夢中問答集 / 『夢中問答集』順境も逆境も輪廻のもと(三)
若し又福分ありて官位もすゝみ、財寶もゆたかに名譽も人にすぐれ、藝能も世にこえたる事ありとも、皆な是れ前世に修せる有漏の善根にこたへたる果報威勢なり。久しくたもつべきことにあらずと思てこれにほこり、これに著する心のなきを隨緣行となづけたり。此の二行の理はさせる甚深の法門にはあらざれ共、敎外の宗旨を信ずる人の中にも、宿熏うすき人は逆順の緣にあふ時、心を亂りて佛法をわする。さすがに佛法をばかた心にはかけたるよしなれ共、逆順の緣は相續してひまもなき故に、工夫純熟の分なし。此の二行の理は、たとひ無智の人なりとも心得ぬべし。先づかやうの理をしりて逆順の緣に對する時、心を亂ることなくば、自然に工夫も純一なるべし。是の故に大師先づ此の二行を立給へり。莊子等が苦樂逆順に心を動ぜざるを無爲の道にかなへりと思へるには同じからず。然らば卽ち中古の宗師達の中にも亦、かやうの理をしめし給へる人あり。近來天目の廣慧禪師中峯和尙の垂誡の中に、多くは是れ世情のひがめる事をいましめ給へるも此の意なり。しかるをなまじいに小智ある人、これを見てかやうの道理は外典小乘等の法門なり。祖門の宗旨にあらずとそしれり。祖師門下の宗師は敎門のごとく、淺深の法門を立分て機に隨つて、これを說くにはあらず。有る時は世間の道理を說き、有る時は出世の法門を談ず。すべて定まれる途轍なし。皆な是れ人のために粘をとき、縛をさくる手段なり。古人の云く、會すれば卽ち途中受用會せざれば卽ち世諦流布なりと云云。たとひ向上の玄旨をしめすとも學者、若し會せずば卽ち世俗の道理となるべし。若し人世間の道理を說くを聞て日來の粘縛を解脫して、直に本分に契當することあらば此の世俗の道理、卽ち是甚深の法門なり。若し人順逆の緣にあふて心をみだる分はなくとも、そのまゝにて本分をあきらむる事なくば、只是北州天上の果報を得る人となるべし。羅漢果を證したる人は貪瞋癡を永く斷じて三界を出離したれ共、いまだ大乘の正理にはかなはず。故に圓覺經に云く、念を動ずるも迷ひなり。念をやむるも又迷ひなりと云云。しかれ共若し先づ淺近の道理をしりて世情をやはらげて佛法を修行せんをばきらふべからず。たとひ世情もやはらぎて、純一に佛法を行ずとも若し又、悟入を求め、成佛を求め、神通を求め、辨說を求むる心あらば、本分にかなふことあるべからず。是を以て達磨大師第三に無所求行を立られたり。金剛經に云く、法尙を捨つべし。何に況んや、非法をやとは此の意なり。さればとて禪宗の學者所求なきを究竟とするにあらず。所求なれば左右に原に逢ふて諸緣境界も我れをなやまさず、天魔外道も便を得ず。此に到りて寤寐憶忘の隔てなし。見聞覺知も別の事にあらず。故に第四に稱法行を立られたり。たとひかやうなりとも猶ほ、是れ功勳邊の事なり。大休大歇の處とは思ふべからず。
新字:若し又福分ありて官位もすゝみ、財宝もゆたかに名誉も人にすぐれ、芸能も世にこえたる事ありとも、皆な是れ前世に修せる有漏の善根にこたへたる果報威勢なり。久しくたもつべきことにあらずと思てこれにほこり、これに著する心のなきを随縁行となづけたり。此の二行の理はさせる甚深の法門にはあらざれ共、教外の宗旨を信ずる人の中にも、宿熏うすき人は逆順の縁にあふ時、心を乱りて仏法をわする。さすがに仏法をばかた心にはかけたるよしなれ共、逆順の縁は相続してひまもなき故に、工夫純熟の分なし。此の二行の理は、たとひ無智の人なりとも心得ぬべし。