夢中問答集 / 『夢中問答集』他人の是非を見る前に問う者を見よ
問古人の云く、眞實修道の人は、他人の是と非をとかずと云云。此の語をば信ずれども、僧俗に對する時やゝもすれば、是非の念の起るをば如何か對治すべきや。 答眞實の道人の他人の是非をとかずといへることは、是非は實にあれ共、これを說かずと申すにはあらず。自他の相を見ざれば、是非のとくべきがなき故なり。三祖大師の云く、眞如法界には他もなく自もなし。敎中に云く、法性は大海のごとし。是非ありと說くべからずと云云。此の理に相應せざる故に自他の相あり。自他の相あるならば爭か是非を見ることなからんや。若し是非の相を見ば、たとひ口には解かずとも眞實修道の人にはあらず。然らば卽ち大乘の學者、他人の是非をとかじとせんよりは、たゞ自ら翻覆して看るべし。他人の是非をとく者はこれ誰ぞ。圓覺經に云く、四大を認めて自身の相とし、六塵の緣影を自心の相とす。此の經の意は凡夫の自己と思へるは眞實の自己にあらず。自己と思へる者の若しあやまりならば、他人とみるも亦あたらず。自他もし實ならずば、何れの是非をかとくべきや、よのつね道者とて他人の是非をばとかぬ人も自心において、善惡の相をわかち利鈍の品をたて、所解に淺深を論じ、修行に邪正をたくらぶ。かやうの人は直に無上菩提におもむくことあたはず。是の故に一切の是非を目にかくる事なかれとすゝめたり。一切の是非を放下して、自他の相をみずとも若いまだ父母未生前の本來の面目を見ずば、眞實の道人といふべからず。廻光返照して看るべし。自他身心の相をわかち、是非得失の念をうかぶる物は是れ何に物ぞ。昔南岳の讓和尙六祖に參ず。六祖他の來るを見て、問て云く、なに物か、かくのごとく來れる南岳、答ふることあたはずして退き給ひぬ。其後八年ありて始めて大悟す。再び六祖に參じて前の問を答て云く、一物に說似すれば、卽ちあたらずと云云。此の時始めて六祖の印證をうけ給ひき。南岳和尙の六祖に參じ給ひし時、一言の下に直に契當せられざる事は、鈍根なるに似たれ共、來る者は何に物ぞと問はれて、やがてつまりて歸り給へるは怜利なる故なり。かやうにならましかば、たとひ千生をふるとも大悟することあたはじ。今時鈍根の人來りて、佛法を問ふ時、かやうに佛法を問ふ者は、これ誰ぞといへば、或はもう〱として、日來の妄想を本として、某となのる者のあり。或は問ふ者は、是誰ぞと疑ふて見るべきかといふ者もあり。或は自心これ佛といへる語に隨つて解を生じて、眉をあげ、目をまじろかし、手をあげ、拳をさゝぐる者もあり。或は識心の實體なくして諸の形相をはなれたる處をとめて、南岳の說似一物卽不中と答へ給へる語にとりあはせて、上に攀仰なく下に己躬を絕すと答ふる者のあり。或はわづかに問あり。答あれば、皆外邊の事なりと心得て一喝を下す人もあり。或はかやうの種々の計較安排にあづからざる處を宗旨と思ふて、袖を拂つて便ち去る人もあり。若しかやうならば、たとひ彌勒下生に到るとも大悟することあたはじ。百丈の大智禪師上堂說法の終りには、たびごとに大衆とよび給ふ大衆、これを聞て首べを廻らす百丈の云く、これ何ぞ。時の人これを百丈下堂の句と名けたり。百丈かやうに示し給ふことは學者に工夫用心ををしへ給へるにもあらず。面々の見解を問ひ給ふにもあらず。畢竟して其の意何れの處にかある。若人直下に承當せば、曠劫の無明一時に滅すべし。昔亮座主といへる敎者ありき。經論を博覽し、義理を通達して徒を集めて、法を說く事年久し。有る時馬祖に參じて種々の問答あり。亮座主これをうけかはずして出で去る。馬祖卽ち座主とよび給ふ。座主首をめぐらす。馬祖の云く、是れ何ぞ其の時亮座主豁然として大悟す。此座主年來經論の義理を通達すといへ共、いまだ悟入の分なし。馬祖の是れ何ぞとしめし給ふ一言の下に大悟する事は何の故ぞや。まさにしるべし。其の所悟は經論の義理にあらざる事を一生の間、身心を苦勞して學解をはげますいとまをひるがへして、行住坐臥念起念滅の處について直下に參決せば、南岳亮座主のごとくなる悟入もなどかなかるべきやといとまおしく覺えたり。まして他人の是非を談じ、世間の名利をのみはしりて、いたづらに一生をすごす人をば、たま〱人身を受たるしるしありといはんや。
