夢中問答集 / 『夢中問答集』神通と得法は別物
問得法の人はかならず神通妙用を具足すべしや。 答佛法をしらざる天魔外道も、神通をばほどこす。神通を具せる人なればとて、得法の人とは申すべからず。たとひ佛弟子として羅漢果を證したる人の三明六通を得たれども、いまだ大乘の法理を悟らざる故に得法の人とは名けず。三賢十聖其の位のすゝむに隨つて、神通妙用をほどこせども得法の人とは名けず。よのつね六通と申すは一つには天眼通山川を隔てたる事をも分明に見るなり。二つには天耳通山川を隔てたる聲をも聞くなり。三には他心通他人の心念をあきらかにしるなり。四には宿命通前世の事をわすれざるなり。五つには神境通飛行自在なり。六つには漏盡通煩惱を斷じつくせるなり。六通の名言は同じといへども、これを得たる人に隨つて勝劣はるかに同じからず。天魔外道は一旦五通をば得れども、漏盡通をうることあたはず。故につひには通力を失ひて輪廻をまぬがれず。羅漢は三界の煩惱をつくせる故に、漏盡通を得たりといへ共、いまだ無明をつくさゞるが故に、眞實の漏盡にはあらず。三賢十聖も無明いまだつくさず。古人の云く、たとひ六通を得たりとも、更に那一通ある事をしるべしと云云。那一通とは凡聖本來具足して更に增減もなく勝劣もなし。一切の神通妙用及び、見聞覺知擧足下足こと〱く、是れ此の那一通の恩力なり。然れども凡夫は日に用ひてしらず。外に向つて世俗の通を求む。龐居士の神通并に妙用水をはこび、柴をはこぶとしめされたるも、擧足下足の處に那一通あるよしなり。古人の云く、人々各靈光を具す。圓覺經に大光明藏三昧と說けるも一切衆生本具の靈光なり。諸佛の身光智光通光といへるも、皆な此の大光明藏より出生せり。乃至凡夫の東西をわきまへ、黑白をわかつも皆是れ此の靈光の妙用にあらすと云ふことなし。愚人此の本光をばわすれて、外に向つて世俗の光明を求む。若し此の靈光をしらずば、たとひ身より無量の光を放つとも螢の光にことならず。然らば卽ち諸天も光りはあれ共、つひに昏衢に入る。極果の羅漢地上の菩薩各光を放てども、いまだ無明の域を出ず。皆是れ小神通小光明にばかされて、本分の大神通大光明をわすれたる故なり。しかれば大乘の學者はたゞ先づ本分の大光明大神通あることを信ずべし。若し能くこれを悟りぬれば、曠劫の無明こと〱くつきて多生の繫縛にさへられず。其の時始めて無邊の光明を放つて衆生の迷暗をやぶり、廣大の神用をほどこして魔外の邪見を降すべし。
新字:問得法の人はかならず神通妙用を具足すべしや。 答仏法をしらざる天魔外道も、神通をばほどこす。神通を具せる人なればとて、得法の人とは申すべからず。たとひ仏弟子として羅漢果を証したる人の三明六通を得たれども、いまだ大乗の法理を悟らざる故に得法の人とは名けず。三賢十聖其の位のすゝむに随つて、神通妙用をほどこせども得法の人とは名けず。よのつね六通と申すは一つには天眼通山川を隔てたる事をも分明に見るなり。二つには天耳通山川を隔てたる声をも聞くなり。三には他心通他人の心念をあきらかにしるなり。四には宿命通前世の事をわすれざるなり。五つには神境通飛行自在なり。六つには漏尽通煩悩を断じつくせるなり。六通の名言は同じといへども、これを得たる人に随つて勝劣はるかに同じからず。天魔外道は一旦五通をば得れども、漏尽通をうることあたはず。故につひには通力を失ひて輪廻をまぬがれず。羅漢は三界の煩悩をつくせる故に、漏尽通を得たりといへ共、いまだ無明をつくさゞるが故に、真実の漏尽にはあらず。三賢十聖も無明いまだつくさず。古人の云く、たとひ六通を得たりとも、更に那一通ある事をしるべしと云云。那一通とは凡聖本来具足して更に增減もなく勝劣もなし。一切の神通妙用及び、見聞覚知挙足下足こと〱く、是れ此の那一通の恩力なり。然れども凡夫は日に用ひてしらず。外に向つて世俗の通を求む。