夢中問答集 / 『夢中問答集』医者と病にたとえる教禅
問敎禪の法門をあしく心得て、偏執に墮たる人をは、まことにきらふべし。若しよく敎の法門を解して、敎網にかゝはらず、禪の宗旨を解して、禪病にしづまざる人をばきらふべからず。しかるを敎禪の法門ともに眞實の處にあらずといはゞ、本分に到れる人は愚人と同じかるべしや。 答本分の處には智者の相もなく、愚人の相もなし。かゝるを妄りに智者愚人の相を見る、これをぐにんとなづく。然らば卽ち智者愚人の相を見ざるを眞實の智者とは申すなり。世間の愚人にかはりて才智辨說のあるを智者といふ事は世俗の論なり。是故に本分の大智を得たる人は、我は智者なりと慢心を起さずしかる故は本分に契當しぬれば、智愚の相を見ざればなり。我は智者とは思へ共智者なるよしをせざるにはあらず。若し人四大調和にして、身心輕安なる時は醫書の祕決も用なし。良藥靈方もいらず。しかれ共其四大不調なるによりて、四百四病忽ちに起る時は、醫術治方まことに大切なり。諸の醫師これを見て病に應じて藥を與ふ。病相一種にあらざれば治方も亦萬差なり。治方萬差なれども、其の意趣をたゞせば、偏に是れ病者の苦痛をやめていまだやまひもなかりし時の安穩の處へ到らしめんためなり。病者の彼の醫師にあふて治方を求むるも亦我が病の苦痛をやめんためなり。醫書の才學をならはんとにはあらず。醫師の治術によりて病苦若しやみぬれば、これを無病安穩の人となづく。病苦のやむことは治方の力なり。身心安穩なることはいまだやまざりし時の本分の處に到れるなり。醫師の始めてあたへたるにはあらず。醫書の才學をきはめ、治方の妙術をあきらめたるを安穩の所にいたれる人と申すならんや。佛法も亦かくのごとし。人々本分の所には迷悟凡聖の病相なし。敎禪對治の法門誰がためにか用ふべきや。然れども無明の病相忽ちに發つて種々顚倒の苦痛あり。佛これを憐れみて大醫王として、種々の性欲に隨つて種々の法門を說き給へり。法門は種々の差別ありといへども、其の旨趣をきはむれば、偏にたゞ衆生の迷悟凡聖を分別する病苦をやめて、本分安穩の所にいたらしめんためなり。種々の對治の法門を衆生にをしへんためにはあらず。若し人無明妄想の病除こほりぬれば、生死去來の輪廻をみず。凡聖迷悟差別なし。是れ卽ち無爲大解脫の人なり。これを大悟の人となづく。敎門の諸宗をきはめつくし、禪家の五派を明め得たるを大悟と申すにはあらず。しかるを末代の學者の中に敎の法門を習學し、禪の法門を領解して佛法の本意かくのごとしと思へる人あり。藥かへりて病となるといへるは此の謂れなり。是を以て、古人これを敎病禪病と名づけたり。
新字:問教禅の法門をあしく心得て、偏執に堕たる人をは、まことにきらふべし。若しよく教の法門を解して、教網にかゝはらず、禅の宗旨を解して、禅病にしづまざる人をばきらふべからず。しかるを教禅の法門ともに真実の処にあらずといはゞ、本分に到れる人は愚人と同じかるべしや。 答本分の処には智者の相もなく、愚人の相もなし。かゝるを妄りに智者愚人の相を見る、これをぐにんとなづく。然らば即ち智者愚人の相を見ざるを真実の智者とは申すなり。世間の愚人にかはりて才智弁説のあるを智者といふ事は世俗の論なり。是故に本分の大智を得たる人は、我は智者なりと慢心を起さずしかる故は本分に契当しぬれば、智愚の相を見ざればなり。我は智者とは思へ共智者なるよしをせざるにはあらず。若し人四大調和にして、身心軽安なる時は医書の秘決も用なし。良薬霊方もいらず。しかれ共其四大不調なるによりて、四百四病忽ちに起る時は、医術治方まことに大切なり。諸の医師これを見て病に応じて薬を与ふ。病相一種にあらざれば治方も亦万差なり。治方万差なれども、其の意趣をたゞせば、偏に是れ病者の苦痛をやめていまだやまひもなかりし時の安穏の処へ到らしめんためなり。病者の彼の医師にあふて治方を求むるも亦我が病の苦痛をやめんためなり。医書の才学をならはんとにはあらず。医師の治術によりて病苦若しやみぬれば、これを無病安穏の人となづく。病苦のやむことは治方の力なり。身心安穏なることはいまだやまざりし時の本分の処に到れるなり。医師の始めてあたへたるにはあらず。医書の才学をきはめ、治方の妙術をあきらめたるを安穏の所にいたれる人と申すならんや。仏法も亦かくのごとし。人々本分の所には迷悟凡聖の病相なし。