夢中問答集 / 『夢中問答集』根本智と後得智、長養の工夫
問知識の一言の下に、さとりを開きて敎禪の法門もあづからざる處に到れる人は、化他の利益かけたるにあらずや。 答敎の中に佛智を明かにするに二種あり。一には根本智謂ゆる佛の內證なり。二つには後得智謂ゆる化他の方便なり。佛祖出世して敎禪の法門を說き給ふは皆な是れ化他の方便なり。然らば卽ち禪敎の學者の或は經敎を見、或は知識の語に隨つて心識の上に領解する法門は、皆是れ後得智の分域なり。若し人已に佛の內證の境界に契當せば、後得智を發して利益門に趣きて、敎禪の法門を說きて衆生を濟度すべし。三世の如來歷代の祖師皆な此の式なり。若しいまだ佛の根本智を證せざる人は、先づ此根本內證の境界に到らんことを思ふべし若し此の境界に到らんと思はゞ、敎禪の分域を超出して始めて到るべし。若し敎禪の法門を胸中にたくはへたる人は、本分に到ることあたはず。古人の云く佛祖は言敎を看ることあだがたきのごとくして、始めて相應の分あるべし。又云く只本を得ば末を愁ことなかれと云云。たとへば木を栽がごとし。其根本だに生著ぬれば、枝葉も自茂し、花菓も亦成す。然らば卽ち木をうふる始めには根本に心を入て、枝葉には目をかけず。是の故に根のかたまらぬほどは、少々ある枝をもきりすつるなり。さればとて木を栽ることはたゞ根本のためばかりと思はゞ僻案なり。根本を大事とやしなふことは枝葉花菓のためなり。たとひ本分に契當せる人もいまだ活祖の手段をあきらめざるをば、大法未明の人となづく。かゝる人の自證の分はあやまりなけれども、人のためにする方便手段のかけたる故に、善知識をたつることあたはず。意到句不到の人といへるは是なり。たとひまだすこしき古人の手段を推量し得たりといへ共、自眼若しあきらかならずば、亦善知識といふべからず。是れは句到意不到の人なり。古人の云く、未得底の人は句に參せんよりは唯意に參ずべし。到得底の人は意に參せんよりは只句に參ずべしと云云。意とは祖意なり。祖意とは人々具足の本分底なり。句は五家の宗風手段なり。意は是れ根本なり。句は是れ枝葉なり。然らば卽ち初心の學者は先づ祖意を參得すべし。句下に死在すべからず。古人意を得て後三十年五十年綿密に練磨して、舊業宿障をつくすを長養の工夫となづけたり。長養純熟しぬればこれを打成一片となづく。此の時自然に機辨妙用もあらはるゝ故に、人のためにする手段も亦活脫自在なり。これを意句倶到の人となづく。自眼もいまだあきらかならず。禪門の宗風手段をも亦しらざる人あり。意句倶不到といへるはこれなり。木を栽て後日數久しく成りぬれど、枝葉花菓の思ふほどもさかえざるをば、其の根のいまだありつかぬ故なりとしりて、土をかひ水をそゝぎて日ひさしく、月ふかく長養すれば根本自らかたくして枝葉もまたさかふべし。しからざる故とはしらずして、とくして枝をさゝせ、花をさかせんととかくするほどに、たま〱うゑたる根本のかれゆくことをもわすれたり。たとひ祖意を參得する分ありとも、機辨妙用も自在ならず。變化神通もいまだそなはらず枝葉に目をかけず。たゞ本分の正念に住して人我法我を除き、凡情聖量をつくすべし。古人の云く、法を得る事はやすく、法を守ることはかたしと云云。法をまもるといふは長養の工夫なり。未學の人の中にすこしき靈性ある人、眞實の大悟にはあらぬ光影邊を認得して、長養の工夫をもなさず我れは根本は眞正なれども、機辨神通いまだそなはらず。今は偏にかやうのことを具足せんとて、敎禪の法門を習學し、佛祖の妙用を悕望す。是の故にいよ〱本分をば昧まして、ついに魔道に入り、或は光影を認得して本分にかなへりと思ふて、これを守りゐたるを長養の工夫といふ人あり。たとひ、長養して千生萬劫をふるともたゞ是の無明を增長すべし。たとひ其の中にすこしきの德用をほどこすとも、つひには輪廻の基なり。たとへば根もなき木を栽て土をかけ水をそゝぐがごとし。かやうに養ふて年月を送らば春雨なんどの緣にあふて一旦は枝葉もきざし、あだ花なんどのさくことはありとも、つひには朽木となるべし。
