夢中問答集 / 『夢中問答集』放下しきった静けさは本分か
問一切放下の佛法世法を、胸中におかずば、これを本分の田地と申すべしや。 答達磨大師の云く、外に諸緣をおはず。內心あえぐことなくして、心墻壁のごとくならば、道に入べしと云云。大慧禪師此の語を擧げて云く、諸緣を放下して內心動せざるは道に入る。方便門なりといへる意なり。若しかやうなる處を眞實の道なりと思はゞ祖師の意にそむけりと云云。
新字:問一切放下の仏法世法を、胸中におかずば、これを本分の田地と申すべしや。 答達磨大師の云く、外に諸縁をおはず。内心あえぐことなくして、心墻壁のごとくならば、道に入べしと云云。大慧禅師此の語を挙げて云く、諸縁を放下して内心動せざるは道に入る。方便門なりといへる意なり。若しかやうなる処を真実の道なりと思はゞ祖師の意にそむけりと云云。
書き下し
問一切放下の佛法世法を、胸中におかずば、これを本分の田地と申すべしや。 答達磨大師の云く、外に諸緣をおはず。內心あえぐことなくして、心墻壁のごとくならば、道に入べしと云云。大慧禪師此の語を擧げて云く、諸緣を放下して內心動せざるは道に入る。方便門なりといへる意なり。若しかやうなる處を眞實の道なりと思はゞ祖師の意にそむけりと云云。
現代語訳
問:一切を放下して、仏法も世法も胸中に置かないなら、これを本分の田地と言ってよいか。 答:達磨大師は言う。外に諸縁を追わず、内に心があえぐことなく、心が牆壁のようになれば、道に入ることができる、と。大慧禅師はこの語を挙げて言う。諸縁を放下して内心が動じないのは、道に入る方便の門である、という意味だ。もしこのような所を真実の道だと思うなら、祖師の意にそむくことになる、と。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』本分の題を忘れぬ修行問禪門には生佛以前を擧揚する故に、一心三密の觀行をも論ぜずと申すに、古來の禪宗の學者皆坐禪工夫をたしなみ、知識も亦修行用心の邪正をしめす事は何ぞや。 答詩をつくり歌をよむ人は、先づ其の題をよく心得べし。月の題をとりて花の事を案ぜばよろしからず。佛法も亦かくのごとし。禪宗に本分の事といへるは何の事ぞや。凡にありても減ぜず。聖にありても增せず。人々具足し、箇々圓成すといへり。此の本分の題をとりながら、我れは迷人なりと思ふて悟りをひらくべき修行を習はんとする人は本分の題にそむける人なり。たとひ詩歌の風情は心にうかばざれ共、月の題をとりたる人は花のことをば案せぬがごとく、本分の題を信ずる人、我れは迷人なりと執著して別に悟りを求むる事はあるべからず。しかれども、いまだ箇々圓成せる處を分明にうけがふことのなき程は、日來の迷悟を存し、凡聖をへだてつる妄情を放下して、或は自ら直下に參究し、或は知識に參ずさはあれども念佛を申して往生の行にあて、陀羅尼を誦して悉地をもとめ、乃至敎門の中にあかせる觀念をこらして、證理をまつには同じからず。かやうの人は本分の題をわすれぬ學者なり。古人悟道の機緣を見れば上代なりし故にや、直下に大悟することはなかりし人も、本分の題をば信ぜし故に本分にかなふべきため、工夫用心とて、人にたづね問へることはなし。たゞ直に問て云く、如何なるか是れ佛、如何なるか是れ禪、如何なるか是れ佛法的々の大意、如何なるか是れ祖師西來の意、如何なるか是れ諸佛出身の處と云云。學者の問もかやうに直問なり。知識の答も亦直答にして、或は卽信卽佛とこたへ、或は庭前柏樹子としめし。或は東山水上に行くといふ。宗師かやうに答ふる事、皆な是れ本分の直示なり。此の語を以て修行の資糧となさしめんためにはあらず。然れども學者若し鈍にして、知識の直示をあきらめざれば、彼のしめすところの話頭に額をついて、或は一兩日、或は一兩月、乃至五年十年も此の直示を參決せり其の間をば修行とも申しぬべし。されども敎家に解行證をたてゝ、諸の觀を修する用心には同じからず。敎外別傳といへる題目は此の謂れなり。今時の人多くは是れ此の題をわすれて、善知識にあふて修行用心をたづね問ふ知識たる人の中にも、學者のために修行用心をおしへらる。或は公案を人にあたふるも往生のために念佛を申し、悉地のために陀羅尼をみつるがごとく、此の公案を提撕して本分に到らしめんと思へり。この故に學者も各用心の體をかたりて勝劣をたくらへ、知識の言のかはれる處について是非を批判す。皆な是れ世俗の戯論なり。