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夢中問答集 / 『夢中問答集』真実の道心とは何か

問菩提心を發すと申すことは、いかやうに心をおこすことぞや。 答佛法の機根を論ずるに上中下の三品あり。其なかの上根をば菩薩と名く菩薩とは梵語なり。具には菩提薩埵といへり。菩提をば覺とも翻じ、道とも翻せり。薩埵とは有情といへる言なり。然らば卽ち在家出家ことなりといへ共、衆生のために佛道をもとむる人を菩薩と申すなり。敎中に菩提心を論ずるに種々の差別あり。要を取ていはゞ二種あり。淺近の道心と眞實の道心となり。生者必滅盛者必衰の理をしりて、世間の名利を心にかけず。單に出離の道を求むるをば淺近の道心となづく。龍樹菩薩の云く世間の無常を觀ずるを且く菩提心となづくと云云。淺きより深きには入る習ひなる故に、淺近の道心もおこらぬ人は、眞實の道心を發すこともあるべからず。古來の宗師直に本分を示すといへ共、つねには學者に向つて無常迅速の理を說かるゝ事も此の意なり。しかれ共、若たゞ生死無常を怖れて世欲の名利を求めざるばかりにて、眞實の道心を發すことなくば、亦是れ愚人なり。昔許由が唐堯の位をゆづり給ふをきゝて、頴川に耳をあらひしに、巢父其の流れをのませしとて牛をひきてかへりけり。これらがありさまを見るに、王位をだにのぞまず。いはんやよのつねの名利をやまことにありがたきには似たれ共、たゞ是世間の賢人といへる分劑なり。眞實の道心者とはいふべからず。しかるをつねさまの人は世間の名利を捨て、山林にいほりを結びて瀧の音松の嵐に心をすませるを道心と思へり。亦是れ許由巢父が同類也。眞實の道心とは申すべからず。無行經に云く、若し山林空閑の處に住して我れは貴し。人は賤しと思へる人は天上に生ずる事だにもあるべからず。いはんや成佛をやと云云。眞實の道心とは無上菩提を信ずる心の發れる也。諸の經の中に、阿耨多羅三藐三菩提と說けるは是也。阿耨多羅とは無上の義也。三藐三菩提とは正等正覺といへる言也。菩提をば道共翻する故に諸經の中に無上道と說けるは、阿耨菩提の事也。此の無上菩提は人々具足し、箇々圓成せり。凡にありても減ぜず。聖にありても增ぜず。古にわたり、今にわたりて、更に變易なしと信ずるを眞實の道心と名く。經に云く、菩薩は最初發の時、一向に菩提をもとめて堅固にして動ぜず。此の文の意も菩薩は初發心の時より一向に無上道を求めて、たゞ世間の名利のみにあらず。小乘權敎の見解をもおこさぬことをとかれたり。たとひかやうなりとも、是れも猶本有の無上菩提を信ずるばかりにて、いまだ相應の分なくば眞實の道心にはあらず。涅槃經に菩提心は生滅無常なり。常住不滅の佛性にはあらずと說けるは、此の意なり。華嚴經に阿耨菩提は已退もなく、今退もなく當退もなしと說けるは、人々具足せる本有の菩提心なり。眞言宗にはこれを淨菩提心となづけたり。大日經に云く、いかなるをか菩提といふや。實のごとく自心を知るなり。同疏の中に問ていはく、若し心すなはち菩提ならば衆生何としてか佛にならざるや。答ていはく、實のごとくしらざる故なり。若し實のごとくしらば初發心の時やがて正覺を成ずべしと云々。いまだ此の本有の菩提心に相應せざる人は、二六時中、若し萬事心にかゝらず。純一に修行せらるゝ行は、我れは道心堅固にして修行の力量ありと思て、高慢の心をおこす故に必ず魔道に入る。若し又此の道心よはくなりて、世緣のためにみたられ昏散のためにおかさるゝ時は、かくて生死到來せば輪廻をまぬがれたしといふ怖畏あり。かゝる怖畏と高慢とに障られて、いよ〱本有の菩提心を昧ませり。初心の行者若し、かやうの心のおこらんときは、我れいまだ無上道に相應せざる故に、此の妄想は起れりとしりて一切放下して直下に參究せば、かならず相應の時節あるべし。其の時始めて眞實の菩提心はおこることもなく、さむる事もなしといふことを自らしるべし。無行經に云く、若し人菩提を求めば是人には菩提なし。若し菩提の相を見ば是れ卽ち菩提をとほざかるなりと云云。