新字:問古人の云く、真実修道の人は、他人の是と非をとかずと云云。此の語をば信ずれども、僧俗に対する時やゝもすれば、是非の念の起るをば如何か対治すべきや。 答真実の道人の他人の是非をとかずといへることは、是非は実にあれ共、これを説かずと申すにはあらず。自他の相を見ざれば、是非のとくべきがなき故なり。三祖大師の云く、真如法界には他もなく自もなし。教中に云く、法性は大海のごとし。是非ありと説くべからずと云云。此の理に相応せざる故に自他の相あり。自他の相あるならば争か是非を見ることなからんや。若し是非の相を見ば、たとひ口には解かずとも真実修道の人にはあらず。然らば即ち大乗の学者、他人の是非をとかじとせんよりは、たゞ自ら翻覆して看るべし。他人の是非をとく者はこれ誰ぞ。円覚経に云く、四大を認めて自身の相とし、六塵の縁影を自心の相とす。此の経の意は凡夫の自己と思へるは真実の自己にあらず。自己と思へる者の若しあやまりならば、他人とみるも亦あたらず。自他もし実ならずば、何れの是非をかとくべきや、よのつね道者とて他人の是非をばとかぬ人も自心において、善悪の相をわかち利鈍の品をたて、所解に浅深を論じ、修行に邪正をたくらぶ。かやうの人は直に無上菩提におもむくことあたはず。是の故に一切の是非を目にかくる事なかれとすゝめたり。一切の是非を放下して、自他の相をみずとも若いまだ父母未生前の本来の面目を見ずば、真実の道人といふべからず。廻光返照して看るべし。自他身心の相をわかち、是非得失の念をうかぶる物は是れ何に物ぞ。昔南岳の譲和尚六祖に参ず。六祖他の来るを見て、問て云く、なに物か、かくのごとく来れる南岳、答ふることあたはずして退き給ひぬ。其後八年ありて始めて大悟す。再び六祖に参じて前の問を答て云く、一物に説似すれば、即ちあたらずと云云。此の時始めて六祖の印証をうけ給ひき。南岳和尚の六祖に参じ給ひし時、一言の下に直に契当せられざる事は、鈍根なるに似たれ共、来る者は何に物ぞと問はれて、やがてつまりて帰り給へるは怜利なる故なり。かやうにならましかば、たとひ千生をふるとも大悟することあたはじ。今時鈍根の人来りて、仏法を問ふ時、かやうに仏法を問ふ者は、これ誰ぞといへば、或はもう〱として、日来の妄想を本として、某となのる者のあり。或は問ふ者は、是誰ぞと疑ふて見るべきかといふ者もあり。或は自心これ仏といへる語に随つて解を生じて、眉をあげ、目をまじろかし、手をあげ、拳をさゝぐる者もあり。或は識心の実体なくして諸の形相をはなれたる処をとめて、南岳の説似一物即不中と答へ給へる語にとりあはせて、上に攀仰なく下に己躬を絶すと答ふる者のあり。或はわづかに問あり。答あれば、皆外辺の事なりと心得て一喝を下す人もあり。或はかやうの種々の計較安排にあづからざる処を宗旨と思ふて、袖を払つて便ち去る人もあり。若しかやうならば、たとひ弥勒下生に到るとも大悟することあたはじ。百丈の大智禅師上堂説法の終りには、たびごとに大衆とよび給ふ大衆、これを聞て首べを廻らす百丈の云く、これ何ぞ。時の人これを百丈下堂の句と名けたり。百丈かやうに示し給ふことは学者に工夫用心ををしへ給へるにもあらず。面々の見解を問ひ給ふにもあらず。畢竟して其の意何れの処にかある。若人直下に承当せば、曠劫の無明一時に滅すべし。昔亮座主といへる教者ありき。経論を博覧し、義理を通達して徒を集めて、法を説く事年久し。有る時馬祖に参じて種々の問答あり。亮座主これをうけかはずして出で去る。馬祖即ち座主とよび給ふ。座主首をめぐらす。馬祖の云く、是れ何ぞ其の時亮座主豁然として大悟す。此座主年来経論の義理を通達すといへ共、いまだ悟入の分なし。馬祖の是れ何ぞとしめし給ふ一言の下に大悟する事は何の故ぞや。まさにしるべし。其の所悟は経論の義理にあらざる事を一生の間、身心を苦労して学解をはげますいとまをひるがへして、行住坐臥念起念滅の処について直下に参決せば、南岳亮座主のごとくなる悟入もなどかなかるべきやといとまおしく覚えたり。まして他人の是非を談じ、世間の名利をのみはしりて、いたづらに一生をすごす人をば、たま〱人身を受たるしるしありといはんや。
