夢中問答集 / 『夢中問答集』真実の道心とは何か
問菩提心を發すと申すことは、いかやうに心をおこすことぞや。 答佛法の機根を論ずるに上中下の三品あり。其なかの上根をば菩薩と名く菩薩とは梵語なり。具には菩提薩埵といへり。菩提をば覺とも翻じ、道とも翻せり。薩埵とは有情といへる言なり。然らば卽ち在家出家ことなりといへ共、衆生のために佛道をもとむる人を菩薩と申すなり。敎中に菩提心を論ずるに種々の差別あり。要を取ていはゞ二種あり。淺近の道心と眞實の道心となり。生者必滅盛者必衰の理をしりて、世間の名利を心にかけず。單に出離の道を求むるをば淺近の道心となづく。龍樹菩薩の云く世間の無常を觀ずるを且く菩提心となづくと云云。淺きより深きには入る習ひなる故に、淺近の道心もおこらぬ人は、眞實の道心を發すこともあるべからず。古來の宗師直に本分を示すといへ共、つねには學者に向つて無常迅速の理を說かるゝ事も此の意なり。しかれ共、若たゞ生死無常を怖れて世欲の名利を求めざるばかりにて、眞實の道心を發すことなくば、亦是れ愚人なり。昔許由が唐堯の位をゆづり給ふをきゝて、頴川に耳をあらひしに、巢父其の流れをのませしとて牛をひきてかへりけり。これらがありさまを見るに、王位をだにのぞまず。いはんやよのつねの名利をやまことにありがたきには似たれ共、たゞ是世間の賢人といへる分劑なり。眞實の道心者とはいふべからず。しかるをつねさまの人は世間の名利を捨て、山林にいほりを結びて瀧の音松の嵐に心をすませるを道心と思へり。亦是れ許由巢父が同類也。眞實の道心とは申すべからず。無行經に云く、若し山林空閑の處に住して我れは貴し。人は賤しと思へる人は天上に生ずる事だにもあるべからず。いはんや成佛をやと云云。眞實の道心とは無上菩提を信ずる心の發れる也。諸の經の中に、阿耨多羅三藐三菩提と說けるは是也。阿耨多羅とは無上の義也。三藐三菩提とは正等正覺といへる言也。菩提をば道共翻する故に諸經の中に無上道と說けるは、阿耨菩提の事也。此の無上菩提は人々具足し、箇々圓成せり。凡にありても減ぜず。聖にありても增ぜず。古にわたり、今にわたりて、更に變易なしと信ずるを眞實の道心と名く。經に云く、菩薩は最初發の時、一向に菩提をもとめて堅固にして動ぜず。此の文の意も菩薩は初發心の時より一向に無上道を求めて、たゞ世間の名利のみにあらず。小乘權敎の見解をもおこさぬことをとかれたり。たとひかやうなりとも、是れも猶本有の無上菩提を信ずるばかりにて、いまだ相應の分なくば眞實の道心にはあらず。涅槃經に菩提心は生滅無常なり。常住不滅の佛性にはあらずと說けるは、此の意なり。華嚴經に阿耨菩提は已退もなく、今退もなく當退もなしと說けるは、人々具足せる本有の菩提心なり。眞言宗にはこれを淨菩提心となづけたり。大日經に云く、いかなるをか菩提といふや。實のごとく自心を知るなり。同疏の中に問ていはく、若し心すなはち菩提ならば衆生何としてか佛にならざるや。答ていはく、實のごとくしらざる故なり。若し實のごとくしらば初發心の時やがて正覺を成ずべしと云々。いまだ此の本有の菩提心に相應せざる人は、二六時中、若し萬事心にかゝらず。純一に修行せらるゝ行は、我れは道心堅固にして修行の力量ありと思て、高慢の心をおこす故に必ず魔道に入る。若し又此の道心よはくなりて、世緣のためにみたられ昏散のためにおかさるゝ時は、かくて生死到來せば輪廻をまぬがれたしといふ怖畏あり。かゝる怖畏と高慢とに障られて、いよ〱本有の菩提心を昧ませり。初心の行者若し、かやうの心のおこらんときは、我れいまだ無上道に相應せざる故に、此の妄想は起れりとしりて一切放下して直下に參究せば、かならず相應の時節あるべし。其の時始めて眞實の菩提心はおこることもなく、さむる事もなしといふことを自らしるべし。無行經に云く、若し人菩提を求めば是人には菩提なし。若し菩提の相を見ば是れ卽ち菩提をとほざかるなりと云云。
