夢中問答集 / 『夢中問答集』仏法と世法に隔てなし(上)
問萬事と工夫と差別なくは何か故ぞ。敎禪の宗師の中に多くは學者をすゝめて萬事を放下し、諸緣を遠離せよとしめし給へるや。 答古人の云く、法に定相なし。緣にあへば卽宗なり。知識の學者を導く法門すべて定相なし。佛法世法の隔てなき事は大乘の道理なり。敎禪ことなりといへども、大乘を擧揚し給ふ宗師いかでか萬事の外に佛法の修行ありとしめす事あらんや。しかれ共、いまだ此の理をさとらざる人の所見に約すれば、世間の萬事こと〱く虛妄顚倒なり。宗師これをあはれむ故に、かりに方便をまうけて、しばらく學者の執著をすてしめんために萬事を放下せよとはすゝめり。宗師の隨機說法すべて定相なし。佛在世の時天須菩提といふ人ありき、五百世の中につねに天上に生ぜり。今も王者の家に下生して居所服翫ゆたかなり。淨飯王釋種をすゝめて出家せしむること五百人、彼天須菩提も其の內にいれり。此人ひさしく天人たりし餘習にて美麗の衣服をこのみ、華奢の屋舍を愛す。如來諸の比丘に向つて衣服居所をかざる事なしと誡め給ふを聞て、ひそかに念へり。吾れ富貴の家に生れて居に金銀をちりばめ、衣に錦繡をかざれり。しかれ共猶ほ意にたらざる事あり。いはんや麁服を著し、幣舍に住せんや。しばらく家にかへりて我本意をとげて後に來るべし。卽ち佛所に參りてじたいす。佛阿難に命じて言はく、王宮に往いて諸の莊嚴の具を借て此の比丘の意にかなふほど舍內をかざりて、今夜住せしむべし。阿難佛勅に隨つて種々の莊嚴をつくせり。天須菩提其の中に止宿す。平生の悕望今夜滿足せり。亂想自ら除いて智明忽ちに發す。後夜にいたりて羅漢果を證して空中に飛騰す。阿難これをあやしみて佛に問奉る佛の言く、衣服居所をかざりて道心をすゝむる者ありかやうの人は衣服居所をかざるも亦佛道のたすけなるべし。衣服居所をかざるによりて道心を損する者あり。若かやうならば道人のおそるべきことなり。悟道得果はひとへに行人の心によれり。衣服居所にはかゝるべからずと云云。今の人も天須菩提のごとくならば、居所服翫の華美をこのむとも道行の障とは制すべからず。かやうのためしのあるに事をよせて、佛法の用心はつや〱なき人の居所をかざり。珍奇をもてあそぶを是も佛法の障りにあらずといはゞ天魔の所說なり。古より今にいたるまで山水とて山をつき、石をたて、樹をうゑ水をながして嗜愛する人多し。其の風情は同じといへ共、其の意趣は各ことなり。或は我が心にはさしも面白しとは思はねども、たゞ家のかざりにしてよその人に、いしげなるすまゐかなといはれんためにかまふる人もあり。
新字:問万事と工夫と差別なくは何か故ぞ。教禅の宗師の中に多くは学者をすゝめて万事を放下し、諸縁を遠離せよとしめし給へるや。 答古人の云く、法に定相なし。縁にあへば即宗なり。知識の学者を導く法門すべて定相なし。仏法世法の隔てなき事は大乗の道理なり。教禅ことなりといへども、大乗を挙揚し給ふ宗師いかでか万事の外に仏法の修行ありとしめす事あらんや。しかれ共、いまだ此の理をさとらざる人の所見に約すれば、世間の万事こと〱く虚妄顛倒なり。宗師これをあはれむ故に、かりに方便をまうけて、しばらく学者の執著をすてしめんために万事を放下せよとはすゝめり。宗師の随機説法すべて定相なし。仏在世の時天須菩提といふ人ありき、五百世の中につねに天上に生ぜり。今も王者の家に下生して居所服翫ゆたかなり。浄飯王釈種をすゝめて出家せしむること五百人、彼天須菩提も其の内にいれり。此人ひさしく天人たりし余習にて美麗の衣服をこのみ、華奢の屋舎を愛す。