新字:問知識の一言の下に、さとりを開きて教禅の法門もあづからざる処に到れる人は、化他の利益かけたるにあらずや。 答教の中に仏智を明かにするに二種あり。一には根本智謂ゆる仏の内証なり。二つには後得智謂ゆる化他の方便なり。仏祖出世して教禅の法門を説き給ふは皆な是れ化他の方便なり。然らば即ち禅教の学者の或は経教を見、或は知識の語に随つて心識の上に領解する法門は、皆是れ後得智の分域なり。若し人已に仏の内証の境界に契当せば、後得智を発して利益門に趣きて、教禅の法門を説きて衆生を済度すべし。三世の如来歴代の祖師皆な此の式なり。若しいまだ仏の根本智を証せざる人は、先づ此根本内証の境界に到らんことを思ふべし若し此の境界に到らんと思はゞ、教禅の分域を超出して始めて到るべし。若し教禅の法門を胸中にたくはへたる人は、本分に到ることあたはず。古人の云く仏祖は言教を看ることあだがたきのごとくして、始めて相応の分あるべし。又云く只本を得ば末を愁ことなかれと云云。たとへば木を栽がごとし。其根本だに生著ぬれば、枝葉も自茂し、花菓も亦成す。然らば即ち木をうふる始めには根本に心を入て、枝葉には目をかけず。是の故に根のかたまらぬほどは、少々ある枝をもきりすつるなり。さればとて木を栽ることはたゞ根本のためばかりと思はゞ僻案なり。根本を大事とやしなふことは枝葉花菓のためなり。たとひ本分に契当せる人もいまだ活祖の手段をあきらめざるをば、大法未明の人となづく。かゝる人の自証の分はあやまりなけれども、人のためにする方便手段のかけたる故に、善知識をたつることあたはず。意到句不到の人といへるは是なり。たとひまだすこしき古人の手段を推量し得たりといへ共、自眼若しあきらかならずば、亦善知識といふべからず。是れは句到意不到の人なり。古人の云く、未得底の人は句に参せんよりは唯意に参ずべし。到得底の人は意に参せんよりは只句に参ずべしと云云。意とは祖意なり。祖意とは人々具足の本分底なり。句は五家の宗風手段なり。意は是れ根本なり。句は是れ枝葉なり。然らば即ち初心の学者は先づ祖意を参得すべし。句下に死在すべからず。古人意を得て後三十年五十年綿密に練磨して、旧業宿障をつくすを長養の工夫となづけたり。長養純熟しぬればこれを打成一片となづく。此の時自然に機弁妙用もあらはるゝ故に、人のためにする手段も亦活脱自在なり。これを意句倶到の人となづく。自眼もいまだあきらかならず。禅門の宗風手段をも亦しらざる人あり。意句倶不到といへるはこれなり。木を栽て後日数久しく成りぬれど、枝葉花菓の思ふほどもさかえざるをば、其の根のいまだありつかぬ故なりとしりて、土をかひ水をそゝぎて日ひさしく、月ふかく長養すれば根本自らかたくして枝葉もまたさかふべし。しからざる故とはしらずして、とくして枝をさゝせ、花をさかせんととかくするほどに、たま〱うゑたる根本のかれゆくことをもわすれたり。たとひ祖意を参得する分ありとも、機弁妙用も自在ならず。変化神通もいまだそなはらず枝葉に目をかけず。たゞ本分の正念に住して人我法我を除き、凡情聖量をつくすべし。古人の云く、法を得る事はやすく、法を守ることはかたしと云云。法をまもるといふは長養の工夫なり。未学の人の中にすこしき霊性ある人、真実の大悟にはあらぬ光影辺を認得して、長養の工夫をもなさず我れは根本は真正なれども、機弁神通いまだそなはらず。今は偏にかやうのことを具足せんとて、教禅の法門を習学し、仏祖の妙用を悕望す。是の故にいよ〱本分をば昧まして、ついに魔道に入り、或は光影を認得して本分にかなへりと思ふて、これを守りゐたるを長養の工夫といふ人あり。たとひ、長養して千生万劫をふるともたゞ是の無明を增長すべし。たとひ其の中にすこしきの徳用をほどこすとも、つひには輪廻の基なり。たとへば根もなき木を栽て土をかけ水をそゝぐがごとし。かやうに養ふて年月を送らば春雨なんどの縁にあふて一旦は枝葉もきざし、あだ花なんどのさくことはありとも、つひには朽木となるべし。
