夢中問答集 / 『夢中問答集』世情があっても工夫を捨てない
問世情の上にうかべる喜怒憎愛のやまぬ程は、ひとへに此の念を對治することを心にかけて、かやうの凡情皆やみて後に、始めて本分の工夫をばなすべきやらん。 答たま〱人界の生をうけて、あひがたき佛法にあひながら、今生にこれを明らめずば何れの生をか待つべきや。人の命は出入の息をたのみがたし。暫時なりとも世事に心をうつさんやと、かやうに志をはげます人は世情にひかれて工夫をわするゝことあるべからず。たとひ境界にあふ時、世情の起る事あれども、其の憎愛の念の起る所について猛烈に工夫をなす故に、憎愛の念もなか〱修行の力となるべし。しかれども道心の深切ならぬ故に、順逆の緣に轉せられて一向に工夫をわするゝ人のために、先づ淺近の道理にて世情をやはらぐることをすゝむるなり。さればとて先づ此世情をつくしはてて、然うして後に始めて本分の修行をなすべしとにはあらず。羅漢果を證せる人は順逆の緣にあふても、憎愛の念は起らずといへども、これを得法の人とは名けず。薄地の凡夫より悟入する人は喜怒の情はいまだつきざれども、これをば得法の人と名けたり。されば先づ世情をつくして後に、悟るべしとは申すべからず。妄情の起る時、これをやはらぐる道理を思ひ出したる處にも、本分の工夫をば捨つべからず。道心親切なる人は寢事をもわすれ、食することをもわするといへり。かやうの人は時々は困ずることもあり。飢たることもあれども、工夫の中にやすみ、工夫の中に食する故に、寢食の時もさまたげなし。それまでの道心はなき人の飢をしのび、睡りをたへぬれば、身もつかれ病も起りて、なか〱道行の障となる故に、飢をやめんために物を食し、身をやすめんために枕をせよとすゝむれども、寢食の時はしばらく工夫をなすことなかれとにはあらず。古人の云く、行の時は行の處を看取せよ。坐の時は坐の處を看取せよ。臥の時は臥の所を看取せよ。見聞の時は見聞の處を看取せよ。覺知の時は覺知の處を看取せよ。喜の時は喜の所を看取せよ。瞋の時は瞋の所を看取せよと云云。此は是れ古人苦口叮嚀の垂誡なり。かやうに修行せば悟らずといふ事なけん。
新字:問世情の上にうかべる喜怒憎愛のやまぬ程は、ひとへに此の念を対治することを心にかけて、かやうの凡情皆やみて後に、始めて本分の工夫をばなすべきやらん。 答たま〱人界の生をうけて、あひがたき仏法にあひながら、今生にこれを明らめずば何れの生をか待つべきや。人の命は出入の息をたのみがたし。暫時なりとも世事に心をうつさんやと、かやうに志をはげます人は世情にひかれて工夫をわするゝことあるべからず。たとひ境界にあふ時、世情の起る事あれども、其の憎愛の念の起る所について猛烈に工夫をなす故に、憎愛の念もなか〱修行の力となるべし。しかれども道心の深切ならぬ故に、順逆の縁に転せられて一向に工夫をわするゝ人のために、先づ浅近の道理にて世情をやはらぐることをすゝむるなり。さればとて先づ此世情をつくしはてて、然うして後に始めて本分の修行をなすべしとにはあらず。羅漢果を証せる人は順逆の縁にあふても、憎愛の念は起らずといへども、これを得法の人とは名けず。薄地の凡夫より悟入する人は喜怒の情はいまだつきざれども、これをば得法の人と名けたり。されば先づ世情をつくして後に、悟るべしとは申すべからず。妄情の起る時、これをやはらぐる道理を思ひ出したる処にも、本分の工夫をば捨つべからず。道心親切なる人は寝事をもわすれ、食することをもわするといへり。かやうの人は時々は困ずることもあり。飢たることもあれども、工夫の中にやすみ、工夫の中に食する故に、寝食の時もさまたげなし。それまでの道心はなき人の飢をしのび、睡りをたへぬれば、身もつかれ病も起りて、なか〱道行の障となる故に、飢をやめんために物を食し、身をやすめんために枕をせよとすゝむれども、寝食の時はしばらく工夫をなすことなかれとにはあらず。古人の云く、行の時は行の処を看取せよ。坐の時は坐の処を看取せよ。臥の時は臥の所を看取せよ。見聞の時は見聞の処を看取せよ。覚知の時は覚知の処を看取せよ。喜の時は喜の所を看取せよ。瞋の時は瞋の所を看取せよと云云。此は是れ古人苦口叮嚀の垂誡なり。かやうに修行せば悟らずといふ事なけん。
