として自ら其の心法の源をさとることもなし。禪門に入る人はかやうの事は敎家の所談なり、禪者の學すべきことにあらずと思へり。若しまことに世間の妄想出世の法門ともに放下して、眞に無上菩提に趣く人ならば、禪家にすゝむる所なり、しかれ共經論の文義をば學せず、自分の分別にひかれて妄想を起して識神をとめて、本心と思へるはあやまりにあらずや。
現代語訳
問:神我の見とは、どのような見解か。 答:数論派の外道は二十五諦を立てて、世間の諸法を判じた。その第一を冥諦と名づける。天地がまだ分かれる前は吉凶禍福にも関わらず、見聞覚知も及ばず、名をつけにくいが、あえて冥諦と呼ぶ。これは常住で生・住・異・滅に移らない。第二十五を神我諦と名づける。いわゆる普通の凡夫が心と呼び魂と思うものである。これも常住だと見なす。その中間の二十三諦は世間の吉凶禍福などの変化の相である。これを有為の法とする。神我がもし吉凶禍福の情を起こせば、冥諦が変じてその相となる。神我がもし長短方円の想いを生じれば、冥諦が転じてその形を現す。だから世間の有為の変化は、ひとえに神我が情を生じることによる。神我がもしすべての情を生じさせず冥諦に帰れば、有為の変化は永久にやみ、無為の安楽が自然に至る。色身は壊れ滅びても、神我は留まって滅びない。たとえば家が焼けるとき、主人は出て行くようなものだという。忠国師が謗られた神我の見とはこれである。中国に広まった荘子・老子の見解もこれを出ない。老子の虚無、荘子の無為の大道というのは、あの外道の冥諦にあたる。今の大乗の学人のなかにも、この見を起こしている人がいる。『円覚経』に「たとえば摩尼宝珠が五色に映って、その色を現すとき、愚かな人はその宝珠に実際に五色があると見るようなものである。円覚の清浄な性に仮に身心の相を現すとき、愚かな人はこれに迷って実際に身心の相があると思う。だから身心は幻の垢だと説く」とある。永嘉大師は「法財を損ない功徳を滅ぼすのは、この心意識によらないものはない」と言い、長沙禅師は「道を学ぶ人が真を知らないのは、ただ長く識神をとどめているからである」と言った。初心の学人が坐禅と名づけて返り照らすとき、この心が形も際限もなく照らし霊妙にはたらく所を見て、これを主人公と思い、本来の面目と決めつける。古人はこれを、精魂を弄び識神を認めるものと謗った。『円覚経』で賊を認めて子とすると説くのもこの意味である。仏は「三界はただ一心である。心の外に別の法はない」と言われた。一心という語は同じでも、諸宗の解釈はそれぞれ異なる。小乗の人は六識の分別を一心と思う。大乗のなかには、六識の分別よりもなお微細な所に第七識・第八識があると明かす。万法はみなこの八種の識の変化したものだと説くので、三界一心とはこの八識心王のことだと思う。あるいはその上に第九識を立て、諸法はこの識が縁に随った相であるから三界一心と説くのだと言う。小乗の学者は微細な心識があることを知らないので、境に対したとき執着や分別の念さえ起こらなければこれを究極と思う。今の大乗を行じる人のなかに、あらゆる境に対するとき分別に渡らず、山を山と見、水を水と見、僧を僧と見、俗を俗と見ても、是非善悪の執着に渡らない所を本心と思う人がいる。これは六識のうち前の五識の分であって、本心ではない。この心法は不可思議である。大空に広がっても広くなく、細かな芥子に入ってもせまくない。あらゆる相を離れてあらゆる相をそなえ、無辺の徳をそなえて無辺の徳に堕ちない。だから真と妄を分けることも、粗と細を論じることもできない。しかし迷い転倒した立場からすれば、真・妄・粗・細は等しくない。それなのに、まだ迷倒の見を離れていない人が「即心即仏」という語にしたがって理解を生じ、喜怒哀楽の妄情がそのまま仏心だと言う。言葉は仏法に似ていても、その見は邪道と変わらない。こういう人のために諸の聖教にその区別が説き置かれている。