夢中問答集 / 『夢中問答集』趙州の無と中峰の工夫
問大慧禪師等の諸々の知識の趙州の無の字をあたへ給へるは、皆本古則のまゝに擧て看よとしめし給へり。しかるを近來唐土の明匠中峯和尙、本古則の上に語を著て、趙州なにゝ因てかこの無の字をいふとしめされたり。此の意如何。 答いにしへの學者道のために心を發すことあさからず。是の故に身の苦みをわすれ、路の遠きをはゞからず。諸方に到りて知識に參す。宗匠これを愍みて一言半句をしめす。皆な是れ本分の直示なり。其の意言句の上にあるにあらず。然ちば卽ち利根の學者は言外に旨をさとる。何ぞ更に他の言句の上において、とかくの論にわたらんや。たとひ鈍根にして、しばらく言下にとゞこほる人も、其のしめすところの言句鐵橛子のごとくなれば、情識を以て推度することあたはず。しかれ共道心堅固なる故に、其の大疑團胸中にさかりて、寢をわすれ、飡をわすれたり。或は一兩日を經て後、この大疑破れたる人もありき。或は一兩月乃至十年二十年の後、破れたる人もありき。宿習の厚薄によりて遲速ことなりといへ共、一生の內につひに破れざる人はなかりき。古人の大疑の下に大悟ありといへるは、此の謂れなり。かゝりし故に、古は知識の方より我が語を公案にして、提撕せよとすゝめたることもなし。我が語をうたがへといへる事もなし。うたがふ事なかれとも亦いはず。今時の人は宿習も厚からず。道心も深からず。是の故に知識の一言を聞く時、或は識情を以て推度してさとり得たる思をなしてさてやみぬ。或は最鈍にして推量もめぐらぬ者は退屈す。これをあはれむ故に圓悟大慧よりこのかた公案提撕の方便をまうけ給へり。近來の學者道心いよ〱うすくなる故に、おのれが大疑の下に猛烈の精彩をつくることあたはず。かたのごとく公案提撕となづけて、古人の話頭をみる人もたゞ他人のあつらへたる物を持たるがごとくにして、あかしくらすを日用の工夫と思へり。是の故に中峯和尙、人を激勵して大疑團をおこさしむる方便をまうけ給へり。僧ありて趙州和尙に問て云く、狗子に佛性ありやいなや。趙州答て無といふ。此の僧若し此の言外に旨を得ば、疑團あるべからず。若し此の答話を悟らずば、趙州何の故にか無と答へ給へるといふ。疑なからんや。若し此の大疑おこらん人、其の疑ひの虞について此の語に參せばかならず大悟すべし。然れども、今時道のためにする志深からぬ人は、直下に悟入することのなきのみにあらず。大疑もまた生ぜず。蒙々として日をくらす。かやうの人もさすがに道行のよしなれば、結緣の分はあるべしといへども、直に悟入することはあるべからず。しかる故に中峯和尙老婆心切にして、趙州なにとしてか無とは答へられたると激勵し給へり。しかるを或は公案をば疑心をおこして悟るべきが故に、中峯和尙かやうに示し給へりといふ人あり。若しからば大慧禪師の意根の下に向つて卜度することなかれと示し給へるにそむかずや。或は古人の公案の上に更に話標をつけられたることあたらずといふ人あり。いづれも中峯和尙の手段をしらざる人なり。
新字:問大慧禅師等の諸々の知識の趙州の無の字をあたへ給へるは、皆本古則のまゝに挙て看よとしめし給へり。しかるを近来唐土の明匠中峯和尚、本古則の上に語を著て、趙州なにゝ因てかこの無の字をいふとしめされたり。此の意如何。 答いにしへの学者道のために心を発すことあさからず。是の故に身の苦みをわすれ、路の遠きをはゞからず。諸方に到りて知識に参す。宗匠これを愍みて一言半句をしめす。皆な是れ本分の直示なり。其の意言句の上にあるにあらず。然ちば即ち利根の学者は言外に旨をさとる。何ぞ更に他の言句の上において、とかくの論にわたらんや。たとひ鈍根にして、しばらく言下にとゞこほる人も、其のしめすところの言句鉄橛子のごとくなれば、情識を以て推度することあたはず。しかれ共道心堅固なる故に、其の大疑団胸中にさかりて、寝をわすれ、飡をわすれたり。或は一両日を経て後、この大疑破れたる人もありき。或は一両月乃至十年二十年の後、破れたる人もありき。宿習の厚薄によりて遅速ことなりといへ共、一生の内につひに破れざる人はなかりき。