龐居士の神通并に妙用水をはこび、柴をはこぶとしめされたるも、挙足下足の処に那一通あるよしなり。古人の云く、人々各霊光を具す。円覚経に大光明蔵三昧と説けるも一切衆生本具の霊光なり。諸仏の身光智光通光といへるも、皆な此の大光明蔵より出生せり。乃至凡夫の東西をわきまへ、黒白をわかつも皆是れ此の霊光の妙用にあらすと云ふことなし。愚人此の本光をばわすれて、外に向つて世俗の光明を求む。若し此の霊光をしらずば、たとひ身より無量の光を放つとも蛍の光にことならず。然らば即ち諸天も光りはあれ共、つひに昏衢に入る。極果の羅漢地上の菩薩各光を放てども、いまだ無明の域を出ず。皆是れ小神通小光明にばかされて、本分の大神通大光明をわすれたる故なり。しかれば大乗の学者はたゞ先づ本分の大光明大神通あることを信ずべし。若し能くこれを悟りぬれば、曠劫の無明こと〱くつきて多生の繋縛にさへられず。其の時始めて無辺の光明を放つて衆生の迷暗をやぶり、広大の神用をほどこして魔外の邪見を降すべし。
書き下し
問得法の人はかならず神通妙用を具足すべしや。 答佛法をしらざる天魔外道も、神通をばほどこす。神通を具せる人なればとて、得法の人とは申すべからず。たとひ佛弟子として羅漢果を證したる人の三明六通を得たれども、いまだ大乘の法理を悟らざる故に得法の人とは名けず。三賢十聖其の位のすゝむに隨つて、神通妙用をほどこせども得法の人とは名けず。よのつね六通と申すは一つには天眼通山川を隔てたる事をも分明に見るなり。二つには天耳通山川を隔てたる聲をも聞くなり。三には他心通他人の心念をあきらかにしるなり。四には宿命通前世の事をわすれざるなり。五つには神境通飛行自在なり。六つには漏盡通煩惱を斷じつくせるなり。六通の名言は同じといへども、これを得たる人に隨つて勝劣はるかに同じからず。天魔外道は一旦五通をば得れども、漏盡通をうることあたはず。故につひには通力を失ひて輪廻をまぬがれず。羅漢は三界の煩惱をつくせる故に、漏盡通を得たりといへ共、いまだ無明をつくさゞるが故に、眞實の漏盡にはあらず。三賢十聖も無明いまだつくさず。古人の云く、たとひ六通を得たりとも、更に那一通ある事をしるべしと云云。那一通とは凡聖本來具足して更に增減もなく勝劣もなし。一切の神通妙用及び、見聞覺知擧足下足こと〱く、是れ此の那一通の恩力なり。然れども凡夫は日に用ひてしらず。外に向つて世俗の通を求む。龐居士の神通并に妙用水をはこび、柴をはこぶとしめされたるも、擧足下足の處に那一通あるよしなり。古人の云く、人々各靈光を具す。圓覺經に大光明藏三昧と說けるも一切衆生本具の靈光なり。諸佛の身光智光通光といへるも、皆な此の大光明藏より出生せり。乃至凡夫の東西をわきまへ、黑白をわかつも皆是れ此の靈光の妙用にあらすと云ふことなし。愚人此の本光をばわすれて、外に向つて世俗の光明を求む。若し此の靈光をしらずば、たとひ身より無量の光を放つとも螢の光にことならず。然らば卽ち諸天も光りはあれ共、つひに昏衢に入る。極果の羅漢地上の菩薩各光を放てども、いまだ無明の域を出ず。皆是れ小神通小光明にばかされて、本分の大神通大光明をわすれたる故なり。しかれば大乘の學者はたゞ先づ本分の大光明大神通あることを信ずべし。若し能くこれを悟りぬれば、曠劫の無明こと〱くつきて多生の繫縛にさへられず。其の時始めて無邊の光明を放つて衆生の迷暗をやぶり、廣大の神用をほどこして魔外の邪見を降すべし。
現代語訳