書き下し
問知識の一言の下に、さとりを開きて敎禪の法門もあづからざる處に到れる人は、化他の利益かけたるにあらずや。 答敎の中に佛智を明かにするに二種あり。一には根本智謂ゆる佛の內證なり。二つには後得智謂ゆる化他の方便なり。佛祖出世して敎禪の法門を說き給ふは皆な是れ化他の方便なり。然らば卽ち禪敎の學者の或は經敎を見、或は知識の語に隨つて心識の上に領解する法門は、皆是れ後得智の分域なり。若し人已に佛の內證の境界に契當せば、後得智を發して利益門に趣きて、敎禪の法門を說きて衆生を濟度すべし。三世の如來歷代の祖師皆な此の式なり。若しいまだ佛の根本智を證せざる人は、先づ此根本內證の境界に到らんことを思ふべし若し此の境界に到らんと思はゞ、敎禪の分域を超出して始めて到るべし。若し敎禪の法門を胸中にたくはへたる人は、本分に到ることあたはず。古人の云く佛祖は言敎を看ることあだがたきのごとくして、始めて相應の分あるべし。又云く只本を得ば末を愁ことなかれと云云。たとへば木を栽がごとし。其根本だに生著ぬれば、枝葉も自茂し、花菓も亦成す。然らば卽ち木をうふる始めには根本に心を入て、枝葉には目をかけず。是の故に根のかたまらぬほどは、少々ある枝をもきりすつるなり。さればとて木を栽ることはたゞ根本のためばかりと思はゞ僻案なり。根本を大事とやしなふことは枝葉花菓のためなり。たとひ本分に契當せる人もいまだ活祖の手段をあきらめざるをば、大法未明の人となづく。かゝる人の自證の分はあやまりなけれども、人のためにする方便手段のかけたる故に、善知識をたつることあたはず。意到句不到の人といへるは是なり。たとひまだすこしき古人の手段を推量し得たりといへ共、自眼若しあきらかならずば、亦善知識といふべからず。是れは句到意不到の人なり。古人の云く、未得底の人は句に參せんよりは唯意に參ずべし。到得底の人は意に參せんよりは只句に參ずべしと云云。意とは祖意なり。祖意とは人々具足の本分底なり。句は五家の宗風手段なり。意は是れ根本なり。句は是れ枝葉なり。然らば卽ち初心の學者は先づ祖意を參得すべし。句下に死在すべからず。古人意を得て後三十年五十年綿密に練磨して、舊業宿障をつくすを長養の工夫となづけたり。長養純熟しぬればこれを打成一片となづく。此の時自然に機辨妙用もあらはるゝ故に、人のためにする手段も亦活脫自在なり。これを意句倶到の人となづく。自眼もいまだあきらかならず。禪門の宗風手段をも亦しらざる人あり。意句倶不到といへるはこれなり。木を栽て後日數久しく成りぬれど、枝葉花菓の思ふほどもさかえざるをば、其の根のいまだありつかぬ故なりとしりて、土をかひ水をそゝぎて日ひさしく、月ふかく長養すれば根本自らかたくして枝葉もまたさかふべし。しからざる故とはしらずして、とくして枝をさゝせ、花をさかせんととかくするほどに、たま〱うゑたる根本のかれゆくことをもわすれたり。たとひ祖意を參得する分ありとも、機辨妙用も自在ならず。變化神通もいまだそなはらず枝葉に目をかけず。たゞ本分の正念に住して人我法我を除き、凡情聖量をつくすべし。古人の云く、法を得る事はやすく、法を守ることはかたしと云云。法をまもるといふは長養の工夫なり。未學の人の中にすこしき靈性ある人、眞實の大悟にはあらぬ光影邊を認得して、長養の工夫をもなさず我れは根本は眞正なれども、機辨神通いまだそなはらず。今は偏にかやうのことを具足せんとて、敎禪の法門を習學し、佛祖の妙用を悕望す。是の故にいよ〱本分をば昧まして、ついに魔道に入り、或は光影を認得して本分にかなへりと思ふて、これを守りゐたるを長養の工夫といふ人あり。たとひ、長養して千生萬劫をふるともたゞ是の無明を增長すべし。たとひ其の中にすこしきの德用をほどこすとも、つひには輪廻の基なり。たとへば根もなき木を栽て土をかけ水をそゝぐがごとし。かやうに養ふて年月を送らば春雨なんどの緣にあふて一旦は枝葉もきざし、あだ花なんどのさくことはありとも、つひには朽木となるべし。
