夢中問答集 / 『夢中問答集』万事の中の工夫と工夫の中の万事
問萬事の中に工夫をなす人あり、工夫の中に萬事をなす人ありと申すは、何にとかはれることやらん。 答工夫と申す事は唐土の世俗のことばなり。日本にいとまといへる語に同じ一切のしわざに通ぜり。耕作は農人の工夫なり。造作は番匠の工夫なり。かやうの俗言によせて道人の佛法を行ずる工夫と名けたり。本分の工夫をなす人萬事の中工夫の中とへだつべきことなし。然れども初心の學者についてしばらくかやうの義あり。向道の志のあさき人は世間の萬事を正として、其の中に時を定めて坐禪するを日課とせり。今の叢林に四時の坐禪と申すも二百年よりこのかた此の式を始めたり。上古は禪僧とて或は樹下石上に居し、或は叢林に首べをあつめし人、皆此の一大事のためなりし故に、各寢食をわすれて二六時中工夫ならざる時節なし。末代になれる故に一大事のためとはなけれ共父母の命によりて心ならず僧形になれる人もあり。或は世間にわしれば心くるしき事をのがれんために寺に入れる人もあり。かやうの人もさすがに前世の宿習あるによりて心ならず僧形にはなれる事なれば、ひたすら坐禪をせじとまでは思はじなれども、まめやかなる道心もなき故に飯を食し、茶をのむ時は、食欲に障られて佛道をわする經をよみ、呪をみつる時は事の行にうばはれて本分にそむきぬ。さならぬいたづら事もまじはる程に本分の工夫をばなさずして、いたづらに一生をすごしぬべし。かやうの人のために方便をまうけて四時の坐禪とて規式を定めたり。四時の外は工夫をやめよとにはあらず。されば實に道心ある人は、今は坐禪の時ならずとて、いたづらに光陰をわたる事あるべからず。喫飯著衣看經誦呪東司にゆき、後架にいたる一切の所作所爲の處、衆に交りて禮をなし。人に對して物語りする時も本分の工夫をわすれざる人あり。かやうなるをば萬事の中に工夫をなす人と申すべし。これは萬事を正として其の中に時を定めて坐禪をする人よりもまされりといへ共、いかにも萬事と工夫と差別せる故に、やゝもすれば萬事にうばはれて工夫をわする思ひあるべし。是れ卽ち心外に萬法を見る故なり。古人の云く、山河大地森羅萬象悉く是れ自己なり。若し能く此の旨を得ぬれば工夫の外に萬事なし。工夫の中に衣を著し飯を食し、工夫の中に行住坐臥し、工夫の中に見聞覺知し、工夫の中に喜怒哀樂す。若しよくかやうならば工夫の中に萬事をなす人と申すべし。是れ卽ち無工夫の工夫無用心の用心なり。かやうに用心する人は憶忘ともに我が工夫なり寤寐も亦へだてあるべからず。古人の云く、苦樂逆順道その中にあり。又云く萬般に此道を存すと云云。皆是此の意なり。たとひ此の分を得たりとも猶是れ功勳邊の事なり。まさしく祖宗に契ひ得たる人にはあらず。
新字:問万事の中に工夫をなす人あり、工夫の中に万事をなす人ありと申すは、何にとかはれることやらん。 答工夫と申す事は唐土の世俗のことばなり。日本にいとまといへる語に同じ一切のしわざに通ぜり。耕作は農人の工夫なり。造作は番匠の工夫なり。かやうの俗言によせて道人の仏法を行ずる工夫と名けたり。本分の工夫をなす人万事の中工夫の中とへだつべきことなし。然れども初心の学者についてしばらくかやうの義あり。向道の志のあさき人は世間の万事を正として、其の中に時を定めて坐禅するを日課とせり。今の叢林に四時の坐禅と申すも二百年よりこのかた此の式を始めたり。上古は禅僧とて或は樹下石上に居し、或は叢林に首べをあつめし人、皆此の一大事のためなりし故に、各寝食をわすれて二六時中工夫ならざる時節なし。末代になれる故に一大事のためとはなけれ共父母の命によりて心ならず僧形になれる人もあり。或は世間にわしれば心くるしき事をのがれんために寺に入れる人もあり。