先づかやうの理をしりて逆順の縁に対する時、心を乱ることなくば、自然に工夫も純一なるべし。是の故に大師先づ此の二行を立給へり。荘子等が苦楽逆順に心を動ぜざるを無為の道にかなへりと思へるには同じからず。然らば即ち中古の宗師達の中にも亦、かやうの理をしめし給へる人あり。近来天目の広慧禅師中峯和尚の垂誡の中に、多くは是れ世情のひがめる事をいましめ給へるも此の意なり。しかるをなまじいに小智ある人、これを見てかやうの道理は外典小乗等の法門なり。祖門の宗旨にあらずとそしれり。祖師門下の宗師は教門のごとく、浅深の法門を立分て機に随つて、これを説くにはあらず。有る時は世間の道理を説き、有る時は出世の法門を談ず。すべて定まれる途轍なし。皆な是れ人のために粘をとき、縛をさくる手段なり。古人の云く、会すれば即ち途中受用会せざれば即ち世諦流布なりと云云。たとひ向上の玄旨をしめすとも学者、若し会せずば即ち世俗の道理となるべし。若し人世間の道理を説くを聞て日来の粘縛を解脱して、直に本分に契当することあらば此の世俗の道理、即ち是甚深の法門なり。若し人順逆の縁にあふて心をみだる分はなくとも、そのまゝにて本分をあきらむる事なくば、只是北州天上の果報を得る人となるべし。羅漢果を証したる人は貪瞋痴を永く断じて三界を出離したれ共、いまだ大乗の正理にはかなはず。故に円覚経に云く、念を動ずるも迷ひなり。念をやむるも又迷ひなりと云云。しかれ共若し先づ浅近の道理をしりて世情をやはらげて仏法を修行せんをばきらふべからず。たとひ世情もやはらぎて、純一に仏法を行ずとも若し又、悟入を求め、成仏を求め、神通を求め、弁説を求むる心あらば、本分にかなふことあるべからず。是を以て達磨大師第三に無所求行を立られたり。金剛経に云く、法尚を捨つべし。何に況んや、非法をやとは此の意なり。さればとて禅宗の学者所求なきを究竟とするにあらず。所求なれば左右に原に逢ふて諸縁境界も我れをなやまさず、天魔外道も便を得ず。此に到りて寤寐憶忘の隔てなし。見聞覚知も別の事にあらず。故に第四に称法行を立られたり。たとひかやうなりとも猶ほ、是れ功勲辺の事なり。大休大歇の処とは思ふべからず。
書き下し
若し又福分ありて官位もすゝみ、財寶もゆたかに名譽も人にすぐれ、藝能も世にこえたる事ありとも、皆な是れ前世に修せる有漏の善根にこたへたる果報威勢なり。久しくたもつべきことにあらずと思てこれにほこり、これに著する心のなきを隨緣行となづけたり。此の二行の理はさせる甚深の法門にはあらざれ共、敎外の宗旨を信ずる人の中にも、宿熏うすき人は逆順の緣にあふ時、心を亂りて佛法をわする。さすがに佛法をばかた心にはかけたるよしなれ共、逆順の緣は相續してひまもなき故に、工夫純熟の分なし。此の二行の理は、たとひ無智の人なりとも心得ぬべし。先づかやうの理をしりて逆順の緣に對する時、心を亂ることなくば、自然に工夫も純一なるべし。是の故に大師先づ此の二行を立給へり。莊子等が苦樂逆順に心を動ぜざるを無爲の道にかなへりと思へるには同じからず。然らば卽ち中古の宗師達の中にも亦、かやうの理をしめし給へる人あり。近來天目の廣慧禪師中峯和尙の垂誡の中に、多くは是れ世情のひがめる事をいましめ給へるも此の意なり。しかるをなまじいに小智ある人、これを見てかやうの道理は外典小乘等の法門なり。祖門の宗旨にあらずとそしれり。祖師門下の宗師は敎門のごとく、淺深の法門を立分て機に隨つて、これを說くにはあらず。