書き下し
問古人の云く、眞實修道の人は、他人の是と非をとかずと云云。此の語をば信ずれども、僧俗に對する時やゝもすれば、是非の念の起るをば如何か對治すべきや。 答眞實の道人の他人の是非をとかずといへることは、是非は實にあれ共、これを說かずと申すにはあらず。自他の相を見ざれば、是非のとくべきがなき故なり。三祖大師の云く、眞如法界には他もなく自もなし。敎中に云く、法性は大海のごとし。是非ありと說くべからずと云云。此の理に相應せざる故に自他の相あり。自他の相あるならば爭か是非を見ることなからんや。若し是非の相を見ば、たとひ口には解かずとも眞實修道の人にはあらず。然らば卽ち大乘の學者、他人の是非をとかじとせんよりは、たゞ自ら翻覆して看るべし。他人の是非をとく者はこれ誰ぞ。圓覺經に云く、四大を認めて自身の相とし、六塵の緣影を自心の相とす。此の經の意は凡夫の自己と思へるは眞實の自己にあらず。自己と思へる者の若しあやまりならば、他人とみるも亦あたらず。自他もし實ならずば、何れの是非をかとくべきや、よのつね道者とて他人の是非をばとかぬ人も自心において、善惡の相をわかち利鈍の品をたて、所解に淺深を論じ、修行に邪正をたくらぶ。かやうの人は直に無上菩提におもむくことあたはず。是の故に一切の是非を目にかくる事なかれとすゝめたり。一切の是非を放下して、自他の相をみずとも若いまだ父母未生前の本來の面目を見ずば、眞實の道人といふべからず。廻光返照して看るべし。自他身心の相をわかち、是非得失の念をうかぶる物は是れ何に物ぞ。昔南岳の讓和尙六祖に參ず。六祖他の來るを見て、問て云く、なに物か、かくのごとく來れる南岳、答ふることあたはずして退き給ひぬ。其後八年ありて始めて大悟す。再び六祖に參じて前の問を答て云く、一物に說似すれば、卽ちあたらずと云云。此の時始めて六祖の印證をうけ給ひき。南岳和尙の六祖に參じ給ひし時、一言の下に直に契當せられざる事は、鈍根なるに似たれ共、來る者は何に物ぞと問はれて、やがてつまりて歸り給へるは怜利なる故なり。かやうにならましかば、たとひ千生をふるとも大悟することあたはじ。今時鈍根の人來りて、佛法を問ふ時、かやうに佛法を問ふ者は、これ誰ぞといへば、或はもう〱として、日來の妄想を本として、某となのる者のあり。或は問ふ者は、是誰ぞと疑ふて見るべきかといふ者もあり。或は自心これ佛といへる語に隨つて解を生じて、眉をあげ、目をまじろかし、手をあげ、拳をさゝぐる者もあり。或は識心の實體なくして諸の形相をはなれたる處をとめて、南岳の說似一物卽不中と答へ給へる語にとりあはせて、上に攀仰なく下に己躬を絕すと答ふる者のあり。或はわづかに問あり。答あれば、皆外邊の事なりと心得て一喝を下す人もあり。或はかやうの種々の計較安排にあづからざる處を宗旨と思ふて、袖を拂つて便ち去る人もあり。若しかやうならば、たとひ彌勒下生に到るとも大悟することあたはじ。百丈の大智禪師上堂說法の終りには、たびごとに大衆とよび給ふ大衆、これを聞て首べを廻らす百丈の云く、これ何ぞ。時の人これを百丈下堂の句と名けたり。百丈かやうに示し給ふことは學者に工夫用心ををしへ給へるにもあらず。面々の見解を問ひ給ふにもあらず。畢竟して其の意何れの處にかある。若人直下に承當せば、曠劫の無明一時に滅すべし。昔亮座主といへる敎者ありき。經論を博覽し、義理を通達して徒を集めて、法を說く事年久し。有る時馬祖に參じて種々の問答あり。亮座主これをうけかはずして出で去る。馬祖卽ち座主とよび給ふ。座主首をめぐらす。