もしこの理をはっきり知り得たならば、たとえ大悟の分はなくても、魚の目を宝珠と取り違える誤りはあるはずがない。末世に生まれた人は宿世の習いも浅いので、教門を学ぶ人は、諸宗が心法の理を説く種々の文義を学び取ったことを至極として、自らその心法の源を悟ることもない。禅門に入る人は、こうしたことは教家の言うことで、禅者が学ぶことではないと思っている。もし本当に世間の妄想も出世の法門もともに放下して、真に無上菩提に向かう人であれば、それは禅家が勧めるところである。しかし経論の文義を学ばず、自分の分別に引かれて妄想を起こし、識神をとどめて本心と思うのは、誤りではないだろうか。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』凡夫と聖者の見方の違い問凡聖所見の差別いかん。 答禪宗には直に本分をしめす、故にかやうの事を論せず、敎の中には種々の義あり、しばらく首楞嚴經の說相について粗申すべし。彼の經の中に七大を明せり謂ゆる地大水大火大風大空大根大識大なり。此の七大皆な是れ如來藏の中の性德として、法界に周遍し融通無礙なり。これを性火性風等となづく眞言敎の中に六大無礙にして諸法の體なりと談ずるもこの意なり。たゞし眞言敎には根大をあかさず、根大とは眼耳等の六根も皆な法界に周遍せる義なり。眞言には六大を法界の體とす、楞嚴經には如來藏を諸法の體とす、七大は皆如來藏所具の德用なりとあかせり。皆な是れ如來の隨宜說法なり、眞言に六大と申すも緣生の水火等をさすにはあらず、楞嚴經に性火性水等といへる六大なり。四曼と談ずるは緣生の諸法なり。この故に六大を體とし四曼を相とし三密を用とすと明せり、七大に皆な同じく性德と緣生との差別あり。先づ一大をよく〱心得ぬれば諸大も亦同じかるべし。世間に木の中より鑽出し石の中より打出せる火はこれ緣生の火なり。此の火は實體なし薪にても油にても其の緣なくてはもゆることなし。薪油等の緣ある時かりに其の相を現ず、故に虛妄にして實體なしと說けり。顯密の諸經にも緣生の諸法の實體なす事は同一說なり、性火といへるは法界に周遍して、燃ゆることもなく滅する事もなし。凡夫はたゞ緣生の火をのみ見て性火をばしらず。若し知り得ぬれば緣火とてきらふべきことなし、緣火は是性火の用なるが故に此の火大のごとく餘大も亦然り。乃至識大とは衆生の心識なり、それもよのつね凡夫の心と思へるは緣生の心なり、經の中にこれを緣心と說けり。此の心はすべて實體なし、六塵の緣によりてかりに見聞覺知の相あり、緣生の火の薪油等の緣によりて、かりにもゆる相あるがごとし。愚人はたゞ緣心をのみ知りて性心をしらず、外典乃至小乘敎の中に心といへるは皆是緣心なり、大乘の中に八識を談ずるも猶是れ緣心の分劑なり、是を以て極大乘の中に第九識を立てたり、是れ卽ち性德の識大をしらしめんためなり。諸法といへるは色心二法なり、七大の中に識大はこれ心法なり、其の餘の六大は皆色法なり。然れ共此の七大ともに如來藏の中に具足して五融無礙なるが故に色心の差別なし、これを眞法界となづく差別なしといへ共、色心混濫する事なし。然らば卽ち其の色法も生滅盛衰の形相にあらず、其心法も動靜起滅の轉變なし、經の中に諸法實相常住と說けるは此の義なり。凡夫の妄見起る時、此の如來藏虛妄の緣に隨つて色心諸法の相を現ず、凡夫の妄見轉變するが故に其の所見の諸法も亦皆な轉變の相あり。たとへば舟の行く時、岸のうつると見ゆるがごとし、又翳眼にて見る時、虛空皆な花となりて亂起亂滅するがごとし。諸法は皆な是れ虛妄と說けるは此の義なり、然らば則或は諸法虛妄と說き、或は諸法常住と談ず、其の言句は異なりといへども、其の法體はこれ同じ佛意をしらざる者のは其の言句の差別に隨つて此れを取て彼を捨つ皆な是れ世俗の戯論なり、翳眼の人と明眼の人と二人同所にありて虛空に向へる時、翳眼の前には積々の花ありて亂起亂滅する相あり。