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夢中問答集 / 『夢中問答集』他人の是非を見る前に問う者を見よ

問古人の云く、眞實修道の人は、他人の是と非をとかずと云云。此の語をば信ずれども、僧俗に對する時やゝもすれば、是非の念の起るをば如何か對治すべきや。 答眞實の道人の他人の是非をとかずといへることは、是非は實にあれ共、これを說かずと申すにはあらず。自他の相を見ざれば、是非のとくべきがなき故なり。三祖大師の云く、眞如法界には他もなく自もなし。敎中に云く、法性は大海のごとし。是非ありと說くべからずと云云。此の理に相應せざる故に自他の相あり。自他の相あるならば爭か是非を見ることなからんや。若し是非の相を見ば、たとひ口には解かずとも眞實修道の人にはあらず。然らば卽ち大乘の學者、他人の是非をとかじとせんよりは、たゞ自ら翻覆して看るべし。他人の是非をとく者はこれ誰ぞ。圓覺經に云く、四大を認めて自身の相とし、六塵の緣影を自心の相とす。此の經の意は凡夫の自己と思へるは眞實の自己にあらず。自己と思へる者の若しあやまりならば、他人とみるも亦あたらず。自他もし實ならずば、何れの是非をかとくべきや、よのつね道者とて他人の是非をばとかぬ人も自心において、善惡の相をわかち利鈍の品をたて、所解に淺深を論じ、修行に邪正をたくらぶ。かやうの人は直に無上菩提におもむくことあたはず。是の故に一切の是非を目にかくる事なかれとすゝめたり。一切の是非を放下して、自他の相をみずとも若いまだ父母未生前の本來の面目を見ずば、眞實の道人といふべからず。廻光返照して看るべし。自他身心の相をわかち、是非得失の念をうかぶる物は是れ何に物ぞ。昔南岳の讓和尙六祖に參ず。六祖他の來るを見て、問て云く、なに物か、かくのごとく來れる南岳、答ふることあたはずして退き給ひぬ。其後八年ありて始めて大悟す。再び六祖に參じて前の問を答て云く、一物に說似すれば、卽ちあたらずと云云。此の時始めて六祖の印證をうけ給ひき。南岳和尙の六祖に參じ給ひし時、一言の下に直に契當せられざる事は、鈍根なるに似たれ共、來る者は何に物ぞと問はれて、やがてつまりて歸り給へるは怜利なる故なり。かやうにならましかば、たとひ千生をふるとも大悟することあたはじ。今時鈍根の人來りて、佛法を問ふ時、かやうに佛法を問ふ者は、これ誰ぞといへば、或はもう〱として、日來の妄想を本として、某となのる者のあり。或は問ふ者は、是誰ぞと疑ふて見るべきかといふ者もあり。或は自心これ佛といへる語に隨つて解を生じて、眉をあげ、目をまじろかし、手をあげ、拳をさゝぐる者もあり。或は識心の實體なくして諸の形相をはなれたる處をとめて、南岳の說似一物卽不中と答へ給へる語にとりあはせて、上に攀仰なく下に己躬を絕すと答ふる者のあり。或はわづかに問あり。答あれば、皆外邊の事なりと心得て一喝を下す人もあり。或はかやうの種々の計較安排にあづからざる處を宗旨と思ふて、袖を拂つて便ち去る人もあり。若しかやうならば、たとひ彌勒下生に到るとも大悟することあたはじ。百丈の大智禪師上堂說法の終りには、たびごとに大衆とよび給ふ大衆、これを聞て首べを廻らす百丈の云く、これ何ぞ。時の人これを百丈下堂の句と名けたり。百丈かやうに示し給ふことは學者に工夫用心ををしへ給へるにもあらず。面々の見解を問ひ給ふにもあらず。畢竟して其の意何れの處にかある。若人直下に承當せば、曠劫の無明一時に滅すべし。昔亮座主といへる敎者ありき。經論を博覽し、義理を通達して徒を集めて、法を說く事年久し。有る時馬祖に參じて種々の問答あり。亮座主これをうけかはずして出で去る。馬祖卽ち座主とよび給ふ。座主首をめぐらす。馬祖の云く、是れ何ぞ其の時亮座主豁然として大悟す。此座主年來經論の義理を通達すといへ共、いまだ悟入の分なし。馬祖の是れ何ぞとしめし給ふ一言の下に大悟する事は何の故ぞや。まさにしるべし。其の所悟は經論の義理にあらざる事を一生の間、身心を苦勞して學解をはげますいとまをひるがへして、行住坐臥念起念滅の處について直下に參決せば、南岳亮座主のごとくなる悟入もなどかなかるべきやといとまおしく覺えたり。まして他人の是非を談じ、世間の名利をのみはしりて、いたづらに一生をすごす人をば、たま〱人身を受たるしるしありといはんや。