書き下し
問世情の上にうかべる喜怒憎愛のやまぬ程は、ひとへに此の念を對治することを心にかけて、かやうの凡情皆やみて後に、始めて本分の工夫をばなすべきやらん。 答たま〱人界の生をうけて、あひがたき佛法にあひながら、今生にこれを明らめずば何れの生をか待つべきや。人の命は出入の息をたのみがたし。暫時なりとも世事に心をうつさんやと、かやうに志をはげます人は世情にひかれて工夫をわするゝことあるべからず。たとひ境界にあふ時、世情の起る事あれども、其の憎愛の念の起る所について猛烈に工夫をなす故に、憎愛の念もなか〱修行の力となるべし。しかれども道心の深切ならぬ故に、順逆の緣に轉せられて一向に工夫をわするゝ人のために、先づ淺近の道理にて世情をやはらぐることをすゝむるなり。さればとて先づ此世情をつくしはてて、然うして後に始めて本分の修行をなすべしとにはあらず。羅漢果を證せる人は順逆の緣にあふても、憎愛の念は起らずといへども、これを得法の人とは名けず。薄地の凡夫より悟入する人は喜怒の情はいまだつきざれども、これをば得法の人と名けたり。されば先づ世情をつくして後に、悟るべしとは申すべからず。妄情の起る時、これをやはらぐる道理を思ひ出したる處にも、本分の工夫をば捨つべからず。道心親切なる人は寢事をもわすれ、食することをもわするといへり。かやうの人は時々は困ずることもあり。飢たることもあれども、工夫の中にやすみ、工夫の中に食する故に、寢食の時もさまたげなし。それまでの道心はなき人の飢をしのび、睡りをたへぬれば、身もつかれ病も起りて、なか〱道行の障となる故に、飢をやめんために物を食し、身をやすめんために枕をせよとすゝむれども、寢食の時はしばらく工夫をなすことなかれとにはあらず。古人の云く、行の時は行の處を看取せよ。坐の時は坐の處を看取せよ。臥の時は臥の所を看取せよ。見聞の時は見聞の處を看取せよ。覺知の時は覺知の處を看取せよ。喜の時は喜の所を看取せよ。瞋の時は瞋の所を看取せよと云云。此は是れ古人苦口叮嚀の垂誡なり。かやうに修行せば悟らずといふ事なけん。
現代語訳
問:世情の上に浮かぶ喜怒憎愛がやまないあいだは、ひとえにこの念を対治することを心にかけ、そうした凡情がすべてやんだ後に、初めて本分の工夫をすべきなのか。 答:せっかく人間界に生を受け、めったに会えない仏法に会いながら、今生でこれを明らめなければ、いつの世を待つというのか。人の命は出入りの息さえあてにならない。わずかの間でも世事に心を移してよいものか。そのように志を励ます人は、世情に引かれて工夫を忘れることはない。たとえ境界に会うときに世情が起こることがあっても、その憎愛の念が起こる所について猛烈に工夫をするので、憎愛の念もかえって修行の力となるだろう。しかし道心が切実でないために、順境・逆境の縁に転ぜられて、まったく工夫を忘れてしまう人のために、まず浅近の道理で世情を和らげることを勧めるのである。だからといって、まずこの世情を尽くし終えて、その後に初めて本分の修行をせよというのではない。羅漢果を証した人は、順境・逆境の縁に会っても憎愛の念は起こらないというが、これを法を得た人とは呼ばない。薄地の凡夫から悟り入る人は、喜怒の情がまだ尽きないが、これを法を得た人と呼ぶ。だから、まず世情を尽くして後に悟れ、と言ってはならない。妄情が起こったとき、それを和らげる道理を思い出したところでも、本分の工夫を捨ててはならない。道心の切実な人は、寝ることも忘れ、食べることも忘れるという。