夢中問答集 / 『夢中問答集』夢と本分の家(上)
問若し此の本分の所世間の相にも非ず、出世の法にもあらずば、何としてか此の所に到ることを得べきや。 答よのつね此の宗を信じて修行せんとする人、多くは此の疑ひあり。是れ卽ち本分の題目を疎略に心得玉へる故なり。若し此の本分を世間の藝能也と申さば、我は器量もなし何にとしてか習ふべきやといふ疑もありぬべし。又若し此の本分を出世の法也と申さば、我れは智慧もなし、何にとしてか悟るべきやとも疑ぬべし。旣に是れ世間出世の法に非ずといへる題目を聞きながら、何としてか此の所にいたるべきやといへる疑を生ずる人はおろかなり。本分の田地に到ると申す事は、田舍より京へ上り、日本より唐土へわたるがごとくにはあらず。譬ば人の我が家の中に睡臥て種々の夢を見るがごとし、或は穢惡不淨の所に居て、日夜に苦惱する事もあり。或は神仙殊勝の境に入て、身心快樂なる時もあり、此の時傍らにねぶらざる人ありて、夢みる人に向つてさとして云く、汝が所見の不淨の所も、殊勝の境も皆是れ夢中の妄想也。汝が本分の家の中にはすべてかやうなる事はなし。此の言を聞けどもおのれが夢中の所見を正とする者はすべてこれを信せず、しかる故に苦惱を受くる時は、其の苦惱をのがるべき計りごとをめぐらし安樂を得たる時は、其の安樂にほこる思あり、かくのごとく夢中の所見にばかされて、すべて本分の所をばしらず夢みる人の中に、たま〱知識の敎へによりて、本分安穩の家あるよしを信ずれども、大夢いまださめざるが故に、猶も夢中の所見を放却することあたはず。或は知識に問て云く、何としてか本分の家には歸るべきや、此目前の山を上り河をわたりて到るべしや。飛行の術法を習ひ得て此の山河をとび越えて到るべしや、或は又疑つて云く、本分の家は我が所見の山河大地の內にあり外にありや。此の山河大地をあらためずして全體是れ本分の家なりとやせん、かやうなる種々の疑の起る事は、皆な是れ大夢のいまださめざる故也。たとひ大夢はいまださめね共、我が此の見聞の境界は、皆な夢中の妄見也。其の中の去來動轉も亦夢中の妄想也と悟る故に見ることは、盲者のごとく聾人のごとくして、取捨分別を生ぜざる人は大夢のさめたる人とことならず。此の人をばうつゝの境界ある事を信ずる分はありと申すべし。
新字:問若し此の本分の所世間の相にも非ず、出世の法にもあらずば、何としてか此の所に到ることを得べきや。 答よのつね此の宗を信じて修行せんとする人、多くは此の疑ひあり。是れ即ち本分の題目を疎略に心得玉へる故なり。若し此の本分を世間の芸能也と申さば、我は器量もなし何にとしてか習ふべきやといふ疑もありぬべし。又若し此の本分を出世の法也と申さば、我れは智慧もなし、何にとしてか悟るべきやとも疑ぬべし。既に是れ世間出世の法に非ずといへる題目を聞きながら、何としてか此の所にいたるべきやといへる疑を生ずる人はおろかなり。本分の田地に到ると申す事は、田舎より京へ上り、日本より唐土へわたるがごとくにはあらず。譬ば人の我が家の中に睡臥て種々の夢を見るがごとし、或は穢悪不浄の所に居て、日夜に苦悩する事もあり。或は神仙殊勝の境に入て、身心快楽なる時もあり、此の時傍らにねぶらざる人ありて、夢みる人に向つてさとして云く、汝が所見の不浄の所も、殊勝の境も皆是れ夢中の妄想也。汝が本分の家の中にはすべてかやうなる事はなし。此の言を聞けどもおのれが夢中の所見を正とする者はすべてこれを信せず、しかる故に苦悩を受くる時は、其の苦悩をのがるべき計りごとをめぐらし安楽を得たる時は、其の安楽にほこる思あり、かくのごとく夢中の所見にばかされて、すべて本分の所をばしらず夢みる人の中に、たま〱知識の教へによりて、本分安穏の家あるよしを信ずれども、大夢いまださめざるが故に、猶も夢中の所見を放却することあたはず。或は知識に問て云く、何としてか本分の家には帰るべきや、此目前の山を上り河をわたりて到るべしや。飛行の術法を習ひ得て此の山河をとび越えて到るべしや、或は又疑つて云く、本分の家は我が所見の山河大地の内にあり外にありや。此の山河大地をあらためずして全体是れ本分の家なりとやせん、かやうなる種々の疑の起る事は、皆な是れ大夢のいまださめざる故也。たとひ大夢はいまださめね共、我が此の見聞の境界は、皆な夢中の妄見也。其の中の去来動転も亦夢中の妄想也と悟る故に見ることは、盲者のごとく聾人のごとくして、取捨分別を生ぜざる人は大夢のさめたる人とことならず。此の人をばうつゝの境界ある事を信ずる分はありと申すべし。
書き下し