古人の大疑の下に大悟ありといへるは、此の謂れなり。かゝりし故に、古は知識の方より我が語を公案にして、提撕せよとすゝめたることもなし。我が語をうたがへといへる事もなし。うたがふ事なかれとも亦いはず。今時の人は宿習も厚からず。道心も深からず。是の故に知識の一言を聞く時、或は識情を以て推度してさとり得たる思をなしてさてやみぬ。或は最鈍にして推量もめぐらぬ者は退屈す。これをあはれむ故に円悟大慧よりこのかた公案提撕の方便をまうけ給へり。近来の学者道心いよ〱うすくなる故に、おのれが大疑の下に猛烈の精彩をつくることあたはず。かたのごとく公案提撕となづけて、古人の話頭をみる人もたゞ他人のあつらへたる物を持たるがごとくにして、あかしくらすを日用の工夫と思へり。是の故に中峯和尚、人を激励して大疑団をおこさしむる方便をまうけ給へり。僧ありて趙州和尚に問て云く、狗子に仏性ありやいなや。趙州答て無といふ。此の僧若し此の言外に旨を得ば、疑団あるべからず。若し此の答話を悟らずば、趙州何の故にか無と答へ給へるといふ。疑なからんや。若し此の大疑おこらん人、其の疑ひの虞について此の語に参せばかならず大悟すべし。然れども、今時道のためにする志深からぬ人は、直下に悟入することのなきのみにあらず。大疑もまた生ぜず。蒙々として日をくらす。かやうの人もさすがに道行のよしなれば、結縁の分はあるべしといへども、直に悟入することはあるべからず。しかる故に中峯和尚老婆心切にして、趙州なにとしてか無とは答へられたると激励し給へり。しかるを或は公案をば疑心をおこして悟るべきが故に、中峯和尚かやうに示し給へりといふ人あり。若しからば大慧禅師の意根の下に向つて卜度することなかれと示し給へるにそむかずや。或は古人の公案の上に更に話標をつけられたることあたらずといふ人あり。いづれも中峯和尚の手段をしらざる人なり。
書き下し
問大慧禪師等の諸々の知識の趙州の無の字をあたへ給へるは、皆本古則のまゝに擧て看よとしめし給へり。しかるを近來唐土の明匠中峯和尙、本古則の上に語を著て、趙州なにゝ因てかこの無の字をいふとしめされたり。此の意如何。 答いにしへの學者道のために心を發すことあさからず。是の故に身の苦みをわすれ、路の遠きをはゞからず。諸方に到りて知識に參す。宗匠これを愍みて一言半句をしめす。皆な是れ本分の直示なり。其の意言句の上にあるにあらず。然ちば卽ち利根の學者は言外に旨をさとる。何ぞ更に他の言句の上において、とかくの論にわたらんや。たとひ鈍根にして、しばらく言下にとゞこほる人も、其のしめすところの言句鐵橛子のごとくなれば、情識を以て推度することあたはず。しかれ共道心堅固なる故に、其の大疑團胸中にさかりて、寢をわすれ、飡をわすれたり。或は一兩日を經て後、この大疑破れたる人もありき。或は一兩月乃至十年二十年の後、破れたる人もありき。宿習の厚薄によりて遲速ことなりといへ共、一生の內につひに破れざる人はなかりき。古人の大疑の下に大悟ありといへるは、此の謂れなり。かゝりし故に、古は知識の方より我が語を公案にして、提撕せよとすゝめたることもなし。我が語をうたがへといへる事もなし。うたがふ事なかれとも亦いはず。今時の人は宿習も厚からず。道心も深からず。是の故に知識の一言を聞く時、或は識情を以て推度してさとり得たる思をなしてさてやみぬ。或は最鈍にして推量もめぐらぬ者は退屈す。これをあはれむ故に圓悟大慧よりこのかた公案提撕の方便をまうけ給へり。近來の學者道心いよ〱うすくなる故に、おのれが大疑の下に猛烈の精彩をつくることあたはず。かたのごとく公案提撕となづけて、古人の話頭をみる人もたゞ他人のあつらへたる物を持たるがごとくにして、あかしくらすを日用の工夫と思へり。是の故に中峯和尙、人を激勵して大疑團をおこさしむる方便をまうけ給へり。僧ありて趙州和尙に問て云く、狗子に佛性ありやいなや。趙州答て無といふ。此の僧若し此の言外に旨を得ば、疑團あるべからず。若し此の答話を悟らずば、趙州何の故にか無と答へ給へるといふ。疑なからんや。