夢中問答集 / 『夢中問答集』学ばかりで行のない人
問一向に禪敎の學解ばかりをたしなみて、修行せざる人をば世間の愚人と同じとてきらふべしや。 答布袋和尙の云く、行學すべてたへたらば僧形無益なりと云云。出家の形となりて行もなく、學もなき人あり。これをば佛弟子と名づけず。かやうの人にくらぶれば、せめて學ばかりをこのむ人もありがたしと申しぬべし。しかれども、同くは眞實の佛弟子となり給へとの諫言なり。敎門に解了をすゝむることは何の故ぞや。其の解によりて行をなさしめんためなり。修行をたつることは何の意ぞや。證を得せしめんためなり。あひがたき正法にあへるかひもなくあたら學解をたゞ世間の名利の價となして、佛果圓成の資とはせられざる人をば、これを智者と申すべしや。敎門に入れる人だにも學解をこのむはとがなるに、況んや禪門の學者をや。
新字:問一向に禅教の学解ばかりをたしなみて、修行せざる人をば世間の愚人と同じとてきらふべしや。 答布袋和尚の云く、行学すべてたへたらば僧形無益なりと云云。出家の形となりて行もなく、学もなき人あり。これをば仏弟子と名づけず。かやうの人にくらぶれば、せめて学ばかりをこのむ人もありがたしと申しぬべし。しかれども、同くは真実の仏弟子となり給へとの諫言なり。教門に解了をすゝむることは何の故ぞや。其の解によりて行をなさしめんためなり。修行をたつることは何の意ぞや。証を得せしめんためなり。あひがたき正法にあへるかひもなくあたら学解をたゞ世間の名利の価となして、仏果円成の資とはせられざる人をば、これを智者と申すべしや。教門に入れる人だにも学解をこのむはとがなるに、況んや禅門の学者をや。
書き下し
問一向に禪敎の學解ばかりをたしなみて、修行せざる人をば世間の愚人と同じとてきらふべしや。 答布袋和尙の云く、行學すべてたへたらば僧形無益なりと云云。出家の形となりて行もなく、學もなき人あり。これをば佛弟子と名づけず。かやうの人にくらぶれば、せめて學ばかりをこのむ人もありがたしと申しぬべし。しかれども、同くは眞實の佛弟子となり給へとの諫言なり。敎門に解了をすゝむることは何の故ぞや。其の解によりて行をなさしめんためなり。修行をたつることは何の意ぞや。證を得せしめんためなり。あひがたき正法にあへるかひもなくあたら學解をたゞ世間の名利の價となして、佛果圓成の資とはせられざる人をば、これを智者と申すべしや。敎門に入れる人だにも學解をこのむはとがなるに、況んや禪門の學者をや。
現代語訳
問:禅や教の学解ばかりをたしなんで修行しない人は、世間の愚人と同じだからといって、退けるべきか。 答:布袋和尚は、行も学もすべて欠けているなら、僧の姿をしているのは無益である、と言っている。出家の姿になって、行もなく学もない人がいる。これは仏弟子とは呼ばない。そのような人に比べれば、せめて学だけでも好む人は、めったにないと言ってよい。しかし、同じことならまことの仏弟子になりなさい、という戒めである。教門が理解を勧めるのはなぜか。その理解によって行をさせるためである。修行を立てるのはなぜか。悟りを得させるためである。めったに会えない正法に会いながら、そのかいもなく、せっかくの学解をただ世間の名利を得る代価にして、仏果を成就する資とされない人を、智者と言ってよいだろうか。教門に入った人でさえ学解を好むのが咎であるのに、まして禅門の学者はなおさらである。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』学解より先に修行せよ問初心の學者は法門の深理を解了して、其の解にまかせて修行するだにも猶たがふことありぬべし。