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夢中問答集 / 『夢中問答集』根本智と後得智、長養の工夫

問知識の一言の下に、さとりを開きて敎禪の法門もあづからざる處に到れる人は、化他の利益かけたるにあらずや。 答敎の中に佛智を明かにするに二種あり。一には根本智謂ゆる佛の內證なり。二つには後得智謂ゆる化他の方便なり。佛祖出世して敎禪の法門を說き給ふは皆な是れ化他の方便なり。然らば卽ち禪敎の學者の或は經敎を見、或は知識の語に隨つて心識の上に領解する法門は、皆是れ後得智の分域なり。若し人已に佛の內證の境界に契當せば、後得智を發して利益門に趣きて、敎禪の法門を說きて衆生を濟度すべし。三世の如來歷代の祖師皆な此の式なり。若しいまだ佛の根本智を證せざる人は、先づ此根本內證の境界に到らんことを思ふべし若し此の境界に到らんと思はゞ、敎禪の分域を超出して始めて到るべし。若し敎禪の法門を胸中にたくはへたる人は、本分に到ることあたはず。古人の云く佛祖は言敎を看ることあだがたきのごとくして、始めて相應の分あるべし。又云く只本を得ば末を愁ことなかれと云云。たとへば木を栽がごとし。其根本だに生著ぬれば、枝葉も自茂し、花菓も亦成す。然らば卽ち木をうふる始めには根本に心を入て、枝葉には目をかけず。是の故に根のかたまらぬほどは、少々ある枝をもきりすつるなり。さればとて木を栽ることはたゞ根本のためばかりと思はゞ僻案なり。根本を大事とやしなふことは枝葉花菓のためなり。たとひ本分に契當せる人もいまだ活祖の手段をあきらめざるをば、大法未明の人となづく。かゝる人の自證の分はあやまりなけれども、人のためにする方便手段のかけたる故に、善知識をたつることあたはず。意到句不到の人といへるは是なり。たとひまだすこしき古人の手段を推量し得たりといへ共、自眼若しあきらかならずば、亦善知識といふべからず。是れは句到意不到の人なり。古人の云く、未得底の人は句に參せんよりは唯意に參ずべし。到得底の人は意に參せんよりは只句に參ずべしと云云。意とは祖意なり。祖意とは人々具足の本分底なり。句は五家の宗風手段なり。意は是れ根本なり。句は是れ枝葉なり。然らば卽ち初心の學者は先づ祖意を參得すべし。句下に死在すべからず。古人意を得て後三十年五十年綿密に練磨して、舊業宿障をつくすを長養の工夫となづけたり。長養純熟しぬればこれを打成一片となづく。此の時自然に機辨妙用もあらはるゝ故に、人のためにする手段も亦活脫自在なり。これを意句倶到の人となづく。自眼もいまだあきらかならず。禪門の宗風手段をも亦しらざる人あり。意句倶不到といへるはこれなり。木を栽て後日數久しく成りぬれど、枝葉花菓の思ふほどもさかえざるをば、其の根のいまだありつかぬ故なりとしりて、土をかひ水をそゝぎて日ひさしく、月ふかく長養すれば根本自らかたくして枝葉もまたさかふべし。しからざる故とはしらずして、とくして枝をさゝせ、花をさかせんととかくするほどに、たま〱うゑたる根本のかれゆくことをもわすれたり。たとひ祖意を參得する分ありとも、機辨妙用も自在ならず。變化神通もいまだそなはらず枝葉に目をかけず。たゞ本分の正念に住して人我法我を除き、凡情聖量をつくすべし。古人の云く、法を得る事はやすく、法を守ることはかたしと云云。法をまもるといふは長養の工夫なり。未學の人の中にすこしき靈性ある人、眞實の大悟にはあらぬ光影邊を認得して、長養の工夫をもなさず我れは根本は眞正なれども、機辨神通いまだそなはらず。今は偏にかやうのことを具足せんとて、敎禪の法門を習學し、佛祖の妙用を悕望す。是の故にいよ〱本分をば昧まして、ついに魔道に入り、或は光影を認得して本分にかなへりと思ふて、これを守りゐたるを長養の工夫といふ人あり。たとひ、長養して千生萬劫をふるともたゞ是の無明を增長すべし。たとひ其の中にすこしきの德用をほどこすとも、つひには輪廻の基なり。たとへば根もなき木を栽て土をかけ水をそゝぐがごとし。かやうに養ふて年月を送らば春雨なんどの緣にあふて一旦は枝葉もきざし、あだ花なんどのさくことはありとも、つひには朽木となるべし。