若し此の大疑おこらん人、其の疑ひの虞について此の語に參せばかならず大悟すべし。然れども、今時道のためにする志深からぬ人は、直下に悟入することのなきのみにあらず。大疑もまた生ぜず。蒙々として日をくらす。かやうの人もさすがに道行のよしなれば、結緣の分はあるべしといへども、直に悟入することはあるべからず。しかる故に中峯和尙老婆心切にして、趙州なにとしてか無とは答へられたると激勵し給へり。しかるを或は公案をば疑心をおこして悟るべきが故に、中峯和尙かやうに示し給へりといふ人あり。若しからば大慧禪師の意根の下に向つて卜度することなかれと示し給へるにそむかずや。或は古人の公案の上に更に話標をつけられたることあたらずといふ人あり。いづれも中峯和尙の手段をしらざる人なり。
現代語訳
問:大慧禅師など諸々の師家が趙州の無の字を与えられたのは、みな古則の本文のままに挙げて看よと示された。それなのに近ごろ中国の名匠・中峰和尚は、もとの古則の上に語を加えて、趙州はなぜこの無の字を言ったのか、と示された。この意はどうか。 答:昔の学人は、道のために心を発すことが浅くなかった。だから身の苦しみを忘れ、路の遠さをいとわず、諸方に赴いて師に参じた。宗匠はこれをあわれんで一言半句を示した。みな本分の直示である。その意は言句の上にあるのではない。そうであれば、利根の学人は言外に旨を悟る。どうしてさらに他の言句の上で、あれこれ論ずることがあろうか。たとえ鈍根で、しばらく言下に滞る人でも、その示された言句は鉄の杭のようなものだから、情識で推し量ることができない。しかし道心が堅固であるから、その大疑団が胸中に盛んになって、寝るのも忘れ、食べるのも忘れた。あるいは一、二日を経た後、この大疑が破れた人もいた。あるいは一、二か月、さらには十年二十年の後に破れた人もいた。過去の習いの厚い薄いによって、遅い速いは異なるが、一生のうちについに破れなかった人はいなかった。古人が、大疑の下に大悟あり、と言うのはこのいわれである。そのようであったから、古は師家の方から、自分の語を公案にして提撕せよと勧めたことはない。自分の語を疑えと言ったこともない。疑うなとも言わなかった。今の人は過去の習いも厚くなく、道心も深くない。だから師の一言を聞くとき、あるいは識情で推し量って悟り得たつもりになり、それで終わってしまう。あるいはきわめて鈍くて推し量ることもできず、退屈する。これをあわれむから、円悟・大慧以来、公案提撕の方便が設けられた。近ごろの学人は道心がいよいよ薄くなったので、自分の大疑のもとで猛烈な精彩を尽くすことができない。型どおり公案提撕と称して古人の話頭を見る人も、ただ他人が注文した品を持っているようにして、日を明かし暮らすのを日々の工夫と思っている。このため中峰和尚は、人を激励して大疑団を起こさせる方便を設けられた。ある僧が趙州和尚に問うて言う。犬に仏性はあるでしょうか、ないでしょうか。趙州は答えて言う。無、と。この僧がもしこの言外に旨を得たなら、疑団はあるはずがない。もしこの答えの話を悟らなければ、趙州はなぜ無と答えられたのかと、疑いがないことがあろうか。もしこの大疑が起こった人が、その疑いのところでこの語に参ずるなら、必ず大悟するだろう。しかし今の時代、道のためにする志が深くない人は、直下に悟り入ることがないだけでなく、大疑も生じない。ぼんやりと日を暮らす。このような人も、さすがに道行をしているので、結縁の分はあるだろうが、直に悟り入ることはない。だから中峰和尚は老婆心切にして、趙州はなぜ無と答えられたのか、と激励されたのである。ところが、公案は疑心を起こして悟るものだから、中峰和尚はこのように示されたのだ、と言う人がいる。もしそうなら、大慧禅師が、意根の下に向かって推し量ってはならない、と示されたことにそむくのではないか。あるいは、古人の公案の上にさらに話標をつけたのは当たらない、と言う人がいる。どちらも中峰和尚の手だてを知らない人である。
解説

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