しかるを學解をば制して、たゞ修行せよとすゝむるは僻事なりと申す人あり。其の謂れあるにあらずや。 答たとへば重病をうけたる人のごとし。若し先づ醫師にあふて醫書の才學を習ひきはめて、然ふして後に病を治せんと思はゞ、醫書の才學いまだ習ひ終へざるに病彌重くなりて、忽ちに命を失ふべし。然ればたゞ名醫にあふて自身の病相をかたれば、醫師其の病相を明かに分別して、或は一藥をあたへ、或は一灸をほどこす。彼の病者此の藥は何なる藥種を合せたりともしらず。此の灸は何の穴なりともわきまへず。たゞ醫師の說を信じて其の藥を服し、其の穴を灸すれば病の輕重によりて遲速はあれども、つひには其の病苦なをらずといふことなし。行道も亦かくのごとし。本分に契當せんために先づ種々の法門を習ひ學して、然して後に其の學解によりて、修行せんと思はゞ、人の命は百年の內を限れり。習ふべき法門は無量無邊なり。學ぶ所いまだつきざるに、其の命は已に終る。此の時日來の學解すべて益なし。茫然として業緣に引かれて輪廻をまぬがれず。是の故に禪門の宗師の學者にしめす事一言半句にすぎず。其の一言半句も修行用心のためにはあらず。直に本分をしめすのみなり。學者鈍根にしてたとひ直下に承當せざれども、これを公案として知解情量及ばざる處に向つて日夜に提撕すれば、時節到來して曠劫の無明一時に消滅すべし。
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夢中問答集・『夢中問答集』学解は優れど行いは凡夫問末代なりといへ共、內典外典の血脈相承たへず。各先德の意趣を解了して、其の家の法門を無窮に談ずる人はあれ共、儒者の中にも孔孟のごとく。心に五常を存する人もなし。佛敎の諸宗を學する人も、其宗の先德の行儀にも似ず。禪門の下語說禪機辨自在なる人も、死生禍福の間において、古人のごとく繫縛せられさるはまれなり。法門の相承は古今かはらずといへ共、學者の行儀は勝劣同じからざる事は何ぞや。 答經に云く、若し人多聞ありといへども、修行せざれば愚人にことならずと云云。世間の諸事も其の義を心得て人に語る事はやすく、其の語のごとく其の事をなす事はかたし。番匠のしわざ造作のたくみは、われ〱までも常の番匠にはおとらじと存ずれども、まことに手斧かんなを取て木をけづる事はかなはず。其故は番匠の家業をつぐべきことゝ思はねば、其しわざを稽古したることのなき故なり。此分にては下品の番匠の內にも入るべからず。番匠の家に生れたる者は幼少の時より、其のしわざを練磨するが故に、いかに非器なる者もさすがに、其の家業をつげる分はあり、今時內外典を相承する人は其家の才學をのみ論じて心を修する練磨なし。先德のごとくならざることは偏に是れ此故なり。昔孔子世に出て五常の道を述べられし時、其の門弟となれる人面々に其仁義禮智信の理を心にかけて修練しき、某人は仁を學び得たり。某人は義を學び得たりと孔子の印證し給ひしは、其の心に仁あり義ある人の事なり。たゞ仁義の才學をのみ談論して、心に仁義なき人をば印證し給ふことなかりき。今時儒敎を學び給ふ人は、たゞ仁義のいはれを習ひ得つれば、我は儒敎の達者なりと思ふて、仁義の道を心に修練せらるゝことなし。この故に仁義の才學は孔孟にもおとらぬやうに見ゆれども、其の心に仁義のかけたることは、つねさまの愚人とかはれる所なし。佛敎も亦かくのごとし。佛在世の時なればとて、人ごとに皆上根にして、やがて解脫自在を得たることなし。しかれども中下根の人も如來の法門を聽聞して、其の聞解のごとく修練せし故に、分に隨つて益を得ざる人はなかりき。