夢中問答集 / 『夢中問答集』仏法と世法に隔てなし(下)
或はよろづの事に貪著の意ある故に、世間の珍寳をあつめて嗜愛する故に、山水をもまた愛して奇石珍木をえらび求めてあつめ置ける人もあり。かやうの人は山水のやさしきことをば愛せず。只是れ俗塵を愛する人なり。白樂天小池をほりて其の邊りに竹をうゑて愛せられき。其の語に云く、竹は是れ心虛ければ我が友とす。水は能く性淨ければ吾が師とすと云云。世間に山水をこのみ給ふ人同じくば樂天の意のごとくならば、實に是れ俗塵に混ぜざる人なるべし。或は天性淡泊にして俗塵の事をば愛せず。たゞ詩歌を吟じ、泉石にうそぶきて心をやしなふ人あり。煙霞の痼疾泉石の膏盲といへるはかやうの人の語なり。これをば世間のやさしき人と申しぬべし。たとひかやうなりとも、若し道心なくば亦是輪廻の基なり。或は此の山水に對してねぶりをさまし、つれ〱をなぐさめて道行のたすけとする人あり。これはつねさまの人の山水愛する意趣には同じからず。まことに貴しと申しぬべし。しかれども山水と道行と差別せる故に、眞實の道人とは申すべからず。或は山河大地草木瓦石皆なこれ自己の本分なりと信ずる人一旦山水を愛する事は世上に似たれ共、やがて其の世情を道心として泉石草木の四氣にかはる氣色を工夫する人あり。若しよくかやうならば道人山水を愛する模樣としぬべし。然らば卽ち山水をこのむは定めて惡事ともいふべからず。定めて善事とも申しがたし。山水には得失なし。得失は人の心にあり。 唐人のつねの習ひにて皆茶を愛することは、食を消し、氣を散ずる養生のためなり。藥も皆一服の分量定まれり。過分なる時は亦たゝりをなす。この故に茶をものみすごすをば醫書にこれを制したり。昔盧同陸羽等が茶を好みけるは困睡をさまし。蒙氣を散じて學をたしなまんためなりと申し傳へたり。我が朝の栂の尾の上人、建仁の開山茶を愛し給ひけるは蒙を散じ、ねぶりをさまして導行の資けとなし給はんためなりき。今時世間にけしからずちやをもてなさるゝやうをみれば、養生の分にもなるべからず。いはんや其の中に學のため道のためと思へる人あるべし。賸へ世間の費えとなり佛法のすたるゝ因緣たり。然らば卽ちちやを好むことは同じけれども、其の人の心によりて損あり。益あり。たゞ山水を好みちやを好むことのみにあらず。詩歌管絃等の一切の事も亦かくのごとし。詩歌管絃其しなことなれども、人の心の邪惡なるを調へて清雅ならしめんためなり。しかれども今時のやうをみればこれは能藝として、我執をおこさるゝ故に清雅の道はすたれて邪惡の緣とのみなれり。この故に敎禪の宗師萬事の外に工夫用心なしとしめさるゝ時もあり。萬事を放下の別に工夫をなせとすゝめられたる時もあり。あやしむべき事ならず。
新字:或はよろづの事に貪著の意ある故に、世間の珍宝をあつめて嗜愛する故に、山水をもまた愛して奇石珍木をえらび求めてあつめ置ける人もあり。かやうの人は山水のやさしきことをば愛せず。只是れ俗塵を愛する人なり。白楽天小池をほりて其の辺りに竹をうゑて愛せられき。其の語に云く、竹は是れ心虚ければ我が友とす。水は能く性浄ければ吾が師とすと云云。世間に山水をこのみ給ふ人同じくば楽天の意のごとくならば、実に是れ俗塵に混ぜざる人なるべし。或は天性淡泊にして俗塵の事をば愛せず。たゞ詩歌を吟じ、泉石にうそぶきて心をやしなふ人あり。煙霞の痼疾泉石の膏盲といへるはかやうの人の語なり。これをば世間のやさしき人と申しぬべし。たとひかやうなりとも、若し道心なくば亦是輪廻の基なり。或は此の山水に対してねぶりをさまし、つれ〱をなぐさめて道行のたすけとする人あり。これはつねさまの人の山水愛する意趣には同じからず。まことに貴しと申しぬべし。しかれども山水と道行と差別せる故に、真実の道人とは申すべからず。