夢中問答集 / 『夢中問答集』先に衆生を益する理由
問自身もし出離せずは他人を度する事もあるべからず。しかるを自身をばさしをきて、先衆生のために善根を修すること其の理なきにあらずや。 答衆生の生死にしづめる事は、我が身を執著して此の身のために名利を求めて、種々の罪業をつくる故なり。しかればたゞ我が身をばわすれて衆生を益する心をおこせば、大悲內ちに熏して佛心と冥合する故に、自身のためとて善根を修せざれ共、無邊の善根おのづから圓備し、自身のために佛道を求めざれども、佛道すみやかに成就す。自身のためばかりに出離をもとむる人は、小乘心なるが故に、たとひ無量の善根を修すれ共、自身の成佛なをかなはず。况んや他人を度する事あらんや。菩薩心を發する人に智增悲增の差別あり。先一切衆生を度しつくして、後ちに佛道を成せんと誓ふは、是れ悲增の菩薩なり。我が身先づ佛道を成して後ちに衆生を度せんとするは、是れ智增なり。智增の人は二乘心に似たりといへども、一切衆生を度せんために、先づ自身の成佛をもとむる故に菩薩心を成就す。智增悲增ことなりといへども、衆生濟度の心はかはる事なし。この故に一善を修し、一行をなしても皆これを一切衆生に廻向する事は同かるべし。
新字:問自身もし出離せずは他人を度する事もあるべからず。しかるを自身をばさしをきて、先衆生のために善根を修すること其の理なきにあらずや。 答衆生の生死にしづめる事は、我が身を執著して此の身のために名利を求めて、種々の罪業をつくる故なり。しかればたゞ我が身をばわすれて衆生を益する心をおこせば、大悲内ちに熏して仏心と冥合する故に、自身のためとて善根を修せざれ共、無辺の善根おのづから円備し、自身のために仏道を求めざれども、仏道すみやかに成就す。自身のためばかりに出離をもとむる人は、小乗心なるが故に、たとひ無量の善根を修すれ共、自身の成仏なをかなはず。況んや他人を度する事あらんや。菩薩心を発する人に智增悲增の差別あり。先一切衆生を度しつくして、後ちに仏道を成せんと誓ふは、是れ悲增の菩薩なり。我が身先づ仏道を成して後ちに衆生を度せんとするは、是れ智增なり。智增の人は二乗心に似たりといへども、一切衆生を度せんために、先づ自身の成仏をもとむる故に菩薩心を成就す。智增悲增ことなりといへども、衆生済度の心はかはる事なし。この故に一善を修し、一行をなしても皆これを一切衆生に廻向する事は同かるべし。
書き下し
問自身もし出離せずは他人を度する事もあるべからず。しかるを自身をばさしをきて、先衆生のために善根を修すること其の理なきにあらずや。 答衆生の生死にしづめる事は、我が身を執著して此の身のために名利を求めて、種々の罪業をつくる故なり。しかればたゞ我が身をばわすれて衆生を益する心をおこせば、大悲內ちに熏して佛心と冥合する故に、自身のためとて善根を修せざれ共、無邊の善根おのづから圓備し、自身のために佛道を求めざれども、佛道すみやかに成就す。自身のためばかりに出離をもとむる人は、小乘心なるが故に、たとひ無量の善根を修すれ共、自身の成佛なをかなはず。况んや他人を度する事あらんや。菩薩心を發する人に智增悲增の差別あり。先一切衆生を度しつくして、後ちに佛道を成せんと誓ふは、是れ悲增の菩薩なり。我が身先づ佛道を成して後ちに衆生を度せんとするは、是れ智增なり。智增の人は二乘心に似たりといへども、一切衆生を度せんために、先づ自身の成佛をもとむる故に菩薩心を成就す。智增悲增ことなりといへども、衆生濟度の心はかはる事なし。この故に一善を修し、一行をなしても皆これを一切衆生に廻向する事は同かるべし。
現代語訳
問:自分自身がもし迷いから離れなければ、他人を救うこともできないはずである。それなのに、自分はさしおいて、まず衆生のために善根を修めるというのは、道理がないのではないか。 答:衆生が生死の迷いに沈んでいるのは、我が身に執着し、この身のために名利を求めて、さまざまな罪業を作るからである。それならば、ただ我が身を忘れて衆生を益する心を起こせば、大悲が内に熏じて仏心と一つに合うので、自分のためと思って善根を修めなくても、限りない善根がおのずと円満に備わり、自分のために仏道を求めなくても、仏道が速やかに成就する。自分自身のためばかりに迷いからの解脱を求める人は、小乗の心であるために、たとえ無量の善根を修めても、自身の成仏すらなお叶わない。まして他人を救うことなどできようか。 菩薩心を発す人にも、智増と悲増の区別がある。まず一切衆生を救い尽くして、その後に仏道を成就しようと誓うのは、悲増の菩薩である。我が身がまず仏道を成就して、その後に衆生を救おうとするのは、智増である。智増の人は二乗の心に似ているようだが、一切衆生を救うために、まず自身の成仏を求めるので、菩薩心を成就する。智増と悲増は異なっても、衆生を救おうとする心は変わらない。このため、一つの善を修め、一つの行をなしても、これを一切衆生に振り向けることは同じであるはずだ。
解説

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