かやうの人もさすがに前世の宿習あるによりて心ならず僧形にはなれる事なれば、ひたすら坐禅をせじとまでは思はじなれども、まめやかなる道心もなき故に飯を食し、茶をのむ時は、食欲に障られて仏道をわする経をよみ、呪をみつる時は事の行にうばはれて本分にそむきぬ。さならぬいたづら事もまじはる程に本分の工夫をばなさずして、いたづらに一生をすごしぬべし。かやうの人のために方便をまうけて四時の坐禅とて規式を定めたり。四時の外は工夫をやめよとにはあらず。されば実に道心ある人は、今は坐禅の時ならずとて、いたづらに光陰をわたる事あるべからず。喫飯著衣看経誦呪東司にゆき、後架にいたる一切の所作所為の処、衆に交りて礼をなし。人に対して物語りする時も本分の工夫をわすれざる人あり。かやうなるをば万事の中に工夫をなす人と申すべし。これは万事を正として其の中に時を定めて坐禅をする人よりもまされりといへ共、いかにも万事と工夫と差別せる故に、やゝもすれば万事にうばはれて工夫をわする思ひあるべし。是れ即ち心外に万法を見る故なり。古人の云く、山河大地森羅万象悉く是れ自己なり。若し能く此の旨を得ぬれば工夫の外に万事なし。工夫の中に衣を著し飯を食し、工夫の中に行住坐臥し、工夫の中に見聞覚知し、工夫の中に喜怒哀楽す。若しよくかやうならば工夫の中に万事をなす人と申すべし。是れ即ち無工夫の工夫無用心の用心なり。かやうに用心する人は憶忘ともに我が工夫なり寤寐も亦へだてあるべからず。古人の云く、苦楽逆順道その中にあり。又云く万般に此道を存すと云云。皆是此の意なり。たとひ此の分を得たりとも猶是れ功勲辺の事なり。まさしく祖宗に契ひ得たる人にはあらず。
書き下し
問萬事の中に工夫をなす人あり、工夫の中に萬事をなす人ありと申すは、何にとかはれることやらん。 答工夫と申す事は唐土の世俗のことばなり。日本にいとまといへる語に同じ一切のしわざに通ぜり。耕作は農人の工夫なり。造作は番匠の工夫なり。かやうの俗言によせて道人の佛法を行ずる工夫と名けたり。本分の工夫をなす人萬事の中工夫の中とへだつべきことなし。然れども初心の學者についてしばらくかやうの義あり。向道の志のあさき人は世間の萬事を正として、其の中に時を定めて坐禪するを日課とせり。今の叢林に四時の坐禪と申すも二百年よりこのかた此の式を始めたり。上古は禪僧とて或は樹下石上に居し、或は叢林に首べをあつめし人、皆此の一大事のためなりし故に、各寢食をわすれて二六時中工夫ならざる時節なし。末代になれる故に一大事のためとはなけれ共父母の命によりて心ならず僧形になれる人もあり。或は世間にわしれば心くるしき事をのがれんために寺に入れる人もあり。かやうの人もさすがに前世の宿習あるによりて心ならず僧形にはなれる事なれば、ひたすら坐禪をせじとまでは思はじなれども、まめやかなる道心もなき故に飯を食し、茶をのむ時は、食欲に障られて佛道をわする經をよみ、呪をみつる時は事の行にうばはれて本分にそむきぬ。さならぬいたづら事もまじはる程に本分の工夫をばなさずして、いたづらに一生をすごしぬべし。かやうの人のために方便をまうけて四時の坐禪とて規式を定めたり。四時の外は工夫をやめよとにはあらず。されば實に道心ある人は、今は坐禪の時ならずとて、いたづらに光陰をわたる事あるべからず。喫飯著衣看經誦呪東司にゆき、後架にいたる一切の所作所爲の處、衆に交りて禮をなし。人に對して物語りする時も本分の工夫をわすれざる人あり。かやうなるをば萬事の中に工夫をなす人と申すべし。これは萬事を正として其の中に時を定めて坐禪をする人よりもまされりといへ共、いかにも萬事と工夫と差別せる故に、やゝもすれば萬事にうばはれて工夫をわする思ひあるべし。