このような人は、ときには疲れることもあり、飢えることもあるが、工夫の中で休み、工夫の中で食べるので、寝るときも食べるときも妨げにならない。そこまでの道心がない人が、飢えをこらえ眠りに耐えれば、身も疲れ病も起こって、かえって修行の障りとなるので、飢えをやめるために物を食べ、身を休めるために枕をせよと勧めるのだが、寝食のときはしばらく工夫をするな、というのではない。古人は言う。歩くときは歩く所を見て取れ。坐るときは坐る所を見て取れ。臥すときは臥す所を見て取れ。見聞きするときは見聞きする所を見て取れ。覚知するときは覚知する所を見て取れ。喜ぶときは喜ぶ所を見て取れ。怒るときは怒る所を見て取れ、と。これは古人が苦しい口ぶりで丁寧に与えた戒めである。このように修行すれば、悟らないということはないだろう。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
夢中問答集・『夢中問答集』万事の中の工夫と工夫の中の万事問萬事の中に工夫をなす人あり、工夫の中に萬事をなす人ありと申すは、何にとかはれることやらん。 答工夫と申す事は唐土の世俗のことばなり。日本にいとまといへる語に同じ一切のしわざに通ぜり。耕作は農人の工夫なり。造作は番匠の工夫なり。かやうの俗言によせて道人の佛法を行ずる工夫と名けたり。本分の工夫をなす人萬事の中工夫の中とへだつべきことなし。然れども初心の學者についてしばらくかやうの義あり。向道の志のあさき人は世間の萬事を正として、其の中に時を定めて坐禪するを日課とせり。今の叢林に四時の坐禪と申すも二百年よりこのかた此の式を始めたり。上古は禪僧とて或は樹下石上に居し、或は叢林に首べをあつめし人、皆此の一大事のためなりし故に、各寢食をわすれて二六時中工夫ならざる時節なし。末代になれる故に一大事のためとはなけれ共父母の命によりて心ならず僧形になれる人もあり。或は世間にわしれば心くるしき事をのがれんために寺に入れる人もあり。かやうの人もさすがに前世の宿習あるによりて心ならず僧形にはなれる事なれば、ひたすら坐禪をせじとまでは思はじなれども、まめやかなる道心もなき故に飯を食し、茶をのむ時は、食欲に障られて佛道をわする經をよみ、呪をみつる時は事の行にうばはれて本分にそむきぬ。さならぬいたづら事もまじはる程に本分の工夫をばなさずして、いたづらに一生をすごしぬべし。かやうの人のために方便をまうけて四時の坐禪とて規式を定めたり。四時の外は工夫をやめよとにはあらず。されば實に道心ある人は、今は坐禪の時ならずとて、いたづらに光陰をわたる事あるべからず。喫飯著衣看經誦呪東司にゆき、後架にいたる一切の所作所爲の處、衆に交りて禮をなし。人に對して物語りする時も本分の工夫をわすれざる人あり。かやうなるをば萬事の中に工夫をなす人と申すべし。これは萬事を正として其の中に時を定めて坐禪をする人よりもまされりといへ共、いかにも萬事と工夫と差別せる故に、やゝもすれば萬事にうばはれて工夫をわする思ひあるべし。是れ卽ち心外に萬法を見る故なり。古人の云く、山河大地森羅萬象悉く是れ自己なり。若し能く此の旨を得ぬれば工夫の外に萬事なし。工夫の中に衣を著し飯を食し、工夫の中に行住坐臥し、工夫の中に見聞覺知し、工夫の中に喜怒哀樂す。若しよくかやうならば工夫の中に萬事をなす人と申すべし。是れ卽ち無工夫の工夫無用心の用心なり。かやうに用心する人は憶忘ともに我が工夫なり寤寐も亦へだてあるべからず。古人の云く、苦樂逆順道その中にあり。又云く萬般に此道を存すと云云。皆是此の意なり。たとひ此の分を得たりとも猶是れ功勳邊の事なり。まさしく祖宗に契ひ得たる人にはあらず。
-