或は山河大地草木瓦石皆なこれ自己の本分なりと信ずる人一旦山水を愛する事は世上に似たれ共、やがて其の世情を道心として泉石草木の四気にかはる気色を工夫する人あり。若しよくかやうならば道人山水を愛する模様としぬべし。然らば即ち山水をこのむは定めて悪事ともいふべからず。定めて善事とも申しがたし。山水には得失なし。得失は人の心にあり。 唐人のつねの習ひにて皆茶を愛することは、食を消し、気を散ずる養生のためなり。薬も皆一服の分量定まれり。過分なる時は亦たゝりをなす。この故に茶をものみすごすをば医書にこれを制したり。昔盧同陸羽等が茶を好みけるは困睡をさまし。蒙気を散じて学をたしなまんためなりと申し伝へたり。我が朝の栂の尾の上人、建仁の開山茶を愛し給ひけるは蒙を散じ、ねぶりをさまして導行の資けとなし給はんためなりき。今時世間にけしからずちやをもてなさるゝやうをみれば、養生の分にもなるべからず。いはんや其の中に学のため道のためと思へる人あるべし。賸へ世間の費えとなり仏法のすたるゝ因縁たり。然らば即ちちやを好むことは同じけれども、其の人の心によりて損あり。益あり。たゞ山水を好みちやを好むことのみにあらず。詩歌管絃等の一切の事も亦かくのごとし。詩歌管絃其しなことなれども、人の心の邪悪なるを調へて清雅ならしめんためなり。しかれども今時のやうをみればこれは能芸として、我執をおこさるゝ故に清雅の道はすたれて邪悪の縁とのみなれり。この故に教禅の宗師万事の外に工夫用心なしとしめさるゝ時もあり。万事を放下の別に工夫をなせとすゝめられたる時もあり。あやしむべき事ならず。
書き下し
或はよろづの事に貪著の意ある故に、世間の珍寳をあつめて嗜愛する故に、山水をもまた愛して奇石珍木をえらび求めてあつめ置ける人もあり。かやうの人は山水のやさしきことをば愛せず。只是れ俗塵を愛する人なり。白樂天小池をほりて其の邊りに竹をうゑて愛せられき。其の語に云く、竹は是れ心虛ければ我が友とす。水は能く性淨ければ吾が師とすと云云。世間に山水をこのみ給ふ人同じくば樂天の意のごとくならば、實に是れ俗塵に混ぜざる人なるべし。或は天性淡泊にして俗塵の事をば愛せず。たゞ詩歌を吟じ、泉石にうそぶきて心をやしなふ人あり。煙霞の痼疾泉石の膏盲といへるはかやうの人の語なり。これをば世間のやさしき人と申しぬべし。たとひかやうなりとも、若し道心なくば亦是輪廻の基なり。或は此の山水に對してねぶりをさまし、つれ〱をなぐさめて道行のたすけとする人あり。これはつねさまの人の山水愛する意趣には同じからず。まことに貴しと申しぬべし。しかれども山水と道行と差別せる故に、眞實の道人とは申すべからず。或は山河大地草木瓦石皆なこれ自己の本分なりと信ずる人一旦山水を愛する事は世上に似たれ共、やがて其の世情を道心として泉石草木の四氣にかはる氣色を工夫する人あり。若しよくかやうならば道人山水を愛する模樣としぬべし。然らば卽ち山水をこのむは定めて惡事ともいふべからず。定めて善事とも申しがたし。山水には得失なし。得失は人の心にあり。 唐人のつねの習ひにて皆茶を愛することは、食を消し、氣を散ずる養生のためなり。藥も皆一服の分量定まれり。過分なる時は亦たゝりをなす。この故に茶をものみすごすをば醫書にこれを制したり。昔盧同陸羽等が茶を好みけるは困睡をさまし。蒙氣を散じて學をたしなまんためなりと申し傳へたり。我が朝の栂の尾の上人、建仁の開山茶を愛し給ひけるは蒙を散じ、ねぶりをさまして導行の資けとなし給はんためなりき。今時世間にけしからずちやをもてなさるゝやうをみれば、養生の分にもなるべからず。いはんや其の中に學のため道のためと思へる人あるべし。賸へ世間の費えとなり佛法のすたるゝ因緣たり。然らば卽ちちやを好むことは同じけれども、其の人の心によりて損あり。益あり。たゞ山水を好みちやを好むことのみにあらず。詩歌管絃等の一切の事も亦かくのごとし。詩歌管絃其しなことなれども、人の心の邪惡なるを調へて清雅ならしめんためなり。しかれども今時のやうをみればこれは能藝として、我執をおこさるゝ故に清雅の道はすたれて邪惡の緣とのみなれり。この故に敎禪の宗師萬事の外に工夫用心なしとしめさるゝ時もあり。萬事を放下の別に工夫をなせとすゝめられたる時もあり。あやしむべき事ならず。
