夢中問答集 / 『夢中問答集』本分の田地とは何か
問本分の田地と申すは、何なる處ぞや。 答凡聖迷悟いまだわかれざる處は世間の名相もあつからず、出世の法門も及ばずしかりといへ共、迷人を誘引せんためにかりに語をつけて、或は本分の田地となづけ、或は一大事となづく本來の面目主人公なんと申すも、皆同じこと也。迷悟凡聖は一念の上に假立せり、念々相續する故に、迷悟凡聖の相妄りに生じて人を誑惑す、此の誑惑によりて本分の田地をくらませり。
新字:問本分の田地と申すは、何なる処ぞや。 答凡聖迷悟いまだわかれざる処は世間の名相もあつからず、出世の法門も及ばずしかりといへ共、迷人を誘引せんためにかりに語をつけて、或は本分の田地となづけ、或は一大事となづく本来の面目主人公なんと申すも、皆同じこと也。迷悟凡聖は一念の上に仮立せり、念々相続する故に、迷悟凡聖の相妄りに生じて人を誑惑す、此の誑惑によりて本分の田地をくらませり。
書き下し
問本分の田地と申すは、何なる處ぞや。 答凡聖迷悟いまだわかれざる處は世間の名相もあつからず、出世の法門も及ばずしかりといへ共、迷人を誘引せんためにかりに語をつけて、或は本分の田地となづけ、或は一大事となづく本來の面目主人公なんと申すも、皆同じこと也。迷悟凡聖は一念の上に假立せり、念々相續する故に、迷悟凡聖の相妄りに生じて人を誑惑す、此の誑惑によりて本分の田地をくらませり。
現代語訳
問:本分の田地というのは、どのような所か。 答:凡夫と聖者、迷いと悟りがまだ分かれていない所は、世間の名や相も関わらず、世を超えた法門も及ばない。しかしそうは言っても、迷っている人を導くために、仮に言葉をつけて、あるいは本分の田地と名づけ、あるいは一大事と名づける。本来の面目、主人公などと言うのも、みな同じことである。迷いと悟り、凡夫と聖者は、一念の上に仮に立てられたものである。念が次々に続くので、迷悟凡聖の相がむやみに生じて人を惑わす。この惑わしのために、本分の田地が見えなくなっているのである。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
夢中問答集・『夢中問答集』心地・仏性と本分の田地問敎の中に或は心地と談じ或は佛性と申すは本分の田地といへるにことなりや。 答敎門も了義の大乘に談ずるところは、別ならずしかれども敎門は一念の無明起れる上に、かりに衆生佛のわかれたる處について、しばらく心地を談じ、佛性を論ずこの故に禪門に生佛いまだわかれざる所を、本分の田地と申すには同じからず。若し人此の本分の田地に相應せば敎門に談ずる處の佛性心地如來藏眞如法性等乃至凡夫所見の山河大地草木瓦石にいたるまで、皆こと〱く本分の田地なるべし、必ずしも本分の田地といへる名目を貴ぶべきにはあらす。
-
夢中問答集・『夢中問答集』本分の田地はどこにあるか問本分の田地は人々具足し、箇々圓成すといへ共、いまだ其の形を見ず、何れの所にかあるや身の中にありとせん、心の中にありとやせん、此の身心全體是れ本分の田地ありとやせん、此の身心をはなれて別にありとやせん。 答古人の云く、當處をはなれす常に湛然たり、もとむれば卽ちしんぬ君がるべからざる事をと云云。本分の田地は身心の中にあるにもあらず、身心の外見にあるにもあらず、身心全く是れ本分の所也といふもあたらず、有情非情の品類にもあらず、諸佛賢聖の智慧にもあらず、諸佛賢聖の智慧乃至衆生の身心及び世界國土は皆此の中より出生せり、しかる故にかりに本分の田地と名けたり金剛經に云く、諸佛及び諸佛の阿耨多羅三藐三菩提法も、皆此の經より出たりと云云、金剛般若といへるは本分の田地なり。圓覺經に云く、一切の清淨眞如菩提涅槃及諸の波羅蜜も、圓覺より流出せりと云云。圓覺とは本分田地なり。蓮華三昧經に云く、三十七尊も心城に住すと云云、心城とは本分田地なり、密宗に談ずる大日如來金剛薩埵等の三十七尊も、みな此の心城に住し玉へりしるべし。本分田地は眞如の妙理及び一切の佛菩薩の所依也いはんや、一切の淨穢世界衆生も皆これをはなれず。
-
夢中問答集・『夢中問答集』夢と本分の家(上)問若し此の本分の所世間の相にも非ず、出世の法にもあらずば、何としてか此の所に到ることを得べきや。 答よのつね此の宗を信じて修行せんとする人、多くは此の疑ひあり。是れ卽ち本分の題目を疎略に心得玉へる故なり。若し此の本分を世間の藝能也と申さば、我は器量もなし何にとしてか習ふべきやといふ疑もありぬべし。又若し此の本分を出世の法也と申さば、我れは智慧もなし、何にとしてか悟るべきやとも疑ぬべし。旣に是れ世間出世の法に非ずといへる題目を聞きながら、何としてか此の所にいたるべきやといへる疑を生ずる人はおろかなり。本分の田地に到ると申す事は、田舍より京へ上り、日本より唐土へわたるがごとくにはあらず。譬ば人の我が家の中に睡臥て種々の夢を見るがごとし、或は穢惡不淨の所に居て、日夜に苦惱する事もあり。