夢中問答集 / 『夢中問答集』意に参ずる、句に参ずる
問句に參じ意に參ずる其のかはりめ如何。 答意句と申ことは詩家より出たり。日本の歌道を論ずる時、此の歌の句からはやさしけれども、其心ばせはつたなしなんど申がごとし。禪門に其の語をかりて意句といへる法門あり。其の語は同といへ共、其義はかはれり。禪門の中に向上向下那邊這邊把住放行擒縱殺活三玄三要五位君臣と申す種々の法門あり。皆な是れ句の分なり。未學の人の中にかやうの法門のわけめを分明にしりたるを意到となづけ、此の法門を人に向ひて說く時、問答とゞこほりなきを句到と思へる人あり。此人の意と思へる者は亦是句の分劑なり。しかるをかやうに參決するは意句ならべ參ずる體なりといふ人あり。其の說は似たりといへ共其理はすべてあたらず。
新字:問句に参じ意に参ずる其のかはりめ如何。 答意句と申ことは詩家より出たり。日本の歌道を論ずる時、此の歌の句からはやさしけれども、其心ばせはつたなしなんど申がごとし。禅門に其の語をかりて意句といへる法門あり。其の語は同といへ共、其義はかはれり。禅門の中に向上向下那辺這辺把住放行擒縦殺活三玄三要五位君臣と申す種々の法門あり。皆な是れ句の分なり。未学の人の中にかやうの法門のわけめを分明にしりたるを意到となづけ、此の法門を人に向ひて説く時、問答とゞこほりなきを句到と思へる人あり。此人の意と思へる者は亦是句の分剤なり。しかるをかやうに参決するは意句ならべ参ずる体なりといふ人あり。其の説は似たりといへ共其理はすべてあたらず。
書き下し
問句に參じ意に參ずる其のかはりめ如何。 答意句と申ことは詩家より出たり。日本の歌道を論ずる時、此の歌の句からはやさしけれども、其心ばせはつたなしなんど申がごとし。禪門に其の語をかりて意句といへる法門あり。其の語は同といへ共、其義はかはれり。禪門の中に向上向下那邊這邊把住放行擒縱殺活三玄三要五位君臣と申す種々の法門あり。皆な是れ句の分なり。未學の人の中にかやうの法門のわけめを分明にしりたるを意到となづけ、此の法門を人に向ひて說く時、問答とゞこほりなきを句到と思へる人あり。此人の意と思へる者は亦是句の分劑なり。しかるをかやうに參決するは意句ならべ參ずる體なりといふ人あり。其の說は似たりといへ共其理はすべてあたらず。
現代語訳
問:句に参ずるのと意に参ずるのとでは、その違いはどのようなものか。 答:意句ということばは詩人の世界から出たものである。日本の歌道を論じるとき、この歌は句の姿はやさしいが、心ばえは拙い、などと言うようなものだ。禅門ではそのことばを借りて、意句という教えを立てた。ことばは同じでも、意味は違う。禅門には、向上・向下、那辺・這辺、把住・放行、擒縦・殺活、三玄三要、五位君臣といった様々な教えがある。これらはみな「句」の領分である。未熟な学人の中に、こうした教えの区別をはっきり知っていることを意到と呼び、これを人に説くとき問答が滞らないことを句到と思っている人がいる。しかしその人が「意」と思っているものも、やはり句の区分にすぎない。ところがそのように参じて決着をつけるのを、意と句を並べて参ずるあり方だと言う人がいる。その説は似てはいるが、道理にはまったく当たらない。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』初心は意に参ずるべし問初心の學者は、先づ意に參ずべしといへるに、公案をあたへて提撕せしむるは句に參ずるにあらずや。 答かならずしも古人の言句を看ればとて、句に參ずる人と申すにはあらずたゞ此の言句の上において把住放行を理論し、那邊這邊を商量する。これを句に參ずる人となづく。たとひ默然として壁に向つて坐すとも、胸中に雜知雜解をたくはへて安排計較するは、亦是れ句に參ずる分なり。然らば卽ち一切の知解情量を放下して、直に一卽の公案をみするは是意に參せしむる手段なり。たとひ古人の語錄を見、知識の法門を聞けども、直下に懷を忘じて義路理路の上に解會を生ずることなくば、卽ち是れ意に參ずる人なり。學者若し分明に祖意を悟りぬれば、善知識此の人に對して五家の宗風の差別を論量し、把住放行擒縱殺活抑揚褒貶等の手段體裁を商量することさまたげなし。かやうの句を參得せざれば善知識として人を化する事あたはず。古人の得法の人に對して言句をうたがはざるを大病とすといへるは此意なり。たゞ禪宗の手段のみならず。敎門の施設乃至、孔孟老莊の敎外道世俗の論までもしらずんばあるべからず。今時の學者多くは是れ眞實の道心はなし。名聞我慢を先とする故に、自巳もいまだ發明せざるに禪敎の法門を習學するを務とす。其の中に一知一解を得つれば、やがて善知識をたてゝ愚人を誑惑し、其一知一解を人にしめして、若し學者の見解我が知解にかなふ時はこれを印證す。大なる錯なり、古人の未得底の人は先づ意に參せよとしめし給へる事を、よく〱思ふべし。是卽ち無取捨の中の取捨なり。かやうの意句を立つる事も宗師の本意にあらず。古人云く、意よく句をけづり、句よく意をけづる意句交馳す。是を畏べしとすと云云。