佛滅後にも上古には一宗の法門を聞く人面々に、其の宗に敎へたるごとく修行せし故に、皆得益の分ありき。其故は利鈍ことなりといへども、宿殖深厚の人の佛法を信ずることは、偏に出離生死化度衆生のためにして、世俗の名利をかへりみることなかりし故なり。末代に生れたる人は宿熏淺薄なる故に、在家の人の中にたま〱佛法を信じ給ふも、大略は世俗の名利のためなり。出家の形になりて佛法を學する人も多くは、是れ榮耀名譽のためなり。しかれば修練の功をつまるゝ事もなし。只偏に諸宗の義理をだにも學び得つれば各滿足の思をなし給へり。故に學解のまさるに隨つて我慢も亦高し、つねさまの凡夫はたゞ人我ばかりあり。佛法を學せる人は本の人、我の上にかさねて法我を添へたり。この故に法門を談論することは上古の先德にもおとらず。行儀を較量すれば下賤の凡夫とかはりめなし。番匠鍛冶等の才藝を學ぶ者はたとひ、其才學を吐く辨說は拔群なりとも木をけづるてうはうもなく、釘をだにつくりえぬ分劑ならば、鍛冶番匠の內にも入るべからず。況んや此の才學をたのみて世をわたる活計とせんや。然らば卽ち彼等が家に生れたる者は、幼少より其の業を練磨するほどに末代までも上古に恥ることなし。內外典を學し給ふ人も、かやうにだにならば何ぞ上古にはづることあらんや。たとひ鈍根にして、やがて解脫自在をこそえずとも、などかつねさまの凡夫よりも人情我執のやはらぐ分はなからんや。しかれども今時はたゞ人に勝れたる學解だにあれば、其の心の邪僻なるをもかへりみず。其の行の浮淺なるをも耻給はざれば、諸宗の學者の先德のごとくにおはせぬこそ、ことはりなれ。古人云く一丈を說得せんよりは一尺を行取せんにはしかじと云云。然らば卽ち禪門の宗師同く一切の學解を放下して自ら參じ、自ら究めよとすゝめ給へり。しかるを今時禪門の學者もまた語錄をよみ、文章をたしなみて其の中の才學日來よりまされる所あれば、大我慢をおこして眞實の悟入なき事をば耻らるゝことなし。是故に敎門禪宗の所學ことなりといへども、祖師先德の行儀にそむける事は、是れ同じ是れ卽ち末世法滅の相なり。なげかしきことのこれよりも、まされるはあるべからず。
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夢中問答集・『夢中問答集』多聞より悟を求めよ問本分の大智は人々具足すといへども、無始よりこのかたいまだ現前せざることは愚癡にさへられたる故なり。今又智慧を捨て愚癡にかへらば、大智の現前せざること亦もとのごとくなるべし。 答世間の吉凶を自らわきまへざる人は、陰陽師なんどに尋ね問ふて、其の語を信ずれば、今は其のいろめも見へね共、時節到來して、つひには吉凶の效をみるがごとし。甚深の法門を聞て、やがて自ら悟ることかなはぬ人は、しばらく佛語を信ずるを仰信となづけ、聖敎量ともいへり。學解を道の障といへる事は禪門に始めて申すにあらず。諸經の中に明文あり。法華經云く我れと阿難と、空王佛の所において同時に菩提心を發しき阿難は、常に多聞をねがふ故にいまだ菩提を成せず。我れは常に勤行せし故に、すでに菩提を成ぜり。楞嚴經に云く、阿難は一向に多聞にして、いまだ道力を成せず。圓覺經に云く、末世の衆生道を成ずる事をねがへども、悟をばもとめずして、たゞ多聞をのみこのみて、我見を增長すと云云。有る人の云く、多聞をきらふ事は、たゞ文字語句のみを記持して、義理をしらざる人のことなりと云云。かやうに申す人は、いまだ義理語句のわけめをしらざるなり。楞伽經に云く、菩提を成ぜんと思はゞ多聞の人に親近すべし。多聞とは語に達するをばいはず、義に達するをいふなり。義とは心緣の相をはなれ、言說の相をはなれたりと云云。つねさまの人の義理と思へる事は亦是れ言句なり。