現代語訳
問:知識の一言のもとに悟りを開き、教や禅の法門にあずからない処に至った人は、他人を利益する働きに欠けるのではないか。 答:教の中に、仏の智を明らかにするのに二種ある。一には根本智、いわゆる仏の内証である。二つには後得智、いわゆる他を教化する方便である。仏や祖師が世に出て教や禅の法門を説かれたのは、みな他を教化する方便である。そうであれば、禅教の学者が、あるいは経教を見、あるいは知識の語に従って心識の上で理解する法門は、みな後得智の領域である。もし人がすでに仏の内証の境界にかなったなら、後得智を発して利益の門に趣き、教禅の法門を説いて衆生を済度するだろう。三世の如来、歴代の祖師は、みなこの式である。もしまだ仏の根本智を証していない人は、まずこの根本内証の境界に到ることを思うべきである。もしこの境界に到ろうと思うなら、教禅の領域を超え出てはじめて到るだろう。もし教禅の法門を胸中に蓄えている人は、本分に到ることができない。古人は言う。仏祖の言教を見ることは仇敵のようにして、はじめて相応する分があるだろう、と。また言う。ただ根本を得れば、末を愁えるな、と。たとえば木を植えるようなものである。その根本さえ根づけば、枝葉もおのずから茂り、花も実もまた成る。であるから、木を植える初めには根本に心を入れて、枝葉には目をかけない。このため根が固まらないうちは、少々ある枝をも切り捨てるのである。だからといって、木を植えることはただ根本のためだけと思うなら、僻案である。根本を大事に養うのは、枝葉・花・実のためである。たとえ本分にかなった人でも、まだ活祖の手段を明らかにしていない人を、大法未明の人と名づける。このような人は自証の分に誤りはないが、人のためにする方便や手段が欠けているので、善知識として立つことができない。「意は至り、句は至らず」の人というのは、これである。たとえまだ少しは古人の手段を推量し得ても、自分の眼がもし明らかでなければ、また善知識とはいえない。これは「句は至り、意は至らず」の人である。古人は言う。まだ得ていない人は、句に参ずるよりただ意に参ぜよ。得た人は、意に参ずるよりただ句に参ぜよ、と。意とは祖意である。祖意とは、人々に具わる本分底である。句は、五家の宗風や手段である。意は根本である。句は枝葉である。そうであれば、初心の学者はまず祖意を参得すべきである。句のもとで死んではならない。古人は意を得てのち三十年・五十年と綿密に練磨して、旧来の業と宿世の障りを尽くすことを、長養の工夫と名づけた。長養が純熟すれば、これを打成一片と名づける。この時、おのずから機弁や妙用もあらわれるので、人のためにする手段もまた活き活きと自在である。これを「意句ともに至る」人と名づける。自分の眼もまだ明らかでなく、禅門の宗風や手段をも知らない人がある。「意句ともに至らず」というのは、これである。木を植えて後、日数が久しく経ったのに、枝葉や花実が思うほど栄えないのは、その根がまだ根づかないためと知って、土を加え水を注いで、日を長く月を深く養えば、根本がおのずから固まり、枝葉もまた栄えるだろう。そうでないとは知らず、急いで枝を張らせ、花を咲かせようとあれこれするうちに、たまたま植えた根本が枯れていくことも忘れている。たとえ祖意を参得する分があっても、機弁や妙用も自在でなく、変化神通もまだ具わらない。それでも枝葉に目をかけず、ただ本分の正念にとどまって、人我・法我を除き、凡情・聖量を尽くすべきである。古人は言う。法を得ることは易く、法を守ることは難しい、と。法を守るというのは、長養の工夫のことである。未学の人の中で少し霊性のある人が、真実の大悟ではない光影のあたりを認め取って、長養の工夫もせず、「自分は根本は真正だが、機弁や神通がまだ具わらない。