しかれ共明眼の人は亂起亂滅の處をあらためずして淸淨の虛空とみるがごとし、煩惱卽菩提生死卽涅槃常位卽妙不改本位といへるも此の義なり。當相卽道卽事而眞と申すも、此の謂れなりしかるを凡夫所見のまゝにて、やがて佛知見なりと心得たるは大なる錯なり。若しさやうならば諸佛の出世し玉ふこと何事のためとか申すべきや顯密の宗師みな學者のために修行をすゝめ玉へるは何事の對治のためぞや、古の大師達みな聚落の外に伽藍を立て女人を入れられず、酒肉等を制し玉へる事は何の謂ぞや。
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夢中問答集・『夢中問答集』夢と本分の家(下)佛法も亦かくのごとし、本分の田地には凡聖の相もなく淨穢の境もなし、無明業識の一夢起るが故に、無相の中に淨穢の境界を現じ、無爲の中に凡聖の差別を見る、我は凡夫也と思ふ時は東西に馳走して名利を求む求め得ざる時はなげきかなしむ。我は智人也と思ふ時は、一切の人をかろしめて高慢の心を起す、かゝる種々の顚倒にばかされて本分安樂の田地ある事を信ぜず。是れ卽ち夢中の妄境に心を轉せられてうつゝの境界を信せざるがごとし、其の中にたま〱利根の人ありて、凡聖淨穢業識の上に浮べる假相也。本分の田地にはすべてかやうの事なしと信ずれ共、いまだ大悟せざる故に、やゝもすれば幻化に誑惑せられて、我は是れ迷人也と思ひならはせる我執いまだ忘せざる故に、得法悟道をねがひ機辨神通ををうらやむ。しかる故に修行用心について邪正を論じ、應用問答において勝劣をあらそふ。此れは是れ夢みる人の我が所見は皆な夢也と信ずれ共、大夢いまださめざる故に、夢の境界にばかはされて其の中について、是非得失を論ずるがごとし。若し是れ最上根の人はたとひいまだ大悟の分はなけれ共、自他身心を計する事皆是れ業識の妄想也と分明に信解する故に、輪廻をもいとはず、解脫をも求めず、若しかくのごとくならば趣向の正しき人と申すべし。趣向のたゞしきをたのみて、滿足の思をなさば亦謬りなり。圓覺經に云く、衆生顚倒して妄に四大をとめて自身の相とし、六塵の緣影を自身の相とす、たとへば病目の空中の花及び第二の月を見るがごとし。是れによりて、妄に生死に輪轉する事あり、この故に無明となづく。此の無明といふは、實に體あるにあらず、夢中に人を見るときは其の體なきにあらざれ共、夢さめぬれば其の人ある事なきがごとし。首楞嚴經に云く、妙性圓明にして諸の名相をはなれたり、本より世界衆生ある事なしと云云。諸大乘經みな同じくかやうに說けり、何ぞこれを信ぜずして、身心を勞役して外に向つて馳求するや。世間の吉凶其の相いまだあらはれざる時は、愚人これをしらず。然れども世間の巫女陰陽師等のうらなひしめす言を信じて、それにまかせてふるまへば、時節到來して其の效をみる事あり。本分の一段は人々具足すれども、いまだ契當せざる人は、日に用ひて知る事なし。是の故に佛祖大慈をたれて叮嚀にしめし玉へり。たとひ宿習うすくして、直下に契當する事なくとも世間の陰陽師等を信ずるがごとく、佛祖の言を信じて、それにまかせて用心せば、何ぞしるしなからんや。
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夢中問答集・『夢中問答集』砂を煮て飯にならず問ゆがめる物をおしなをせば、すぐになるがごとく凡夫の妄心の邪僻なるを修練して、眞正になせば佛心ともなるべきとこそ覺ゆるを、妄心は第二の月に同じとて一向にきらふことは何ぞや、若し爾らば凡夫の佛に成ることはあるまじきやらん。 答此の疑は是圓覺經の中の普賢菩薩の疑問なり、首楞嚴經の中に阿難亦此の疑ひを生ぜり。佛阿難に告げて云はく、汝本心を失つて慮知分別の心をとめて自心と思へり。此れは汝が心にあらず、阿難疑つて云く六道に輪廻する事も此の心によれり、乃至佛果を得る事も亦此心によるべし。