新字:問菩提心を発すと申すことは、いかやうに心をおこすことぞや。 答仏法の機根を論ずるに上中下の三品あり。其なかの上根をば菩薩と名く菩薩とは梵語なり。具には菩提薩埵といへり。菩提をば覚とも翻じ、道とも翻せり。薩埵とは有情といへる言なり。然らば即ち在家出家ことなりといへ共、衆生のために仏道をもとむる人を菩薩と申すなり。教中に菩提心を論ずるに種々の差別あり。要を取ていはゞ二種あり。浅近の道心と真実の道心となり。生者必滅盛者必衰の理をしりて、世間の名利を心にかけず。単に出離の道を求むるをば浅近の道心となづく。竜樹菩薩の云く世間の無常を観ずるを且く菩提心となづくと云云。浅きより深きには入る習ひなる故に、浅近の道心もおこらぬ人は、真実の道心を発すこともあるべからず。古来の宗師直に本分を示すといへ共、つねには学者に向つて無常迅速の理を説かるゝ事も此の意なり。しかれ共、若たゞ生死無常を怖れて世欲の名利を求めざるばかりにて、真実の道心を発すことなくば、亦是れ愚人なり。昔許由が唐堯の位をゆづり給ふをきゝて、頴川に耳をあらひしに、巣父其の流れをのませしとて牛をひきてかへりけり。これらがありさまを見るに、王位をだにのぞまず。いはんやよのつねの名利をやまことにありがたきには似たれ共、たゞ是世間の賢人といへる分剤なり。真実の道心者とはいふべからず。しかるをつねさまの人は世間の名利を捨て、山林にいほりを結びて滝の音松の嵐に心をすませるを道心と思へり。亦是れ許由巣父が同類也。真実の道心とは申すべからず。無行経に云く、若し山林空閑の処に住して我れは貴し。人は賤しと思へる人は天上に生ずる事だにもあるべからず。いはんや成仏をやと云云。真実の道心とは無上菩提を信ずる心の発れる也。諸の経の中に、阿耨多羅三藐三菩提と説けるは是也。阿耨多羅とは無上の義也。三藐三菩提とは正等正覚といへる言也。菩提をば道共翻する故に諸経の中に無上道と説けるは、阿耨菩提の事也。此の無上菩提は人々具足し、箇々円成せり。凡にありても減ぜず。聖にありても增ぜず。古にわたり、今にわたりて、更に変易なしと信ずるを真実の道心と名く。経に云く、菩薩は最初発の時、一向に菩提をもとめて堅固にして動ぜず。此の文の意も菩薩は初発心の時より一向に無上道を求めて、たゞ世間の名利のみにあらず。小乗権教の見解をもおこさぬことをとかれたり。たとひかやうなりとも、是れも猶本有の無上菩提を信ずるばかりにて、いまだ相応の分なくば真実の道心にはあらず。涅槃経に菩提心は生滅無常なり。常住不滅の仏性にはあらずと説けるは、此の意なり。華厳経に阿耨菩提は已退もなく、今退もなく当退もなしと説けるは、人々具足せる本有の菩提心なり。真言宗にはこれを浄菩提心となづけたり。大日経に云く、いかなるをか菩提といふや。実のごとく自心を知るなり。同疏の中に問ていはく、若し心すなはち菩提ならば衆生何としてか仏にならざるや。答ていはく、実のごとくしらざる故なり。若し実のごとくしらば初発心の時やがて正覚を成ずべしと云々。いまだ此の本有の菩提心に相応せざる人は、二六時中、若し万事心にかゝらず。純一に修行せらるゝ行は、我れは道心堅固にして修行の力量ありと思て、高慢の心をおこす故に必ず魔道に入る。若し又此の道心よはくなりて、世縁のためにみたられ昏散のためにおかさるゝ時は、かくて生死到来せば輪廻をまぬがれたしといふ怖畏あり。かゝる怖畏と高慢とに障られて、いよ〱本有の菩提心を昧ませり。初心の行者若し、かやうの心のおこらんときは、我れいまだ無上道に相応せざる故に、此の妄想は起れりとしりて一切放下して直下に参究せば、かならず相応の時節あるべし。其の時始めて真実の菩提心はおこることもなく、さむる事もなしといふことを自らしるべし。無行経に云く、若し人菩提を求めば是人には菩提なし。若し菩提の相を見ば是れ即ち菩提をとほざかるなりと云云。