新字:問知識の一言の下に、さとりを開きて教禅の法門もあづからざる処に到れる人は、化他の利益かけたるにあらずや。 答教の中に仏智を明かにするに二種あり。一には根本智謂ゆる仏の内証なり。二つには後得智謂ゆる化他の方便なり。仏祖出世して教禅の法門を説き給ふは皆な是れ化他の方便なり。然らば即ち禅教の学者の或は経教を見、或は知識の語に随つて心識の上に領解する法門は、皆是れ後得智の分域なり。若し人已に仏の内証の境界に契当せば、後得智を発して利益門に趣きて、教禅の法門を説きて衆生を済度すべし。三世の如来歴代の祖師皆な此の式なり。若しいまだ仏の根本智を証せざる人は、先づ此根本内証の境界に到らんことを思ふべし若し此の境界に到らんと思はゞ、教禅の分域を超出して始めて到るべし。若し教禅の法門を胸中にたくはへたる人は、本分に到ることあたはず。古人の云く仏祖は言教を看ることあだがたきのごとくして、始めて相応の分あるべし。又云く只本を得ば末を愁ことなかれと云云。たとへば木を栽がごとし。其根本だに生著ぬれば、枝葉も自茂し、花菓も亦成す。然らば即ち木をうふる始めには根本に心を入て、枝葉には目をかけず。是の故に根のかたまらぬほどは、少々ある枝をもきりすつるなり。さればとて木を栽ることはたゞ根本のためばかりと思はゞ僻案なり。根本を大事とやしなふことは枝葉花菓のためなり。たとひ本分に契当せる人もいまだ活祖の手段をあきらめざるをば、大法未明の人となづく。かゝる人の自証の分はあやまりなけれども、人のためにする方便手段のかけたる故に、善知識をたつることあたはず。意到句不到の人といへるは是なり。たとひまだすこしき古人の手段を推量し得たりといへ共、自眼若しあきらかならずば、亦善知識といふべからず。是れは句到意不到の人なり。古人の云く、未得底の人は句に参せんよりは唯意に参ずべし。到得底の人は意に参せんよりは只句に参ずべしと云云。意とは祖意なり。祖意とは人々具足の本分底なり。句は五家の宗風手段なり。意は是れ根本なり。句は是れ枝葉なり。然らば即ち初心の学者は先づ祖意を参得すべし。句下に死在すべからず。古人意を得て後三十年五十年綿密に練磨して、旧業宿障をつくすを長養の工夫となづけたり。長養純熟しぬればこれを打成一片となづく。此の時自然に機弁妙用もあらはるゝ故に、人のためにする手段も亦活脱自在なり。これを意句倶到の人となづく。自眼もいまだあきらかならず。禅門の宗風手段をも亦しらざる人あり。意句倶不到といへるはこれなり。木を栽て後日数久しく成りぬれど、枝葉花菓の思ふほどもさかえざるをば、其の根のいまだありつかぬ故なりとしりて、土をかひ水をそゝぎて日ひさしく、月ふかく長養すれば根本自らかたくして枝葉もまたさかふべし。しからざる故とはしらずして、とくして枝をさゝせ、花をさかせんととかくするほどに、たま〱うゑたる根本のかれゆくことをもわすれたり。たとひ祖意を参得する分ありとも、機弁妙用も自在ならず。変化神通もいまだそなはらず枝葉に目をかけず。たゞ本分の正念に住して人我法我を除き、凡情聖量をつくすべし。古人の云く、法を得る事はやすく、法を守ることはかたしと云云。法をまもるといふは長養の工夫なり。未学の人の中にすこしき霊性ある人、真実の大悟にはあらぬ光影辺を認得して、長養の工夫をもなさず我れは根本は真正なれども、機弁神通いまだそなはらず。今は偏にかやうのことを具足せんとて、教禅の法門を習学し、仏祖の妙用を悕望す。是の故にいよ〱本分をば昧まして、ついに魔道に入り、或は光影を認得して本分にかなへりと思ふて、これを守りゐたるを長養の工夫といふ人あり。たとひ、長養して千生万劫をふるともたゞ是の無明を增長すべし。たとひ其の中にすこしきの徳用をほどこすとも、つひには輪廻の基なり。たとへば根もなき木を栽て土をかけ水をそゝぐがごとし。かやうに養ふて年月を送らば春雨なんどの縁にあふて一旦は枝葉もきざし、あだ花なんどのさくことはありとも、つひには朽木となるべし。

