夢中問答集 / 『夢中問答集』多年の修行に効きめがない嘆き
問此の宗を信じて多年修行すれども、いまだしるしもなしとわぶる者のあり。或は一生の內に悟を開きなば申すに及ばず。若しゝからずは、たゞ一期の間身心を苦勞するばかりにて、當來も亦輪廻をまぬがるべからずと怖畏する人もあり。其の謂れあるにあらずや。 答久しく行すれ共、いまだ效しもなしと申すことは、何事のしるしのなきやらん。或は世間にはしりて名をもとめ、利をむさぼり、或は佛神に祈りて災をのぞき、福をぬがひ、或は內外典を學して智慧をのぞみ。或は祕密の法を行ふて悉地をあふぎ。或は藝能をはげみて、人にすぐれんことを思ひ。或は療治をほどこして病をいやさんとす。かやうの事にこそ效しの有り無しのいはれはあれ。禪門の宗旨はかゝる道理にはあらず。何事の效しぞや。古人の云く、此の一段の事は人々具足し。箇々圓成す。凡にありても減ぜず。聖にありても增せず。又云く、圓こと大虛に同じかけたることもなく、あまれることもなし。若し我れは佛法を行じて效しありと思はゞ、虛空にあまれる相を見るがごとし。我はいまだしるしなしと思はゞ、虛空にかけたる相を見るがごとし。若しかやうならば凡聖增減なしといへる佛祖の垂示皆虛言なるべし。又佛法を行ずとも若し悟りを開くことなくば、其の工夫いたづらなるべしと疑ふて、いまだ行じても見ずして、かねて退屈する人は愚の中の愚なり。若しさやうの疑を起さば、たゞ佛法のみにあらず。世間の凡夫のしわざ何事か。かねて治定せるや、されども望みをかけてかなひがたき事までも、もしや〱と祕計をめぐらし身心をくるしむる人もあるぞかし。いまだ佛法を行じても見ずして退屈する人は業力の深くして佛法の志のいるかせなる故なり。佛法を行ずるだにも悟ることやなからんと疑はしきに退屈して、一生をすごしなば、當來には何にとなるべきや。我れと自ら行ずるだにも效しなくば他人をやとふて悟を開くべしや。若し他人の力にて悟りをひらく事ならば、十方界に遍滿し給へる佛菩薩いまゝで衆生を迷界に輪轉せしむることあらんや。
新字:問此の宗を信じて多年修行すれども、いまだしるしもなしとわぶる者のあり。或は一生の内に悟を開きなば申すに及ばず。若しゝからずは、たゞ一期の間身心を苦労するばかりにて、当来も亦輪廻をまぬがるべからずと怖畏する人もあり。其の謂れあるにあらずや。 答久しく行すれ共、いまだ効しもなしと申すことは、何事のしるしのなきやらん。或は世間にはしりて名をもとめ、利をむさぼり、或は仏神に祈りて災をのぞき、福をぬがひ、或は内外典を学して智慧をのぞみ。或は秘密の法を行ふて悉地をあふぎ。或は芸能をはげみて、人にすぐれんことを思ひ。或は療治をほどこして病をいやさんとす。かやうの事にこそ効しの有り無しのいはれはあれ。禅門の宗旨はかゝる道理にはあらず。何事の効しぞや。古人の云く、此の一段の事は人々具足し。箇々円成す。凡にありても減ぜず。聖にありても增せず。又云く、円こと大虚に同じかけたることもなく、あまれることもなし。若し我れは仏法を行じて効しありと思はゞ、虚空にあまれる相を見るがごとし。我はいまだしるしなしと思はゞ、虚空にかけたる相を見るがごとし。若しかやうならば凡聖增減なしといへる仏祖の垂示皆虚言なるべし。又仏法を行ずとも若し悟りを開くことなくば、其の工夫いたづらなるべしと疑ふて、いまだ行じても見ずして、かねて退屈する人は愚の中の愚なり。若しさやうの疑を起さば、たゞ仏法のみにあらず。世間の凡夫のしわざ何事か。かねて治定せるや、されども望みをかけてかなひがたき事までも、もしや〱と秘計をめぐらし身心をくるしむる人もあるぞかし。いまだ仏法を行じても見ずして退屈する人は業力の深くして仏法の志のいるかせなる故なり。仏法を行ずるだにも悟ることやなからんと疑はしきに退屈して、一生をすごしなば、当来には何にとなるべきや。我れと自ら行ずるだにも効しなくば他人をやとふて悟を開くべしや。若し他人の力にて悟りをひらく事ならば、十方界に遍満し給へる仏菩薩いまゝで衆生を迷界に輪転せしむることあらんや。
書き下し