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夢中問答集・『夢中問答集』福智を制する理由問福を求むることを制するは道の障となる、因緣なれは實に其謂れあり、智慧は道のたすけとなるべし。然るを禪門に學解機智をきらふことは何の故ぞや。 答佛を兩足尊と申すことは、福智ともに滿足し給へる故なり。されば福智をきらふべきにはあらず。しかれ共、道人の福智を求むるを制することは世間の有爲の福業、有漏の妄智を捨て、出世無漏の法、財本有眞實の大智を得せしめんためなり。經敎の文によりて解了し、知識の語に隨ふて學得し、情識の上に思量し得たる智慧は、皆な是れ世間のさま〱の計りことをめぐらして、求め得たる福にことならず、一往は愚人よりも勝れたるに似たれども、其の智にさへられて悟を開くことあたはず、古人の云く、愚人は愚のためにさへられ、智者は智のためにさへらる、と云云。然らば則ち本分の大智は、人々本より具足すれども愚癡と智慧とにさへられて、現前せざることを信じて心識にうかぶところの法をも非法をも放下せば、かならず本分の大智に相應すべし。たとへば酒に醉ふたる人の忽ちに、醉さめて本心になるがごとし。
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夢中問答集・『夢中問答集』愚かな者の坐禅は無益か問古人の云く、用心朦昧ならば坐禪無益なりと云云。然らば卽ち愚癡なる人の坐禪とて、壁に向つて坐するいたづらことゝ申す人あり。其の謂れありや。 答古人かやうにしめす事は、一大事のために志をはげます人の善知識にも參ぜず。たゞ坐禪となづけて蒙々として坐する人をすゝめて、其の用心を正しくなさんためなり。愚癡なる人は坐禪すること詮なしと申すにはあらず。用心くらき者は坐禪無益なりといふて、坐禪をばせずして愚癡のまゝにて日月を送る人は、何の益かあるべきや。佛法に入ること一世一時の熏修にあらず。今生に利根の姓を受て頓に悟る人は、前生朦昧にして坐禪したりし人なり。今生に朦昧にして坐禪する人は、當來かならず一聞千悟の人となるべし。或は云く坐禪は大事の所作なれば愚癡の身にはかなひがたし。經をよみ陀羅尼を誦し、念佛を申すことは事の行にてたやすければ、是は相應の行なるべしと云云。敎の中に云く、發心僻越しぬれば萬行從に施す。事行理行といへば一往の差別なり。何れの行なりとも用心あやまりぬれば、皆三界輪廻の業因なり。然らば卽ち大乘修行の用心たゞしき人は、其の中にして萬行をなせども錯なし。若し其の分なくば事理の行ともにいたづらなるべし。しかるを坐禪用心は大事なれば、先づ事の行を修せんといへるは偏案なり。坐禪を大事の行と思へるは、いまだ坐禪の玄旨をしらざる故なり。坐禪修行と申すことは、禪門ばかり用ふる事にあらす。顯密の諸宗にもあかせり。乃至小乘外道の法にもあり。坐禪といへる語は同じけれ共、其の旨趣各ことなり。小乘外道の坐禪は有漏無漏其の趣きことなれ共身を動ぜず。念をおこさじと修行する體はこれ同じ、淨土宗の坐禪は十六想觀等なり。盧山の遠法師等は此の行を專らにす。顯密の諸宗の坐禪かはれりといへども、各其の宗の深理を觀ずるを用心とす。末代になりて諸宗の坐禪大略はすたれたる故に、坐禪するは宗門の修行ばかりと思へるはあやまれり。