夢中問答集 / 『夢中問答集』夢と本分の家(下)
佛法も亦かくのごとし、本分の田地には凡聖の相もなく淨穢の境もなし、無明業識の一夢起るが故に、無相の中に淨穢の境界を現じ、無爲の中に凡聖の差別を見る、我は凡夫也と思ふ時は東西に馳走して名利を求む求め得ざる時はなげきかなしむ。我は智人也と思ふ時は、一切の人をかろしめて高慢の心を起す、かゝる種々の顚倒にばかされて本分安樂の田地ある事を信ぜず。是れ卽ち夢中の妄境に心を轉せられてうつゝの境界を信せざるがごとし、其の中にたま〱利根の人ありて、凡聖淨穢業識の上に浮べる假相也。本分の田地にはすべてかやうの事なしと信ずれ共、いまだ大悟せざる故に、やゝもすれば幻化に誑惑せられて、我は是れ迷人也と思ひならはせる我執いまだ忘せざる故に、得法悟道をねがひ機辨神通ををうらやむ。しかる故に修行用心について邪正を論じ、應用問答において勝劣をあらそふ。此れは是れ夢みる人の我が所見は皆な夢也と信ずれ共、大夢いまださめざる故に、夢の境界にばかはされて其の中について、是非得失を論ずるがごとし。若し是れ最上根の人はたとひいまだ大悟の分はなけれ共、自他身心を計する事皆是れ業識の妄想也と分明に信解する故に、輪廻をもいとはず、解脫をも求めず、若しかくのごとくならば趣向の正しき人と申すべし。趣向のたゞしきをたのみて、滿足の思をなさば亦謬りなり。圓覺經に云く、衆生顚倒して妄に四大をとめて自身の相とし、六塵の緣影を自身の相とす、たとへば病目の空中の花及び第二の月を見るがごとし。是れによりて、妄に生死に輪轉する事あり、この故に無明となづく。此の無明といふは、實に體あるにあらず、夢中に人を見るときは其の體なきにあらざれ共、夢さめぬれば其の人ある事なきがごとし。首楞嚴經に云く、妙性圓明にして諸の名相をはなれたり、本より世界衆生ある事なしと云云。諸大乘經みな同じくかやうに說けり、何ぞこれを信ぜずして、身心を勞役して外に向つて馳求するや。世間の吉凶其の相いまだあらはれざる時は、愚人これをしらず。然れども世間の巫女陰陽師等のうらなひしめす言を信じて、それにまかせてふるまへば、時節到來して其の效をみる事あり。本分の一段は人々具足すれども、いまだ契當せざる人は、日に用ひて知る事なし。是の故に佛祖大慈をたれて叮嚀にしめし玉へり。たとひ宿習うすくして、直下に契當する事なくとも世間の陰陽師等を信ずるがごとく、佛祖の言を信じて、それにまかせて用心せば、何ぞしるしなからんや。
新字:仏法も亦かくのごとし、本分の田地には凡聖の相もなく浄穢の境もなし、無明業識の一夢起るが故に、無相の中に浄穢の境界を現じ、無為の中に凡聖の差別を見る、我は凡夫也と思ふ時は東西に馳走して名利を求む求め得ざる時はなげきかなしむ。我は智人也と思ふ時は、一切の人をかろしめて高慢の心を起す、かゝる種々の顛倒にばかされて本分安楽の田地ある事を信ぜず。是れ即ち夢中の妄境に心を転せられてうつゝの境界を信せざるがごとし、其の中にたま〱利根の人ありて、凡聖浄穢業識の上に浮べる仮相也。本分の田地にはすべてかやうの事なしと信ずれ共、いまだ大悟せざる故に、やゝもすれば幻化に誑惑せられて、我は是れ迷人也と思ひならはせる我執いまだ忘せざる故に、得法悟道をねがひ機弁神通ををうらやむ。しかる故に修行用心について邪正を論じ、応用問答において勝劣をあらそふ。此れは是れ夢みる人の我が所見は皆な夢也と信ずれ共、大夢いまださめざる故に、夢の境界にばかはされて其の中について、是非得失を論ずるがごとし。若し是れ最上根の人はたとひいまだ大悟の分はなけれ共、自他身心を計する事皆是れ業識の妄想也と分明に信解する故に、輪廻をもいとはず、解脱をも求めず、若しかくのごとくならば趣向の正しき人と申すべし。趣向のたゞしきをたのみて、満足の思をなさば亦謬りなり。円覚経に云く、衆生顛倒して妄に四大をとめて自身の相とし、六塵の縁影を自身の相とす、たとへば病目の空中の花及び第二の月を見るがごとし。是れによりて、妄に生死に輪転する事あり、この故に無明となづく。此の無明といふは、実に体あるにあらず、夢中に人を見るときは其の体なきにあらざれ共、夢さめぬれば其の人ある事なきがごとし。首楞厳経に云く、妙性円明にして諸の名相をはなれたり、本より世界衆生ある事なしと云云。諸大乗経みな同じくかやうに説けり、何ぞこれを信ぜずして、身心を労役して外に向つて馳求するや。世間の吉凶其の相いまだあらはれざる時は、愚人これをしらず。然れども世間の巫女陰陽師等のうらなひしめす言を信じて、それにまかせてふるまへば、時節到来して其の効をみる事あり。本分の一段は人々具足すれども、いまだ契当せざる人は、日に用ひて知る事なし。是の故に仏祖大慈をたれて叮嚀にしめし玉へり。たとひ宿習うすくして、直下に契当する事なくとも世間の陰陽師等を信ずるがごとく、仏祖の言を信じて、それにまかせて用心せば、何ぞしるしなからんや。