問此の宗を信じて多年修行すれども、いまだしるしもなしとわぶる者のあり。或は一生の內に悟を開きなば申すに及ばず。若しゝからずは、たゞ一期の間身心を苦勞するばかりにて、當來も亦輪廻をまぬがるべからずと怖畏する人もあり。其の謂れあるにあらずや。 答久しく行すれ共、いまだ效しもなしと申すことは、何事のしるしのなきやらん。或は世間にはしりて名をもとめ、利をむさぼり、或は佛神に祈りて災をのぞき、福をぬがひ、或は內外典を學して智慧をのぞみ。或は祕密の法を行ふて悉地をあふぎ。或は藝能をはげみて、人にすぐれんことを思ひ。或は療治をほどこして病をいやさんとす。かやうの事にこそ效しの有り無しのいはれはあれ。禪門の宗旨はかゝる道理にはあらず。何事の效しぞや。古人の云く、此の一段の事は人々具足し。箇々圓成す。凡にありても減ぜず。聖にありても增せず。又云く、圓こと大虛に同じかけたることもなく、あまれることもなし。若し我れは佛法を行じて效しありと思はゞ、虛空にあまれる相を見るがごとし。我はいまだしるしなしと思はゞ、虛空にかけたる相を見るがごとし。若しかやうならば凡聖增減なしといへる佛祖の垂示皆虛言なるべし。又佛法を行ずとも若し悟りを開くことなくば、其の工夫いたづらなるべしと疑ふて、いまだ行じても見ずして、かねて退屈する人は愚の中の愚なり。若しさやうの疑を起さば、たゞ佛法のみにあらず。世間の凡夫のしわざ何事か。かねて治定せるや、されども望みをかけてかなひがたき事までも、もしや〱と祕計をめぐらし身心をくるしむる人もあるぞかし。いまだ佛法を行じても見ずして退屈する人は業力の深くして佛法の志のいるかせなる故なり。佛法を行ずるだにも悟ることやなからんと疑はしきに退屈して、一生をすごしなば、當來には何にとなるべきや。我れと自ら行ずるだにも效しなくば他人をやとふて悟を開くべしや。若し他人の力にて悟りをひらく事ならば、十方界に遍滿し給へる佛菩薩いまゝで衆生を迷界に輪轉せしむることあらんや。
現代語訳
問:この宗を信じて多年修行しても、まだ効きめがないと嘆く者がいる。あるいは、一生のうちに悟りを開けるならよいが、もしそうでなければ、ただ一生のあいだ身心を苦労させるだけで、来世もまた輪廻を免れられないと恐れる人もいる。その言い分には、理があるのではないか。 答:長く修行してもまだ効きめがない、というのは、何の効きめがないのか。世間に走って名を求め利をむさぼり、あるいは仏や神に祈って災いを除き福を願い、あるいは内典・外典を学んで智慧を望み、あるいは秘密の法を行って悉地を仰ぎ、あるいは芸能に励んで人にすぐれようと思い、あるいは治療を施して病を癒そうとする。こうしたことにこそ、効きめがある、ないというわけがある。禅門の宗旨はそのような道理ではない。何の効きめだというのか。古人は言う。この一段の事は、人々がみな具え、一人ひとりに完成している。凡にあっても減らず、聖にあっても増えない、と。また言う。円かなことは大虚に等しく、欠けたこともなく余ったこともない、と。もし自分は仏法を行って効きめがあったと思うなら、虚空に余った相を見るようなものだ。自分はまだ効きめがないと思うなら、虚空に欠けた相を見るようなものだ。もしこのようなら、凡聖に増減なし、という仏祖の垂示は、みな虚言になってしまう。また、仏法を行っても、もし悟りを開くことがなければ、その工夫はむだになるだろうと疑って、まだ行じてもみないうちから、あらかじめ嫌気がさす人は、愚かな中でもいちばん愚かである。もしそのような疑いを起こすなら、仏法だけではない。世間の凡夫のしわざの何事を、あらかじめ確かめているだろうか。それでも、望みをかけてかなえがたいことまでも、もしやもしやと秘策をめぐらして、身心を苦しめる人もいるではないか。まだ仏法を行じてもみないで嫌気がさす人は、業力が深く、仏法への志が軽薄であるからである。仏法を行ってさえ悟ることがなかろうかと疑わしく思って嫌気がさし、一生を過ごしたなら、来世にはどうなるのか。自分で行じてさえ効きめがないのに、他人を雇って悟りを開けるだろうか。もし他人の力で悟りを開けることなら、十方世界に遍く満ちておられる仏菩薩が、今まで衆生を迷いの世界に輪廻させておくことがあろうか。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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