如来諸の比丘に向つて衣服居所をかざる事なしと誡め給ふを聞て、ひそかに念へり。吾れ富貴の家に生れて居に金銀をちりばめ、衣に錦繍をかざれり。しかれ共猶ほ意にたらざる事あり。いはんや麁服を著し、幣舎に住せんや。しばらく家にかへりて我本意をとげて後に来るべし。即ち仏所に参りてじたいす。仏阿難に命じて言はく、王宮に往いて諸の荘厳の具を借て此の比丘の意にかなふほど舎内をかざりて、今夜住せしむべし。阿難仏勅に随つて種々の荘厳をつくせり。天須菩提其の中に止宿す。平生の悕望今夜満足せり。乱想自ら除いて智明忽ちに発す。後夜にいたりて羅漢果を証して空中に飛騰す。阿難これをあやしみて仏に問奉る仏の言く、衣服居所をかざりて道心をすゝむる者ありかやうの人は衣服居所をかざるも亦仏道のたすけなるべし。衣服居所をかざるによりて道心を損する者あり。若かやうならば道人のおそるべきことなり。悟道得果はひとへに行人の心によれり。衣服居所にはかゝるべからずと云云。今の人も天須菩提のごとくならば、居所服翫の華美をこのむとも道行の障とは制すべからず。かやうのためしのあるに事をよせて、仏法の用心はつや〱なき人の居所をかざり。珍奇をもてあそぶを是も仏法の障りにあらずといはゞ天魔の所説なり。古より今にいたるまで山水とて山をつき、石をたて、樹をうゑ水をながして嗜愛する人多し。其の風情は同じといへ共、其の意趣は各ことなり。或は我が心にはさしも面白しとは思はねども、たゞ家のかざりにしてよその人に、いしげなるすまゐかなといはれんためにかまふる人もあり。
書き下し
問萬事と工夫と差別なくは何か故ぞ。敎禪の宗師の中に多くは學者をすゝめて萬事を放下し、諸緣を遠離せよとしめし給へるや。 答古人の云く、法に定相なし。緣にあへば卽宗なり。知識の學者を導く法門すべて定相なし。佛法世法の隔てなき事は大乘の道理なり。敎禪ことなりといへども、大乘を擧揚し給ふ宗師いかでか萬事の外に佛法の修行ありとしめす事あらんや。しかれ共、いまだ此の理をさとらざる人の所見に約すれば、世間の萬事こと〱く虛妄顚倒なり。宗師これをあはれむ故に、かりに方便をまうけて、しばらく學者の執著をすてしめんために萬事を放下せよとはすゝめり。宗師の隨機說法すべて定相なし。佛在世の時天須菩提といふ人ありき、五百世の中につねに天上に生ぜり。今も王者の家に下生して居所服翫ゆたかなり。淨飯王釋種をすゝめて出家せしむること五百人、彼天須菩提も其の內にいれり。此人ひさしく天人たりし餘習にて美麗の衣服をこのみ、華奢の屋舍を愛す。如來諸の比丘に向つて衣服居所をかざる事なしと誡め給ふを聞て、ひそかに念へり。吾れ富貴の家に生れて居に金銀をちりばめ、衣に錦繡をかざれり。しかれ共猶ほ意にたらざる事あり。いはんや麁服を著し、幣舍に住せんや。しばらく家にかへりて我本意をとげて後に來るべし。卽ち佛所に參りてじたいす。佛阿難に命じて言はく、王宮に往いて諸の莊嚴の具を借て此の比丘の意にかなふほど舍內をかざりて、今夜住せしむべし。阿難佛勅に隨つて種々の莊嚴をつくせり。天須菩提其の中に止宿す。平生の悕望今夜滿足せり。亂想自ら除いて智明忽ちに發す。後夜にいたりて羅漢果を證して空中に飛騰す。阿難これをあやしみて佛に問奉る佛の言く、衣服居所をかざりて道心をすゝむる者ありかやうの人は衣服居所をかざるも亦佛道のたすけなるべし。衣服居所をかざるによりて道心を損する者あり。若かやうならば道人のおそるべきことなり。悟道得果はひとへに行人の心によれり。衣服居所にはかゝるべからずと云云。今の人も天須菩提のごとくならば、居所服翫の華美をこのむとも道行の障とは制すべからず。かやうのためしのあるに事をよせて、佛法の用心はつや〱なき人の居所をかざり。珍奇をもてあそぶを是も佛法の障りにあらずといはゞ天魔の所說なり。古より今にいたるまで山水とて山をつき、石をたて、樹をうゑ水をながして嗜愛する人多し。其の風情は同じといへ共、其の意趣は各ことなり。或は我が心にはさしも面白しとは思はねども、たゞ家のかざりにしてよその人に、いしげなるすまゐかなといはれんためにかまふる人もあり。