書き下し
佛法も亦かくのごとし、本分の田地には凡聖の相もなく淨穢の境もなし、無明業識の一夢起るが故に、無相の中に淨穢の境界を現じ、無爲の中に凡聖の差別を見る、我は凡夫也と思ふ時は東西に馳走して名利を求む求め得ざる時はなげきかなしむ。我は智人也と思ふ時は、一切の人をかろしめて高慢の心を起す、かゝる種々の顚倒にばかされて本分安樂の田地ある事を信ぜず。是れ卽ち夢中の妄境に心を轉せられてうつゝの境界を信せざるがごとし、其の中にたま〱利根の人ありて、凡聖淨穢業識の上に浮べる假相也。本分の田地にはすべてかやうの事なしと信ずれ共、いまだ大悟せざる故に、やゝもすれば幻化に誑惑せられて、我は是れ迷人也と思ひならはせる我執いまだ忘せざる故に、得法悟道をねがひ機辨神通ををうらやむ。しかる故に修行用心について邪正を論じ、應用問答において勝劣をあらそふ。此れは是れ夢みる人の我が所見は皆な夢也と信ずれ共、大夢いまださめざる故に、夢の境界にばかはされて其の中について、是非得失を論ずるがごとし。若し是れ最上根の人はたとひいまだ大悟の分はなけれ共、自他身心を計する事皆是れ業識の妄想也と分明に信解する故に、輪廻をもいとはず、解脫をも求めず、若しかくのごとくならば趣向の正しき人と申すべし。趣向のたゞしきをたのみて、滿足の思をなさば亦謬りなり。圓覺經に云く、衆生顚倒して妄に四大をとめて自身の相とし、六塵の緣影を自身の相とす、たとへば病目の空中の花及び第二の月を見るがごとし。是れによりて、妄に生死に輪轉する事あり、この故に無明となづく。此の無明といふは、實に體あるにあらず、夢中に人を見るときは其の體なきにあらざれ共、夢さめぬれば其の人ある事なきがごとし。首楞嚴經に云く、妙性圓明にして諸の名相をはなれたり、本より世界衆生ある事なしと云云。諸大乘經みな同じくかやうに說けり、何ぞこれを信ぜずして、身心を勞役して外に向つて馳求するや。世間の吉凶其の相いまだあらはれざる時は、愚人これをしらず。然れども世間の巫女陰陽師等のうらなひしめす言を信じて、それにまかせてふるまへば、時節到來して其の效をみる事あり。本分の一段は人々具足すれども、いまだ契當せざる人は、日に用ひて知る事なし。是の故に佛祖大慈をたれて叮嚀にしめし玉へり。たとひ宿習うすくして、直下に契當する事なくとも世間の陰陽師等を信ずるがごとく、佛祖の言を信じて、それにまかせて用心せば、何ぞしるしなからんや。
現代語訳
仏法もまたこのとおりである。本分の田地には凡夫と聖者の相もなく、浄と穢れの境もない。無明の業識の一つの夢が起こるために、相のないなかに浄穢の境を現し、作為のないなかに凡聖の差別を見る。自分は凡夫だと思うときは、東西に走り回って名利を求め、求め得ないときは嘆き悲しむ。自分は智者だと思うときは、すべての人を軽んじて高慢の心を起こす。こうしたさまざまな転倒に化かされて、本分の安楽の田地があることを信じない。これはつまり、夢の中の妄境に心を動かされて、目覚めた境があることを信じないのと同じである。その中でたまたま利根の人がいて、凡聖・浄穢は業識の上に浮かんだ仮の相であり、本分の田地にはそんなことはまったくないと信じても、まだ大悟していないので、ともすれば幻に惑わされ、自分は迷う人だと思い慣れた我執をまだ忘れていないために、法を得て悟ることを願い、機弁や神通をうらやむ。そのため修行の心がけについて邪か正かを論じ、応答問答において勝ち負けを争う。これは、夢を見る人が自分の見るものはみな夢だと信じていても、大きな夢がまだ覚めていないので夢の境に化かされ、その中で是非得失を論じているようなものである。