新字:問古人の云く、真実修道の人は、他人の是と非をとかずと云云。此の語をば信ずれども、僧俗に対する時やゝもすれば、是非の念の起るをば如何か対治すべきや。 答真実の道人の他人の是非をとかずといへることは、是非は実にあれ共、これを説かずと申すにはあらず。自他の相を見ざれば、是非のとくべきがなき故なり。三祖大師の云く、真如法界には他もなく自もなし。教中に云く、法性は大海のごとし。是非ありと説くべからずと云云。此の理に相応せざる故に自他の相あり。自他の相あるならば争か是非を見ることなからんや。若し是非の相を見ば、たとひ口には解かずとも真実修道の人にはあらず。然らば即ち大乗の学者、他人の是非をとかじとせんよりは、たゞ自ら翻覆して看るべし。他人の是非をとく者はこれ誰ぞ。円覚経に云く、四大を認めて自身の相とし、六塵の縁影を自心の相とす。此の経の意は凡夫の自己と思へるは真実の自己にあらず。自己と思へる者の若しあやまりならば、他人とみるも亦あたらず。自他もし実ならずば、何れの是非をかとくべきや、よのつね道者とて他人の是非をばとかぬ人も自心において、善悪の相をわかち利鈍の品をたて、所解に浅深を論じ、修行に邪正をたくらぶ。かやうの人は直に無上菩提におもむくことあたはず。是の故に一切の是非を目にかくる事なかれとすゝめたり。一切の是非を放下して、自他の相をみずとも若いまだ父母未生前の本来の面目を見ずば、真実の道人といふべからず。廻光返照して看るべし。自他身心の相をわかち、是非得失の念をうかぶる物は是れ何に物ぞ。昔南岳の譲和尚六祖に参ず。六祖他の来るを見て、問て云く、なに物か、かくのごとく来れる南岳、答ふることあたはずして退き給ひぬ。其後八年ありて始めて大悟す。再び六祖に参じて前の問を答て云く、一物に説似すれば、即ちあたらずと云云。此の時始めて六祖の印証をうけ給ひき。南岳和尚の六祖に参じ給ひし時、一言の下に直に契当せられざる事は、鈍根なるに似たれ共、来る者は何に物ぞと問はれて、やがてつまりて帰り給へるは怜利なる故なり。かやうにならましかば、たとひ千生をふるとも大悟することあたはじ。今時鈍根の人来りて、仏法を問ふ時、かやうに仏法を問ふ者は、これ誰ぞといへば、或はもう〱として、日来の妄想を本として、某となのる者のあり。或は問ふ者は、是誰ぞと疑ふて見るべきかといふ者もあり。或は自心これ仏といへる語に随つて解を生じて、眉をあげ、目をまじろかし、手をあげ、拳をさゝぐる者もあり。或は識心の実体なくして諸の形相をはなれたる処をとめて、南岳の説似一物即不中と答へ給へる語にとりあはせて、上に攀仰なく下に己躬を絶すと答ふる者のあり。或はわづかに問あり。答あれば、皆外辺の事なりと心得て一喝を下す人もあり。或はかやうの種々の計較安排にあづからざる処を宗旨と思ふて、袖を払つて便ち去る人もあり。若しかやうならば、たとひ弥勒下生に到るとも大悟することあたはじ。百丈の大智禅師上堂説法の終りには、たびごとに大衆とよび給ふ大衆、これを聞て首べを廻らす百丈の云く、これ何ぞ。時の人これを百丈下堂の句と名けたり。百丈かやうに示し給ふことは学者に工夫用心ををしへ給へるにもあらず。面々の見解を問ひ給ふにもあらず。畢竟して其の意何れの処にかある。若人直下に承当せば、曠劫の無明一時に滅すべし。昔亮座主といへる教者ありき。経論を博覧し、義理を通達して徒を集めて、法を説く事年久し。有る時馬祖に参じて種々の問答あり。亮座主これをうけかはずして出で去る。馬祖即ち座主とよび給ふ。座主首をめぐらす。馬祖の云く、是れ何ぞ其の時亮座主豁然として大悟す。此座主年来経論の義理を通達すといへ共、いまだ悟入の分なし。馬祖の是れ何ぞとしめし給ふ一言の下に大悟する事は何の故ぞや。まさにしるべし。其の所悟は経論の義理にあらざる事を一生の間、身心を苦労して学解をはげますいとまをひるがへして、行住坐臥念起念滅の処について直下に参決せば、南岳亮座主のごとくなる悟入もなどかなかるべきやといとまおしく覚えたり。まして他人の是非を談じ、世間の名利をのみはしりて、いたづらに一生をすごす人をば、たま〱人身を受たるしるしありといはんや。