現代語訳
問:万事と工夫に区別がないのなら、なぜ教宗や禅宗の師匠たちの多くは、学人に万事を捨て、あらゆる縁を遠ざけよと教えるのか。 答:古人は「法に決まった形はない。縁に出会えばそのまま宗となる」と言った。師が学人を導く方法は、すべて決まった形がない。仏法と世間の法に隔てがないのは大乗の道理である。教宗と禅宗の違いはあっても、大乗を掲げる師が、万事の外に仏法の修行があると示すはずがない。しかし、まだこの理を悟らない人の見方からすれば、世間の万事はことごとく虚妄で転倒している。師はこれを憐れむので、仮に方便を設け、しばらく学人の執着を捨てさせるために万事を放下せよと勧めたのである。師の機に応じた説法に決まった形はない。釈迦の在世に天須菩提という人がいた。五百世のあいだ常に天上に生まれ、今も王家に生まれて住まいも身の回りも豊かだった。浄飯王が釈迦族に勧めて出家させた五百人のなかに、この天須菩提も入っていた。この人は長く天人であった習いで、美しい衣服を好み、華やかな住まいを愛した。如来が比丘たちに衣服や住まいを飾ってはならぬと戒めるのを聞いて、ひそかに思った。私は富貴の家に生まれて、住まいには金銀をちりばめ、衣は錦繍で飾った。それでもなお満ち足りない。まして粗末な服を着て破れ家に住めようか。しばらく家に帰って望みを遂げてから戻ろう。そして仏のもとに行って暇乞いをした。仏は阿難に命じた。王宮へ行って飾りの道具を借り、この比丘の望みどおり室内を飾って、今夜ここに泊まらせよ。阿難は仏の命のままにさまざまな飾りをつくした。天須菩提はその中に泊まった。日ごろの望みがこの夜に満たされ、乱れた想いが自然に除かれて、智慧が忽ちに現れた。夜明け前に阿羅漢果を証して空中に飛び上がった。阿難はこれを不思議に思って仏に尋ねた。仏は言われた。衣服や住まいを飾ることで道心が進む者がいる。そういう人には、飾ることも仏道の助けになる。飾ることで道心を損なう者もいる。そうなら道を行く人の恐れるべきことである。悟りを得るかどうかは、ひとえに修行者の心によるのであって、衣服や住まいにはよらない、と。今の人も天須菩提のようであるなら、住まいや持ち物の華美を好んでも、修行の妨げと禁じてはならない。しかしこの前例にかこつけて、仏法の心がけがまったくない人が住まいを飾り、珍しい物をもてあそびながら、これも仏法の妨げにならないと言うなら、それは天魔の説である。昔から今まで、築山をつくり、石を立て、木を植え、水を流して愛好する人は多い。見た目は同じでも、その動機はそれぞれ違う。心ではそれほど面白いと思わないが、ただ家の飾りとして、他人から立派な住まいだと言われたくて造る人もいる。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