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夢中問答集・『夢中問答集』根本智と後得智、長養の工夫問知識の一言の下に、さとりを開きて敎禪の法門もあづからざる處に到れる人は、化他の利益かけたるにあらずや。 答敎の中に佛智を明かにするに二種あり。一には根本智謂ゆる佛の內證なり。二つには後得智謂ゆる化他の方便なり。佛祖出世して敎禪の法門を說き給ふは皆な是れ化他の方便なり。然らば卽ち禪敎の學者の或は經敎を見、或は知識の語に隨つて心識の上に領解する法門は、皆是れ後得智の分域なり。若し人已に佛の內證の境界に契當せば、後得智を發して利益門に趣きて、敎禪の法門を說きて衆生を濟度すべし。三世の如來歷代の祖師皆な此の式なり。若しいまだ佛の根本智を證せざる人は、先づ此根本內證の境界に到らんことを思ふべし若し此の境界に到らんと思はゞ、敎禪の分域を超出して始めて到るべし。若し敎禪の法門を胸中にたくはへたる人は、本分に到ることあたはず。古人の云く佛祖は言敎を看ることあだがたきのごとくして、始めて相應の分あるべし。又云く只本を得ば末を愁ことなかれと云云。たとへば木を栽がごとし。其根本だに生著ぬれば、枝葉も自茂し、花菓も亦成す。然らば卽ち木をうふる始めには根本に心を入て、枝葉には目をかけず。是の故に根のかたまらぬほどは、少々ある枝をもきりすつるなり。さればとて木を栽ることはたゞ根本のためばかりと思はゞ僻案なり。根本を大事とやしなふことは枝葉花菓のためなり。たとひ本分に契當せる人もいまだ活祖の手段をあきらめざるをば、大法未明の人となづく。かゝる人の自證の分はあやまりなけれども、人のためにする方便手段のかけたる故に、善知識をたつることあたはず。意到句不到の人といへるは是なり。たとひまだすこしき古人の手段を推量し得たりといへ共、自眼若しあきらかならずば、亦善知識といふべからず。是れは句到意不到の人なり。古人の云く、未得底の人は句に參せんよりは唯意に參ずべし。到得底の人は意に參せんよりは只句に參ずべしと云云。意とは祖意なり。祖意とは人々具足の本分底なり。句は五家の宗風手段なり。意は是れ根本なり。句は是れ枝葉なり。然らば卽ち初心の學者は先づ祖意を參得すべし。句下に死在すべからず。古人意を得て後三十年五十年綿密に練磨して、舊業宿障をつくすを長養の工夫となづけたり。長養純熟しぬればこれを打成一片となづく。此の時自然に機辨妙用もあらはるゝ故に、人のためにする手段も亦活脫自在なり。これを意句倶到の人となづく。自眼もいまだあきらかならず。禪門の宗風手段をも亦しらざる人あり。意句倶不到といへるはこれなり。木を栽て後日數久しく成りぬれど、枝葉花菓の思ふほどもさかえざるをば、其の根のいまだありつかぬ故なりとしりて、土をかひ水をそゝぎて日ひさしく、月ふかく長養すれば根本自らかたくして枝葉もまたさかふべし。しからざる故とはしらずして、とくして枝をさゝせ、花をさかせんととかくするほどに、たま〱うゑたる根本のかれゆくことをもわすれたり。たとひ祖意を參得する分ありとも、機辨妙用も自在ならず。變化神通もいまだそなはらず枝葉に目をかけず。たゞ本分の正念に住して人我法我を除き、凡情聖量をつくすべし。古人の云く、法を得る事はやすく、法を守ることはかたしと云云。法をまもるといふは長養の工夫なり。未學の人の中にすこしき靈性ある人、眞實の大悟にはあらぬ光影邊を認得して、長養の工夫をもなさず我れは根本は眞正なれども、機辨神通いまだそなはらず。今は偏にかやうのことを具足せんとて、敎禪の法門を習學し、佛祖の妙用を悕望す。是の故にいよ〱本分をば昧まして、ついに魔道に入り、或は光影を認得して本分にかなへりと思ふて、これを守りゐたるを長養の工夫といふ人あり。たとひ、長養して千生萬劫をふるともたゞ是の無明を增長すべし。たとひ其の中にすこしきの德用をほどこすとも、つひには輪廻の基なり。たとへば根もなき木を栽て土をかけ水をそゝぐがごとし。かやうに養ふて年月を送らば春雨なんどの緣にあふて一旦は枝葉もきざし、あだ花なんどのさくことはありとも、つひには朽木となるべし。