問:法を得た人は、必ず神通や不思議な働きを備えているのか。 答:仏法を知らない天魔や外道でも神通を使う。神通を持つからといって、法を得た人とは言えない。仏弟子として阿羅漢果を証し、三明六通を得た人でも、まだ大乗の法理を悟っていないので、法を得た人とは呼ばない。三賢十聖の菩薩も、位が進むにつれて神通や妙用を施すが、法を得た人とは呼ばない。普通、六通というのは、一つ目は天眼通で、山川を隔てたものもはっきり見ること。二つ目は天耳通で、山川を隔てた声も聞くこと。三つ目は他心通で、他人の心の中を明らかに知ること。四つ目は宿命通で、前世のことを忘れないこと。五つ目は神境通で、自在に飛行すること。六つ目は漏尽通で、煩悩を断ち尽くすこと。六通の名は同じでも、これを得た人によって優劣ははるかに違う。天魔や外道は、いっとき五通は得ても漏尽通は得られない。だから結局は神通力を失い、輪廻を免れない。阿羅漢は三界の煩悩を尽くしたので漏尽通を得たとはいうが、まだ無明を尽くしていないので、真の漏尽ではない。三賢十聖もまだ無明を尽くしていない。古人は「たとえ六通を得ても、さらにあの一通のあることを知れ」と言った。あの一通とは、凡夫も聖者も本来そなえていて、増えも減りも優劣もないものである。あらゆる神通妙用も、見る聞く知ることも、足を挙げ足を下ろす動作も、すべてこの一通の恩力による。しかし凡夫は日々使っていながら知らず、外に向かって世間的な通力を求める。龐居士が「神通と妙用は、水を運び薪を運ぶことだ」と示したのも、足を挙げ下ろす所作のなかにあの一通があるということである。古人は「人はみな霊光をそなえている」と言った。『円覚経』に説く大光明蔵三昧も、すべての衆生が本来そなえている霊光である。諸仏の身光・智光・通光も、みなこの大光明蔵から生まれた。凡夫が東西を弁え、黒白を見分けるのも、すべてこの霊光の妙用である。愚かな人はこの本来の光を忘れ、外に向かって世間の光を求める。この霊光を知らなければ、たとえ身から無量の光を放っても蛍の光と変わらない。諸天にも光はあるが、結局は暗い道に入る。極果の阿羅漢や地上の菩薩も光を放つが、まだ無明の領域を出ていない。みな小さな神通や小さな光に化かされて、本来の大神通・大光明を忘れているからである。だから大乗の学人は、まず本来の大光明・大神通があることを信じるべきである。これを悟れば、永い間の無明はことごとく尽き、多くの生に渡る束縛にも妨げられない。そのとき初めて無辺の光を放って衆生の迷いの闇を破り、広大な働きを施して魔や外道の邪見を降伏させることができる。
解説

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『臨済録』示衆「爾道ふ、佛に六通有るは是れ不可思議なりと。一切の諸天・神仙・阿修羅・大力鬼も亦た神通有り。應に是れ佛なるべきや。道流錯る莫かれ。秖だ阿修羅と天帝釋と戰ひ、戰ひ敗れて八萬四千の眷屬を領して藕絲の孔中に入りて藏るるが如し。莫や是れ聖なるか。山僧が舉ぐる所の如きは、皆な是れ業通・依通なり。夫れ佛の六通の如きは然らず。色界に入るも色に惑はされず、聲界に入るも聲に惑はされず、香界に入るも香に惑はされず、味界に入るも味に惑はされず、觸界に入るも觸に惑はされず、法界に入るも法に惑はされず。所以に六種の色・聲・香・味・觸・法は皆な是れ空相にして、繫縛すること能はずと達す。此の無依の道人は、是れ五蘊漏質なりと雖も、便ち是れ地行の神通なり。
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夢中問答集・『夢中問答集』智慧と愚癡を超える船筏問菩薩の行は六波羅蜜を本とす。其の中には般若波羅蜜を勝れたりといふことは、其の餘の五波羅蜜も若智慧なければ、成ぜさる故なり。しかるを一向に智慧をきらふ事は何ぞや。 答般若は梵語なり。漢語には智慧となづく。智慧といへる語はをなしけれども、眞智妄智權智實智種々の差別あり。よのつね人のちえと思へるは諸の法門を解了して日來の愚癡を改めたるを申すなり。圓覺經に云く、ちゑも愚癡も通じて般若たりと云云。この經のこゝろは、ぐちを改めたるを眞實の智慧といふにあらず。無明の業識生ずる故に、圓覺大智の中に智慧愚癡の二相をみる卽ち是れ妄想なり。