書き下し

問知識の一言の下に、さとりを開きて敎禪の法門もあづからざる處に到れる人は、化他の利益かけたるにあらずや。 答敎の中に佛智を明かにするに二種あり。一には根本智謂ゆる佛の內證なり。二つには後得智謂ゆる化他の方便なり。佛祖出世して敎禪の法門を說き給ふは皆な是れ化他の方便なり。然らば卽ち禪敎の學者の或は經敎を見、或は知識の語に隨つて心識の上に領解する法門は、皆是れ後得智の分域なり。若し人已に佛の內證の境界に契當せば、後得智を發して利益門に趣きて、敎禪の法門を說きて衆生を濟度すべし。三世の如來歷代の祖師皆な此の式なり。若しいまだ佛の根本智を證せざる人は、先づ此根本內證の境界に到らんことを思ふべし若し此の境界に到らんと思はゞ、敎禪の分域を超出して始めて到るべし。若し敎禪の法門を胸中にたくはへたる人は、本分に到ることあたはず。古人の云く佛祖は言敎を看ることあだがたきのごとくして、始めて相應の分あるべし。又云く只本を得ば末を愁ことなかれと云云。たとへば木を栽がごとし。其根本だに生著ぬれば、枝葉も自茂し、花菓も亦成す。然らば卽ち木をうふる始めには根本に心を入て、枝葉には目をかけず。是の故に根のかたまらぬほどは、少々ある枝をもきりすつるなり。さればとて木を栽ることはたゞ根本のためばかりと思はゞ僻案なり。根本を大事とやしなふことは枝葉花菓のためなり。たとひ本分に契當せる人もいまだ活祖の手段をあきらめざるをば、大法未明の人となづく。かゝる人の自證の分はあやまりなけれども、人のためにする方便手段のかけたる故に、善知識をたつることあたはず。意到句不到の人といへるは是なり。たとひまだすこしき古人の手段を推量し得たりといへ共、自眼若しあきらかならずば、亦善知識といふべからず。是れは句到意不到の人なり。古人の云く、未得底の人は句に參せんよりは唯意に參ずべし。到得底の人は意に參せんよりは只句に參ずべしと云云。意とは祖意なり。祖意とは人々具足の本分底なり。句は五家の宗風手段なり。意は是れ根本なり。句は是れ枝葉なり。然らば卽ち初心の學者は先づ祖意を參得すべし。句下に死在すべからず。古人意を得て後三十年五十年綿密に練磨して、舊業宿障をつくすを長養の工夫となづけたり。長養純熟しぬればこれを打成一片となづく。此の時自然に機辨妙用もあらはるゝ故に、人のためにする手段も亦活脫自在なり。これを意句倶到の人となづく。自眼もいまだあきらかならず。禪門の宗風手段をも亦しらざる人あり。意句倶不到といへるはこれなり。木を栽て後日數久しく成りぬれど、枝葉花菓の思ふほどもさかえざるをば、其の根のいまだありつかぬ故なりとしりて、土をかひ水をそゝぎて日ひさしく、月ふかく長養すれば根本自らかたくして枝葉もまたさかふべし。しからざる故とはしらずして、とくして枝をさゝせ、花をさかせんととかくするほどに、たま〱うゑたる根本のかれゆくことをもわすれたり。たとひ祖意を參得する分ありとも、機辨妙用も自在ならず。變化神通もいまだそなはらず枝葉に目をかけず。たゞ本分の正念に住して人我法我を除き、凡情聖量をつくすべし。古人の云く、法を得る事はやすく、法を守ることはかたしと云云。法をまもるといふは長養の工夫なり。未學の人の中にすこしき靈性ある人、眞實の大悟にはあらぬ光影邊を認得して、長養の工夫をもなさず我れは根本は眞正なれども、機辨神通いまだそなはらず。今は偏にかやうのことを具足せんとて、敎禪の法門を習學し、佛祖の妙用を悕望す。是の故にいよ〱本分をば昧まして、ついに魔道に入り、或は光影を認得して本分にかなへりと思ふて、これを守りゐたるを長養の工夫といふ人あり。たとひ、長養して千生萬劫をふるともたゞ是の無明を增長すべし。たとひ其の中にすこしきの德用をほどこすとも、つひには輪廻の基なり。たとへば根もなき木を栽て土をかけ水をそゝぐがごとし。かやうに養ふて年月を送らば春雨なんどの緣にあふて一旦は枝葉もきざし、あだ花なんどのさくことはありとも、つひには朽木となるべし。