馬祖の云く、是れ何ぞ其の時亮座主豁然として大悟す。此座主年來經論の義理を通達すといへ共、いまだ悟入の分なし。馬祖の是れ何ぞとしめし給ふ一言の下に大悟する事は何の故ぞや。まさにしるべし。其の所悟は經論の義理にあらざる事を一生の間、身心を苦勞して學解をはげますいとまをひるがへして、行住坐臥念起念滅の處について直下に參決せば、南岳亮座主のごとくなる悟入もなどかなかるべきやといとまおしく覺えたり。まして他人の是非を談じ、世間の名利をのみはしりて、いたづらに一生をすごす人をば、たま〱人身を受たるしるしありといはんや。
現代語訳
問:古人は、真実に道を修める人は他人の是非を説かない、と言う。この語は信じているが、僧にも俗人にも接するとき、ともすれば是非の念が起こるのを、どう対治したらよいか。 答:真実の道人が他人の是非を説かないというのは、是非は確かにあるけれども、これを説かない、という意味ではない。自他の相を見ないので、説くべき是非がないからである。三祖大師は言う。真如法界には他もなく自もない、と。教の中に言う。法性は大海のようである。是非があると説いてはならない、と。この理に相応しないために、自他の相がある。自他の相があるのに、どうして是非を見ずにいられようか。もし是非の相を見るなら、たとえ口には説かなくても、真実に道を修める人ではない。だから、大乗の学者は、他人の是非を説くまいとするより、まず自分自身をひるがえして看るがよい。他人の是非を説く者は誰か。円覚経に言う。四大を認めて自身の相とし、六塵の縁影を自心の相とする、と。この経の意味は、凡夫が自己と思っているものは真実の自己ではない、ということである。自己と思っているものがもし誤りなら、他人と見るのもまた当たらない。自他がもし実でなければ、どの是非を説くことができようか。世の中の、道を修める者と言って他人の是非を説かない人でも、自分の心では善悪の相を分け、利鈍の品を立て、理解に浅い深いを論じ、修行に邪と正を比べる。このような人は、直ちに無上菩提に向かうことができない。このため、一切の是非を目にかけてはならない、と勧めたのである。一切の是非を放下して、自他の相を見なくなっても、もしまだ父母未生以前の本来の面目を見ていなければ、真実の道人とは言えない。光を返して自らを照らして看よ。自他・身心の相を分け、是非・得失の念を浮かべるものは、いったい何者か。昔、南岳の懐譲和尚が六祖に参じた。六祖はその来るのを見て、問うて言った。何ものがこのように来たのか。南岳は答えることができず退かれた。その後八年あって初めて大悟した。再び六祖に参じ、前の問いに答えて言った。一物と言えば、すなわち当たりません、と。このとき初めて六祖の認可を受けられた。南岳和尚が六祖に参じたとき、一言のもとに直ちにかなわなかったのは鈍根のようだが、来る者は何ものかと問われて、すぐに言葉に詰まって引き下がられたのは、聡明であったからである。このようであったなら、たとえ千生を経ても大悟することはできなかっただろう。今の鈍根の人が来て仏法を問うとき、このように、仏法を問うこの者は誰か、と言えば、ぼんやりして日ごろの妄想を基にして、某と名乗る者がいる。あるいは、問う者は誰かと疑って看るべきなのかと言う者もいる。あるいは、自心これ仏という語に従って理解を起こし、眉を上げ、目をしばたたき、手を上げ、拳を振り上げる者もいる。あるいは、識心に実体がなく諸々の形相を離れたところを取って、南岳が、一物と言えば当たらない、と答えられた語にあてはめ、上には仰ぎ攀じるものなく、下には己の身も絶えている、と答える者もいる。あるいは、少しでも問いがあり答えがあれば、すべて外の事だと心得て一喝を下す人もいる。あるいは、こうした種々の計らいや段取りに関わらない所を宗旨と思って、袖を払ってさっさと去る人もいる。もしこのようなら、たとえ弥勒が下生する時に至っても大悟することはできない。