書き下し

問古人の云く、眞實修道の人は、他人の是と非をとかずと云云。此の語をば信ずれども、僧俗に對する時やゝもすれば、是非の念の起るをば如何か對治すべきや。 答眞實の道人の他人の是非をとかずといへることは、是非は實にあれ共、これを說かずと申すにはあらず。自他の相を見ざれば、是非のとくべきがなき故なり。三祖大師の云く、眞如法界には他もなく自もなし。敎中に云く、法性は大海のごとし。是非ありと說くべからずと云云。此の理に相應せざる故に自他の相あり。自他の相あるならば爭か是非を見ることなからんや。若し是非の相を見ば、たとひ口には解かずとも眞實修道の人にはあらず。然らば卽ち大乘の學者、他人の是非をとかじとせんよりは、たゞ自ら翻覆して看るべし。他人の是非をとく者はこれ誰ぞ。圓覺經に云く、四大を認めて自身の相とし、六塵の緣影を自心の相とす。此の經の意は凡夫の自己と思へるは眞實の自己にあらず。自己と思へる者の若しあやまりならば、他人とみるも亦あたらず。自他もし實ならずば、何れの是非をかとくべきや、よのつね道者とて他人の是非をばとかぬ人も自心において、善惡の相をわかち利鈍の品をたて、所解に淺深を論じ、修行に邪正をたくらぶ。かやうの人は直に無上菩提におもむくことあたはず。是の故に一切の是非を目にかくる事なかれとすゝめたり。一切の是非を放下して、自他の相をみずとも若いまだ父母未生前の本來の面目を見ずば、眞實の道人といふべからず。廻光返照して看るべし。自他身心の相をわかち、是非得失の念をうかぶる物は是れ何に物ぞ。昔南岳の讓和尙六祖に參ず。六祖他の來るを見て、問て云く、なに物か、かくのごとく來れる南岳、答ふることあたはずして退き給ひぬ。其後八年ありて始めて大悟す。再び六祖に參じて前の問を答て云く、一物に說似すれば、卽ちあたらずと云云。此の時始めて六祖の印證をうけ給ひき。南岳和尙の六祖に參じ給ひし時、一言の下に直に契當せられざる事は、鈍根なるに似たれ共、來る者は何に物ぞと問はれて、やがてつまりて歸り給へるは怜利なる故なり。かやうにならましかば、たとひ千生をふるとも大悟することあたはじ。今時鈍根の人來りて、佛法を問ふ時、かやうに佛法を問ふ者は、これ誰ぞといへば、或はもう〱として、日來の妄想を本として、某となのる者のあり。或は問ふ者は、是誰ぞと疑ふて見るべきかといふ者もあり。或は自心これ佛といへる語に隨つて解を生じて、眉をあげ、目をまじろかし、手をあげ、拳をさゝぐる者もあり。或は識心の實體なくして諸の形相をはなれたる處をとめて、南岳の說似一物卽不中と答へ給へる語にとりあはせて、上に攀仰なく下に己躬を絕すと答ふる者のあり。或はわづかに問あり。答あれば、皆外邊の事なりと心得て一喝を下す人もあり。或はかやうの種々の計較安排にあづからざる處を宗旨と思ふて、袖を拂つて便ち去る人もあり。若しかやうならば、たとひ彌勒下生に到るとも大悟することあたはじ。百丈の大智禪師上堂說法の終りには、たびごとに大衆とよび給ふ大衆、これを聞て首べを廻らす百丈の云く、これ何ぞ。時の人これを百丈下堂の句と名けたり。百丈かやうに示し給ふことは學者に工夫用心ををしへ給へるにもあらず。面々の見解を問ひ給ふにもあらず。畢竟して其の意何れの處にかある。若人直下に承當せば、曠劫の無明一時に滅すべし。昔亮座主といへる敎者ありき。經論を博覽し、義理を通達して徒を集めて、法を說く事年久し。有る時馬祖に參じて種々の問答あり。亮座主これをうけかはずして出で去る。馬祖卽ち座主とよび給ふ。座主首をめぐらす。馬祖の云く、是れ何ぞ其の時亮座主豁然として大悟す。此座主年來經論の義理を通達すといへ共、いまだ悟入の分なし。馬祖の是れ何ぞとしめし給ふ一言の下に大悟する事は何の故ぞや。まさにしるべし。其の所悟は經論の義理にあらざる事を一生の間、身心を苦勞して學解をはげますいとまをひるがへして、行住坐臥念起念滅の處について直下に參決せば、南岳亮座主のごとくなる悟入もなどかなかるべきやといとまおしく覺えたり。まして他人の是非を談じ、世間の名利をのみはしりて、いたづらに一生をすごす人をば、たま〱人身を受たるしるしありといはんや。