是れ卽ち心外に萬法を見る故なり。古人の云く、山河大地森羅萬象悉く是れ自己なり。若し能く此の旨を得ぬれば工夫の外に萬事なし。工夫の中に衣を著し飯を食し、工夫の中に行住坐臥し、工夫の中に見聞覺知し、工夫の中に喜怒哀樂す。若しよくかやうならば工夫の中に萬事をなす人と申すべし。是れ卽ち無工夫の工夫無用心の用心なり。かやうに用心する人は憶忘ともに我が工夫なり寤寐も亦へだてあるべからず。古人の云く、苦樂逆順道その中にあり。又云く萬般に此道を存すと云云。皆是此の意なり。たとひ此の分を得たりとも猶是れ功勳邊の事なり。まさしく祖宗に契ひ得たる人にはあらず。
現代語訳
問:万事のなかで工夫をする人もいれば、工夫のなかで万事をなす人もいると言うのは、どういうことか。 答:工夫という言葉は中国の俗語で、日本語の「いとま」にあたり、あらゆる働きに通じる。耕作は農民の工夫、普請は大工の工夫である。こうした俗語を借りて、道を行じる人が仏法を修める工夫と呼んだのである。本来の自己を究める工夫をする人にとっては、万事の中だの工夫の中だのと分け隔てすることはない。しかし初心の学人のために、仮にこのような区別がある。道を求める志の浅い人は、世間のことを主とし、その中で時間を決めて坐禅するのを日課にする。今の禅寺で四時の坐禅というのも、二百年ほど前からこの形式が始まった。昔の禅僧は、ある者は樹下や石の上に住み、ある者は寺に集まったが、みなこの一大事のためだったので、寝食を忘れ一日中工夫しない時がなかった。末世になると、一大事のためでなく、親の命令で心ならず僧になった人もいれば、世間で暮らすのがつらくて逃れるために寺に入った人もいる。そういう人も前世からの習いがあって僧形になったのだから、まったく坐禅をしまいとまでは思わないが、真剣な道心がないので、飯を食い茶を飲むときは食欲に妨げられて仏道を忘れ、経を読み呪を唱えるときは作法に気をとられて本分にそむく。ほかの無益なことも交わるので、本来の工夫をしないまま一生を空しく過ごしてしまう。そういう人のために方便として四時の坐禅という規則を定めた。四時以外は工夫をやめよという意味ではない。だから本当に道心のある人は、今は坐禅の時間ではないと言って時を空しく過ごすことはない。食事、着替え、読経、便所に行くとき、あらゆる所作のなかで、人に交わって礼をするときも、人と話すときも、本分の工夫を忘れない人がいる。こういう人を万事の中に工夫をする人と言うべきである。これは世間のことを主として時を決めて坐禅する人よりまさっているが、それでも万事と工夫とを分けているので、ともすれば万事に心を奪われて工夫を忘れることがある。心の外に万物を見ているからである。古人は「山河大地、森羅万象はことごとく自己である」と言った。この趣旨を会得すれば、工夫の外に万事はない。工夫のなかで衣を着、飯を食べ、工夫のなかで行住坐臥し、見聞し、喜怒哀楽する。こうであれば、工夫の中に万事をなす人と言うべきである。これが工夫なき工夫、用心なき用心である。このように心を用いる人は、思い出すときも忘れるときも、すべて自分の工夫であり、目覚めているときも眠っているときも隔てがない。古人が「苦楽も順境逆境も、道はその中にある」「あらゆるところにこの道が存する」と言うのも、すべてこの意味である。しかしここまで得たとしても、なお功を積んだ段階のことであり、祖師の心にぴったりかなった人とはいえない。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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