書き下し
問菩提心を發すと申すことは、いかやうに心をおこすことぞや。 答佛法の機根を論ずるに上中下の三品あり。其なかの上根をば菩薩と名く菩薩とは梵語なり。具には菩提薩埵といへり。菩提をば覺とも翻じ、道とも翻せり。薩埵とは有情といへる言なり。然らば卽ち在家出家ことなりといへ共、衆生のために佛道をもとむる人を菩薩と申すなり。敎中に菩提心を論ずるに種々の差別あり。要を取ていはゞ二種あり。淺近の道心と眞實の道心となり。生者必滅盛者必衰の理をしりて、世間の名利を心にかけず。單に出離の道を求むるをば淺近の道心となづく。龍樹菩薩の云く世間の無常を觀ずるを且く菩提心となづくと云云。淺きより深きには入る習ひなる故に、淺近の道心もおこらぬ人は、眞實の道心を發すこともあるべからず。古來の宗師直に本分を示すといへ共、つねには學者に向つて無常迅速の理を說かるゝ事も此の意なり。しかれ共、若たゞ生死無常を怖れて世欲の名利を求めざるばかりにて、眞實の道心を發すことなくば、亦是れ愚人なり。昔許由が唐堯の位をゆづり給ふをきゝて、頴川に耳をあらひしに、巢父其の流れをのませしとて牛をひきてかへりけり。これらがありさまを見るに、王位をだにのぞまず。いはんやよのつねの名利をやまことにありがたきには似たれ共、たゞ是世間の賢人といへる分劑なり。眞實の道心者とはいふべからず。しかるをつねさまの人は世間の名利を捨て、山林にいほりを結びて瀧の音松の嵐に心をすませるを道心と思へり。亦是れ許由巢父が同類也。眞實の道心とは申すべからず。無行經に云く、若し山林空閑の處に住して我れは貴し。人は賤しと思へる人は天上に生ずる事だにもあるべからず。いはんや成佛をやと云云。眞實の道心とは無上菩提を信ずる心の發れる也。諸の經の中に、阿耨多羅三藐三菩提と說けるは是也。阿耨多羅とは無上の義也。三藐三菩提とは正等正覺といへる言也。菩提をば道共翻する故に諸經の中に無上道と說けるは、阿耨菩提の事也。此の無上菩提は人々具足し、箇々圓成せり。凡にありても減ぜず。聖にありても增ぜず。古にわたり、今にわたりて、更に變易なしと信ずるを眞實の道心と名く。經に云く、菩薩は最初發の時、一向に菩提をもとめて堅固にして動ぜず。此の文の意も菩薩は初發心の時より一向に無上道を求めて、たゞ世間の名利のみにあらず。小乘權敎の見解をもおこさぬことをとかれたり。たとひかやうなりとも、是れも猶本有の無上菩提を信ずるばかりにて、いまだ相應の分なくば眞實の道心にはあらず。涅槃經に菩提心は生滅無常なり。常住不滅の佛性にはあらずと說けるは、此の意なり。華嚴經に阿耨菩提は已退もなく、今退もなく當退もなしと說けるは、人々具足せる本有の菩提心なり。眞言宗にはこれを淨菩提心となづけたり。大日經に云く、いかなるをか菩提といふや。實のごとく自心を知るなり。同疏の中に問ていはく、若し心すなはち菩提ならば衆生何としてか佛にならざるや。答ていはく、實のごとくしらざる故なり。若し實のごとくしらば初發心の時やがて正覺を成ずべしと云々。いまだ此の本有の菩提心に相應せざる人は、二六時中、若し萬事心にかゝらず。純一に修行せらるゝ行は、我れは道心堅固にして修行の力量ありと思て、高慢の心をおこす故に必ず魔道に入る。若し又此の道心よはくなりて、世緣のためにみたられ昏散のためにおかさるゝ時は、かくて生死到來せば輪廻をまぬがれたしといふ怖畏あり。かゝる怖畏と高慢とに障られて、いよ〱本有の菩提心を昧ませり。初心の行者若し、かやうの心のおこらんときは、我れいまだ無上道に相應せざる故に、此の妄想は起れりとしりて一切放下して直下に參究せば、かならず相應の時節あるべし。其の時始めて眞實の菩提心はおこることもなく、さむる事もなしといふことを自らしるべし。無行經に云く、若し人菩提を求めば是人には菩提なし。若し菩提の相を見ば是れ卽ち菩提をとほざかるなりと云云。
現代語訳