現代語訳

問:古人は、真実に道を修める人は他人の是非を説かない、と言う。この語は信じているが、僧にも俗人にも接するとき、ともすれば是非の念が起こるのを、どう対治したらよいか。 答:真実の道人が他人の是非を説かないというのは、是非は確かにあるけれども、これを説かない、という意味ではない。自他の相を見ないので、説くべき是非がないからである。三祖大師は言う。真如法界には他もなく自もない、と。教の中に言う。法性は大海のようである。是非があると説いてはならない、と。この理に相応しないために、自他の相がある。自他の相があるのに、どうして是非を見ずにいられようか。もし是非の相を見るなら、たとえ口には説かなくても、真実に道を修める人ではない。だから、大乗の学者は、他人の是非を説くまいとするより、まず自分自身をひるがえして看るがよい。他人の是非を説く者は誰か。円覚経に言う。四大を認めて自身の相とし、六塵の縁影を自心の相とする、と。この経の意味は、凡夫が自己と思っているものは真実の自己ではない、ということである。自己と思っているものがもし誤りなら、他人と見るのもまた当たらない。自他がもし実でなければ、どの是非を説くことができようか。世の中の、道を修める者と言って他人の是非を説かない人でも、自分の心では善悪の相を分け、利鈍の品を立て、理解に浅い深いを論じ、修行に邪と正を比べる。このような人は、直ちに無上菩提に向かうことができない。このため、一切の是非を目にかけてはならない、と勧めたのである。一切の是非を放下して、自他の相を見なくなっても、もしまだ父母未生以前の本来の面目を見ていなければ、真実の道人とは言えない。光を返して自らを照らして看よ。自他・身心の相を分け、是非・得失の念を浮かべるものは、いったい何者か。昔、南岳の懐譲和尚が六祖に参じた。六祖はその来るのを見て、問うて言った。何ものがこのように来たのか。南岳は答えることができず退かれた。その後八年あって初めて大悟した。再び六祖に参じ、前の問いに答えて言った。一物と言えば、すなわち当たりません、と。このとき初めて六祖の認可を受けられた。南岳和尚が六祖に参じたとき、一言のもとに直ちにかなわなかったのは鈍根のようだが、来る者は何ものかと問われて、すぐに言葉に詰まって引き下がられたのは、聡明であったからである。このようであったなら、たとえ千生を経ても大悟することはできなかっただろう。今の鈍根の人が来て仏法を問うとき、このように、仏法を問うこの者は誰か、と言えば、ぼんやりして日ごろの妄想を基にして、某と名乗る者がいる。あるいは、問う者は誰かと疑って看るべきなのかと言う者もいる。あるいは、自心これ仏という語に従って理解を起こし、眉を上げ、目をしばたたき、手を上げ、拳を振り上げる者もいる。