夢中問答集・『夢中問答集』随他意と随自意の区別問如來の說法に二種あり、一には隨他意語佛の機に隨つてしめし玉へる方便の語なり、二には隨自意語佛の本意のごとく說き給へる語なり、禪門に小玉をよぶ手段といへるは、隨他意語にあたるにあらずや。 答如來の說敎については、是は隨他意是は隨自意と決定して談ずるは、敎門の施說なり、禪門の宗師の佛說を擧揚する時、或は是を隨他意說としめし、或は是を隨自意語といふ。皆是小玉をよぶ手段なり決定の說にあらず。然らば卽ち今日隨自意語といへる、佛說を明日は隨他意語といふこともあるべし。唯此兩語のみにあらず、淺略深祕乃至妄執言說如義言說等の法門も又かくのごとし。古人の云く禪門の宗旨は敎家の法門の一尺はつひに一尺、二尺はつひに二尺なるには同じからずと云云。釋迦如來我は敎者とも仰られず、禪者ともなのり給はず所說の法門においても是は敎の分なり、是は禪の分なりともわけられず、如來の內證は敎にもあらず、禪にもあらざる故なり、此內證不思議の應用機に隨つて敎禪の差異をなせり。經に云く、佛は一音を以て法を說き給へば衆生其の類に隨つて、各解することを得と云云。佛在世の時は其の解了ことなりといへ共禪僧敎僧とてわかれたる事はなかりき、佛滅後に始めて禪敎二門わかれて敎に顯密の諸宗あり、禪に五家の差別あり、其故は先づ各解の性欲に隨つて方便をたれて、如來の本分の宗旨をしらしめんために、如來の化儀を紹隆し玉ふ、大智高德の人、或は敎家の宗師となり、或は禪門の祖師となりて各一雙の手を出だして迷倒の偏執を破り、敎禪の兩岐を越えて本分の田地に到らしめんとす。然らば卽ち眞實の敎師の其の本意敎の內にあるにあらず、明眼の禪師其の本意禪の中にあるにあらず、しかれども面々所談のかはれることは皆是れ小玉をよぶ手段なるが故なり、末代に至りて禪けうの學者の中に偏執を先とする人は是非海の裏にしづみて佛祖の本意をくらませり、像法決疑經に云く文のごとく義をとるは三世諸佛のあだなりと云云、明眼の宗師は胸の中にかねてよりたくはへたる法門なし、只是れ機に當りて提持し口に信せて道著す、すべて定まれる窠窟なし若し人禪を問ふ時、或は孔孟老莊の言を以て答ふる事もあり、或は敎家所談の法門を以て答ふる時もあり、或は世俗の諺を以て答ふる事もあり、或は目前の境界をしめす時もあり、或は棒を行じ喝を下し指を擧げ拳をさゝぐ、皆是宗師の手段なり、これを禪門の活弄となづく、いまだ此の田地に到らざる者の情識を以て計度すべき事にあらず。
-
夢中問答集・『夢中問答集』禅と教えは同じか(上)問敎の中にも佛の相もなく、衆生の相もなしと談ぜり、禪宗に生佛いまだわかれざる處といふに同じからずや。 答敎の中に凡聖の相なしと申すは、凡聖わかれたる處について、其の體性の無相なることを談ぜり。禪宗に生佛已前と申すは此の義にあらず、其の語の似たるを以て禪敎同とは申すべからず、たとへば人の面のやうをそらに語る時額の中に眉あり眉の下に眼あり眼の下に鼻あり鼻の下に口ありと申せば、貴賤男女みな同じ面なるやうに聞ゆれ共、若し實に其の面をみる時は、各ことなるがごとし、敎門には言句義理を以て法門とする故に、義理の分劑について大小權實を判せり、敎外別傳不立文字といへる題目を見ながら宗師の言句について敎禪の同意を論せばあたるべからず、今時の禪者の中に宗師の人に示さる言句の中に敎家の法門にかはりたる事のあるを見て、これを禪の勝れたる證據とす。若し敎の法門にかはりたる故に禪は勝れたりといはゞ禪にかはりたる故に敎をも勝れたりといふべし。然らば卽ち敎外別傳の宗旨何ぞ言句義理の同異にあづからんや、或は云く敎は皆な言句義理の上に談せり、言句義理にあづからざる處禪門の宗旨なりと云云。