新字:問菩提心を発すと申すことは、いかやうに心をおこすことぞや。 答仏法の機根を論ずるに上中下の三品あり。其なかの上根をば菩薩と名く菩薩とは梵語なり。具には菩提薩埵といへり。菩提をば覚とも翻じ、道とも翻せり。薩埵とは有情といへる言なり。然らば即ち在家出家ことなりといへ共、衆生のために仏道をもとむる人を菩薩と申すなり。教中に菩提心を論ずるに種々の差別あり。要を取ていはゞ二種あり。浅近の道心と真実の道心となり。生者必滅盛者必衰の理をしりて、世間の名利を心にかけず。単に出離の道を求むるをば浅近の道心となづく。竜樹菩薩の云く世間の無常を観ずるを且く菩提心となづくと云云。浅きより深きには入る習ひなる故に、浅近の道心もおこらぬ人は、真実の道心を発すこともあるべからず。古来の宗師直に本分を示すといへ共、つねには学者に向つて無常迅速の理を説かるゝ事も此の意なり。しかれ共、若たゞ生死無常を怖れて世欲の名利を求めざるばかりにて、真実の道心を発すことなくば、亦是れ愚人なり。昔許由が唐堯の位をゆづり給ふをきゝて、頴川に耳をあらひしに、巣父其の流れをのませしとて牛をひきてかへりけり。これらがありさまを見るに、王位をだにのぞまず。いはんやよのつねの名利をやまことにありがたきには似たれ共、たゞ是世間の賢人といへる分剤なり。真実の道心者とはいふべからず。しかるをつねさまの人は世間の名利を捨て、山林にいほりを結びて滝の音松の嵐に心をすませるを道心と思へり。亦是れ許由巣父が同類也。真実の道心とは申すべからず。無行経に云く、若し山林空閑の処に住して我れは貴し。人は賤しと思へる人は天上に生ずる事だにもあるべからず。いはんや成仏をやと云云。真実の道心とは無上菩提を信ずる心の発れる也。諸の経の中に、阿耨多羅三藐三菩提と説けるは是也。阿耨多羅とは無上の義也。三藐三菩提とは正等正覚といへる言也。菩提をば道共翻する故に諸経の中に無上道と説けるは、阿耨菩提の事也。此の無上菩提は人々具足し、箇々円成せり。凡にありても減ぜず。聖にありても增ぜず。古にわたり、今にわたりて、更に変易なしと信ずるを真実の道心と名く。経に云く、菩薩は最初発の時、一向に菩提をもとめて堅固にして動ぜず。此の文の意も菩薩は初発心の時より一向に無上道を求めて、たゞ世間の名利のみにあらず。小乗権教の見解をもおこさぬことをとかれたり。たとひかやうなりとも、是れも猶本有の無上菩提を信ずるばかりにて、いまだ相応の分なくば真実の道心にはあらず。涅槃経に菩提心は生滅無常なり。常住不滅の仏性にはあらずと説けるは、此の意なり。華厳経に阿耨菩提は已退もなく、今退もなく当退もなしと説けるは、人々具足せる本有の菩提心なり。真言宗にはこれを浄菩提心となづけたり。大日経に云く、いかなるをか菩提といふや。実のごとく自心を知るなり。同疏の中に問ていはく、若し心すなはち菩提ならば衆生何としてか仏にならざるや。答ていはく、実のごとくしらざる故なり。若し実のごとくしらば初発心の時やがて正覚を成ずべしと云々。いまだ此の本有の菩提心に相応せざる人は、二六時中、若し万事心にかゝらず。純一に修行せらるゝ行は、我れは道心堅固にして修行の力量ありと思て、高慢の心をおこす故に必ず魔道に入る。若し又此の道心よはくなりて、世縁のためにみたられ昏散のためにおかさるゝ時は、かくて生死到来せば輪廻をまぬがれたしといふ怖畏あり。かゝる怖畏と高慢とに障られて、いよ〱本有の菩提心を昧ませり。初心の行者若し、かやうの心のおこらんときは、我れいまだ無上道に相応せざる故に、此の妄想は起れりとしりて一切放下して直下に参究せば、かならず相応の時節あるべし。其の時始めて真実の菩提心はおこることもなく、さむる事もなしといふことを自らしるべし。無行経に云く、若し人菩提を求めば是人には菩提なし。若し菩提の相を見ば是れ即ち菩提をとほざかるなりと云云。