百丈大智禅師は、上堂説法の終わりには、そのたびに、大衆、と呼ばれた。大衆がこれを聞いて首を回らすと、百丈は言う。これは何か、と。当時の人はこれを百丈下堂の句と名づけた。百丈がこのように示されたのは、学人に工夫や用心を教えられたのでもなく、一人ひとりの見解を問われたのでもない。結局その意はどこにあるのか。もし人が直下に承当すれば、はるかな昔からの無明は一時に滅するだろう。昔、亮座主という教家がいた。経論を広く読み、義理に通達し、弟子を集めて法を説くこと年久しかった。あるとき馬祖に参じて種々の問答があった。亮座主は受け答えができず、出て去った。馬祖はすぐに、座主、と呼ばれた。座主が首を回らす。馬祖は言う。これは何か、と。そのとき亮座主は豁然として大悟した。この座主は年来、経論の義理に通達していたが、まだ悟り入る分はなかった。馬祖が、これは何か、と示された一言のもとに大悟したのはどういうわけか。まさに知るべきである。悟ったところは経論の義理ではない。一生のあいだ身心を苦労させて学解を励ます暇を投げ捨てて、行住坐臥の念が起こり念が滅するところについて直下に参じ究めるなら、南岳や亮座主のような悟り入りも、どうしてないことがあろうか。惜しいことと思われる。まして他人の是非を談じ、世間の名利にばかり走って、むだに一生を過ごす人を、たまたま人の身を受けたしるしがあると言えようか。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
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夢中問答集・『夢中問答集』順境も逆境も輪廻のもと(二)予が共住の僧の中に一人、此のかいげを見るたびごとに惡念を起して、彼の敎院の坊主の心せばき事をおり〱に誹謗す。予が云く、諸法本より大小の相なし。大小は人の情にあり。是の故に大小の妄情を忘じて不思議解脫を證得せる菩薩は芥子の中に須彌山を納るれども、芥子の大きになれることもなく、須彌の小さくなれることもなし。淨名の室はわづかに方丈なり。しかれども八萬四千由旬なる高座の三萬二千納れたりき。御邊の心に大小の相を存せずば、彼の竹筒にて大海をもくみぬべし。然らば卽ちかの坊主の心のせばきにはあらず。御邊の心のせばきなり。我れもいまだ不思議解脫を證得せぬ故に、大小の相をば見れ共、此の理を信解すること分明なる故に、御邊のごとく惡念を起すことはなし此の僧これを聞て後は、かのかいげを見れ共、惡念更におこらずと申しき。たゞ搔器の大小のみにあらず。果報の大小壽命の長短財寶の多小官位の高下世間の治亂人倫の怨親かやうの世事はさまざまなりといへ共、只是れ一念の迷情にうかべり。夢幻の相なり。此の幻相の上において此を取り、彼を捨てんと苦勞するいとまにて、此の幻相を分別する自心の計度を放下すべし。若しこの分別計度を忘れ得たらば、果報の大小壽命の長短等のみにあらず。淨土穢土凡夫聖賢のへだても亦あるべからず。何をかなげき、何をかよろこばんや。しかれども、若し又自心の計度を放下する事あたはずして、世間の幻相に心を亂る時はよく〱うちかへし思ふべし。果報も大きに壽命も長く財寶も多く官位も高く、怨敵もなくして治まれる世にありとも、天上の果報には及ぶべからず。たとひ天上の果報にひとしくともながらへはつべきことならねば、これをいみじと思はんや。若し又、果報官位等も皆いやしき身となりて、亂れたる世に牢籠すともさすが、人間なれば四惡趣の果報には、勝れたりと思ふて歎くべからずいはんや佛法にあへる大慶あり。何ぞ世俗の小利を心にかけんや。かやうの法門は敎の中に種々の因緣譬喩にて說き置かれたり。たゞ敎の中のみにあらず。禪宗を擧揚し給へる祖師達も、亦すゝめらる達磨大師佛法を悟入せる人について理入行入の二種を立給へり理入とは修行をからずして、直に本分に契當する人なり。行入とは本分の法門を聞て信解のあれども、いまだ相應の分なき人のために無方便の方便をまうけて、相應せしむる手段なり。これについて四行をあかせり。一つには報寃行、二つには隨緣行、三つには無所求行、四には稱法行、世間にあらゆる貴賤男女の中に我が心にあはず。我ために寃をなす人ありて乃至畜生鬼類の中にも、我ために毒害をなす者あり。人間の八苦の中に怨憎會苦といへるはこれなり。皆なこれ前世に彼れをあだみたりしむくひなり。或は貧苦病苦にせめらるゝも亦、是れ我が慳貪破戒のむくひなりと思ふて瞋ることもなく、悲しむこともなし。かやうの心に安住するを報寃行となづく。