問:菩提心を発すということは、どのように心を起こすことか。 答:仏法を受ける者の素質を論ずると、上・中・下の三種がある。その上根の人を菩薩と呼ぶ。菩薩とは梵語で、詳しくは菩提薩埵という。菩提は覚とも道とも訳され、薩埵は有情という意味である。そうであれば、在家と出家の違いはあっても、衆生のために仏道を求める人を菩薩というのである。教えの中で菩提心を論ずるには種々の区別があるが、要を取れば二種ある。浅近の道心と真実の道心である。生ある者は必ず滅し、盛んな者は必ず衰えるという理を知って、世間の名利を心にかけず、ひたすら迷いの世界を出る道を求めるのを、浅近の道心と呼ぶ。龍樹菩薩は、世間の無常を観ずることを、ひとまず菩提心と名づける、と言っている。浅いところから深いところへ入るのが習いであるから、浅近の道心さえ起こらない人は、真実の道心を発すこともあり得ない。古来の師たちが、直に本分を示しながらも、常に学人に向かって無常迅速の理を説かれるのも、この意味である。しかし、ただ生死無常を恐れて世間の欲の名利を求めないだけで、真実の道心を発すことがなければ、それもやはり愚人である。昔、許由が唐堯から帝位を譲られると聞いて、潁川で耳を洗ったところ、巣父がその流れを牛に飲ませまいとして牛を引いて帰った。この有り様を見ると、王位さえ望まない。ましてありふれた名利はなおさらで、まことに得がたいように見えるが、これはただ世間の賢人という程度である。真実の道心者とは言えない。それなのに普通の人は、世間の名利を捨て、山林に庵を結んで、滝の音や松風に心を澄ませるのを道心と思っている。これもまた許由・巣父の同類である。真実の道心とは言えない。無行経に、もし山林の静かな所に住んで、自分は尊く人は卑しいと思う人は、天上に生まれることさえできない。まして成仏はなおさらだ、とある。真実の道心とは、無上菩提を信ずる心が発したものである。諸経の中で阿耨多羅三藐三菩提と説いているのがこれである。阿耨多羅とは無上の意味、三藐三菩提とは正等正覚という意味である。菩提は道とも訳されるので、諸経の中で無上道と説いているのも、阿耨菩提のことである。この無上菩提は人々がみな具え、一人ひとりに完成している。凡夫にあっても減らず、聖者にあっても増えず、昔から今までまったく変わらないと信ずるのを、真実の道心と呼ぶ。経に、菩薩は最初に発心したとき、ひたすら菩提を求めて堅固で動じない、とある。この文の意味も、菩薩は初発心のときからひたすら無上道を求めて、世間の名利だけでなく、小乗や権教の見解さえも起こさないことを説いたものである。たとえそうであっても、これもなお、本来具わる無上菩提を信ずるだけで、まだ相応する分がなければ、真実の道心ではない。涅槃経に、菩提心は生滅無常で、常住不滅の仏性ではない、と説くのはこの意味である。華厳経に、阿耨菩提は過去にも退かず、現在にも退かず、未来にも退かない、と説くのは、人々がみな具えている本有の菩提心のことである。真言宗ではこれを浄菩提心と名づけている。大日経に、菩提とは何か。ありのままに自らの心を知ることである、とある。その疏の中で、問うて言う。もし心がそのまま菩提なら、衆生はなぜ仏にならないのか。答えて言う。ありのままに知らないからである。もしありのままに知れば、初発心のときにたちまち正覚を成ずる、と。まだこの本有の菩提心に相応していない人は、昼夜を通して万事が心にかからず、純一に修行できているとき、自分は道心が堅固で修行の力量があると思って高慢の心を起こすので、必ず魔道に入る。またもし、この道心が弱くなり、世俗の縁に乱され、昏沈や散乱に侵されるときには、このままで死が来たら輪廻を免れられないという恐れが生じる。この恐れと高慢に妨げられて、いよいよ本有の菩提心を暗ませてしまう。