此の妄想の上に住著して愚癡をあらためて、ちゑとなさんことを求めば、第二重の妄想なり。般若をば覺とも翻じ、道とも譯せり。古人の云く、道は知にも屬せず。不知にも屬せず。知は是れ妄覺不知は是れ無記なりと云云。禪宗の學者の中に本分の理を解了するを、道をさとれりと思ふ人あり。若し爾らば何ぞ道は知に屬せずといはんや。或は知解を泯絕して空々寂々たる處を、道をさとれりと思へり。若し爾らば何ぞ道は不知に屬せずといはんや。たゞかやうなる一切の解會を放下して、放下の處について二六時中猛烈に參究せば時節到來して本分の大智に契當すべし。其時始めて道の體は愚癡にもあらず。ちゑにもあらざることをしるべし。こゝに到りぬれば日來の智慧も、ぐちも亦外邊にあらず。みな我が屋裏の事なるべし。夫れ無常の理をしり、因果の謂を辨へて世間の名利を捨つるは、つねさまの愚人よりも、かしこき智慧なりといへども、此分劑にては佛果を成ずる事あるべからず。乃至三賢十聖の菩薩或は如幻智を證し、或は無生智を得たれども、亦いまだ佛果をば成ぜず。等覺地に到りて、前の三賢十聖の諸智倶に忘ずるを金剛喩定となづく。此の時妙覺の大智始めて現前す。其の大智とは人々具足し、箇々圓成せる者なり。然らば卽ち、最上利根の機は三賢十聖等の階級をへずして、直下に本有の大智に契當す。古人の云く、一超して直に如來地に入るといへるは、此の意なり。華嚴經に云く、初發心の時すなはち正覺を成ずと云云。權敎の法門を信ずる人、第十地にのぼる菩薩だにも、妙覺の大智をばいまだ得ざるに、薄地の凡夫のやがて大智を得るといへる事あたらずと思へるは、本有の大智をば信ぜず。たゞ愚癡を改めたるを智慧と心得たる故なり。六度萬行を說き、五十二位を立つること皆な是れ中下根のためなり。六度の中に智度を貴ぶことは、直に本分の大智に契當することあたはざる人のために、しばらく幻智を船筏として、漸く本分の彼岸にいたらしむる方便なり。敎門にしばらく學解をゆるすことは此の故なり。敎の本意にはあらず。船筏の大切なる事は大河をわたりて、むかひの岸にいたらんためなり。しかるを愚人其の船筏を愛著して、すてざるはいまだ船筏の大切なる謂れをしらざる故なり。佛祖の出世して諸の法門を說き給ふことは、迷倒の大河を越へて本分の岸に到らしめんための船筏なり。たとひ此の船筏にのりたりとも、これを愛著を捨てずんば、本分の田地にいたる事あるべからず。若し又飛行自在を得たる人は、船筏をからずして直にむかひの岸にいたるがごとく、最上根の人は三賢十聖の智慧をからずして、直に本分の田地に到るべし。若し此の人に學解をすゝむるは、飛行自在の人に船筏をあたふるがごとし。此の船筏なか〱障となるべし。この故に禪門には諸の學解をきらふなり。しかるを禪門の學者の中に、宗師の語話を船筏として、敎家の船筏には勝れたりと思ふて、慢心を起せる人あり。たとひ大に勝れたる船筏にのりたりとも、其中に嬉戯して究竟安穩の想ひをなさば、一生むなしく此の岸に住著して船筏のさたをだにせぬ者には、まされりといへども、いたづらに河流にたゞよふて彼岸にいたらざることは、是れ同じ三賢十聖は殊勝の船筏にのれりといへ共、猶も其の中に住在せる故に、いまだ變易生死の流れをこえず。況んや權小の船筏の中に住在して滿足の想ひをなさんや。
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夢中問答集・『夢中問答集』凡夫と聖者の見方の違い問凡聖所見の差別いかん。 答禪宗には直に本分をしめす、故にかやうの事を論せず、敎の中には種々の義あり、しばらく首楞嚴經の說相について粗申すべし。彼の經の中に七大を明せり謂ゆる地大水大火大風大空大根大識大なり。此の七大皆な是れ如來藏の中の性德として、法界に周遍し融通無礙なり。これを性火性風等となづく眞言敎の中に六大無礙にして諸法の體なりと談ずるもこの意なり。