有る時は世間の道理を說き、有る時は出世の法門を談ず。すべて定まれる途轍なし。皆な是れ人のために粘をとき、縛をさくる手段なり。古人の云く、會すれば卽ち途中受用會せざれば卽ち世諦流布なりと云云。たとひ向上の玄旨をしめすとも學者、若し會せずば卽ち世俗の道理となるべし。若し人世間の道理を說くを聞て日來の粘縛を解脫して、直に本分に契當することあらば此の世俗の道理、卽ち是甚深の法門なり。若し人順逆の緣にあふて心をみだる分はなくとも、そのまゝにて本分をあきらむる事なくば、只是北州天上の果報を得る人となるべし。羅漢果を證したる人は貪瞋癡を永く斷じて三界を出離したれ共、いまだ大乘の正理にはかなはず。故に圓覺經に云く、念を動ずるも迷ひなり。念をやむるも又迷ひなりと云云。しかれ共若し先づ淺近の道理をしりて世情をやはらげて佛法を修行せんをばきらふべからず。たとひ世情もやはらぎて、純一に佛法を行ずとも若し又、悟入を求め、成佛を求め、神通を求め、辨說を求むる心あらば、本分にかなふことあるべからず。是を以て達磨大師第三に無所求行を立られたり。金剛經に云く、法尙を捨つべし。何に況んや、非法をやとは此の意なり。さればとて禪宗の學者所求なきを究竟とするにあらず。所求なれば左右に原に逢ふて諸緣境界も我れをなやまさず、天魔外道も便を得ず。此に到りて寤寐憶忘の隔てなし。見聞覺知も別の事にあらず。故に第四に稱法行を立られたり。たとひかやうなりとも猶ほ、是れ功勳邊の事なり。大休大歇の處とは思ふべからず。
現代語訳
もしまた福分があって官位も進み、財宝も豊かで、名誉も人にまさり、芸能も世にこえるところがあったとしても、それはみな前世に修めた有漏の善根に応じた果報であり、威勢である。いつまでも保てるものではないと思って、これを誇り、これに執着する心のないのを、随縁行と名づけた。この二行の理は、さほど奥深い教えではないけれども、教外の宗旨を信ずる人の中でも、過去の薫習が薄い人は、逆境・順境の縁に会うとき、心を乱して仏法を忘れる。仏法をさすがに片隅には心にかけているようだが、逆境・順境の縁は途切れなく続いて暇がないので、工夫が熟する分がない。この二行の理は、たとえ智慧のない人でも心得られるだろう。まずこのような理を知って、逆境・順境の縁に対するとき心を乱さなければ、自然に工夫も純一になるはずである。そのため達磨大師はまずこの二行を立てられたのである。荘子などが、苦楽・逆順に心を動かさないのを無為の道にかなうと考えたのとは同じではない。そうであれば、中古の宗師たちの中にも、このような理を示された人がいる。近ごろの天目山の広慧禅師中峰和尚の戒めの多くが、世情のゆがみを戒めておられるのも、この意味である。ところが、なまじ小智のある人がこれを見て、このような道理は外典や小乗の教えであって、祖門の宗旨ではないと非難する。祖師門下の宗師は、教門のように浅い教えと深い教えを立て分け、機根に応じて説くのではない。あるときは世間の道理を説き、あるときは出世間の教えを談ずる。すべて定まった筋道はない。みな人のために粘りつきをほどき、縛りを解く手だてである。古人は、会得すれば途中の受用、会得しなければ世諦の流布である、と言う。たとえ向上の玄旨を示しても、学人がもし会得しなければ、世俗の道理になってしまう。もし人が世間の道理を説くのを聞いて、日ごろの粘りつきを解き、直ちに本分にかなうことがあれば、この世俗の道理がそのまま甚深の教えである。