しかるを此の心若し我が心にあらずば何を以て修行して佛果を成ずべきや。若し此の心なくば土木瓦石と何ぞことならん、佛の言く、汝が心をおさへて無しと思へといふにはあらず。汝が心と思へるもの實に有る者ならばかならず、在る所あるべし、何れの處にか在るやと問ひ玉ふ時、阿難始めは此の心は身の內にありと答へ申さる。佛汝が身の內にも此の心なきよしを責め玉ふ時、阿難言く身の外にあり佛又これをしからずと責め玉ふ、阿難かくのごとく七處までさし申さる、最後には我が心は內にあるにもあらず、外にあるにもあらず、中間にあるにもあらず、一切無著なるは我が心なりとのべられき。しかれども、佛皆これをゆるし玉はず、この故に阿難茫然として分別する所なし。爾の時に佛の言はく一切衆生無始より、このかた妄りに輪廻を受けたることは、本心を失ふて慮知の心をとめて我が心と思へるによれり、此の故にたま〱佛法を修行すといへども二種の根本をしらずして錯つて修行する故に、二乘外道及び天魔の境界に墮つ、二種の根本とは一つには、本覺妙明元清淨の體なり、此は是れ衆生の自心の本源なり。此の根本をば忘失せり、二つには無始輪廻の根本なり、汝が慮知分別をとめて自心と思へる者なり。若し此の心を以て修行せば、輪廻の業とはなるとも、本源に到ることあるべからず、たとへば砂を煮て飯となさんと思はんがごとし、たとひ劫數をふるとも熟砂とはなるべし、飯とはなるべからずと云云。 南岳大師の一乘止觀に云く、止觀の行者先づ心識をして淨心に依止せしむべし。若し生滅の心を以て修行せば、成就すべからずと云云。大日經疏に云く、凡夫二乘外道は無生滅の心をしらざるのみにあらず、生滅の心をも亦しらずと云云。又云く心性は念をはなれたり、憶度の知るべき所にあらずと云云。占察業報經に云く、心相に二種あり。一つには眞二つには妄なり、眞とは心體如々清淨圓滿にして、一切の處に遍して一切の法を生長す、妄とは分別覺知の心なり、實體あとなくして虛僞の法を出生すと云云。
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夢中問答集・『夢中問答集』如幻の観は大乗の入口問大乘經の中に多くは、如夢如幻の法門を說けり。禪師の語の中にも亦此の法門あり。しかれは大乘の行人は、如幻の觀をなすを本とすべしや。 答諸法は夢幻の如しといへる法門、其語は同じけれ共、諸宗に談ずる其の旨趣各ことなりしかりといへ共、其の大概はこれかはらず、世人の諺に世の中は夢幻のごとしなんど申すは、無常の謂れなり。大乘に夢幻のたとへを取るはしからず。夢の中にみゆるところの種々の物像、すべて實體なし。實體なしといへども、諸の形相宛然たり。幻術師の巾をわがねて、或は人の形となし。或は馬の形となせども、實には人馬の相にあらず。幻のごとしといへるは是れなり。天竺に此の術をなす者多し。この故に譬とせり。かやうの謂れを以て萬法の實體なくして、しかも諸相歷然たるに譬へたり。水中の月鏡中の像なんどいへる譬も又此の意なり。又敎の中に不思議幻なんと談する法門あり。 緣生如幻の義にはことなり。佛法修行の人やゝもすれば外道二乘の見解に墮つ。外道の見は多しといへども、斷常の二見を本とす。斷とは無なり。常とは有なり。是れに四句あり。色心の諸法において或は一向に有なりと計するは常見なり。或は一向に無なりと計するは斷見なり。或は有なる方もあり。無なる方もありと計するは亦有亦無の見なり。或は一向に有にもあらず。無にもあらずと計するをば非有非無の見と名く。今時大乘修行の人語には、談ずる法門は大乘に似たれども、其の所見をさくる時は、外道の四句の見を出さる人あり。佛の說法も四句をいでずといへども、眞實の佛智の四句の内にあるにはあらず。有の見を破せんためには諸法の空無なる事を說き、無の見をやぶらんためには諸法の常住なるよしを演給へり。