今はひとえにこのようなことを具えようとして、教禅の法門を習い学び、仏祖の妙用を願い望む」と言う。このため、ますます本分に暗くなり、ついに魔道に入る。あるいは光影を認め取って、本分にかなったと思い、これを守っているのを長養の工夫という人がいる。たとえ長養して千生万劫を経ても、ただこの無明を増長させるだけである。たとえその中で少しの徳のはたらきを施しても、ついには輪廻の基である。たとえば根もない木を植えて、土をかけ水を注ぐようなものである。このように養って年月を送れば、春雨などの縁にあって、一旦は枝葉も芽ぐみ、あだ花などが咲くことはあっても、ついには朽ち木となるだろう。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』禅と教えは同じか(上)問敎の中にも佛の相もなく、衆生の相もなしと談ぜり、禪宗に生佛いまだわかれざる處といふに同じからずや。 答敎の中に凡聖の相なしと申すは、凡聖わかれたる處について、其の體性の無相なることを談ぜり。禪宗に生佛已前と申すは此の義にあらず、其の語の似たるを以て禪敎同とは申すべからず、たとへば人の面のやうをそらに語る時額の中に眉あり眉の下に眼あり眼の下に鼻あり鼻の下に口ありと申せば、貴賤男女みな同じ面なるやうに聞ゆれ共、若し實に其の面をみる時は、各ことなるがごとし、敎門には言句義理を以て法門とする故に、義理の分劑について大小權實を判せり、敎外別傳不立文字といへる題目を見ながら宗師の言句について敎禪の同意を論せばあたるべからず、今時の禪者の中に宗師の人に示さる言句の中に敎家の法門にかはりたる事のあるを見て、これを禪の勝れたる證據とす。若し敎の法門にかはりたる故に禪は勝れたりといはゞ禪にかはりたる故に敎をも勝れたりといふべし。然らば卽ち敎外別傳の宗旨何ぞ言句義理の同異にあづからんや、或は云く敎は皆な言句義理の上に談せり、言句義理にあづからざる處禪門の宗旨なりと云云。若ししからば敎の中に言句義理を立ざる法門あり、これを禪宗といはんや、或は敎者の中に敎外別傳不立文字といへども禪師の人にしめす言句多し不立文字といはんやと難する人あり、禪師の言句多しといへ共此の言句の義理を人に習學せしめんためにはあらず、ただ佛法の正理は言句の上にあらざる事をしめさんためなり、言句の上にあらずと申せばとて言語道斷の處を宗旨とするにもあらず、寂默沈空の所を指示するにもあらず、古人の云く達磨西來の別に一法の人のために傳授するなしたゞ人々具足し、箇々圓成する底を指出するのみなりと云云、旣に人々具足といへり、何ぞひとり禪者のみ具足して敎者にはかけたりといはんや、たゞ敎者禪者のみ圓成するにあらず。田夫野人の農業をはげむ所にもあり、鍛冶番匠の工巧をいとなむ所にもあり、要を取ていはゞ、一切衆生の所作所爲見聞覺知行住坐臥遊戯談論の所皆な悉く西來の玄旨にあらずといふ事なし、何にいはん佛の敎へに隨つて種々の善行を修する人をや。しかれども、此の玄旨あることを知らざる故に、世間の幻相はばかされて妄りに輪廻を受くる者多し。佛此の妄想をやめんために種々の法門を說き玉へば、又此の法門を執著して玄旨をくらませる人あり。是の故に祖師西來して、本分の一段を指出す、この心を以て心に傳ふる、敎外の玄旨となづく。敎外の玄旨とて諸敎にかはりたる一段の法門を相承するにはあらず、若し言句にて相承すべき法門ならばたゞ是れめづらしき敎法なるべし、敎外別傳とはいふべからず、六祖よりこのかた五家わかれて各の宗風を立つといへ共、亦同じく人々具足することを悟らしめんためなり。