若ししからば敎の中に言句義理を立ざる法門あり、これを禪宗といはんや、或は敎者の中に敎外別傳不立文字といへども禪師の人にしめす言句多し不立文字といはんやと難する人あり、禪師の言句多しといへ共此の言句の義理を人に習學せしめんためにはあらず、ただ佛法の正理は言句の上にあらざる事をしめさんためなり、言句の上にあらずと申せばとて言語道斷の處を宗旨とするにもあらず、寂默沈空の所を指示するにもあらず、古人の云く達磨西來の別に一法の人のために傳授するなしたゞ人々具足し、箇々圓成する底を指出するのみなりと云云、旣に人々具足といへり、何ぞひとり禪者のみ具足して敎者にはかけたりといはんや、たゞ敎者禪者のみ圓成するにあらず。田夫野人の農業をはげむ所にもあり、鍛冶番匠の工巧をいとなむ所にもあり、要を取ていはゞ、一切衆生の所作所爲見聞覺知行住坐臥遊戯談論の所皆な悉く西來の玄旨にあらずといふ事なし、何にいはん佛の敎へに隨つて種々の善行を修する人をや。しかれども、此の玄旨あることを知らざる故に、世間の幻相はばかされて妄りに輪廻を受くる者多し。佛此の妄想をやめんために種々の法門を說き玉へば、又此の法門を執著して玄旨をくらませる人あり。是の故に祖師西來して、本分の一段を指出す、この心を以て心に傳ふる、敎外の玄旨となづく。敎外の玄旨とて諸敎にかはりたる一段の法門を相承するにはあらず、若し言句にて相承すべき法門ならばたゞ是れめづらしき敎法なるべし、敎外別傳とはいふべからず、六祖よりこのかた五家わかれて各の宗風を立つといへ共、亦同じく人々具足することを悟らしめんためなり。
-
夢中問答集・『夢中問答集』万事の中の工夫と工夫の中の万事問萬事の中に工夫をなす人あり、工夫の中に萬事をなす人ありと申すは、何にとかはれることやらん。 答工夫と申す事は唐土の世俗のことばなり。日本にいとまといへる語に同じ一切のしわざに通ぜり。耕作は農人の工夫なり。造作は番匠の工夫なり。かやうの俗言によせて道人の佛法を行ずる工夫と名けたり。本分の工夫をなす人萬事の中工夫の中とへだつべきことなし。然れども初心の學者についてしばらくかやうの義あり。向道の志のあさき人は世間の萬事を正として、其の中に時を定めて坐禪するを日課とせり。今の叢林に四時の坐禪と申すも二百年よりこのかた此の式を始めたり。上古は禪僧とて或は樹下石上に居し、或は叢林に首べをあつめし人、皆此の一大事のためなりし故に、各寢食をわすれて二六時中工夫ならざる時節なし。末代になれる故に一大事のためとはなけれ共父母の命によりて心ならず僧形になれる人もあり。或は世間にわしれば心くるしき事をのがれんために寺に入れる人もあり。かやうの人もさすがに前世の宿習あるによりて心ならず僧形にはなれる事なれば、ひたすら坐禪をせじとまでは思はじなれども、まめやかなる道心もなき故に飯を食し、茶をのむ時は、食欲に障られて佛道をわする經をよみ、呪をみつる時は事の行にうばはれて本分にそむきぬ。さならぬいたづら事もまじはる程に本分の工夫をばなさずして、いたづらに一生をすごしぬべし。かやうの人のために方便をまうけて四時の坐禪とて規式を定めたり。四時の外は工夫をやめよとにはあらず。されば實に道心ある人は、今は坐禪の時ならずとて、いたづらに光陰をわたる事あるべからず。喫飯著衣看經誦呪東司にゆき、後架にいたる一切の所作所爲の處、衆に交りて禮をなし。人に對して物語りする時も本分の工夫をわすれざる人あり。かやうなるをば萬事の中に工夫をなす人と申すべし。これは萬事を正として其の中に時を定めて坐禪をする人よりもまされりといへ共、いかにも萬事と工夫と差別せる故に、やゝもすれば萬事にうばはれて工夫をわする思ひあるべし。是れ卽ち心外に萬法を見る故なり。古人の云く、山河大地森羅萬象悉く是れ自己なり。