佛意をしらざる人は、方便をとめて眞實と思へり。二乘の見とは聲聞緣覺其の所學の法門は、すこしきことなりといへども、身心を滅盡して無爲涅槃に歸して、三界の輪廻をまぬがるべしと思へり。はなはだ大乘の法理にそむけり。若し人如幻の法門を解了しぬれば、自然に外道二乘の見には墮せず。然らば卽ち如幻の法門を解了する人は、諸法有なりといへ共、其の所見實有にあらず。諸法は空なりと說けども其の智慧實空に墮せず。故に中道實相の眞理を證得するに便りあり。是を以て如幻の法門をば大乘の初門となづけたり。是れを眞實究竟の法門とするにはあらず。しかれども、凡夫外道の實有實空の見をやぶり、二乘沈空の解をなさしめざらんために、敎の中にかりに如幻の觀をすゝめたり。大日經の住心品にも緣生の諸法はみな如法なる理をのみ明せり。圓覺楞嚴の中には如幻の智をも遠離すべしと說かれたり。然れ共三種の觀行を明す時、三摩波提といへるは是れ如幻の觀なり。是れ卽ちしばらく幻智を起して幻妄を消して、本分清淨の寶殿にのぼらしめん爲なり。かやの方便をば敎門にうつる故に、禪宗の學者は如幻の觀をも用ふべからず。禪門の宗師の夢幻の法門を說くことは、此の理を心において觀念せよとにはあらず。佛法世法皆夢幻のごとしとしりなば、一切放下して直に本分に向はん事をすゝむるなり。三祖大師の云く、夢幻空花豈把捉することを勞せんや得失是非一時に放却せよと云云。
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夢中問答集・『夢中問答集』機根の違いと五性の差別問法理に差別のあることは、機根の同じからざる故なり、機根の同じからざるとは何の故ぞや。 答一眞法界の中には人もなく法もなし、迷情に約してしばらく人法をわかてり、衆生の根性種々なりといへ共、總てこれをいはゞ五類あり。一つには聲聞性、二つには緣覺性、三つには菩薩性、四つには不定性、五つには闡提性なり。聲聞緣覺の二乘は所學の法門ことなりといへども、たゞ自ら出離する道を求めて他を益する心なし、この故に同じく小乘心となづく衆生を利益せんために大乘の道を求むるをば菩薩と號す、有る時は小乘心を發し、有る時は大乘心を發して根性さだめなきは不定性なり、一切の佛法をすべて信ぜざるをば闡提性となづく、平等一性の中に一念の無明起る故にかりに五性の差別を成せり、各の根性のかはれる處を論せば實に同じといふべからず、この故に五性各別の法門あり。圓覺經に云く、一切衆生貪欲を本とするによりて、無明を發揮して五性の差別を顯出せり。又云く、圓覺の自性は五性にあらず、五性に隨つて差別の相を現ず、實相の中には菩薩及び諸の衆生なし、何を以ての故に菩薩衆生は皆な是れ幻化のごとしと云云。像法決疑經に云く、如來は有にあらず無にあらず出にあらず沒にあらず色にあらず非色にあらず、初成道より涅槃に至るまで其の中間において。一句の法をも說くことなし。しかるを愚人は如來出世して法を說きて人を度すと思へり。如來の境界は不可思議なり、識を以てもしるべからず、智を以てもしるべからずと云云。又云く、衆生の身相は幻化の如く鏡像の如く水月の如し、衆生の心相も不可思議也、來に非ず去に非ず有に非ず無に非ず內に非ず外に非ず。しかれ共衆生迷倒してふかく我見に著する故に妄に輪廻を受たりと云云。楞伽經に云く、始め鹿野苑より終り、跋提河に至るまで、いまだかつて一字をも談せずと云云。華嚴經に云く、眞淨界の中には佛もなく衆生もなしと云云。釋論に云く。不二摩訶衍は機根をはなれ敎說をはなれたりと云云。摩訶衍とは大乘の梵語なり、大小權實いまだわかれざる處を不二摩訶衍と名けたり、かやうの聖敎をば信ぜず、方便の門に心をつけて敎に大小權實を論じ機に上中下根をわかつ故に、或は高慢の心を起して魔道に入り、或は退屈の思を生じて迷衢にかへるこれを智人といふべしや。