夢中問答集・『夢中問答集』本分の題を忘れぬ修行問禪門には生佛以前を擧揚する故に、一心三密の觀行をも論ぜずと申すに、古來の禪宗の學者皆坐禪工夫をたしなみ、知識も亦修行用心の邪正をしめす事は何ぞや。 答詩をつくり歌をよむ人は、先づ其の題をよく心得べし。月の題をとりて花の事を案ぜばよろしからず。佛法も亦かくのごとし。禪宗に本分の事といへるは何の事ぞや。凡にありても減ぜず。聖にありても增せず。人々具足し、箇々圓成すといへり。此の本分の題をとりながら、我れは迷人なりと思ふて悟りをひらくべき修行を習はんとする人は本分の題にそむける人なり。たとひ詩歌の風情は心にうかばざれ共、月の題をとりたる人は花のことをば案せぬがごとく、本分の題を信ずる人、我れは迷人なりと執著して別に悟りを求むる事はあるべからず。しかれども、いまだ箇々圓成せる處を分明にうけがふことのなき程は、日來の迷悟を存し、凡聖をへだてつる妄情を放下して、或は自ら直下に參究し、或は知識に參ずさはあれども念佛を申して往生の行にあて、陀羅尼を誦して悉地をもとめ、乃至敎門の中にあかせる觀念をこらして、證理をまつには同じからず。かやうの人は本分の題をわすれぬ學者なり。古人悟道の機緣を見れば上代なりし故にや、直下に大悟することはなかりし人も、本分の題をば信ぜし故に本分にかなふべきため、工夫用心とて、人にたづね問へることはなし。たゞ直に問て云く、如何なるか是れ佛、如何なるか是れ禪、如何なるか是れ佛法的々の大意、如何なるか是れ祖師西來の意、如何なるか是れ諸佛出身の處と云云。學者の問もかやうに直問なり。知識の答も亦直答にして、或は卽信卽佛とこたへ、或は庭前柏樹子としめし。或は東山水上に行くといふ。宗師かやうに答ふる事、皆な是れ本分の直示なり。此の語を以て修行の資糧となさしめんためにはあらず。然れども學者若し鈍にして、知識の直示をあきらめざれば、彼のしめすところの話頭に額をついて、或は一兩日、或は一兩月、乃至五年十年も此の直示を參決せり其の間をば修行とも申しぬべし。されども敎家に解行證をたてゝ、諸の觀を修する用心には同じからず。敎外別傳といへる題目は此の謂れなり。今時の人多くは是れ此の題をわすれて、善知識にあふて修行用心をたづね問ふ知識たる人の中にも、學者のために修行用心をおしへらる。或は公案を人にあたふるも往生のために念佛を申し、悉地のために陀羅尼をみつるがごとく、此の公案を提撕して本分に到らしめんと思へり。この故に學者も各用心の體をかたりて勝劣をたくらへ、知識の言のかはれる處について是非を批判す。皆な是れ世俗の戯論なり。
-
夢中問答集・『夢中問答集』多年の修行に効きめがない嘆き問此の宗を信じて多年修行すれども、いまだしるしもなしとわぶる者のあり。或は一生の內に悟を開きなば申すに及ばず。若しゝからずは、たゞ一期の間身心を苦勞するばかりにて、當來も亦輪廻をまぬがるべからずと怖畏する人もあり。其の謂れあるにあらずや。 答久しく行すれ共、いまだ效しもなしと申すことは、何事のしるしのなきやらん。或は世間にはしりて名をもとめ、利をむさぼり、或は佛神に祈りて災をのぞき、福をぬがひ、或は內外典を學して智慧をのぞみ。或は祕密の法を行ふて悉地をあふぎ。或は藝能をはげみて、人にすぐれんことを思ひ。或は療治をほどこして病をいやさんとす。かやうの事にこそ效しの有り無しのいはれはあれ。禪門の宗旨はかゝる道理にはあらず。何事の效しぞや。古人の云く、此の一段の事は人々具足し。箇々圓成す。凡にありても減ぜず。聖にありても增せず。又云く、圓こと大虛に同じかけたることもなく、あまれることもなし。若し我れは佛法を行じて效しありと思はゞ、虛空にあまれる相を見るがごとし。我はいまだしるしなしと思はゞ、虛空にかけたる相を見るがごとし。若しかやうならば凡聖增減なしといへる佛祖の垂示皆虛言なるべし。又佛法を行ずとも若し悟りを開くことなくば、其の工夫いたづらなるべしと疑ふて、いまだ行じても見ずして、かねて退屈する人は愚の中の愚なり。若しさやうの疑を起さば、たゞ佛法のみにあらず。世間の凡夫のしわざ何事か。かねて治定せるや、されども望みをかけてかなひがたき事までも、もしや〱と祕計をめぐらし身心をくるしむる人もあるぞかし。いまだ佛法を行じても見ずして退屈する人は業力の深くして佛法の志のいるかせなる故なり。佛法を行ずるだにも悟ることやなからんと疑はしきに退屈して、一生をすごしなば、當來には何にとなるべきや。我れと自ら行ずるだにも效しなくば他人をやとふて悟を開くべしや。若し他人の力にて悟りをひらく事ならば、十方界に遍滿し給へる佛菩薩いまゝで衆生を迷界に輪轉せしむることあらんや。