若し能く此の旨を得ぬれば工夫の外に萬事なし。工夫の中に衣を著し飯を食し、工夫の中に行住坐臥し、工夫の中に見聞覺知し、工夫の中に喜怒哀樂す。若しよくかやうならば工夫の中に萬事をなす人と申すべし。是れ卽ち無工夫の工夫無用心の用心なり。かやうに用心する人は憶忘ともに我が工夫なり寤寐も亦へだてあるべからず。古人の云く、苦樂逆順道その中にあり。又云く萬般に此道を存すと云云。皆是此の意なり。たとひ此の分を得たりとも猶是れ功勳邊の事なり。まさしく祖宗に契ひ得たる人にはあらず。
-
夢中問答集・『夢中問答集』放下を履き違える剷子禅問古人の云く、別に工夫なし、放下すれば便是なり。又云一切の善惡すべて思量することなかれ。又云く得夫是非一時に放却せよ。かようにしめさるゝごとくならば、一切の所解を掃ひ、捨るを禪宗の工夫と申すべし。若し爾らば花嚴宗にあかせる頓敎の法門に一切の名相をきらふて、自性清淨の處を貴ぶに事ならず。三論宗に獨空畢竟空を談ずるにも似たり。密宗に談ずる遮情の法門にも何ぞことならんや。 答其の言句は似たりといへども、其の旨趣同じからず。先づ一切の所解を掃ひ捨つるを禪宗の修行と心得たることは、大なるあやまりなり。古人の云く有心を以ても求むべからず。無心を以ても得べからず。語言を以ても到るべからず。寂默を以ても通ずべからず。或は云く、有心無心語言寂默皆是れ佛法なりと云云。古人かやうにしめすこと天地はるかにことなり、いづれをか本とすべきや。皆な是れ宗師の手段なり、語のごとく心得べきことにあらず。然らば卽ち一切を放下せよとしめすも、敎門の掃蕩遮情の義にはあらず。眞妄の差別を談ずれども法相の建立の法門にはかはれり。當相卽道卽事而眞としめせ共、表德實相の所談にはことなり、其の旨趣は悟て後始めてしるべし、義理を以て會すべからず。若し言語の似たるを以て同じといはゞ、何ぞたゞ敎家の法門のみに限らんや。儒敎道敎乃至世間の狂言戲語にも亦同じかるべし。禪宗の學者の中に古人の語に隨つて解を生じて一切の義理をも用ひず、地位の階差をも立てず、佛法世法の蹤跡を胸の中にとゞめざるを宗旨と思へる者あり。古人これを笑ふて剷子禪となづけたり。こすきといふ物は一切の物をすきすつるを功能とする故に、一切の所解をはらひ捨つるを宗旨と思へるに譬へたり。
-
夢中問答集・『夢中問答集』順境も逆境も輪廻のもと(三)若し又福分ありて官位もすゝみ、財寶もゆたかに名譽も人にすぐれ、藝能も世にこえたる事ありとも、皆な是れ前世に修せる有漏の善根にこたへたる果報威勢なり。久しくたもつべきことにあらずと思てこれにほこり、これに著する心のなきを隨緣行となづけたり。此の二行の理はさせる甚深の法門にはあらざれ共、敎外の宗旨を信ずる人の中にも、宿熏うすき人は逆順の緣にあふ時、心を亂りて佛法をわする。さすがに佛法をばかた心にはかけたるよしなれ共、逆順の緣は相續してひまもなき故に、工夫純熟の分なし。此の二行の理は、たとひ無智の人なりとも心得ぬべし。先づかやうの理をしりて逆順の緣に對する時、心を亂ることなくば、自然に工夫も純一なるべし。是の故に大師先づ此の二行を立給へり。莊子等が苦樂逆順に心を動ぜざるを無爲の道にかなへりと思へるには同じからず。然らば卽ち中古の宗師達の中にも亦、かやうの理をしめし給へる人あり。近來天目の廣慧禪師中峯和尙の垂誡の中に、多くは是れ世情のひがめる事をいましめ給へるも此の意なり。しかるをなまじいに小智ある人、これを見てかやうの道理は外典小乘等の法門なり。祖門の宗旨にあらずとそしれり。祖師門下の宗師は敎門のごとく、淺深の法門を立分て機に隨つて、これを說くにはあらず。