教禅対治の法門誰がためにか用ふべきや。然れども無明の病相忽ちに発つて種々顛倒の苦痛あり。仏これを憐れみて大医王として、種々の性欲に随つて種々の法門を説き給へり。法門は種々の差別ありといへども、其の旨趣をきはむれば、偏にたゞ衆生の迷悟凡聖を分別する病苦をやめて、本分安穏の所にいたらしめんためなり。種々の対治の法門を衆生にをしへんためにはあらず。若し人無明妄想の病除こほりぬれば、生死去来の輪廻をみず。凡聖迷悟差別なし。是れ即ち無為大解脱の人なり。これを大悟の人となづく。教門の諸宗をきはめつくし、禅家の五派を明め得たるを大悟と申すにはあらず。しかるを末代の学者の中に教の法門を習学し、禅の法門を領解して仏法の本意かくのごとしと思へる人あり。薬かへりて病となるといへるは此の謂れなり。是を以て、古人これを教病禅病と名づけたり。
書き下し
問敎禪の法門をあしく心得て、偏執に墮たる人をは、まことにきらふべし。若しよく敎の法門を解して、敎網にかゝはらず、禪の宗旨を解して、禪病にしづまざる人をばきらふべからず。しかるを敎禪の法門ともに眞實の處にあらずといはゞ、本分に到れる人は愚人と同じかるべしや。 答本分の處には智者の相もなく、愚人の相もなし。かゝるを妄りに智者愚人の相を見る、これをぐにんとなづく。然らば卽ち智者愚人の相を見ざるを眞實の智者とは申すなり。世間の愚人にかはりて才智辨說のあるを智者といふ事は世俗の論なり。是故に本分の大智を得たる人は、我は智者なりと慢心を起さずしかる故は本分に契當しぬれば、智愚の相を見ざればなり。我は智者とは思へ共智者なるよしをせざるにはあらず。若し人四大調和にして、身心輕安なる時は醫書の祕決も用なし。良藥靈方もいらず。しかれ共其四大不調なるによりて、四百四病忽ちに起る時は、醫術治方まことに大切なり。諸の醫師これを見て病に應じて藥を與ふ。病相一種にあらざれば治方も亦萬差なり。治方萬差なれども、其の意趣をたゞせば、偏に是れ病者の苦痛をやめていまだやまひもなかりし時の安穩の處へ到らしめんためなり。病者の彼の醫師にあふて治方を求むるも亦我が病の苦痛をやめんためなり。醫書の才學をならはんとにはあらず。醫師の治術によりて病苦若しやみぬれば、これを無病安穩の人となづく。病苦のやむことは治方の力なり。身心安穩なることはいまだやまざりし時の本分の處に到れるなり。醫師の始めてあたへたるにはあらず。醫書の才學をきはめ、治方の妙術をあきらめたるを安穩の所にいたれる人と申すならんや。佛法も亦かくのごとし。人々本分の所には迷悟凡聖の病相なし。敎禪對治の法門誰がためにか用ふべきや。然れども無明の病相忽ちに發つて種々顚倒の苦痛あり。佛これを憐れみて大醫王として、種々の性欲に隨つて種々の法門を說き給へり。法門は種々の差別ありといへども、其の旨趣をきはむれば、偏にたゞ衆生の迷悟凡聖を分別する病苦をやめて、本分安穩の所にいたらしめんためなり。種々の對治の法門を衆生にをしへんためにはあらず。若し人無明妄想の病除こほりぬれば、生死去來の輪廻をみず。凡聖迷悟差別なし。是れ卽ち無爲大解脫の人なり。これを大悟の人となづく。敎門の諸宗をきはめつくし、禪家の五派を明め得たるを大悟と申すにはあらず。しかるを末代の學者の中に敎の法門を習學し、禪の法門を領解して佛法の本意かくのごとしと思へる人あり。藥かへりて病となるといへるは此の謂れなり。是を以て、古人これを敎病禪病と名づけたり。
現代語訳
問:教や禅の法門を悪く理解して、偏った執着に堕ちた人は、確かに嫌うべきである。もしよく教の法門を理解して教の網にかかわらず、禅の宗旨を理解して禅病に沈まない人は、嫌うべきではない。それなのに、教も禅も法門はともに真実の処ではないと言うなら、本分に至った人は愚人と同じなのだろうか。 答:本分の処には、智者の相もなく、愚人の相もない。それなのに、みだりに智者や愚人の相を見る、これを愚人と名づける。そうであれば、智者や愚人の相を見ないことを、真実の智者というのである。世間の愚人と違って、才智や弁説のあるのを智者というのは、世俗の論である。このため、本分の大智を得た人は、自分は智者だと慢心を起こさない。そのわけは、本分にかなえば智と愚の相を見ないからである。自分は智者だと思っても、智者らしくふるまわないわけではない。