現代語訳

問:知識の一言のもとに悟りを開き、教や禅の法門にあずからない処に至った人は、他人を利益する働きに欠けるのではないか。 答:教の中に、仏の智を明らかにするのに二種ある。一には根本智、いわゆる仏の内証である。二つには後得智、いわゆる他を教化する方便である。仏や祖師が世に出て教や禅の法門を説かれたのは、みな他を教化する方便である。そうであれば、禅教の学者が、あるいは経教を見、あるいは知識の語に従って心識の上で理解する法門は、みな後得智の領域である。もし人がすでに仏の内証の境界にかなったなら、後得智を発して利益の門に趣き、教禅の法門を説いて衆生を済度するだろう。三世の如来、歴代の祖師は、みなこの式である。もしまだ仏の根本智を証していない人は、まずこの根本内証の境界に到ることを思うべきである。もしこの境界に到ろうと思うなら、教禅の領域を超え出てはじめて到るだろう。もし教禅の法門を胸中に蓄えている人は、本分に到ることができない。古人は言う。仏祖の言教を見ることは仇敵のようにして、はじめて相応する分があるだろう、と。また言う。ただ根本を得れば、末を愁えるな、と。たとえば木を植えるようなものである。その根本さえ根づけば、枝葉もおのずから茂り、花も実もまた成る。であるから、木を植える初めには根本に心を入れて、枝葉には目をかけない。このため根が固まらないうちは、少々ある枝をも切り捨てるのである。だからといって、木を植えることはただ根本のためだけと思うなら、僻案である。根本を大事に養うのは、枝葉・花・実のためである。たとえ本分にかなった人でも、まだ活祖の手段を明らかにしていない人を、大法未明の人と名づける。このような人は自証の分に誤りはないが、人のためにする方便や手段が欠けているので、善知識として立つことができない。「意は至り、句は至らず」の人というのは、これである。たとえまだ少しは古人の手段を推量し得ても、自分の眼がもし明らかでなければ、また善知識とはいえない。これは「句は至り、意は至らず」の人である。古人は言う。まだ得ていない人は、句に参ずるよりただ意に参ぜよ。得た人は、意に参ずるよりただ句に参ぜよ、と。意とは祖意である。祖意とは、人々に具わる本分底である。句は、五家の宗風や手段である。意は根本である。句は枝葉である。そうであれば、初心の学者はまず祖意を参得すべきである。句のもとで死んではならない。古人は意を得てのち三十年・五十年と綿密に練磨して、旧来の業と宿世の障りを尽くすことを、長養の工夫と名づけた。長養が純熟すれば、これを打成一片と名づける。この時、おのずから機弁や妙用もあらわれるので、人のためにする手段もまた活き活きと自在である。これを「意句ともに至る」人と名づける。自分の眼もまだ明らかでなく、禅門の宗風や手段をも知らない人がある。「意句ともに至らず」というのは、これである。木を植えて後、日数が久しく経ったのに、枝葉や花実が思うほど栄えないのは、その根がまだ根づかないためと知って、土を加え水を注いで、日を長く月を深く養えば、根本がおのずから固まり、枝葉もまた栄えるだろう。そうでないとは知らず、急いで枝を張らせ、花を咲かせようとあれこれするうちに、たまたま植えた根本が枯れていくことも忘れている。たとえ祖意を参得する分があっても、機弁や妙用も自在でなく、変化神通もまだ具わらない。それでも枝葉に目をかけず、ただ本分の正念にとどまって、人我・法我を除き、凡情・聖量を尽くすべきである。古人は言う。法を得ることは易く、法を守ることは難しい、と。法を守るというのは、長養の工夫のことである。未学の人の中で少し霊性のある人が、真実の大悟ではない光影のあたりを認め取って、長養の工夫もせず、「自分は根本は真正だが、機弁や神通がまだ具わらない。今はひとえにこのようなことを具えようとして、教禅の法門を習い学び、仏祖の妙用を願い望む」と言う。このため、ますます本分に暗くなり、ついに魔道に入る。あるいは光影を認め取って、本分にかなったと思い、これを守っているのを長養の工夫という人がいる。たとえ長養して千生万劫を経ても、ただこの無明を増長させるだけである。たとえその中で少しの徳のはたらきを施しても、ついには輪廻の基である。たとえば根もない木を植えて、土をかけ水を注ぐようなものである。このように養って年月を送れば、春雨などの縁にあって、一旦は枝葉も芽ぐみ、あだ花などが咲くことはあっても、ついには朽ち木となるだろう。

解説

師の一言で悟り、教禅の法門にあずからない人は、人を救う働きに欠けないかという問いです。夢窓は、根本智(仏の内証)と後得智(他を教化する方便)を分け、教禅の法門は後得智の領域であり、まず根本智に至るのが先だと答えます。木を植えるには根を固めるのが先だが、根を養うのは枝葉や花実のためでもある、と言います。意と句の到不到の四つの型と、悟った後も長く練る長養の工夫を説く、長い問答です。基礎と応用、自己の修練と他者への働きの順序を考える材料になります。
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人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

根本智後得智長養祖意意句打成一片

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