夢中問答集 / 『夢中問答集』初心は意に参ずるべし
問初心の學者は、先づ意に參ずべしといへるに、公案をあたへて提撕せしむるは句に參ずるにあらずや。 答かならずしも古人の言句を看ればとて、句に參ずる人と申すにはあらずたゞ此の言句の上において把住放行を理論し、那邊這邊を商量する。これを句に參ずる人となづく。たとひ默然として壁に向つて坐すとも、胸中に雜知雜解をたくはへて安排計較するは、亦是れ句に參ずる分なり。然らば卽ち一切の知解情量を放下して、直に一卽の公案をみするは是意に參せしむる手段なり。たとひ古人の語錄を見、知識の法門を聞けども、直下に懷を忘じて義路理路の上に解會を生ずることなくば、卽ち是れ意に參ずる人なり。學者若し分明に祖意を悟りぬれば、善知識此の人に對して五家の宗風の差別を論量し、把住放行擒縱殺活抑揚褒貶等の手段體裁を商量することさまたげなし。かやうの句を參得せざれば善知識として人を化する事あたはず。古人の得法の人に對して言句をうたがはざるを大病とすといへるは此意なり。たゞ禪宗の手段のみならず。敎門の施設乃至、孔孟老莊の敎外道世俗の論までもしらずんばあるべからず。今時の學者多くは是れ眞實の道心はなし。名聞我慢を先とする故に、自巳もいまだ發明せざるに禪敎の法門を習學するを務とす。其の中に一知一解を得つれば、やがて善知識をたてゝ愚人を誑惑し、其一知一解を人にしめして、若し學者の見解我が知解にかなふ時はこれを印證す。大なる錯なり、古人の未得底の人は先づ意に參せよとしめし給へる事を、よく〱思ふべし。是卽ち無取捨の中の取捨なり。かやうの意句を立つる事も宗師の本意にあらず。古人云く、意よく句をけづり、句よく意をけづる意句交馳す。是を畏べしとすと云云。
新字:問初心の学者は、先づ意に参ずべしといへるに、公案をあたへて提撕せしむるは句に参ずるにあらずや。 答かならずしも古人の言句を看ればとて、句に参ずる人と申すにはあらずたゞ此の言句の上において把住放行を理論し、那辺這辺を商量する。これを句に参ずる人となづく。たとひ黙然として壁に向つて坐すとも、胸中に雑知雑解をたくはへて安排計較するは、亦是れ句に参ずる分なり。然らば即ち一切の知解情量を放下して、直に一即の公案をみするは是意に参せしむる手段なり。たとひ古人の語録を見、知識の法門を聞けども、直下に懐を忘じて義路理路の上に解会を生ずることなくば、即ち是れ意に参ずる人なり。学者若し分明に祖意を悟りぬれば、善知識此の人に対して五家の宗風の差別を論量し、把住放行擒縦殺活抑揚褒貶等の手段体裁を商量することさまたげなし。かやうの句を参得せざれば善知識として人を化する事あたはず。古人の得法の人に対して言句をうたがはざるを大病とすといへるは此意なり。たゞ禅宗の手段のみならず。教門の施設乃至、孔孟老荘の教外道世俗の論までもしらずんばあるべからず。今時の学者多くは是れ真実の道心はなし。名聞我慢を先とする故に、自巳もいまだ発明せざるに禅教の法門を習学するを務とす。其の中に一知一解を得つれば、やがて善知識をたてゝ愚人を誑惑し、其一知一解を人にしめして、若し学者の見解我が知解にかなふ時はこれを印証す。大なる錯なり、古人の未得底の人は先づ意に参せよとしめし給へる事を、よく〱思ふべし。是即ち無取捨の中の取捨なり。かやうの意句を立つる事も宗師の本意にあらず。古人云く、意よく句をけづり、句よく意をけづる意句交馳す。是を畏べしとすと云云。
書き下し