もし人の四大が調和して身心が軽やかで安らかな時は、医書の秘決も要らず、良薬や霊方も要らない。しかしその四大が不調になって、四百四病がたちまち起こる時は、医術や治療法がまことに大切である。諸々の医師はこれを見て、病に応じて薬を与える。病の相が一種類でないので、治療法もまた千差万別である。治療法は千差万別でも、その趣旨を正せば、ひとえに病者の苦痛をやめて、まだ病のなかった時の安穏の処に到らせるためである。病者がかの医師に会って治療法を求めるのも、また自分の病の苦痛をやめるためである。医書の才学を習おうとするのではない。医師の治術によって病苦がやめば、これを無病で安穏な人と名づける。病苦がやむのは、治療法の力である。身心が安穏であることは、まだ病まなかった時の本分の処に到ったのであって、医師がはじめて与えたのではない。医書の才学を極め、治療の妙術を明らかにしたことを、安穏の処に至った人というだろうか。仏法もまたこのとおりである。人々の本分の処には、迷悟凡聖の病の相はない。教禅対治の法門は、誰のために用いるのか。しかしながら無明の病の相がたちまち起こって、種々の顚倒の苦痛がある。仏はこれを憐れんで、大医王として、種々の性質や欲に従って種々の法門を説かれた。法門には種々の差別があるが、その趣旨を極めれば、ひとえに衆生が迷悟・凡聖を分別する病苦をやめて、本分の安穏の処に到らせるためである。種々の対治の法門を衆生に教えるためではない。もし人の無明妄想の病が除かれたなら、生死去来の輪廻を見ない。凡聖や迷悟の差別もない。これこそ無為の大解脱の人である。これを大悟の人と名づける。教門の諸宗を極め尽くし、禅家の五派を明らかにしたことを大悟というのではない。ところが末代の学者の中に、教の法門を習学し、禅の法門を理解して、仏法の本意はこのようなものだと思っている人がいる。「薬がかえって病となる」というのは、このことである。これによって、古人はこれを教病・禅病と名づけた。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』根本智と後得智、長養の工夫問知識の一言の下に、さとりを開きて敎禪の法門もあづからざる處に到れる人は、化他の利益かけたるにあらずや。 答敎の中に佛智を明かにするに二種あり。一には根本智謂ゆる佛の內證なり。二つには後得智謂ゆる化他の方便なり。佛祖出世して敎禪の法門を說き給ふは皆な是れ化他の方便なり。然らば卽ち禪敎の學者の或は經敎を見、或は知識の語に隨つて心識の上に領解する法門は、皆是れ後得智の分域なり。若し人已に佛の內證の境界に契當せば、後得智を發して利益門に趣きて、敎禪の法門を說きて衆生を濟度すべし。三世の如來歷代の祖師皆な此の式なり。若しいまだ佛の根本智を證せざる人は、先づ此根本內證の境界に到らんことを思ふべし若し此の境界に到らんと思はゞ、敎禪の分域を超出して始めて到るべし。若し敎禪の法門を胸中にたくはへたる人は、本分に到ることあたはず。古人の云く佛祖は言敎を看ることあだがたきのごとくして、始めて相應の分あるべし。又云く只本を得ば末を愁ことなかれと云云。たとへば木を栽がごとし。其根本だに生著ぬれば、枝葉も自茂し、花菓も亦成す。然らば卽ち木をうふる始めには根本に心を入て、枝葉には目をかけず。是の故に根のかたまらぬほどは、少々ある枝をもきりすつるなり。さればとて木を栽ることはたゞ根本のためばかりと思はゞ僻案なり。根本を大事とやしなふことは枝葉花菓のためなり。たとひ本分に契當せる人もいまだ活祖の手段をあきらめざるをば、大法未明の人となづく。かゝる人の自證の分はあやまりなけれども、人のためにする方便手段のかけたる故に、善知識をたつることあたはず。意到句不到の人といへるは是なり。たとひまだすこしき古人の手段を推量し得たりといへ共、自眼若しあきらかならずば、亦善知識といふべからず。是れは句到意不到の人なり。古人の云く、未得底の人は句に參せんよりは唯意に參ずべし。到得底の人は意に參せんよりは只句に參ずべしと云云。意とは祖意なり。祖意とは人々具足の本分底なり。句は五家の宗風手段なり。意は是れ根本なり。句は是れ枝葉なり。然らば卽ち初心の學者は先づ祖意を參得すべし。句下に死在すべからず。古人意を得て後三十年五十年綿密に練磨して、舊業宿障をつくすを長養の工夫となづけたり。長養純熟しぬればこれを打成一片となづく。