-
夢中問答集・『夢中問答集』順境も逆境も輪廻のもと(一)問若人上根にして直に本分を悟りなば、境界とて障をなす物あるべからず。たとひ直にさとることはなくとも、道心堅固ならば境界にさへらるゝことなかるべし。しかれ共、下根の人は道心も堅固ならぬ故にたま〱佛法を信ずれども、名利の心もたへず。逆順の境も相侵す故に坐禪工夫純一ならず。かやうの人をすゝめて、先づ世情をやはらぐる方便はあるまじきやらん。 答境界に二種あり順と逆となり、我が心にかなへることをば順境界となづく。我が心にそむけることをば逆境界といへり。逆境界をばこれを憎み、順境界をばこれを愛す。愛によりて生をひき、憎みによりて死をうく。然らば卽ち順逆の境界は、倶に是れ生死輪廻の因緣なり。愚人はこれをしらず。我が心にあはざることをば厭ひ捨て、我が心にかなへる事のみをねがひ求む娑婆と、いへるは梵語なり。此には缺減と翻せり。此の世界に生ずる人は皆宿善うすき故に何事も心にかなふて滿足することあるまじき謂れなり。しかるを此の娑婆界にありながら、心にかなふ事を求むるは火の中に入れて涼しきことを求むるがごとし。何事も心にかなふ事を得んと思はゞ、速に娑婆を出離する計事をめぐらすべし。此の缺減せかいの中にして、心にかなふことを求むるほどに、朝夕に身心を苦勞して、つひには當來の惡果を感ず。古歌に云く、うかれたゞありはつまじき世の中に、心のとまる人もこそあれ。若し人此の理をしるならば此せかいに生れて、何事も心に叶はざるは諸人のために出離をすゝむる善知識なり。若し人心にかなふことを愛せずば、心にそむく事もあるべからず。然らば卽ち我をなやます者は外境にあらず。偏に是れ自心のとがなり。予昔田舍の小院に住せし時、共住みの僧の中に鬪諍をこのむ人ありき。有る時、此の僧來りて懺悔して云く、我にかゝる癖あり。如何か對治すべきや。予が云く、鬪諍をよくするやうをしりぬれば鬪諍の心はおこらぬなり。鬪諍をよくするやうを敎へ奉らん世間に兵さをよくする人は、先づ其敵の大將軍に目をかけて葉武者をばかへりみず、大將軍をだに打取りぬれば、葉武者は自然にほろぶる故なり。御邊の心にそむける敵人の中に、何れか其の大將軍なると目をかけて見らるべし。たとひ他人に罵られ打たれたりとも、それによりて地獄におつる事はあるべからず。かゝる惡緣にあふて起るところの一念の瞋恚は倶胝劫の善根を燒き失ふて、つひには我を地獄に墮すべし。しかれば我を損害する大將軍は他人にあらず。只是れ自心なり。鬪諍の心おこらん時、先づ此の心に目をかけて打取るべし。此の僧これを聞て落淚して出ぬ。其の後はひきかへて柔和の僧になりたりき。其の比かの小院いまだ溫室をつくらず。近隣に敎院のあるに往いて湯をばあびき。其の湯屋の搔器は竹の筒の五寸ばかりなる中に節をこめて、兩方にて湯をくむやうにつくれり。湯を多くくませじとの計ごとなり。
-