もし人が、順境・逆境の縁に会って心を乱すことがなくても、そのままで本分を明らかにすることがなければ、ただ北州や天上の果報を得る人になるだけだろう。羅漢果を証した人は、貪・瞋・癡を永く断ち、三界を出離したけれども、まだ大乗の正しい理にはかなわない。だから円覚経に、念を動かすのも迷い、念をやめるのもまた迷い、と言う。しかしながら、まず浅近の道理を知って世情を和らげ、仏法を修行するのを嫌ってはならない。たとえ世情が和らぎ、純一に仏法を行じても、さらに悟り入ることを求め、成仏を求め、神通を求め、弁説を求める心があれば、本分にかなうことはあり得ない。このため達磨大師は第三に無所求行を立てられた。金剛経に、法でさえ捨てるべきである。まして非法はなおさらだ、とあるのはこの意味である。だからといって、禅宗の学人が無所求を究極とするのではない。求めるところがなければ、左右どこでも源に出会い、あらゆる縁の境界も自分を悩まさず、天魔や外道も付け入る隙を得ない。ここに至れば、寝ても覚めても、思い出すことと忘れることの隔てがない。見聞覚知も別のことではない。だから第四に称法行を立てられた。たとえそうであっても、これもなお功勲の辺のことである。大いに休み大いに歇む境地とは思ってはならない。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』福を求める欲を捨てよ問衆生の苦をぬきて樂をあたふる事は、佛の大慈大悲なり、しかるを佛敎の中に人の福を求るを制する事は何故ぞや。 答世間に福をもとむる人、或は商賣農作の業をいとなみ、或は利錢賣買の計りごとをめぐらし、或は工巧伎藝の能をほどこし、或は奉公給仕の功をいたす其のしわざは各ことなれども、其の志は皆同じ其のありさまを見るに、生涯たゞ身心を苦勞するばかりにて、其の志のごとくに求め得たる福もなし其の中にたま〱求め得て一旦の樂みありといへども、或は火にやかれ水にながされ、或は賊人にとられ、官人にうばゝる、たとひ一期の間かゝる難にあはざる者も、報命つくる時、其の福身に隨ふ事なし、福多ければ罪も亦多きが故に來生に必ず惡道に入る小利大損なる事、何事か是にしかんや。今生に貧人となれる事は前世の慳貪の業のむくひなり、かやうの理をばしらすして、或は世をわたる計のつたなき故にまづしき人ありと思へり、若前世の福因なくばたとひ世をわたるやうをさま〱に習ふて其ごとくにふるまふとも、福分のまさる事あるべからず、まさにしるべし世をわたる計のつたなき故に、まづしきにはあらず、たゞ是福分のあるまじき故に世をわたる計のつたなきなり、或は我が身のまづしき事は給はるべき御恩を給はらざる故也とて、主人をうらむる人あり、或は我がしるべき所領を他人にうばひとられたる故にこそ、まづしけれとて腹をたつる人あり、是も又御恩をかうふらす所領をうばゝれたる故にまづしきにはあらず、まづしかるべき業報にて給はるべき御恩をも給はらずしるべき所領をもしりえざるなり。然らば卽ち福をもとむる欲心をだに捨つれば福分は自然に滿足すべし、是の故に佛敎に人の福を求むる事を制するなり。福をもとめずしてまづしかれとにはあらず。昔天竺の須達長者老後に福報おとろへて世をわたる計略もつきはてゝ、年來の眷屬一人もなし、たゞ夫妻二人のみに成にけり。財寶はなけれ共、さすがに空倉はあまたありけり。若やとて倉の内をさがす程に旃檀にてさしたる斗を一つ求め得たり。