酔古堂剣掃 / 集韻・詩酒の間にも自ら禪趣有り
雲衲高僧,泛水登山,或可藉以點綴;如必蓮座說法,則詩酒之間,自有禪趣,不敢學苦行頭陀,以作死灰。
新字:雲衲高僧,泛水登山,或可藉以点綴;如必蓮座説法,則詩酒之間,自有禅趣,不敢学苦行頭陀,以作死灰。
書き下し
雲衲の高僧、水に泛び山に登るは、或いは藉りて以て點綴す可し。如し必ず蓮座に法を說かば、則ち詩酒の間にも、自ら禪趣有り、敢へて苦行頭陀を學びて、以て死灰と作らず。
現代語訳
雲のように行脚する高僧が、水に舟を浮かべ山に登る姿は、あるいは景色の彩りとして借りてもよいでしょう。しかし、もし必ず蓮の台座に座って仏法を説かなければならないというのなら、詩や酒のあいだにもおのずと禅の趣があるのですから、あえて苦行の頭陀僧のまねをして、火の消えた灰のようになったりはしません。
解説
堅苦しい修行でなく、詩酒の中にも禅の趣はあると言う一則です。雲衲は雲のように各地を行脚する僧、衲は僧衣のことです。点綴は景色にほどよく彩りを添えることです。高僧が山水に遊ぶ姿は風景を引き立てますが、筆者はわざわざ蓮座に座って説法を聞く必要はないと言います。頭陀は衣食住への欲を捨てて修行する苦行僧のことです。死灰は『荘子』に見える言葉で、火の消えた灰のように心を殺した状態を言います。ありのままの暮らしの中にこそ悟りの趣がある、という明代の文人らしい禅観が表れています。心の修養は、特別な場所でなく、日々の楽しみの中でも積めるものでしょう。
この章句が説くこと
禅詩酒閑適修養風雅
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