夢中問答集 / 『夢中問答集』学解より先に修行せよ
問初心の學者は法門の深理を解了して、其の解にまかせて修行するだにも猶たがふことありぬべし。しかるを學解をば制して、たゞ修行せよとすゝむるは僻事なりと申す人あり。其の謂れあるにあらずや。 答たとへば重病をうけたる人のごとし。若し先づ醫師にあふて醫書の才學を習ひきはめて、然ふして後に病を治せんと思はゞ、醫書の才學いまだ習ひ終へざるに病彌重くなりて、忽ちに命を失ふべし。然ればたゞ名醫にあふて自身の病相をかたれば、醫師其の病相を明かに分別して、或は一藥をあたへ、或は一灸をほどこす。彼の病者此の藥は何なる藥種を合せたりともしらず。此の灸は何の穴なりともわきまへず。たゞ醫師の說を信じて其の藥を服し、其の穴を灸すれば病の輕重によりて遲速はあれども、つひには其の病苦なをらずといふことなし。行道も亦かくのごとし。本分に契當せんために先づ種々の法門を習ひ學して、然して後に其の學解によりて、修行せんと思はゞ、人の命は百年の內を限れり。習ふべき法門は無量無邊なり。學ぶ所いまだつきざるに、其の命は已に終る。此の時日來の學解すべて益なし。茫然として業緣に引かれて輪廻をまぬがれず。是の故に禪門の宗師の學者にしめす事一言半句にすぎず。其の一言半句も修行用心のためにはあらず。直に本分をしめすのみなり。學者鈍根にしてたとひ直下に承當せざれども、これを公案として知解情量及ばざる處に向つて日夜に提撕すれば、時節到來して曠劫の無明一時に消滅すべし。
新字:問初心の学者は法門の深理を解了して、其の解にまかせて修行するだにも猶たがふことありぬべし。しかるを学解をば制して、たゞ修行せよとすゝむるは僻事なりと申す人あり。其の謂れあるにあらずや。 答たとへば重病をうけたる人のごとし。若し先づ医師にあふて医書の才学を習ひきはめて、然ふして後に病を治せんと思はゞ、医書の才学いまだ習ひ終へざるに病弥重くなりて、忽ちに命を失ふべし。然ればたゞ名医にあふて自身の病相をかたれば、医師其の病相を明かに分別して、或は一薬をあたへ、或は一灸をほどこす。彼の病者此の薬は何なる薬種を合せたりともしらず。此の灸は何の穴なりともわきまへず。たゞ医師の説を信じて其の薬を服し、其の穴を灸すれば病の軽重によりて遅速はあれども、つひには其の病苦なをらずといふことなし。行道も亦かくのごとし。本分に契当せんために先づ種々の法門を習ひ学して、然して後に其の学解によりて、修行せんと思はゞ、人の命は百年の内を限れり。習ふべき法門は無量無辺なり。学ぶ所いまだつきざるに、其の命は已に終る。此の時日来の学解すべて益なし。茫然として業縁に引かれて輪廻をまぬがれず。是の故に禅門の宗師の学者にしめす事一言半句にすぎず。其の一言半句も修行用心のためにはあらず。直に本分をしめすのみなり。学者鈍根にしてたとひ直下に承当せざれども、これを公案として知解情量及ばざる処に向つて日夜に提撕すれば、時節到来して曠劫の無明一時に消滅すべし。
書き下し
問初心の學者は法門の深理を解了して、其の解にまかせて修行するだにも猶たがふことありぬべし。しかるを學解をば制して、たゞ修行せよとすゝむるは僻事なりと申す人あり。其の謂れあるにあらずや。 答たとへば重病をうけたる人のごとし。若し先づ醫師にあふて醫書の才學を習ひきはめて、然ふして後に病を治せんと思はゞ、醫書の才學いまだ習ひ終へざるに病彌重くなりて、忽ちに命を失ふべし。然ればたゞ名醫にあふて自身の病相をかたれば、醫師其の病相を明かに分別して、或は一藥をあたへ、或は一灸をほどこす。彼の病者此の藥は何なる藥種を合せたりともしらず。此の灸は何の穴なりともわきまへず。たゞ醫師の說を信じて其の藥を服し、其の穴を灸すれば病の輕重によりて遲速はあれども、つひには其の病苦なをらずといふことなし。行道も亦かくのごとし。本分に契當せんために先づ種々の法門を習ひ學して、然して後に其の學解によりて、修行せんと思はゞ、人の命は百年の內を限れり。習ふべき法門は無量無邊なり。學ぶ所いまだつきざるに、其の命は已に終る。此の時日來の學解すべて益なし。茫然として業緣に引かれて輪廻をまぬがれず。是の故に禪門の宗師の學者にしめす事一言半句にすぎず。其の一言半句も修行用心のためにはあらず。直に本分をしめすのみなり。學者鈍根にしてたとひ直下に承當せざれども、これを公案として知解情量及ばざる處に向つて日夜に提撕すれば、時節到來して曠劫の無明一時に消滅すべし。
現代語訳
問:初心の学者は、法門の深い理を理解し、その理解にまかせて修行しても、なお誤ることがあるはずである。それなのに、学解を制して、ただ修行せよと勧めるのは僻事だと言う人がいる。そのわけがあるのではないか。 答:たとえば重い病を受けた人のようなものである。もしまず医師に会って医書の才学を習い極め、その後で病を治そうと思うなら、医書の才学をまだ習い終えないうちに病がますます重くなって、たちまち命を失うだろう。それより、ただ名医に会って自分の病の様子を語れば、医師がその病の様子を明らかに見分けて、ある時は一薬を与え、ある時は一灸をほどこす。その病人は、この薬がどんな薬種を合わせたものかも知らない。この灸がどのツボかもわきまえない。ただ医師の言葉を信じてその薬を服し、そのツボに灸をすえれば、病の軽重によって遅い早いはあっても、ついにその病苦が治らないということはない。道を行ずることもまたこのとおりである。本分にかなうために、まず種々の法門を習い学び、その後でその学解によって修行しようと思うなら、人の命は百年の内に限られる。習うべき法門は無量無辺である。学ぶところがまだ尽きないうちに、その命はすでに終わる。この時、これまでの学解はすべて役に立たない。茫然として業縁に引かれ、輪廻をまぬがれない。このために、禅門の宗師が学者に示すことは、一言半句にすぎない。その一言半句も、修行や心がけのためではない。直に本分を示すだけである。学者が鈍根で、たとえ直ちに承け当たることができなくても、これを公案として、知解や情量の及ばないところに向かって日夜提撕すれば、時節が到来して、はるかな昔からの無明が一時に消滅するだろう。
解説

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