或は神仙殊勝の境に入て、身心快樂なる時もあり、此の時傍らにねぶらざる人ありて、夢みる人に向つてさとして云く、汝が所見の不淨の所も、殊勝の境も皆是れ夢中の妄想也。汝が本分の家の中にはすべてかやうなる事はなし。此の言を聞けどもおのれが夢中の所見を正とする者はすべてこれを信せず、しかる故に苦惱を受くる時は、其の苦惱をのがるべき計りごとをめぐらし安樂を得たる時は、其の安樂にほこる思あり、かくのごとく夢中の所見にばかされて、すべて本分の所をばしらず夢みる人の中に、たま〱知識の敎へによりて、本分安穩の家あるよしを信ずれども、大夢いまださめざるが故に、猶も夢中の所見を放却することあたはず。或は知識に問て云く、何としてか本分の家には歸るべきや、此目前の山を上り河をわたりて到るべしや。飛行の術法を習ひ得て此の山河をとび越えて到るべしや、或は又疑つて云く、本分の家は我が所見の山河大地の內にあり外にありや。此の山河大地をあらためずして全體是れ本分の家なりとやせん、かやうなる種々の疑の起る事は、皆な是れ大夢のいまださめざる故也。たとひ大夢はいまださめね共、我が此の見聞の境界は、皆な夢中の妄見也。其の中の去來動轉も亦夢中の妄想也と悟る故に見ることは、盲者のごとく聾人のごとくして、取捨分別を生ぜざる人は大夢のさめたる人とことならず。此の人をばうつゝの境界ある事を信ずる分はありと申すべし。
-
夢中問答集・『夢中問答集』夢と本分の家(下)佛法も亦かくのごとし、本分の田地には凡聖の相もなく淨穢の境もなし、無明業識の一夢起るが故に、無相の中に淨穢の境界を現じ、無爲の中に凡聖の差別を見る、我は凡夫也と思ふ時は東西に馳走して名利を求む求め得ざる時はなげきかなしむ。我は智人也と思ふ時は、一切の人をかろしめて高慢の心を起す、かゝる種々の顚倒にばかされて本分安樂の田地ある事を信ぜず。是れ卽ち夢中の妄境に心を轉せられてうつゝの境界を信せざるがごとし、其の中にたま〱利根の人ありて、凡聖淨穢業識の上に浮べる假相也。本分の田地にはすべてかやうの事なしと信ずれ共、いまだ大悟せざる故に、やゝもすれば幻化に誑惑せられて、我は是れ迷人也と思ひならはせる我執いまだ忘せざる故に、得法悟道をねがひ機辨神通ををうらやむ。しかる故に修行用心について邪正を論じ、應用問答において勝劣をあらそふ。此れは是れ夢みる人の我が所見は皆な夢也と信ずれ共、大夢いまださめざる故に、夢の境界にばかはされて其の中について、是非得失を論ずるがごとし。若し是れ最上根の人はたとひいまだ大悟の分はなけれ共、自他身心を計する事皆是れ業識の妄想也と分明に信解する故に、輪廻をもいとはず、解脫をも求めず、若しかくのごとくならば趣向の正しき人と申すべし。趣向のたゞしきをたのみて、滿足の思をなさば亦謬りなり。圓覺經に云く、衆生顚倒して妄に四大をとめて自身の相とし、六塵の緣影を自身の相とす、たとへば病目の空中の花及び第二の月を見るがごとし。是れによりて、妄に生死に輪轉する事あり、この故に無明となづく。此の無明といふは、實に體あるにあらず、夢中に人を見るときは其の體なきにあらざれ共、夢さめぬれば其の人ある事なきがごとし。首楞嚴經に云く、妙性圓明にして諸の名相をはなれたり、本より世界衆生ある事なしと云云。諸大乘經みな同じくかやうに說けり、何ぞこれを信ぜずして、身心を勞役して外に向つて馳求するや。世間の吉凶其の相いまだあらはれざる時は、愚人これをしらず。然れども世間の巫女陰陽師等のうらなひしめす言を信じて、それにまかせてふるまへば、時節到來して其の效をみる事あり。本分の一段は人々具足すれども、いまだ契當せざる人は、日に用ひて知る事なし。是の故に佛祖大慈をたれて叮嚀にしめし玉へり。たとひ宿習うすくして、直下に契當する事なくとも世間の陰陽師等を信ずるがごとく、佛祖の言を信じて、それにまかせて用心せば、何ぞしるしなからんや。
-
夢中問答集・『夢中問答集』放下しきった静けさは本分か問一切放下の佛法世法を、胸中におかずば、これを本分の田地と申すべしや。 答達磨大師の云く、外に諸緣をおはず。內心あえぐことなくして、心墻壁のごとくならば、道に入べしと云云。大慧禪師此の語を擧げて云く、諸緣を放下して內心動せざるは道に入る。方便門なりといへる意なり。若しかやうなる處を眞實の道なりと思はゞ祖師の意にそむけりと云云。
-
夢中問答集・『夢中問答集』明眼と無眼、利根と鈍根問凡聖一絲毫をもへだてずといへるに、知識に明眼と無眼とを論じ、學者に利根と鈍根とを、わかつことは何ぞや。 答人に利鈍をわかつことも常さまの論には同からず、たとひ一切の法門を解了すとも、佛祖にかはらざる事を信ぜざるを鈍根とは申すなり。實に愚人とて佛祖にかはりたるものあるにはあらず、知識に有眼無眼をわかつことは、迷悟の差別なきことをわすれて我は悟れり、學者は迷へりと思ふて、我執法執の上に居して、法門を談ずるを無眼の知識とは申すなり。本より愚癡にして明眼の宗師よりも、劣なる人のあるにはあらず、かやうの法門は情識を解すべき事ならず、此の境界に到れる人始めてしるべし。