初心の行者は、もしこのような心が起こったときは、自分がまだ無上道に相応していないからこの妄想が起こるのだと知り、一切を投げ捨てて直下に参究すれば、必ず相応する時節がある。そのとき初めて、真実の菩提心は起こることもなく、醒めることもないと、自ら知るであろう。無行経に、もし人が菩提を求めるなら、その人に菩提はない。もし菩提の相を見るなら、それは菩提から遠ざかることである、とある。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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夢中問答集・『夢中問答集』三種の慈悲と小慈の障り問禪門の宗師の語をみれば、先自心を悟りて後やうやく舊業習餘をつくして餘力あらば、他人に及ぼすべしとすゝめられたり。若しからば敎の中に自いまだ度を得ざるに、先他人を度するは菩薩の願なりといへるにそむかずや。 答慈悲に三種あり、一つには衆生緣の慈悲、二つには法緣の慈悲、三つには無緣の慈悲なり。衆生緣の慈悲といふは、實に生死にまよへる衆生ありとみて、これを度して出離せしめんとす。是は小乘の菩薩の慈悲なり。自身ばかりの出離をもとむる二乘心にはまされりといへども、世間の實有の見に墮して、利益の相を存ずるが故に、眞實の慈悲にあらず、維摩經の中に愛見の大悲とそしれるは是れなり。法緣の慈悲と云ふは、緣生の諸法は有情非情みな幻化のごとしと通達して、如幻の大悲をおこし、如幻の法門を說ひて如幻の衆生を濟度す。是れ卽ち、大乘の菩薩の慈悲なり。かやうの慈悲の實有の情をはなれて、愛見の大悲にはことなりといへ共、猶も如幻の相を存ずるが故に、是れも亦眞實の慈悲に非ず。無緣の慈悲と云ふは佛果に到つて後ち、本有性德の慈悲あらはれて、化度の心をおこさゞれ共、自然に衆生を度する事月の衆水に影をうつすがごとし。然れば卽ち法を演ぶるに說不說のへだてもなく、人を度するに益無益の相もなし。是れを眞實の慈悲となづく。衆生緣法緣の慈悲にかゝはる人は其の慈悲にさへられて、無緣の慈悲を發することあたはず。小慈は大慈のさまたげといへるは此の義なり。百丈の大智禪師の小功德、小利益をむさぼる事なかれといましめ給へるもこの意なり。禪門の宗師の人にしめす旨趣かくのごとし。
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夢中問答集・『夢中問答集』心とは何か、身心は幻か問此の身は貴賤ことなりといへども、同じく生老病死にうつさる、實に幻化のごとし。此の心は色形なければ、常住不滅なるべししかるを身心俱に幻化のごとしといへることは、何ぞや經の中にも心は幻のごとしと說ける文もあり、心は常住不滅と明せる言もあり、何れの中をか正とすべきや。 答心といへる言は同じけれども、其の義に種々の差別あり、樹木の皮膚は皆朽失せて其の中の堅實にして、くちのこれる處をも木心となづく、梵語にはこれを乾栗駄といへり、紇栗陀耶ともいへり。密宗に肉團心を明せり、宗鏡錄の中には肉團心の梵語は、紇利陀耶といへり。木石等の年を經て精靈あるをも心といふ。梵語にはこれを矣栗駄といへり、慮知分別するをも心となづく有情の類にこれあり、梵語には質多といへり、凡夫の我心と計する者のは是なり。小乘敎の中に心といへるも、此の質多心をさすなり、眞言敎に質多心を菩提心と談ずる事あり、凡夫所計の質多にはあらず、梵語には阿賴耶といへるをば漢語には含藏識といへり、卽ち是れ第八識なり。梵語には末那といへるは漢語には染汚意となづく、卽ち是第七識なり、これらは皆有情の具足せる心法の類なり。此の二つは大乘に始めてあかせり凡夫小乘はかやうの心ありともしらず、第八識は無明と法性と和合する處なるが故に、唯妄にもあらず唯眞にもあらず、此の八識を心王と談ずる敎もあり。或は此の上に第九識を立たり梵語には庵摩羅と名けたり。