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夢中問答集・『夢中問答集』本分の題を忘れぬ修行問禪門には生佛以前を擧揚する故に、一心三密の觀行をも論ぜずと申すに、古來の禪宗の學者皆坐禪工夫をたしなみ、知識も亦修行用心の邪正をしめす事は何ぞや。 答詩をつくり歌をよむ人は、先づ其の題をよく心得べし。月の題をとりて花の事を案ぜばよろしからず。佛法も亦かくのごとし。禪宗に本分の事といへるは何の事ぞや。凡にありても減ぜず。聖にありても增せず。人々具足し、箇々圓成すといへり。此の本分の題をとりながら、我れは迷人なりと思ふて悟りをひらくべき修行を習はんとする人は本分の題にそむける人なり。たとひ詩歌の風情は心にうかばざれ共、月の題をとりたる人は花のことをば案せぬがごとく、本分の題を信ずる人、我れは迷人なりと執著して別に悟りを求むる事はあるべからず。しかれども、いまだ箇々圓成せる處を分明にうけがふことのなき程は、日來の迷悟を存し、凡聖をへだてつる妄情を放下して、或は自ら直下に參究し、或は知識に參ずさはあれども念佛を申して往生の行にあて、陀羅尼を誦して悉地をもとめ、乃至敎門の中にあかせる觀念をこらして、證理をまつには同じからず。かやうの人は本分の題をわすれぬ學者なり。古人悟道の機緣を見れば上代なりし故にや、直下に大悟することはなかりし人も、本分の題をば信ぜし故に本分にかなふべきため、工夫用心とて、人にたづね問へることはなし。たゞ直に問て云く、如何なるか是れ佛、如何なるか是れ禪、如何なるか是れ佛法的々の大意、如何なるか是れ祖師西來の意、如何なるか是れ諸佛出身の處と云云。學者の問もかやうに直問なり。知識の答も亦直答にして、或は卽信卽佛とこたへ、或は庭前柏樹子としめし。或は東山水上に行くといふ。宗師かやうに答ふる事、皆な是れ本分の直示なり。此の語を以て修行の資糧となさしめんためにはあらず。然れども學者若し鈍にして、知識の直示をあきらめざれば、彼のしめすところの話頭に額をついて、或は一兩日、或は一兩月、乃至五年十年も此の直示を參決せり其の間をば修行とも申しぬべし。されども敎家に解行證をたてゝ、諸の觀を修する用心には同じからず。敎外別傳といへる題目は此の謂れなり。今時の人多くは是れ此の題をわすれて、善知識にあふて修行用心をたづね問ふ知識たる人の中にも、學者のために修行用心をおしへらる。或は公案を人にあたふるも往生のために念佛を申し、悉地のために陀羅尼をみつるがごとく、此の公案を提撕して本分に到らしめんと思へり。この故に學者も各用心の體をかたりて勝劣をたくらへ、知識の言のかはれる處について是非を批判す。皆な是れ世俗の戯論なり。
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夢中問答集・『夢中問答集』医者と病にたとえる教禅問敎禪の法門をあしく心得て、偏執に墮たる人をは、まことにきらふべし。若しよく敎の法門を解して、敎網にかゝはらず、禪の宗旨を解して、禪病にしづまざる人をばきらふべからず。しかるを敎禪の法門ともに眞實の處にあらずといはゞ、本分に到れる人は愚人と同じかるべしや。 答本分の處には智者の相もなく、愚人の相もなし。かゝるを妄りに智者愚人の相を見る、これをぐにんとなづく。然らば卽ち智者愚人の相を見ざるを眞實の智者とは申すなり。世間の愚人にかはりて才智辨說のあるを智者といふ事は世俗の論なり。是故に本分の大智を得たる人は、我は智者なりと慢心を起さずしかる故は本分に契當しぬれば、智愚の相を見ざればなり。我は智者とは思へ共智者なるよしをせざるにはあらず。若し人四大調和にして、身心輕安なる時は醫書の祕決も用なし。良藥靈方もいらず。しかれ共其四大不調なるによりて、四百四病忽ちに起る時は、醫術治方まことに大切なり。諸の醫師これを見て病に應じて藥を與ふ。病相一種にあらざれば治方も亦萬差なり。治方萬差なれども、其の意趣をたゞせば、偏に是れ病者の苦痛をやめていまだやまひもなかりし時の安穩の處へ到らしめんためなり。病者の彼の醫師にあふて治方を求むるも亦我が病の苦痛をやめんためなり。