現代語訳
(前段の続き)また、あらゆることに貪り執着する心があるので、世間の珍しい宝を集めて愛玩し、庭にも奇石や珍木を選び集めている人もいる。こうした人は、山水の風雅を愛しているのではなく、ただ俗塵を愛しているだけである。白楽天は小さな池を掘ってそのほとりに竹を植えて愛した。その言葉に「竹は心が虚(うつ)ろだから私の友とする。水は性が清らかだから私の師とする」とある。世間で山水を好む人も、同じなら楽天のような心であれば、本当に俗塵に染まらない人だろう。あるいは生まれつき淡泊で、俗塵のことを愛さず、ただ詩歌を口ずさみ、泉や石のほとりで気ままに過ごして心を養う人もいる。「煙霞の痼疾、泉石の膏肓」と言うのはこうした人の言葉である。これは世間の風雅な人と言ってよい。ただし、たとえそうでも道心がなければ、それもまた輪廻のもとである。また、山水に向かって眠気をさまし、退屈をなぐさめ、修行の助けにする人もいる。これは普通の人が山水を愛する動機とは違い、まことに尊いと言ってよい。しかし山水と修行を分けているので、真の道人とは言えない。さらに、山河大地や草木瓦石がすべて自己の本分だと信じる人は、山水を愛することは一見世間の人と似ていても、その世俗の情をそのまま道心として、泉石や草木が四季につれて変わる様子を工夫する。こうであれば、山水を愛する姿そのものが道人の姿である。そうなると、山水を好むことは必ず悪事とも言えず、必ず善事とも言いがたい。山水に得失はなく、得失は人の心にある。 唐の人が習慣として茶を愛するのは、食物を消化し気を散じる養生のためである。薬も一服の分量が決まっていて、過ぎれば害になる。だから茶の飲み過ぎは医書にも戒めてある。昔、盧仝や陸羽が茶を好んだのは、眠気をさまし、曇った気を散じて学問に励むためだったと伝える。わが国の栂尾の上人(明恵)や建仁寺の開山(栄西)が茶を愛したのも、気を晴らし眠気をさまして修行の助けとするためであった。ところが近ごろ世間で茶がひどく大げさにもてなされているのを見ると、養生の程度にもならない。まして、その中に学問のため道のためと思っている人がいる。そのうえ世間の浪費となり、仏法が衰える原因となっている。このように、茶を好むことは同じでも、その人の心によって損もあり益もある。山水や茶に限らず、詩歌や管弦などあらゆることも同じである。詩歌管弦は本来、人の心の邪悪を調えて清らかで雅にするためのものだ。しかし近ごろの様子を見ると、これを芸能として我執を起こすので、清雅の道は廃れ、邪悪を生む縁ばかりになっている。だから教宗や禅宗の師が、万事の外に工夫も用心もないと示すときもあり、万事を放下して別に工夫せよと勧めるときもある。不思議がることではない。
解説

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『酔古堂剣掃』集素・奇士雅客は蠹簡を以て代ふ山中に花を蒔き草を種うるは、以て自ら娛しむに足る、而れども地樸にして人荒れ、泉石都て無く、絲竹響きを絕ち、奇士雅客も亦た復た過らず、未だ寂寞として日を度るを免れず。 然れども泉石は水竹を以て代へ、絲竹は鶯舌蛙吹を以て代へ、奇士雅客は蠹簡を以て代ふれば、亦た略ぼ相當る。
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