もし最上根の人であれば、たとえまだ大悟していなくても、自他の身心を勘定に入れることがみな業識の妄想だとはっきり信じ解しているので、輪廻を厭わず、解脱も求めない。このようであれば、向かう方向が正しい人と言える。ただし向かう方向が正しいことに頼って満足するなら、それもまた誤りである。『円覚経』に「衆生は転倒して、みだりに四大を自分の身の相とし、六塵の縁の影を自分の心の相とする。たとえば病んだ目が空中に花や第二の月を見るようなものである。これによってみだりに生死に輪廻する。だから無明と名づける」とある。この無明は、実際に体があるものではない。夢の中に人を見るとき、その人の体がないわけではないが、夢が覚めればその人はいないのと同じである。『首楞厳経』に「妙なる性は円かで明らかで、あらゆる名や相を離れている。もとより世界も衆生もない」とある。諸の大乗経はみな同じようにこう説いている。どうしてこれを信じないで、身心を苦労させて外に向かって駆け求めるのか。世間の吉凶は、その相がまだ現れないうちは、愚かな人は知らない。それでも、世間の巫女や陰陽師などが占って示す言葉を信じ、それにまかせて振る舞えば、時が来てその効果を見ることがある。本分の一段は人々みなそなえているが、まだかなっていない人は、日々用いていながら知らない。このため仏祖は大慈をたれて丁寧に示してくださった。たとえ宿世の習いが薄く、ただちにかなうことがなくても、世間の陰陽師などを信じるように、仏祖の言葉を信じて、それにまかせて心がければ、どうして効果がないことがあろうか。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』医者と病にたとえる教禅問敎禪の法門をあしく心得て、偏執に墮たる人をは、まことにきらふべし。若しよく敎の法門を解して、敎網にかゝはらず、禪の宗旨を解して、禪病にしづまざる人をばきらふべからず。しかるを敎禪の法門ともに眞實の處にあらずといはゞ、本分に到れる人は愚人と同じかるべしや。 答本分の處には智者の相もなく、愚人の相もなし。かゝるを妄りに智者愚人の相を見る、これをぐにんとなづく。然らば卽ち智者愚人の相を見ざるを眞實の智者とは申すなり。世間の愚人にかはりて才智辨說のあるを智者といふ事は世俗の論なり。是故に本分の大智を得たる人は、我は智者なりと慢心を起さずしかる故は本分に契當しぬれば、智愚の相を見ざればなり。我は智者とは思へ共智者なるよしをせざるにはあらず。若し人四大調和にして、身心輕安なる時は醫書の祕決も用なし。良藥靈方もいらず。しかれ共其四大不調なるによりて、四百四病忽ちに起る時は、醫術治方まことに大切なり。諸の醫師これを見て病に應じて藥を與ふ。病相一種にあらざれば治方も亦萬差なり。治方萬差なれども、其の意趣をたゞせば、偏に是れ病者の苦痛をやめていまだやまひもなかりし時の安穩の處へ到らしめんためなり。病者の彼の醫師にあふて治方を求むるも亦我が病の苦痛をやめんためなり。醫書の才學をならはんとにはあらず。醫師の治術によりて病苦若しやみぬれば、これを無病安穩の人となづく。病苦のやむことは治方の力なり。身心安穩なることはいまだやまざりし時の本分の處に到れるなり。醫師の始めてあたへたるにはあらず。醫書の才學をきはめ、治方の妙術をあきらめたるを安穩の所にいたれる人と申すならんや。佛法も亦かくのごとし。人々本分の所には迷悟凡聖の病相なし。敎禪對治の法門誰がためにか用ふべきや。然れども無明の病相忽ちに發つて種々顚倒の苦痛あり。佛これを憐れみて大醫王として、種々の性欲に隨つて種々の法門を說き給へり。法門は種々の差別ありといへども、其の旨趣をきはむれば、偏にたゞ衆生の迷悟凡聖を分別する病苦をやめて、本分安穩の所にいたらしめんためなり。種々の對治の法門を衆生にをしへんためにはあらず。若し人無明妄想の病除こほりぬれば、生死去來の輪廻をみず。凡聖迷悟差別なし。是れ卽ち無爲大解脫の人なり。これを大悟の人となづく。敎門の諸宗をきはめつくし、禪家の五派を明め得たるを大悟と申すにはあらず。しかるを末代の學者の中に敎の法門を習學し、禪の法門を領解して佛法の本意かくのごとしと思へる人あり。藥かへりて病となるといへるは此の謂れなり。是を以て、古人これを敎病禪病と名づけたり。