醫書の才學をならはんとにはあらず。醫師の治術によりて病苦若しやみぬれば、これを無病安穩の人となづく。病苦のやむことは治方の力なり。身心安穩なることはいまだやまざりし時の本分の處に到れるなり。醫師の始めてあたへたるにはあらず。醫書の才學をきはめ、治方の妙術をあきらめたるを安穩の所にいたれる人と申すならんや。佛法も亦かくのごとし。人々本分の所には迷悟凡聖の病相なし。敎禪對治の法門誰がためにか用ふべきや。然れども無明の病相忽ちに發つて種々顚倒の苦痛あり。佛これを憐れみて大醫王として、種々の性欲に隨つて種々の法門を說き給へり。法門は種々の差別ありといへども、其の旨趣をきはむれば、偏にたゞ衆生の迷悟凡聖を分別する病苦をやめて、本分安穩の所にいたらしめんためなり。種々の對治の法門を衆生にをしへんためにはあらず。若し人無明妄想の病除こほりぬれば、生死去來の輪廻をみず。凡聖迷悟差別なし。是れ卽ち無爲大解脫の人なり。これを大悟の人となづく。敎門の諸宗をきはめつくし、禪家の五派を明め得たるを大悟と申すにはあらず。しかるを末代の學者の中に敎の法門を習學し、禪の法門を領解して佛法の本意かくのごとしと思へる人あり。藥かへりて病となるといへるは此の謂れなり。是を以て、古人これを敎病禪病と名づけたり。
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夢中問答集・『夢中問答集』随他意と随自意の区別問如來の說法に二種あり、一には隨他意語佛の機に隨つてしめし玉へる方便の語なり、二には隨自意語佛の本意のごとく說き給へる語なり、禪門に小玉をよぶ手段といへるは、隨他意語にあたるにあらずや。 答如來の說敎については、是は隨他意是は隨自意と決定して談ずるは、敎門の施說なり、禪門の宗師の佛說を擧揚する時、或は是を隨他意說としめし、或は是を隨自意語といふ。皆是小玉をよぶ手段なり決定の說にあらず。然らば卽ち今日隨自意語といへる、佛說を明日は隨他意語といふこともあるべし。唯此兩語のみにあらず、淺略深祕乃至妄執言說如義言說等の法門も又かくのごとし。古人の云く禪門の宗旨は敎家の法門の一尺はつひに一尺、二尺はつひに二尺なるには同じからずと云云。釋迦如來我は敎者とも仰られず、禪者ともなのり給はず所說の法門においても是は敎の分なり、是は禪の分なりともわけられず、如來の內證は敎にもあらず、禪にもあらざる故なり、此內證不思議の應用機に隨つて敎禪の差異をなせり。經に云く、佛は一音を以て法を說き給へば衆生其の類に隨つて、各解することを得と云云。佛在世の時は其の解了ことなりといへ共禪僧敎僧とてわかれたる事はなかりき、佛滅後に始めて禪敎二門わかれて敎に顯密の諸宗あり、禪に五家の差別あり、其故は先づ各解の性欲に隨つて方便をたれて、如來の本分の宗旨をしらしめんために、如來の化儀を紹隆し玉ふ、大智高德の人、或は敎家の宗師となり、或は禪門の祖師となりて各一雙の手を出だして迷倒の偏執を破り、敎禪の兩岐を越えて本分の田地に到らしめんとす。然らば卽ち眞實の敎師の其の本意敎の內にあるにあらず、明眼の禪師其の本意禪の中にあるにあらず、しかれども面々所談のかはれることは皆是れ小玉をよぶ手段なるが故なり、末代に至りて禪けうの學者の中に偏執を先とする人は是非海の裏にしづみて佛祖の本意をくらませり、像法決疑經に云く文のごとく義をとるは三世諸佛のあだなりと云云、明眼の宗師は胸の中にかねてよりたくはへたる法門なし、只是れ機に當りて提持し口に信せて道著す、すべて定まれる窠窟なし若し人禪を問ふ時、或は孔孟老莊の言を以て答ふる事もあり、或は敎家所談の法門を以て答ふる時もあり、或は世俗の諺を以て答ふる事もあり、或は目前の境界をしめす時もあり、或は棒を行じ喝を下し指を擧げ拳をさゝぐ、皆是宗師の手段なり、これを禪門の活弄となづく、いまだ此の田地に到らざる者の情識を以て計度すべき事にあらず。