有る時は世間の道理を說き、有る時は出世の法門を談ず。すべて定まれる途轍なし。皆な是れ人のために粘をとき、縛をさくる手段なり。古人の云く、會すれば卽ち途中受用會せざれば卽ち世諦流布なりと云云。たとひ向上の玄旨をしめすとも學者、若し會せずば卽ち世俗の道理となるべし。若し人世間の道理を說くを聞て日來の粘縛を解脫して、直に本分に契當することあらば此の世俗の道理、卽ち是甚深の法門なり。若し人順逆の緣にあふて心をみだる分はなくとも、そのまゝにて本分をあきらむる事なくば、只是北州天上の果報を得る人となるべし。羅漢果を證したる人は貪瞋癡を永く斷じて三界を出離したれ共、いまだ大乘の正理にはかなはず。故に圓覺經に云く、念を動ずるも迷ひなり。念をやむるも又迷ひなりと云云。しかれ共若し先づ淺近の道理をしりて世情をやはらげて佛法を修行せんをばきらふべからず。たとひ世情もやはらぎて、純一に佛法を行ずとも若し又、悟入を求め、成佛を求め、神通を求め、辨說を求むる心あらば、本分にかなふことあるべからず。是を以て達磨大師第三に無所求行を立られたり。金剛經に云く、法尙を捨つべし。何に況んや、非法をやとは此の意なり。さればとて禪宗の學者所求なきを究竟とするにあらず。所求なれば左右に原に逢ふて諸緣境界も我れをなやまさず、天魔外道も便を得ず。此に到りて寤寐憶忘の隔てなし。見聞覺知も別の事にあらず。故に第四に稱法行を立られたり。たとひかやうなりとも猶ほ、是れ功勳邊の事なり。大休大歇の處とは思ふべからず。
-
夢中問答集・『夢中問答集』大乗に戒は要らないのか問大乘の行人はかならずしも、戒相をば護るべからずと申す人あり、其の義あたれりや。 答諸佛の說法無邊なれども、戒定慧の三學をいでず、其の三學と者衆生の一心に具はれり、故に若し一心の本源に到りぬれば、三學の妙德皆悉く滿足すたとへば、如意寳珠を求め得ぬれば、一切の財寳其の中よりふらすがごとし。然らば卽ち一心の本源を究むるを、大乘修行となづくかならずしも、戒相とてとりわきて守るべからずと申すは此の意なり。涅槃經に云く、大乘を行じて心におこたることなきを持戒となづくと云云。しかるを大乘の行人は、破戒なるもくるしからずと申すは惡見なり、佛在世の時は申すに及ばず、佛滅後如來の法を紹隆し玉へる敎禪の宗旨、皆な同じく戒相を具足し玉へり、佛在世の時は禪敎律の僧とて、形服のかはれることばなかりき、其の形は皆な律義をとゝのへ其の心は同じく定慧を修す、末代になりて兼學の人はありがたき故に、其の家三種にわかれたる事は、其の謂れなきにあらず。各一學を本としてたがひに、そしりあへるは謬りなり。像法決疑經の中に、末世の時禪僧律僧敎僧其の品類差別してたがひにそしりあふて、我が佛法を破滅すべし、獅子身中の虫の獅子の肉を食するがごとしと云云。禪敎律の僧たとひ凡情、いまだつきざる故に我執起ることありとも、佛弟子と號しながら何ぞ、佛の遺勅をそむき玉はんや晨旦の佛法は、後漢の明帝の時始めてわたれり。其の後も僧形は皆な佛在世のごとし、唐の代になりて、百丈の大智禪師の時より始めて禪僧は、律家に居せず、別に禪院をたてゝ威儀法則も律院に同じからず、百丈其の旨趣をのべて云く、末代は鈍根にして戒定慧兼學の人はありがたし、禪を行ずる人、若し律家に居せば、戒相の持犯開遮五第七聚等の種々の律法を、習學するとて一大事の因緣をば忘じぬべし、是の故に別に禪院を建立せりと云云。百丈の意も禪僧は戒を用ゆることなかれとにはあらず、然れば淸規の中に禪僧の威儀を、おさむべきやうを說かれたる事微細也。