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『臨済録』示衆是れ爾が目前歴歴底、一箇の形段勿くして孤明なる、是れ這箇、説法聴法を解す。若し是の如く見得せば、便ち祖仏と別ならず。但だ一切時中、更に間断すること莫かれ。触目皆な是なり。秖だ情生ずれば智隔たり、想変ずれば体殊なるが為に、所以に三界に輪回して種種の苦を受く。若し山僧が見処に約せば、甚深ならざる無く、解脱せざる無し。道流、心法は形無くして、十方に通貫す。眼に在っては見と曰い、耳に在っては聞と曰い、鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉し、足に在っては運奔す。本と是れ一精明、分かれて六和合と為る。一心既に無なれば、随処に解脱す。山僧与麼に説く、意、什麼の処にか在る。秖だ道流が一切馳求して、心歇むこと能わず、他の古人の閑機境に上るが為なり。道流、山僧が見処を取らば、報化仏の頭を坐断し、十地満心も猶お客作児の如く、等妙二覚は枷を担い鎖を帯ぶる漢、羅漢辟支は猶お廁穢の如く、菩提涅槃は驢を繋ぐ橛の如し。何を以てか此の如くなる。秖だ道流が三祇劫の空なることに達せざるが為に、所以に此の障礙有り。若し是れ真正の道人ならば、終に是の如くならず。但だ能く縁に随って旧業を消し、任運に衣裳を著け、行かんと要すれば即ち行き、坐せんと要すれば即ち坐し、一念心も仏果を希求すること無し。何に縁ってか此の如くなる。古人云く、『若し業を作して仏を求めんと欲せば、仏は是れ生死の大兆なり。』大徳、時光惜しむべし。秖だ傍家に波波地に禅を学び道を学び、名を認め句を認め、仏を求め祖を求め善知識を求めて意度せんと擬す。錯ること莫かれ。道流、爾秖だ一箇の父母有り、更に何物をか求めん。爾自ら返照し看よ。古人云く、『演若達多、頭を失却す。求心歇む処、即ち無事。』大徳、且く平常なることを要す、模様を作すこと莫かれ。一般の好悪を識らざる禿奴有り、便即ち神を見、鬼を見、東を指し西を劃し、晴を好み雨を好む。是の如きの流は尽く須らく債を抵し、閻老の前に向かって熱鉄丸を呑む日有るべし。好人家の男女、這の一般の野狐精魅に著けられて、便即ち揑怪す。瞎屢生、飯銭を索めらるる日有らん。」師、衆に示して云く、
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夢中問答集・『夢中問答集』禅と教えは同じか(上)問敎の中にも佛の相もなく、衆生の相もなしと談ぜり、禪宗に生佛いまだわかれざる處といふに同じからずや。 答敎の中に凡聖の相なしと申すは、凡聖わかれたる處について、其の體性の無相なることを談ぜり。禪宗に生佛已前と申すは此の義にあらず、其の語の似たるを以て禪敎同とは申すべからず、たとへば人の面のやうをそらに語る時額の中に眉あり眉の下に眼あり眼の下に鼻あり鼻の下に口ありと申せば、貴賤男女みな同じ面なるやうに聞ゆれ共、若し實に其の面をみる時は、各ことなるがごとし、敎門には言句義理を以て法門とする故に、義理の分劑について大小權實を判せり、敎外別傳不立文字といへる題目を見ながら宗師の言句について敎禪の同意を論せばあたるべからず、今時の禪者の中に宗師の人に示さる言句の中に敎家の法門にかはりたる事のあるを見て、これを禪の勝れたる證據とす。