たゞし眞言敎には根大をあかさず、根大とは眼耳等の六根も皆な法界に周遍せる義なり。眞言には六大を法界の體とす、楞嚴經には如來藏を諸法の體とす、七大は皆如來藏所具の德用なりとあかせり。皆な是れ如來の隨宜說法なり、眞言に六大と申すも緣生の水火等をさすにはあらず、楞嚴經に性火性水等といへる六大なり。四曼と談ずるは緣生の諸法なり。この故に六大を體とし四曼を相とし三密を用とすと明せり、七大に皆な同じく性德と緣生との差別あり。先づ一大をよく〱心得ぬれば諸大も亦同じかるべし。世間に木の中より鑽出し石の中より打出せる火はこれ緣生の火なり。此の火は實體なし薪にても油にても其の緣なくてはもゆることなし。薪油等の緣ある時かりに其の相を現ず、故に虛妄にして實體なしと說けり。顯密の諸經にも緣生の諸法の實體なす事は同一說なり、性火といへるは法界に周遍して、燃ゆることもなく滅する事もなし。凡夫はたゞ緣生の火をのみ見て性火をばしらず。若し知り得ぬれば緣火とてきらふべきことなし、緣火は是性火の用なるが故に此の火大のごとく餘大も亦然り。乃至識大とは衆生の心識なり、それもよのつね凡夫の心と思へるは緣生の心なり、經の中にこれを緣心と說けり。此の心はすべて實體なし、六塵の緣によりてかりに見聞覺知の相あり、緣生の火の薪油等の緣によりて、かりにもゆる相あるがごとし。愚人はたゞ緣心をのみ知りて性心をしらず、外典乃至小乘敎の中に心といへるは皆是緣心なり、大乘の中に八識を談ずるも猶是れ緣心の分劑なり、是を以て極大乘の中に第九識を立てたり、是れ卽ち性德の識大をしらしめんためなり。諸法といへるは色心二法なり、七大の中に識大はこれ心法なり、其の餘の六大は皆色法なり。然れ共此の七大ともに如來藏の中に具足して五融無礙なるが故に色心の差別なし、これを眞法界となづく差別なしといへ共、色心混濫する事なし。然らば卽ち其の色法も生滅盛衰の形相にあらず、其心法も動靜起滅の轉變なし、經の中に諸法實相常住と說けるは此の義なり。凡夫の妄見起る時、此の如來藏虛妄の緣に隨つて色心諸法の相を現ず、凡夫の妄見轉變するが故に其の所見の諸法も亦皆な轉變の相あり。たとへば舟の行く時、岸のうつると見ゆるがごとし、又翳眼にて見る時、虛空皆な花となりて亂起亂滅するがごとし。諸法は皆な是れ虛妄と說けるは此の義なり、然らば則或は諸法虛妄と說き、或は諸法常住と談ず、其の言句は異なりといへども、其の法體はこれ同じ佛意をしらざる者のは其の言句の差別に隨つて此れを取て彼を捨つ皆な是れ世俗の戯論なり、翳眼の人と明眼の人と二人同所にありて虛空に向へる時、翳眼の前には積々の花ありて亂起亂滅する相あり。しかれ共明眼の人は亂起亂滅の處をあらためずして淸淨の虛空とみるがごとし、煩惱卽菩提生死卽涅槃常位卽妙不改本位といへるも此の義なり。當相卽道卽事而眞と申すも、此の謂れなりしかるを凡夫所見のまゝにて、やがて佛知見なりと心得たるは大なる錯なり。若しさやうならば諸佛の出世し玉ふこと何事のためとか申すべきや顯密の宗師みな學者のために修行をすゝめ玉へるは何事の對治のためぞや、古の大師達みな聚落の外に伽藍を立て女人を入れられず、酒肉等を制し玉へる事は何の謂ぞや。
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『臨済録』示衆秖だ諸方の六度万行を説いて以て仏法と為すが如きは、我れ道う、是れ荘厳門・仏事門にして、是れ仏法にあらずと。乃至持斎持戒し、油を擎げて[泳-永+閃](こぼ)さざるも、道眼明らかならずんば、尽く須らく債を抵すべし。飯銭を索めらるる日有らん。何が故ぞ此の如くなる。道に入って理に通ぜずんば、身を復して信施を還す。長者八十一、其の樹耳を生ぜず。乃至孤峰に独宿し、一食卯斎し、長坐不臥し、六時に行道するも、皆な是れ業を造る底の人なり。