問初心の學者は、先づ意に參ずべしといへるに、公案をあたへて提撕せしむるは句に參ずるにあらずや。 答かならずしも古人の言句を看ればとて、句に參ずる人と申すにはあらずたゞ此の言句の上において把住放行を理論し、那邊這邊を商量する。これを句に參ずる人となづく。たとひ默然として壁に向つて坐すとも、胸中に雜知雜解をたくはへて安排計較するは、亦是れ句に參ずる分なり。然らば卽ち一切の知解情量を放下して、直に一卽の公案をみするは是意に參せしむる手段なり。たとひ古人の語錄を見、知識の法門を聞けども、直下に懷を忘じて義路理路の上に解會を生ずることなくば、卽ち是れ意に參ずる人なり。學者若し分明に祖意を悟りぬれば、善知識此の人に對して五家の宗風の差別を論量し、把住放行擒縱殺活抑揚褒貶等の手段體裁を商量することさまたげなし。かやうの句を參得せざれば善知識として人を化する事あたはず。古人の得法の人に對して言句をうたがはざるを大病とすといへるは此意なり。たゞ禪宗の手段のみならず。敎門の施設乃至、孔孟老莊の敎外道世俗の論までもしらずんばあるべからず。今時の學者多くは是れ眞實の道心はなし。名聞我慢を先とする故に、自巳もいまだ發明せざるに禪敎の法門を習學するを務とす。其の中に一知一解を得つれば、やがて善知識をたてゝ愚人を誑惑し、其一知一解を人にしめして、若し學者の見解我が知解にかなふ時はこれを印證す。大なる錯なり、古人の未得底の人は先づ意に參せよとしめし給へる事を、よく〱思ふべし。是卽ち無取捨の中の取捨なり。かやうの意句を立つる事も宗師の本意にあらず。古人云く、意よく句をけづり、句よく意をけづる意句交馳す。是を畏べしとすと云云。
現代語訳
問:初心の学人はまず意に参ずべきだと言うのに、公案を与えて取り組ませるのは、句に参ずることではないのか。 答:古人の言句を見るからといって、句に参ずる人と言うのではない。ただその言句の上で把住放行を理論し、那辺・這辺を考え比べる。これを句に参ずる人と呼ぶのである。たとえ黙って壁に向かって坐っていても、胸中に雑多な知識や理解を蓄え、あれこれ段取りを考え比べるなら、それもやはり句に参ずることにあたる。そうであれば、一切の知解や情量を投げ捨てて、ただひたすら一つの公案を見させるのは、意に参じさせる手だてである。たとえ古人の語録を見、師の説法を聞いても、その場で我を忘れ、筋道や理屈の上に理解を生じないなら、それは意に参ずる人である。学人がもし祖師の心をはっきり悟ったなら、師家がその人に対して五家の宗風の違いを論じ、把住放行・擒縦殺活・抑揚褒貶などの手だての体裁を考え合うのも差し支えない。こうした句を究め得ていなければ、師家として人を教化することはできない。古人が、法を得た人に対して言句を疑わないのを大病とする、と言うのはこの意味である。ただ禅宗の手だてだけでなく、教門の施設、さらに孔子・孟子・老子・荘子の教え、外道や世俗の論までも知っていなければならない。今の学人の多くには真の道心がない。名声と慢心を先にするので、自分がまだ悟りを開いていないのに、禅や教の教えを習い学ぶことを務めとしている。その中で一つ知り一つ理解すると、すぐに師家を気取って愚かな人を惑わし、その一知一解を人に示して、学人の見解が自分の理解に合えば、これを認可する。大きな誤りである。古人が、まだ悟らない人はまず意に参ぜよと示されたことを、よくよく思うべきである。これが取捨のないなかの取捨である。このように意句を立てることも、祖師の本意ではない。古人は、意がよく句を削り、句がよく意を削る。意と句が交々駆けるのは、畏るべきことである、と言っている。
解説

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