此の時自然に機辨妙用もあらはるゝ故に、人のためにする手段も亦活脫自在なり。これを意句倶到の人となづく。自眼もいまだあきらかならず。禪門の宗風手段をも亦しらざる人あり。意句倶不到といへるはこれなり。木を栽て後日數久しく成りぬれど、枝葉花菓の思ふほどもさかえざるをば、其の根のいまだありつかぬ故なりとしりて、土をかひ水をそゝぎて日ひさしく、月ふかく長養すれば根本自らかたくして枝葉もまたさかふべし。しからざる故とはしらずして、とくして枝をさゝせ、花をさかせんととかくするほどに、たま〱うゑたる根本のかれゆくことをもわすれたり。たとひ祖意を參得する分ありとも、機辨妙用も自在ならず。變化神通もいまだそなはらず枝葉に目をかけず。たゞ本分の正念に住して人我法我を除き、凡情聖量をつくすべし。古人の云く、法を得る事はやすく、法を守ることはかたしと云云。法をまもるといふは長養の工夫なり。未學の人の中にすこしき靈性ある人、眞實の大悟にはあらぬ光影邊を認得して、長養の工夫をもなさず我れは根本は眞正なれども、機辨神通いまだそなはらず。今は偏にかやうのことを具足せんとて、敎禪の法門を習學し、佛祖の妙用を悕望す。是の故にいよ〱本分をば昧まして、ついに魔道に入り、或は光影を認得して本分にかなへりと思ふて、これを守りゐたるを長養の工夫といふ人あり。たとひ、長養して千生萬劫をふるともたゞ是の無明を增長すべし。たとひ其の中にすこしきの德用をほどこすとも、つひには輪廻の基なり。たとへば根もなき木を栽て土をかけ水をそゝぐがごとし。かやうに養ふて年月を送らば春雨なんどの緣にあふて一旦は枝葉もきざし、あだ花なんどのさくことはありとも、つひには朽木となるべし。
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夢中問答集・『夢中問答集』随他意と随自意の区別問如來の說法に二種あり、一には隨他意語佛の機に隨つてしめし玉へる方便の語なり、二には隨自意語佛の本意のごとく說き給へる語なり、禪門に小玉をよぶ手段といへるは、隨他意語にあたるにあらずや。 答如來の說敎については、是は隨他意是は隨自意と決定して談ずるは、敎門の施說なり、禪門の宗師の佛說を擧揚する時、或は是を隨他意說としめし、或は是を隨自意語といふ。皆是小玉をよぶ手段なり決定の說にあらず。然らば卽ち今日隨自意語といへる、佛說を明日は隨他意語といふこともあるべし。唯此兩語のみにあらず、淺略深祕乃至妄執言說如義言說等の法門も又かくのごとし。古人の云く禪門の宗旨は敎家の法門の一尺はつひに一尺、二尺はつひに二尺なるには同じからずと云云。釋迦如來我は敎者とも仰られず、禪者ともなのり給はず所說の法門においても是は敎の分なり、是は禪の分なりともわけられず、如來の內證は敎にもあらず、禪にもあらざる故なり、此內證不思議の應用機に隨つて敎禪の差異をなせり。經に云く、佛は一音を以て法を說き給へば衆生其の類に隨つて、各解することを得と云云。佛在世の時は其の解了ことなりといへ共禪僧敎僧とてわかれたる事はなかりき、佛滅後に始めて禪敎二門わかれて敎に顯密の諸宗あり、禪に五家の差別あり、其故は先づ各解の性欲に隨つて方便をたれて、如來の本分の宗旨をしらしめんために、如來の化儀を紹隆し玉ふ、大智高德の人、或は敎家の宗師となり、或は禪門の祖師となりて各一雙の手を出だして迷倒の偏執を破り、敎禪の兩岐を越えて本分の田地に到らしめんとす。然らば卽ち眞實の敎師の其の本意敎の內にあるにあらず、明眼の禪師其の本意禪の中にあるにあらず、しかれども面々所談のかはれることは皆是れ小玉をよぶ手段なるが故なり、末代に至りて禪けうの學者の中に偏執を先とする人は是非海の裏にしづみて佛祖の本意をくらませり、像法決疑經に云く文のごとく義をとるは三世諸佛のあだなりと云云、明眼の宗師は胸の中にかねてよりたくはへたる法門なし、只是れ機に當りて提持し口に信せて道著す、すべて定まれる窠窟なし若し人禪を問ふ時、或は孔孟老莊の言を以て答ふる事もあり、或は敎家所談の法門を以て答ふる時もあり、或は世俗の諺を以て答ふる事もあり、或は目前の境界をしめす時もあり、或は棒を行じ喝を下し指を擧げ拳をさゝぐ、皆是宗師の手段なり、これを禪門の活弄となづく、いまだ此の田地に到らざる者の情識を以て計度すべき事にあらず。