乃至頭目髄脳、国城妻子、象馬七珍、尽く皆な捨施するも、是の如き等の見は皆な是れ身心を苦しむるが故に、還って苦果を招く。如かず無事にして純一無雑ならんには。乃至十地満心の菩薩も、皆な此の道流の蹤跡を求むるに了に得べからず。所以に諸天歓喜し、地神足を捧げ、十方の諸仏称歎せざる無し。何に縁ってか此の如くなる。今聴法する道人の用処に蹤跡無きが為なり。」問う、「大通智勝仏、十劫道場に坐すも、仏法現前せず、仏道を成ずることを得ず。未審し此の意如何。乞う師指示したまえ。」師云く、「大通とは、是れ自己なり。処処に於いて其の万法の無性無相なることに達するを、名づけて大通と為す。智勝とは、一切処に於いて疑わず、一法をも得ざるを、名づけて智勝と為す。仏とは、心清浄にして光明法界を透徹するを、名づけて仏と為すことを得。十劫道場に坐すとは、十波羅密是れなり。仏法現前せずとは、仏は本と生ぜず、法は本と滅せず、云何ぞ更に現前すること有らん。仏道を成ずることを得ずとは、仏は応に更に仏と作るべからず。古人云く、『仏は常に世間に在して、而も世間の法に染まらず。』道流、爾作仏せんと欲得せば、万物に随うこと莫かれ。心生ずれば種種の法生じ、心滅すれば種種の法滅す。一心生ぜざれば、万法咎無し。世と出世と、仏無く法無し。亦た現前せず、亦た曾て失わず。
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夢中問答集・『夢中問答集』夢と本分の家(下)佛法も亦かくのごとし、本分の田地には凡聖の相もなく淨穢の境もなし、無明業識の一夢起るが故に、無相の中に淨穢の境界を現じ、無爲の中に凡聖の差別を見る、我は凡夫也と思ふ時は東西に馳走して名利を求む求め得ざる時はなげきかなしむ。我は智人也と思ふ時は、一切の人をかろしめて高慢の心を起す、かゝる種々の顚倒にばかされて本分安樂の田地ある事を信ぜず。是れ卽ち夢中の妄境に心を轉せられてうつゝの境界を信せざるがごとし、其の中にたま〱利根の人ありて、凡聖淨穢業識の上に浮べる假相也。本分の田地にはすべてかやうの事なしと信ずれ共、いまだ大悟せざる故に、やゝもすれば幻化に誑惑せられて、我は是れ迷人也と思ひならはせる我執いまだ忘せざる故に、得法悟道をねがひ機辨神通ををうらやむ。しかる故に修行用心について邪正を論じ、應用問答において勝劣をあらそふ。此れは是れ夢みる人の我が所見は皆な夢也と信ずれ共、大夢いまださめざる故に、夢の境界にばかはされて其の中について、是非得失を論ずるがごとし。若し是れ最上根の人はたとひいまだ大悟の分はなけれ共、自他身心を計する事皆是れ業識の妄想也と分明に信解する故に、輪廻をもいとはず、解脫をも求めず、若しかくのごとくならば趣向の正しき人と申すべし。趣向のたゞしきをたのみて、滿足の思をなさば亦謬りなり。圓覺經に云く、衆生顚倒して妄に四大をとめて自身の相とし、六塵の緣影を自身の相とす、たとへば病目の空中の花及び第二の月を見るがごとし。是れによりて、妄に生死に輪轉する事あり、この故に無明となづく。此の無明といふは、實に體あるにあらず、夢中に人を見るときは其の體なきにあらざれ共、夢さめぬれば其の人ある事なきがごとし。首楞嚴經に云く、妙性圓明にして諸の名相をはなれたり、本より世界衆生ある事なしと云云。諸大乘經みな同じくかやうに說けり、何ぞこれを信ぜずして、身心を勞役して外に向つて馳求するや。世間の吉凶其の相いまだあらはれざる時は、愚人これをしらず。然れども世間の巫女陰陽師等のうらなひしめす言を信じて、それにまかせてふるまへば、時節到來して其の效をみる事あり。本分の一段は人々具足すれども、いまだ契當せざる人は、日に用ひて知る事なし。是の故に佛祖大慈をたれて叮嚀にしめし玉へり。たとひ宿習うすくして、直下に契當する事なくとも世間の陰陽師等を信ずるがごとく、佛祖の言を信じて、それにまかせて用心せば、何ぞしるしなからんや。