あるいは、識心に実体がなく諸々の形相を離れたところを取って、南岳が、一物と言えば当たらない、と答えられた語にあてはめ、上には仰ぎ攀じるものなく、下には己の身も絶えている、と答える者もいる。あるいは、少しでも問いがあり答えがあれば、すべて外の事だと心得て一喝を下す人もいる。あるいは、こうした種々の計らいや段取りに関わらない所を宗旨と思って、袖を払ってさっさと去る人もいる。もしこのようなら、たとえ弥勒が下生する時に至っても大悟することはできない。百丈大智禅師は、上堂説法の終わりには、そのたびに、大衆、と呼ばれた。大衆がこれを聞いて首を回らすと、百丈は言う。これは何か、と。当時の人はこれを百丈下堂の句と名づけた。百丈がこのように示されたのは、学人に工夫や用心を教えられたのでもなく、一人ひとりの見解を問われたのでもない。結局その意はどこにあるのか。もし人が直下に承当すれば、はるかな昔からの無明は一時に滅するだろう。昔、亮座主という教家がいた。経論を広く読み、義理に通達し、弟子を集めて法を説くこと年久しかった。あるとき馬祖に参じて種々の問答があった。亮座主は受け答えができず、出て去った。馬祖はすぐに、座主、と呼ばれた。座主が首を回らす。馬祖は言う。これは何か、と。そのとき亮座主は豁然として大悟した。この座主は年来、経論の義理に通達していたが、まだ悟り入る分はなかった。馬祖が、これは何か、と示された一言のもとに大悟したのはどういうわけか。まさに知るべきである。悟ったところは経論の義理ではない。一生のあいだ身心を苦労させて学解を励ます暇を投げ捨てて、行住坐臥の念が起こり念が滅するところについて直下に参じ究めるなら、南岳や亮座主のような悟り入りも、どうしてないことがあろうか。惜しいことと思われる。まして他人の是非を談じ、世間の名利にばかり走って、むだに一生を過ごす人を、たまたま人の身を受けたしるしがあると言えようか。

解説

他人の是非を言わぬ修行者でも、心の中で人を裁いてしまうのをどうするかという問いです。夢窓は、そもそも自他の相が実体のないものなら、是非も成り立たないと説きます。是非を口に出さないことより、是非を思い浮かべるのは何者かと、自分に向かって問い返すことが大事だとします。南岳が六祖に問われて八年後に答えた話や、百丈と馬祖の呼びかけの例が続きます。人を評価し比較する癖は誰にでもありますが、その評価をしている自分自身を観察する習慣が、判断の偏りに気づく一歩になると読める問答です。
『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

是非自他の相本来の面目南岳百丈馬祖

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