書き下し

問菩提心を發すと申すことは、いかやうに心をおこすことぞや。 答佛法の機根を論ずるに上中下の三品あり。其なかの上根をば菩薩と名く菩薩とは梵語なり。具には菩提薩埵といへり。菩提をば覺とも翻じ、道とも翻せり。薩埵とは有情といへる言なり。然らば卽ち在家出家ことなりといへ共、衆生のために佛道をもとむる人を菩薩と申すなり。敎中に菩提心を論ずるに種々の差別あり。要を取ていはゞ二種あり。淺近の道心と眞實の道心となり。生者必滅盛者必衰の理をしりて、世間の名利を心にかけず。單に出離の道を求むるをば淺近の道心となづく。龍樹菩薩の云く世間の無常を觀ずるを且く菩提心となづくと云云。淺きより深きには入る習ひなる故に、淺近の道心もおこらぬ人は、眞實の道心を發すこともあるべからず。古來の宗師直に本分を示すといへ共、つねには學者に向つて無常迅速の理を說かるゝ事も此の意なり。しかれ共、若たゞ生死無常を怖れて世欲の名利を求めざるばかりにて、眞實の道心を發すことなくば、亦是れ愚人なり。昔許由が唐堯の位をゆづり給ふをきゝて、頴川に耳をあらひしに、巢父其の流れをのませしとて牛をひきてかへりけり。これらがありさまを見るに、王位をだにのぞまず。いはんやよのつねの名利をやまことにありがたきには似たれ共、たゞ是世間の賢人といへる分劑なり。眞實の道心者とはいふべからず。しかるをつねさまの人は世間の名利を捨て、山林にいほりを結びて瀧の音松の嵐に心をすませるを道心と思へり。亦是れ許由巢父が同類也。眞實の道心とは申すべからず。無行經に云く、若し山林空閑の處に住して我れは貴し。人は賤しと思へる人は天上に生ずる事だにもあるべからず。いはんや成佛をやと云云。眞實の道心とは無上菩提を信ずる心の發れる也。諸の經の中に、阿耨多羅三藐三菩提と說けるは是也。阿耨多羅とは無上の義也。三藐三菩提とは正等正覺といへる言也。菩提をば道共翻する故に諸經の中に無上道と說けるは、阿耨菩提の事也。此の無上菩提は人々具足し、箇々圓成せり。凡にありても減ぜず。聖にありても增ぜず。古にわたり、今にわたりて、更に變易なしと信ずるを眞實の道心と名く。經に云く、菩薩は最初發の時、一向に菩提をもとめて堅固にして動ぜず。此の文の意も菩薩は初發心の時より一向に無上道を求めて、たゞ世間の名利のみにあらず。小乘權敎の見解をもおこさぬことをとかれたり。たとひかやうなりとも、是れも猶本有の無上菩提を信ずるばかりにて、いまだ相應の分なくば眞實の道心にはあらず。涅槃經に菩提心は生滅無常なり。常住不滅の佛性にはあらずと說けるは、此の意なり。華嚴經に阿耨菩提は已退もなく、今退もなく當退もなしと說けるは、人々具足せる本有の菩提心なり。眞言宗にはこれを淨菩提心となづけたり。大日經に云く、いかなるをか菩提といふや。實のごとく自心を知るなり。同疏の中に問ていはく、若し心すなはち菩提ならば衆生何としてか佛にならざるや。答ていはく、實のごとくしらざる故なり。若し實のごとくしらば初發心の時やがて正覺を成ずべしと云々。いまだ此の本有の菩提心に相應せざる人は、二六時中、若し萬事心にかゝらず。純一に修行せらるゝ行は、我れは道心堅固にして修行の力量ありと思て、高慢の心をおこす故に必ず魔道に入る。若し又此の道心よはくなりて、世緣のためにみたられ昏散のためにおかさるゝ時は、かくて生死到來せば輪廻をまぬがれたしといふ怖畏あり。かゝる怖畏と高慢とに障られて、いよ〱本有の菩提心を昧ませり。初心の行者若し、かやうの心のおこらんときは、我れいまだ無上道に相應せざる故に、此の妄想は起れりとしりて一切放下して直下に參究せば、かならず相應の時節あるべし。其の時始めて眞實の菩提心はおこることもなく、さむる事もなしといふことを自らしるべし。無行經に云く、若し人菩提を求めば是人には菩提なし。若し菩提の相を見ば是れ卽ち菩提をとほざかるなりと云云。