宗門の坐禪と申は念をおさめ、身を動ぜじとするにもあらざれば、さやうに壁に向つて座して念をやむること大事なりともいふべからず。法理を觀ずることもあらざれば、我れは鈍根なる故に、法門の深理を習ふこと大事なりともいふべからず。財寶の入ることにもあらざれば、我れはまづしき故にかなひがたしともいふべからず。身力の入る事にもあらざれば、我は力弱ければ難議なりともいふべからず。塵勞の中には佛法なしともさだめねば、我れは俗人なる故に、修行の便りなしともいふべからず。燒香禮拜等の行は身を以てなす故に、其の身若し、餘の事をなす時は其の行かなはず。讀經誦呪念佛等の行は口を以てなす故に、別の事を談ずる時は、其の行じたる法理を觀ずることは意を以てなす故に、別事を思ふ時は其の觀はせられず。禪門の工夫は身を以てもなさず。口を以てもなさず。意を以てもなさず。何をか大事といふべきや。
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夢中問答集・『夢中問答集』本分の題を忘れぬ修行問禪門には生佛以前を擧揚する故に、一心三密の觀行をも論ぜずと申すに、古來の禪宗の學者皆坐禪工夫をたしなみ、知識も亦修行用心の邪正をしめす事は何ぞや。 答詩をつくり歌をよむ人は、先づ其の題をよく心得べし。月の題をとりて花の事を案ぜばよろしからず。佛法も亦かくのごとし。禪宗に本分の事といへるは何の事ぞや。凡にありても減ぜず。聖にありても增せず。人々具足し、箇々圓成すといへり。此の本分の題をとりながら、我れは迷人なりと思ふて悟りをひらくべき修行を習はんとする人は本分の題にそむける人なり。たとひ詩歌の風情は心にうかばざれ共、月の題をとりたる人は花のことをば案せぬがごとく、本分の題を信ずる人、我れは迷人なりと執著して別に悟りを求むる事はあるべからず。しかれども、いまだ箇々圓成せる處を分明にうけがふことのなき程は、日來の迷悟を存し、凡聖をへだてつる妄情を放下して、或は自ら直下に參究し、或は知識に參ずさはあれども念佛を申して往生の行にあて、陀羅尼を誦して悉地をもとめ、乃至敎門の中にあかせる觀念をこらして、證理をまつには同じからず。かやうの人は本分の題をわすれぬ學者なり。古人悟道の機緣を見れば上代なりし故にや、直下に大悟することはなかりし人も、本分の題をば信ぜし故に本分にかなふべきため、工夫用心とて、人にたづね問へることはなし。たゞ直に問て云く、如何なるか是れ佛、如何なるか是れ禪、如何なるか是れ佛法的々の大意、如何なるか是れ祖師西來の意、如何なるか是れ諸佛出身の處と云云。學者の問もかやうに直問なり。知識の答も亦直答にして、或は卽信卽佛とこたへ、或は庭前柏樹子としめし。或は東山水上に行くといふ。宗師かやうに答ふる事、皆な是れ本分の直示なり。此の語を以て修行の資糧となさしめんためにはあらず。然れども學者若し鈍にして、知識の直示をあきらめざれば、彼のしめすところの話頭に額をついて、或は一兩日、或は一兩月、乃至五年十年も此の直示を參決せり其の間をば修行とも申しぬべし。されども敎家に解行證をたてゝ、諸の觀を修する用心には同じからず。敎外別傳といへる題目は此の謂れなり。今時の人多くは是れ此の題をわすれて、善知識にあふて修行用心をたづね問ふ知識たる人の中にも、學者のために修行用心をおしへらる。或は公案を人にあたふるも往生のために念佛を申し、悉地のために陀羅尼をみつるがごとく、此の公案を提撕して本分に到らしめんと思へり。この故に學者も各用心の體をかたりて勝劣をたくらへ、知識の言のかはれる處について是非を批判す。皆な是れ世俗の戯論なり。