夢中問答集・『夢中問答集』愚かな者の坐禅は無益か問古人の云く、用心朦昧ならば坐禪無益なりと云云。然らば卽ち愚癡なる人の坐禪とて、壁に向つて坐するいたづらことゝ申す人あり。其の謂れありや。 答古人かやうにしめす事は、一大事のために志をはげます人の善知識にも參ぜず。たゞ坐禪となづけて蒙々として坐する人をすゝめて、其の用心を正しくなさんためなり。愚癡なる人は坐禪すること詮なしと申すにはあらず。用心くらき者は坐禪無益なりといふて、坐禪をばせずして愚癡のまゝにて日月を送る人は、何の益かあるべきや。佛法に入ること一世一時の熏修にあらず。今生に利根の姓を受て頓に悟る人は、前生朦昧にして坐禪したりし人なり。今生に朦昧にして坐禪する人は、當來かならず一聞千悟の人となるべし。或は云く坐禪は大事の所作なれば愚癡の身にはかなひがたし。經をよみ陀羅尼を誦し、念佛を申すことは事の行にてたやすければ、是は相應の行なるべしと云云。敎の中に云く、發心僻越しぬれば萬行從に施す。事行理行といへば一往の差別なり。何れの行なりとも用心あやまりぬれば、皆三界輪廻の業因なり。然らば卽ち大乘修行の用心たゞしき人は、其の中にして萬行をなせども錯なし。若し其の分なくば事理の行ともにいたづらなるべし。しかるを坐禪用心は大事なれば、先づ事の行を修せんといへるは偏案なり。坐禪を大事の行と思へるは、いまだ坐禪の玄旨をしらざる故なり。坐禪修行と申すことは、禪門ばかり用ふる事にあらす。顯密の諸宗にもあかせり。乃至小乘外道の法にもあり。坐禪といへる語は同じけれ共、其の旨趣各ことなり。小乘外道の坐禪は有漏無漏其の趣きことなれ共身を動ぜず。念をおこさじと修行する體はこれ同じ、淨土宗の坐禪は十六想觀等なり。盧山の遠法師等は此の行を專らにす。顯密の諸宗の坐禪かはれりといへども、各其の宗の深理を觀ずるを用心とす。末代になりて諸宗の坐禪大略はすたれたる故に、坐禪するは宗門の修行ばかりと思へるはあやまれり。宗門の坐禪と申は念をおさめ、身を動ぜじとするにもあらざれば、さやうに壁に向つて座して念をやむること大事なりともいふべからず。法理を觀ずることもあらざれば、我れは鈍根なる故に、法門の深理を習ふこと大事なりともいふべからず。財寶の入ることにもあらざれば、我れはまづしき故にかなひがたしともいふべからず。身力の入る事にもあらざれば、我は力弱ければ難議なりともいふべからず。塵勞の中には佛法なしともさだめねば、我れは俗人なる故に、修行の便りなしともいふべからず。燒香禮拜等の行は身を以てなす故に、其の身若し、餘の事をなす時は其の行かなはず。讀經誦呪念佛等の行は口を以てなす故に、別の事を談ずる時は、其の行じたる法理を觀ずることは意を以てなす故に、別事を思ふ時は其の觀はせられず。禪門の工夫は身を以てもなさず。口を以てもなさず。意を以てもなさず。何をか大事といふべきや。
-
夢中問答集・『夢中問答集』学解より先に修行せよ問初心の學者は法門の深理を解了して、其の解にまかせて修行するだにも猶たがふことありぬべし。しかるを學解をば制して、たゞ修行せよとすゝむるは僻事なりと申す人あり。其の謂れあるにあらずや。 答たとへば重病をうけたる人のごとし。若し先づ醫師にあふて醫書の才學を習ひきはめて、然ふして後に病を治せんと思はゞ、醫書の才學いまだ習ひ終へざるに病彌重くなりて、忽ちに命を失ふべし。然ればたゞ名醫にあふて自身の病相をかたれば、醫師其の病相を明かに分別して、或は一藥をあたへ、或は一灸をほどこす。彼の病者此の藥は何なる藥種を合せたりともしらず。此の灸は何の穴なりともわきまへず。たゞ醫師の說を信じて其の藥を服し、其の穴を灸すれば病の輕重によりて遲速はあれども、つひには其の病苦なをらずといふことなし。行道も亦かくのごとし。本分に契當せんために先づ種々の法門を習ひ學して、然して後に其の學解によりて、修行せんと思はゞ、人の命は百年の內を限れり。習ふべき法門は無量無邊なり。學ぶ所いまだつきざるに、其の命は已に終る。此の時日來の學解すべて益なし。茫然として業緣に引かれて輪廻をまぬがれず。是の故に禪門の宗師の學者にしめす事一言半句にすぎず。其の一言半句も修行用心のためにはあらず。直に本分をしめすのみなり。學者鈍根にしてたとひ直下に承當せざれども、これを公案として知解情量及ばざる處に向つて日夜に提撕すれば、時節到來して曠劫の無明一時に消滅すべし。