問若し此の本分の所世間の相にも非ず、出世の法にもあらずば、何としてか此の所に到ることを得べきや。 答よのつね此の宗を信じて修行せんとする人、多くは此の疑ひあり。是れ卽ち本分の題目を疎略に心得玉へる故なり。若し此の本分を世間の藝能也と申さば、我は器量もなし何にとしてか習ふべきやといふ疑もありぬべし。又若し此の本分を出世の法也と申さば、我れは智慧もなし、何にとしてか悟るべきやとも疑ぬべし。旣に是れ世間出世の法に非ずといへる題目を聞きながら、何としてか此の所にいたるべきやといへる疑を生ずる人はおろかなり。本分の田地に到ると申す事は、田舍より京へ上り、日本より唐土へわたるがごとくにはあらず。譬ば人の我が家の中に睡臥て種々の夢を見るがごとし、或は穢惡不淨の所に居て、日夜に苦惱する事もあり。或は神仙殊勝の境に入て、身心快樂なる時もあり、此の時傍らにねぶらざる人ありて、夢みる人に向つてさとして云く、汝が所見の不淨の所も、殊勝の境も皆是れ夢中の妄想也。汝が本分の家の中にはすべてかやうなる事はなし。此の言を聞けどもおのれが夢中の所見を正とする者はすべてこれを信せず、しかる故に苦惱を受くる時は、其の苦惱をのがるべき計りごとをめぐらし安樂を得たる時は、其の安樂にほこる思あり、かくのごとく夢中の所見にばかされて、すべて本分の所をばしらず夢みる人の中に、たま〱知識の敎へによりて、本分安穩の家あるよしを信ずれども、大夢いまださめざるが故に、猶も夢中の所見を放却することあたはず。或は知識に問て云く、何としてか本分の家には歸るべきや、此目前の山を上り河をわたりて到るべしや。飛行の術法を習ひ得て此の山河をとび越えて到るべしや、或は又疑つて云く、本分の家は我が所見の山河大地の內にあり外にありや。此の山河大地をあらためずして全體是れ本分の家なりとやせん、かやうなる種々の疑の起る事は、皆な是れ大夢のいまださめざる故也。たとひ大夢はいまださめね共、我が此の見聞の境界は、皆な夢中の妄見也。其の中の去來動轉も亦夢中の妄想也と悟る故に見ることは、盲者のごとく聾人のごとくして、取捨分別を生ぜざる人は大夢のさめたる人とことならず。此の人をばうつゝの境界ある事を信ずる分はありと申すべし。
現代語訳
問:もしこの本分の所が世間の相でも出世の法でもないなら、どのようにしてこの所に到ることができるのか。 答:普通、この宗を信じて修行しようとする人は、多くこの疑いを持つ。それは本分という題目を粗略に受け取っているからである。もしこの本分を世間の芸能だと言えば、自分には才能がない、どうして習えようか、という疑いが出るだろう。また、もしこの本分を出世の法だと言えば、自分には智慧がない、どうして悟れようか、とも疑うだろう。すでに世間の法でも出世の法でもないという題目を聞きながら、どうしてこの所に到れるのかと疑いを起こす人は愚かである。本分の田地に到るというのは、田舎から京に上り、日本から唐へ渡るようなことではない。たとえば、人が自分の家の中で寝て、さまざまな夢を見るようなものである。夢のなかでは、汚れた不浄の所にいて昼夜苦しむこともあり、神仙の住む素晴らしい境に入って身も心も楽しいときもある。このとき、そばに眠っていない人がいて、夢を見ている人に向かって諭す。あなたが見ている不浄な所も、素晴らしい境も、すべて夢の中の妄想である。あなたの本来の家の中には、そんなことはまったくない、と。しかし、自分の夢の中の見るものを正しいと思う者は、この言葉をまったく信じない。そのため、苦しみを受けるときはその苦しみを逃れる手立てをめぐらし、安楽を得たときはその安楽に酔う心がある。このように夢の中で見ることに化かされて、本来の所をまったく知らない。夢を見る人のなかで、たまたま師の教えで、本分の安穏な家があると信じる人も、大きな夢がまだ覚めていないので、なお夢の中の見るものを捨てられない。そして師に尋ねる。どうすれば本来の家に帰れるのか。この目の前の山を登り川を渡って行くのか。飛行の術を習い覚えてこの山河を飛び越えて行くのか。あるいはまた疑って言う。本来の家は自分の見る山河大地の内にあるのか外にあるのか。この山河大地を変えずに、そのまま本来の家とするのか。こうしたさまざまな疑いが起こるのは、すべて大きな夢がまだ覚めていないからである。たとえ大きな夢がまだ覚めなくても、自分が見聞きする境はすべて夢の中の妄見であり、その中の行き来や動きもまた夢の中の妄想だと悟るので、見るときは盲人や聾者のようで、取捨や分別を生じない人は、大きな夢が覚めた人と変わらない。この人は、目覚めた境があることを信じる点は備えていると言うべきである。
解説

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