若し敎の法門にかはりたる故に禪は勝れたりといはゞ禪にかはりたる故に敎をも勝れたりといふべし。然らば卽ち敎外別傳の宗旨何ぞ言句義理の同異にあづからんや、或は云く敎は皆な言句義理の上に談せり、言句義理にあづからざる處禪門の宗旨なりと云云。若ししからば敎の中に言句義理を立ざる法門あり、これを禪宗といはんや、或は敎者の中に敎外別傳不立文字といへども禪師の人にしめす言句多し不立文字といはんやと難する人あり、禪師の言句多しといへ共此の言句の義理を人に習學せしめんためにはあらず、ただ佛法の正理は言句の上にあらざる事をしめさんためなり、言句の上にあらずと申せばとて言語道斷の處を宗旨とするにもあらず、寂默沈空の所を指示するにもあらず、古人の云く達磨西來の別に一法の人のために傳授するなしたゞ人々具足し、箇々圓成する底を指出するのみなりと云云、旣に人々具足といへり、何ぞひとり禪者のみ具足して敎者にはかけたりといはんや、たゞ敎者禪者のみ圓成するにあらず。田夫野人の農業をはげむ所にもあり、鍛冶番匠の工巧をいとなむ所にもあり、要を取ていはゞ、一切衆生の所作所爲見聞覺知行住坐臥遊戯談論の所皆な悉く西來の玄旨にあらずといふ事なし、何にいはん佛の敎へに隨つて種々の善行を修する人をや。しかれども、此の玄旨あることを知らざる故に、世間の幻相はばかされて妄りに輪廻を受くる者多し。佛此の妄想をやめんために種々の法門を說き玉へば、又此の法門を執著して玄旨をくらませる人あり。是の故に祖師西來して、本分の一段を指出す、この心を以て心に傳ふる、敎外の玄旨となづく。敎外の玄旨とて諸敎にかはりたる一段の法門を相承するにはあらず、若し言句にて相承すべき法門ならばたゞ是れめづらしき敎法なるべし、敎外別傳とはいふべからず、六祖よりこのかた五家わかれて各の宗風を立つといへ共、亦同じく人々具足することを悟らしめんためなり。
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『臨済録』示衆爾一生秖だ這箇の見解を作して、這の一双の眼に辜負す。冷噤噤地にして、凍凌上の驢駒の如くに相似たり。『我れ敢えて善知識を毀らず、口業を生ぜんことを怕る。』道流、夫れ大善知識にして始めて敢えて仏を毀り祖を毀り、天下を是非し、三蔵教を排斥し、諸の小児を罵辱し、逆順の中に向かって人を覓む。所以に我れ十二年中に於いて一箇の業性を求むるに、芥子許りの如きも得べからず。若し新婦子禅師に似たらば、便即ち院を趁い出されて、飯を与えて喫せしめられず、不安不楽ならんことを怕る。古よりの先輩は到る処に人信ぜず、遞出せられて始めて是れ貴きことを知る。若し到る処に人尽く肯わば、什麼をか作すに堪えん。所以に師子一吼すれば野干脳裂す。道流、諸方説く、道の修すべき有り、法の証すべき有りと。爾説け、何の法をか証し、何の道をか修す。爾今の用処、什麼物をか欠少す。何処をか修補せん。後生の小阿師会せず、便即ち這般の野狐精魅を信じ、他の事を説いて人を繋縛するを許す。言う、理行相応し、三業を護惜して始めて成仏することを得と。此の如く説く者は春の細雨の如し。古人云く、『路に達道の人に逢わば、第一に道に向かうこと莫かれ。』所以に言う、若し人道を修すれば道行われず、万般の邪境頭を競うて生ず。智剣出で来たれば一物も無し、明頭未だ顕れざるに暗頭明らかなり。所以に古人云く、『平常心是れ道。』大徳、什麼物をか覓む。現今目前聴法無依の道人、歴歴地に分明にして、未だ曾て欠少せず。爾若し祖仏と別ならざることを得んと欲せば、但だ是の如く見よ。疑誤することを用いず。爾が心心異ならざる、之を活祖と名づく。心若し異なること有らば、則ち性相別なり。心異ならざるが故に、即ち性相別ならず。」問う、「如何なるか是れ心心異ならざる処。」師云く、「爾問わんと擬すれば早く異なり了れり。性相各おの分かる。道流、錯ること莫かれ。世・出世の諸法は、皆な自性無く、亦た生性無し。但だ空名有るのみ、名字も亦た空なり。