夢中問答集 / 『夢中問答集』善念悪念の花を追わない
問夢幻と觀ずるも、いたづら事とはしりながら、諸緣に對する時常に此の心のうかぶは過なるべしや。 答一切を放下せよと申せばとて、外道二乘の惡念を制して起さじとするには同じからず。さやうにする事は血を以て血をあらふがごとし。眼に翳病ある人、虛空に向へばもろ〱の花の亂起亂滅する相あり。愚人これを翳病の故とはしらずして、實に花ありと思て、或はこれを厭ひてはらひのけんとする者あり。或はこれを愛して除かじとする者もあり。一翳若しやみぬれば、亂起亂滅の花もなし。何をか厭ひ、何をか愛せんや。行道も亦かくのごとし。無明の一翳に字眼を障られて、本分眞空の上に佛法世法善念惡念種々の花相を見るなり。此の理を分明に識得しぬれば、たとひ眼翳いまだ除こらざる故に、善念惡念の花相うかべども、主宰と作り得て驚動せず。鏡の物を照すがごとく、心力を勞する事なし。かやうに用心するを大乘の工夫とは申すなり。古人の云く、一切の善惡すべて思量することなかれ。又云く、直に無上菩提におもむきて一切の是非管ずる事なかれ。又云く、別に工夫なし、放下すれば、便是なりと云云。
新字:問夢幻と観ずるも、いたづら事とはしりながら、諸縁に対する時常に此の心のうかぶは過なるべしや。 答一切を放下せよと申せばとて、外道二乗の悪念を制して起さじとするには同じからず。さやうにする事は血を以て血をあらふがごとし。眼に翳病ある人、虚空に向へばもろ〱の花の乱起乱滅する相あり。愚人これを翳病の故とはしらずして、実に花ありと思て、或はこれを厭ひてはらひのけんとする者あり。或はこれを愛して除かじとする者もあり。一翳若しやみぬれば、乱起乱滅の花もなし。何をか厭ひ、何をか愛せんや。行道も亦かくのごとし。無明の一翳に字眼を障られて、本分真空の上に仏法世法善念悪念種々の花相を見るなり。此の理を分明に識得しぬれば、たとひ眼翳いまだ除こらざる故に、善念悪念の花相うかべども、主宰と作り得て驚動せず。鏡の物を照すがごとく、心力を労する事なし。かやうに用心するを大乗の工夫とは申すなり。古人の云く、一切の善悪すべて思量することなかれ。又云く、直に無上菩提におもむきて一切の是非管ずる事なかれ。又云く、別に工夫なし、放下すれば、便是なりと云云。
書き下し
問夢幻と觀ずるも、いたづら事とはしりながら、諸緣に對する時常に此の心のうかぶは過なるべしや。 答一切を放下せよと申せばとて、外道二乘の惡念を制して起さじとするには同じからず。さやうにする事は血を以て血をあらふがごとし。眼に翳病ある人、虛空に向へばもろ〱の花の亂起亂滅する相あり。愚人これを翳病の故とはしらずして、實に花ありと思て、或はこれを厭ひてはらひのけんとする者あり。或はこれを愛して除かじとする者もあり。一翳若しやみぬれば、亂起亂滅の花もなし。何をか厭ひ、何をか愛せんや。行道も亦かくのごとし。無明の一翳に字眼を障られて、本分眞空の上に佛法世法善念惡念種々の花相を見るなり。此の理を分明に識得しぬれば、たとひ眼翳いまだ除こらざる故に、善念惡念の花相うかべども、主宰と作り得て驚動せず。鏡の物を照すがごとく、心力を勞する事なし。かやうに用心するを大乘の工夫とは申すなり。古人の云く、一切の善惡すべて思量することなかれ。又云く、直に無上菩提におもむきて一切の是非管ずる事なかれ。又云く、別に工夫なし、放下すれば、便是なりと云云。
現代語訳
問:夢幻と観ずるのも、むだなことだと知りながら、諸縁に対するとき常にこの心が浮かぶのは、過ちだろうか。 答:一切を投げ捨てよ、と言うからといって、外道や二乗が悪念を抑えて起こすまいとするのと同じではない。そのようにするのは、血で血を洗うようなものだ。眼に翳(かすみ目)の病がある人が、虚空に向かうと、もろもろの花が乱れて起こり乱れて消える様子が見える。愚かな人はこれを翳の病のせいだと知らず、本当に花があると思って、これを嫌って払いのけようとする者もいれば、これを愛して除くまいとする者もいる。ひとたび眼の翳が治れば、乱れて起こり乱れて消える花もない。何を嫌い、何を愛することがあろうか。道を行うのもまたこのとおりである。無明という一つの翳に眼を妨げられて、本分の真空の上に、仏法や世法、善念や悪念といった種々の花の相を見るのである。この理をはっきり知ったなら、たとえ眼の翳がまだ除かれないために、善念悪念の花の相が浮かんでも、主人公となって驚き動じない。鏡が物を映すように、心力を労することがない。このように心を用いることを、大乗の工夫と言うのである。古人は言う。一切の善悪をすべて思量してはならない。また言う。直ちに無上菩提に向かい、一切の是非に関わってはならない。また言う。ほかに工夫はない。放下すればそれでよい、と。
解説

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