現代語訳

問:菩提心を発すということは、どのように心を起こすことか。 答:仏法を受ける者の素質を論ずると、上・中・下の三種がある。その上根の人を菩薩と呼ぶ。菩薩とは梵語で、詳しくは菩提薩埵という。菩提は覚とも道とも訳され、薩埵は有情という意味である。そうであれば、在家と出家の違いはあっても、衆生のために仏道を求める人を菩薩というのである。教えの中で菩提心を論ずるには種々の区別があるが、要を取れば二種ある。浅近の道心と真実の道心である。生ある者は必ず滅し、盛んな者は必ず衰えるという理を知って、世間の名利を心にかけず、ひたすら迷いの世界を出る道を求めるのを、浅近の道心と呼ぶ。龍樹菩薩は、世間の無常を観ずることを、ひとまず菩提心と名づける、と言っている。浅いところから深いところへ入るのが習いであるから、浅近の道心さえ起こらない人は、真実の道心を発すこともあり得ない。古来の師たちが、直に本分を示しながらも、常に学人に向かって無常迅速の理を説かれるのも、この意味である。しかし、ただ生死無常を恐れて世間の欲の名利を求めないだけで、真実の道心を発すことがなければ、それもやはり愚人である。昔、許由が唐堯から帝位を譲られると聞いて、潁川で耳を洗ったところ、巣父がその流れを牛に飲ませまいとして牛を引いて帰った。この有り様を見ると、王位さえ望まない。ましてありふれた名利はなおさらで、まことに得がたいように見えるが、これはただ世間の賢人という程度である。真実の道心者とは言えない。それなのに普通の人は、世間の名利を捨て、山林に庵を結んで、滝の音や松風に心を澄ませるのを道心と思っている。これもまた許由・巣父の同類である。真実の道心とは言えない。無行経に、もし山林の静かな所に住んで、自分は尊く人は卑しいと思う人は、天上に生まれることさえできない。まして成仏はなおさらだ、とある。真実の道心とは、無上菩提を信ずる心が発したものである。諸経の中で阿耨多羅三藐三菩提と説いているのがこれである。阿耨多羅とは無上の意味、三藐三菩提とは正等正覚という意味である。菩提は道とも訳されるので、諸経の中で無上道と説いているのも、阿耨菩提のことである。この無上菩提は人々がみな具え、一人ひとりに完成している。凡夫にあっても減らず、聖者にあっても増えず、昔から今までまったく変わらないと信ずるのを、真実の道心と呼ぶ。経に、菩薩は最初に発心したとき、ひたすら菩提を求めて堅固で動じない、とある。この文の意味も、菩薩は初発心のときからひたすら無上道を求めて、世間の名利だけでなく、小乗や権教の見解さえも起こさないことを説いたものである。たとえそうであっても、これもなお、本来具わる無上菩提を信ずるだけで、まだ相応する分がなければ、真実の道心ではない。涅槃経に、菩提心は生滅無常で、常住不滅の仏性ではない、と説くのはこの意味である。華厳経に、阿耨菩提は過去にも退かず、現在にも退かず、未来にも退かない、と説くのは、人々がみな具えている本有の菩提心のことである。真言宗ではこれを浄菩提心と名づけている。大日経に、菩提とは何か。ありのままに自らの心を知ることである、とある。その疏の中で、問うて言う。もし心がそのまま菩提なら、衆生はなぜ仏にならないのか。答えて言う。ありのままに知らないからである。もしありのままに知れば、初発心のときにたちまち正覚を成ずる、と。まだこの本有の菩提心に相応していない人は、昼夜を通して万事が心にかからず、純一に修行できているとき、自分は道心が堅固で修行の力量があると思って高慢の心を起こすので、必ず魔道に入る。またもし、この道心が弱くなり、世俗の縁に乱され、昏沈や散乱に侵されるときには、このままで死が来たら輪廻を免れられないという恐れが生じる。この恐れと高慢に妨げられて、いよいよ本有の菩提心を暗ませてしまう。初心の行者は、もしこのような心が起こったときは、自分がまだ無上道に相応していないからこの妄想が起こるのだと知り、一切を投げ捨てて直下に参究すれば、必ず相応する時節がある。そのとき初めて、真実の菩提心は起こることもなく、醒めることもないと、自ら知るであろう。無行経に、もし人が菩提を求めるなら、その人に菩提はない。もし菩提の相を見るなら、それは菩提から遠ざかることである、とある。

解説

菩提心とは何かという問いに、夢窓は浅近の道心と真実の道心を分けて答えます。無常を恐れて世間の名利を捨てるのは浅近の道心で、入口としては大切だが、それだけでは足りないというのです。許由と巣父の故事を引き、俗世を捨てて山林に籠ることさえ、賢人の域にとどまると言い切ります。真実の道心は、無上菩提が人々にもとから具わっていると信ずることだとされます。修行が順調なときの高慢と、弱ったときの恐れの両方を戒める点が実践的で、仕事の好調時の慢心と不調時の不安にも当てはまります。
『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

菩提心道心無常許由巣父本有無上菩提

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