漢語には清淨無垢識といへり、此は是れ衆生の本心なり、迷倒の時も迷倒に染せられず、故に清淨無垢となづけたり、かゝる種々の謂れあるによりて一心についてしばらく眞妄をわかてり、凡夫の慮知分別は悉く是れ妄心なり、四大和合する時假りに此の相あり、すべて實體なし故にこれを空花にたとへ幻化にたとふかやうの妄心眞心によりてかりに起れり。故にすべて目體なし、たとへば人の本月によりて、第二の月を見るがごとし。月に二相はなけれ共、目をひねる者の所見によせて第二月とは名けたり。心に二相はなけれ共迷人の我心と思へるものは實にあらず、故に幻心となづく實は生滅心ともいへり。妄心とて實に生滅する物あるにはあらず、聖人の所見に約すれば常住不滅なり、故にこれを眞心と名けたり。かやうのわけめをしらしめんために、眞心を梵語に說く時は、乾栗駄といへり、樹木の堅實不壞の義になぞらへて衆生の本心の金剛不壞なる事をあかせり。楞伽經の中に、或は自心と說き、或は妙心と說ける心の字の下に皆梵語は、乾栗駄と註せるは此の意なり。梵語の心經に心の字をば紇栗駄耶といへり、宗鏡錄の中には、心にあまたのしなある事を明かして、今は乾栗駄心を宗とすといへり。凡夫の心と思へる者は色形見えずといへ共、刹那に生滅してしばらくも停住せざる事水の流注し燈の焰を續がごとし。色身と同じく、生住異滅すしかるを身は、生滅すれども心は常住なりと思へるは外道の見なり。心を常住といふ事は、凡聖同體にして色心不二なる一心法界をしめすなり。されば語人の所見に約すれば、たゞ心のみ常住なるにあらず身も亦常住なり。しかるを身は生滅し、心は常住なりと申すは、大乘の法門にあらず、大日經の疏に云く、一切衆生の色心實相にして、本より毘盧遮那の平等智身なりと云云。昔南陽の忠國師僧に問て云く、汝何れの處よりか來る僧の云く、南方より來れり。國師の云く、南方の知識如何か人にしめすや。僧云く、身は壞滅すといへ共、心は常住不滅なり。國師の云く、此は是れ外道の神我の見なり。僧の云く。和尙如何か人にしめす。國師の云く、我は說く身心一如なりと云云。そのかみ馮濟川といへる俗人ありき、壁の上に死屍を繪にかけるを見て、これを題して一偈を述ぶ。屍は這裏にあり、其の人何くにか在る、乃ち知んぬ一靈皮袋に居せざる事を、此の偈の意は、一靈とは心をさし皮袋とは身をたとへたり、此の人いまだ神我の見をまぬがれず、故に大慧禪師うけがはず、別に一偈を作り給へり。此の形骸に卽して便ち是其の人なり、一靈皮袋、皮袋一靈、濟川が偈は其の意やしりやすし、大慧の頌をばいかゞ心得べき、身心一如なる法門は、大乘の通理なる故に其口頭の所談を取らば、大慧の意にそむくことあらんや。其の心中の計著を論せば、濟川が見を越ざる人も多かるべし、眞心妄心の差別は圓覺楞嚴等の經の中にくはしく明せり、具さに引くに及ばず。
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夢中問答集・『夢中問答集』砂を煮て飯にならず問ゆがめる物をおしなをせば、すぐになるがごとく凡夫の妄心の邪僻なるを修練して、眞正になせば佛心ともなるべきとこそ覺ゆるを、妄心は第二の月に同じとて一向にきらふことは何ぞや、若し爾らば凡夫の佛に成ることはあるまじきやらん。 答此の疑は是圓覺經の中の普賢菩薩の疑問なり、首楞嚴經の中に阿難亦此の疑ひを生ぜり。佛阿難に告げて云はく、汝本心を失つて慮知分別の心をとめて自心と思へり。此れは汝が心にあらず、阿難疑つて云く六道に輪廻する事も此の心によれり、乃至佛果を得る事も亦此心によるべし。しかるを此の心若し我が心にあらずば何を以て修行して佛果を成ずべきや。若し此の心なくば土木瓦石と何ぞことならん、佛の言く、汝が心をおさへて無しと思へといふにはあらず。汝が心と思へるもの實に有る者ならばかならず、在る所あるべし、何れの處にか在るやと問ひ玉ふ時、阿難始めは此の心は身の內にありと答へ申さる。