これを米四升にかへてこれにて二三日の命をばつぎ、なんとうれしく思へり。須達は別事によりて他行しぬ。其あとに舍利弗須達か家に到りて乞食し玉ふ。須達が妻四升の米を、一升分けて供養し奉る。其の後目蓮迦葉來りて乞ひ給ふ。又二升奉りぬ。其の殘り一升になりぬ。是れだにあらば、今日ばかりの命をば續なんと思ふほどに、又如來到り給へり。惜み申べきやうもなし、やがて供養し奉る。さても須達が外へいでつるが、つかれにのぞみて歸り來らん時、いかゞはせんと思ふもかなしく、又佛僧を供養し奉ることも時にこそよれ、我が命だにも續がたきおりふしに四升ながら皆奉ることしかるべからずと、須達にしかられんこともあさましく覺て泣臥したり。さる程に須達外より歸りて、其の妻の泣臥したるをあやしみて、其の故を問けるに、其の妻ありのまゝに答ふ。須達これをきゝて申すやう、三寳の御ためには、身命をも惜み奉ることあるべからず。只今やがて餓死に及ぶとも、いかで我身のためとて、物を惜み奉ることあらんや。ありがたく思ひよれりと感歎す。其の後、若し又さきの斗ふぜいの物もあるやとて、空倉に入て求めんとすれば、倉ごとにその戶つまりてあかず。あやしみて戶を打破りて見ければ、米錢絹布金銀等種々の財寶本の如く、面々の倉にみちみてり。其の時眷屬も又集りてもとの長者に成にけり。かゝる福分の再び來れる事は、四升の米のかはりに佛のあたへ給へるにはあらず。たゞ是須達夫妻ともに、無欲清淨なる心中より來れり。末代なりとも若人かやうに無欲ならば、無限の福德やがて滿足すべし。たとひ生れつきにかやうの心なくとも小利を求める心をひるがへして、須達夫妻が心をまなべば、何ぞかやうの大利を得ざらんや。須達か心をばまなばずして、たゞかれがごとく樂みを得んと思て、欲情のまゝに福を求めば、今生に求め得たる大利のなきのみにあちず。來生はかならず餓鬼道に入るべし。
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夢中問答集・『夢中問答集』夢と本分の家(下)佛法も亦かくのごとし、本分の田地には凡聖の相もなく淨穢の境もなし、無明業識の一夢起るが故に、無相の中に淨穢の境界を現じ、無爲の中に凡聖の差別を見る、我は凡夫也と思ふ時は東西に馳走して名利を求む求め得ざる時はなげきかなしむ。我は智人也と思ふ時は、一切の人をかろしめて高慢の心を起す、かゝる種々の顚倒にばかされて本分安樂の田地ある事を信ぜず。是れ卽ち夢中の妄境に心を轉せられてうつゝの境界を信せざるがごとし、其の中にたま〱利根の人ありて、凡聖淨穢業識の上に浮べる假相也。本分の田地にはすべてかやうの事なしと信ずれ共、いまだ大悟せざる故に、やゝもすれば幻化に誑惑せられて、我は是れ迷人也と思ひならはせる我執いまだ忘せざる故に、得法悟道をねがひ機辨神通ををうらやむ。しかる故に修行用心について邪正を論じ、應用問答において勝劣をあらそふ。此れは是れ夢みる人の我が所見は皆な夢也と信ずれ共、大夢いまださめざる故に、夢の境界にばかはされて其の中について、是非得失を論ずるがごとし。若し是れ最上根の人はたとひいまだ大悟の分はなけれ共、自他身心を計する事皆是れ業識の妄想也と分明に信解する故に、輪廻をもいとはず、解脫をも求めず、若しかくのごとくならば趣向の正しき人と申すべし。趣向のたゞしきをたのみて、滿足の思をなさば亦謬りなり。圓覺經に云く、衆生顚倒して妄に四大をとめて自身の相とし、六塵の緣影を自身の相とす、たとへば病目の空中の花及び第二の月を見るがごとし。