佛汝が身の內にも此の心なきよしを責め玉ふ時、阿難言く身の外にあり佛又これをしからずと責め玉ふ、阿難かくのごとく七處までさし申さる、最後には我が心は內にあるにもあらず、外にあるにもあらず、中間にあるにもあらず、一切無著なるは我が心なりとのべられき。しかれども、佛皆これをゆるし玉はず、この故に阿難茫然として分別する所なし。爾の時に佛の言はく一切衆生無始より、このかた妄りに輪廻を受けたることは、本心を失ふて慮知の心をとめて我が心と思へるによれり、此の故にたま〱佛法を修行すといへども二種の根本をしらずして錯つて修行する故に、二乘外道及び天魔の境界に墮つ、二種の根本とは一つには、本覺妙明元清淨の體なり、此は是れ衆生の自心の本源なり。此の根本をば忘失せり、二つには無始輪廻の根本なり、汝が慮知分別をとめて自心と思へる者なり。若し此の心を以て修行せば、輪廻の業とはなるとも、本源に到ることあるべからず、たとへば砂を煮て飯となさんと思はんがごとし、たとひ劫數をふるとも熟砂とはなるべし、飯とはなるべからずと云云。 南岳大師の一乘止觀に云く、止觀の行者先づ心識をして淨心に依止せしむべし。若し生滅の心を以て修行せば、成就すべからずと云云。大日經疏に云く、凡夫二乘外道は無生滅の心をしらざるのみにあらず、生滅の心をも亦しらずと云云。又云く心性は念をはなれたり、憶度の知るべき所にあらずと云云。占察業報經に云く、心相に二種あり。一つには眞二つには妄なり、眞とは心體如々清淨圓滿にして、一切の處に遍して一切の法を生長す、妄とは分別覺知の心なり、實體あとなくして虛僞の法を出生すと云云。
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夢中問答集・『夢中問答集』先に衆生を益する理由問自身もし出離せずは他人を度する事もあるべからず。しかるを自身をばさしをきて、先衆生のために善根を修すること其の理なきにあらずや。 答衆生の生死にしづめる事は、我が身を執著して此の身のために名利を求めて、種々の罪業をつくる故なり。しかればたゞ我が身をばわすれて衆生を益する心をおこせば、大悲內ちに熏して佛心と冥合する故に、自身のためとて善根を修せざれ共、無邊の善根おのづから圓備し、自身のために佛道を求めざれども、佛道すみやかに成就す。自身のためばかりに出離をもとむる人は、小乘心なるが故に、たとひ無量の善根を修すれ共、自身の成佛なをかなはず。况んや他人を度する事あらんや。菩薩心を發する人に智增悲增の差別あり。先一切衆生を度しつくして、後ちに佛道を成せんと誓ふは、是れ悲增の菩薩なり。我が身先づ佛道を成して後ちに衆生を度せんとするは、是れ智增なり。智增の人は二乘心に似たりといへども、一切衆生を度せんために、先づ自身の成佛をもとむる故に菩薩心を成就す。智增悲增ことなりといへども、衆生濟度の心はかはる事なし。この故に一善を修し、一行をなしても皆これを一切衆生に廻向する事は同かるべし。
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『翁問答』下卷之末夫人間は迷悟の二に極まれり、迷ときは凡夫なり悟ときは聖賢君子仏菩薩なり、その迷と悟は一心にあり人欲ふかく無明の雲あつく、心月のひかりかすかにして、やみの夜のごとくなるを迷の心といふなり、学問修行の功つもりて人欲きよくつきて、無明の雲はれ心月の霊光あきらかにてらすを悟の心と云、此悟の心を仏経に無心、無本仏、妙覚仏、化身仏などゝ名く、また無礙清浄位と云、前かどに論ずる高明広大の道体をさとる狂者の心の位これなり、かくの如く悟たる心の無欲無為自然の霊覚を真心と定真性と定霊性と定、仏心と定、仏性と定、これ即ち釈尊、達磨の心法の端的なり、三大乗の観念千七百則の公案、皆この端的に約れり、