是れによりて、妄に生死に輪轉する事あり、この故に無明となづく。此の無明といふは、實に體あるにあらず、夢中に人を見るときは其の體なきにあらざれ共、夢さめぬれば其の人ある事なきがごとし。首楞嚴經に云く、妙性圓明にして諸の名相をはなれたり、本より世界衆生ある事なしと云云。諸大乘經みな同じくかやうに說けり、何ぞこれを信ぜずして、身心を勞役して外に向つて馳求するや。世間の吉凶其の相いまだあらはれざる時は、愚人これをしらず。然れども世間の巫女陰陽師等のうらなひしめす言を信じて、それにまかせてふるまへば、時節到來して其の效をみる事あり。本分の一段は人々具足すれども、いまだ契當せざる人は、日に用ひて知る事なし。是の故に佛祖大慈をたれて叮嚀にしめし玉へり。たとひ宿習うすくして、直下に契當する事なくとも世間の陰陽師等を信ずるがごとく、佛祖の言を信じて、それにまかせて用心せば、何ぞしるしなからんや。
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夢中問答集・『夢中問答集』癡福は三生の怨み問あまりに善根に心をかたぶけたる故に、政道の害になりて、世もおさまりやらぬよしを申す人あり。其の謂れありや。 答聖敎の中に癡福は三生の怨みと申す事あり。其の故は愚癡にして有漏の善をのみ作つて一生をすごす程に、心地を明むる事あたはず。是れ一生の怨みなり。此の有漏の善によりて次の生に欲界の人天に生れて、富貴の果報を得る故に世間の愛着もいよ〱深く、罪業の熏力も亦重し、たとひ罪業をばさしもつくらぬ人なし共。政務に心を亂り、嬉戯にひまのなき故に、正法を行ずることはなし、是二生の怨みなり。前世の有漏の善根は今生に受盡しぬ、曠劫の無明の熏力はいよ〱かさなれる故に、又次の生には惡趣に墮す。この故に、癡福は三生の怨みと申すなり。しかれ共、提謂經等の中に五戒十善等の有曠の善根を修すべきことを說き給へり。これを人天敎となづく。宿習のつたなき故に正法を行せよと如來すゝめ給ふともかなふまじき人をば、先づ彼れがねがふ所の人天の果報を得せしめて漸く引導して、正法に入しめんために、しばらく有漏の善根を修すべきことを敎へ給へり。しかれば末代のありさま今生の祈り來世の福のためとて善を修し給ふもありがたきことなれば、あながちに制し申すべきにはあらねども、同くは三生の怨みとなさぬやうに勤行せられば、卽ち是れ如來の本意なり。いまだ心地をさとらざる人は、たとひ種々の善をなせども、皆有漏の善となるなり。敎禪の宗師同じく、先づ心地をあきらめて後に諸善をば修せよとすゝめ給へるは此の意なり。天台大師六卽の位を立て修證の階を判し給へる中に、妙解開けて後、觀行卽の初品の位に到るまでも他人のために法門をとき、自行のために經呪を讀誦するをも道の障りとてこれを制す。第二品の位に到つて始めて讀經誦呪をゆるし、第三品に到つて、すこしき說法利生の分をゆるせり。第四品に到つて始めて六度を兼行し、第五品に到つて正しく六度を行して衆生を利益すべしと見へたり。圓悟禪師の心要に悟性勸善の文として載せられたるも、先づ心性を悟て、然して後に善根をば修せよとの由しなり心地を悟らざる人は、所作の善根たゞ有爲の果報の因なるが故に、出離の要道とはならず。たま〱法を說き人を度すれども、愛見の大悲に墮するが故に、眞實の化導にはあらず、是を以て有漏の善根をば制して、正法を行ずることをすゝむるなり。