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夢中問答集・『夢中問答集』言句に従って理解する妄想問前にきらふ所の法門は、或は經論の所說、或は古德の所談なり。しかるを皆妄想なりといへることは何ぞや。 答本分の田地にいたれる人の學者のために方便をたれて、種々の法門を說くことはすべて是妨げなし。火といへども、口をやかざるが如し。いまだ本分には到らざる人の識情を以て、其の言句に隨つて義理を領解するは悉く是れ妄想なり。今時敎門の口決相承は、のこる所なしと思へる人も、其の宗の大師先德のごとくならざる事は、何ぞや。しるべし。其の口決相承もすべて、先德の本意にあらずといふ事を、天台大師の云く、南岳に禀承して證す。他によらずと云云。大日經の疏に云く、心みづから心を證し、心みづから心を覺すこれを菩提を成ずとなづく。他によりて證し、他によりて覺するにはあらずと云云。顯密の宗師たれか文字義理を學德したるを、佛法の宗旨と仰せられたるや、禪門の宗師と號して古人の言句を批判し、學者を勘辨することくらからずと思へる人も、生死禍福の間にのぞむ時、古人のごとく自在を得ざることは何ぞやしるべし。日來の所解はすべて是れ、古人の田地にあらざることを雲門大師の云く、此の事若し言句の上にあらば一大藏敎あに言句なからんや。祖師西來を用ひてなにかせんと云云。
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夢中問答集・『夢中問答集』随他意と随自意の区別問如來の說法に二種あり、一には隨他意語佛の機に隨つてしめし玉へる方便の語なり、二には隨自意語佛の本意のごとく說き給へる語なり、禪門に小玉をよぶ手段といへるは、隨他意語にあたるにあらずや。 答如來の說敎については、是は隨他意是は隨自意と決定して談ずるは、敎門の施說なり、禪門の宗師の佛說を擧揚する時、或は是を隨他意說としめし、或は是を隨自意語といふ。皆是小玉をよぶ手段なり決定の說にあらず。然らば卽ち今日隨自意語といへる、佛說を明日は隨他意語といふこともあるべし。唯此兩語のみにあらず、淺略深祕乃至妄執言說如義言說等の法門も又かくのごとし。古人の云く禪門の宗旨は敎家の法門の一尺はつひに一尺、二尺はつひに二尺なるには同じからずと云云。釋迦如來我は敎者とも仰られず、禪者ともなのり給はず所說の法門においても是は敎の分なり、是は禪の分なりともわけられず、如來の內證は敎にもあらず、禪にもあらざる故なり、此內證不思議の應用機に隨つて敎禪の差異をなせり。經に云く、佛は一音を以て法を說き給へば衆生其の類に隨つて、各解することを得と云云。佛在世の時は其の解了ことなりといへ共禪僧敎僧とてわかれたる事はなかりき、佛滅後に始めて禪敎二門わかれて敎に顯密の諸宗あり、禪に五家の差別あり、其故は先づ各解の性欲に隨つて方便をたれて、如來の本分の宗旨をしらしめんために、如來の化儀を紹隆し玉ふ、大智高德の人、或は敎家の宗師となり、或は禪門の祖師となりて各一雙の手を出だして迷倒の偏執を破り、敎禪の兩岐を越えて本分の田地に到らしめんとす。然らば卽ち眞實の敎師の其の本意敎の內にあるにあらず、明眼の禪師其の本意禪の中にあるにあらず、しかれども面々所談のかはれることは皆是れ小玉をよぶ手段なるが故なり、末代に至りて禪けうの學者の中に偏執を先とする人は是非海の裏にしづみて佛祖の本意をくらませり、像法決疑經に云く文のごとく義をとるは三世諸佛のあだなりと云云、明眼の宗師は胸の中にかねてよりたくはへたる法門なし、只是れ機に當りて提持し口に信せて道著す、すべて定まれる窠窟なし若し人禪を問ふ時、或は孔孟老莊の言を以て答ふる事もあり、或は敎家所談の法門を以て答ふる時もあり、或は世俗の諺を以て答ふる事もあり、或は目前の境界をしめす時もあり、或は棒を行じ喝を下し指を擧げ拳をさゝぐ、皆是宗師の手段なり、これを禪門の活弄となづく、いまだ此の田地に到らざる者の情識を以て計度すべき事にあらず。
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夢中問答集・『夢中問答集』本分の題を忘れぬ修行問禪門には生佛以前を擧揚する故に、一心三密の觀行をも論ぜずと申すに、古來の禪宗の學者皆坐禪工夫をたしなみ、知識も亦修行用心の邪正をしめす事は何ぞや。 答詩をつくり歌をよむ人は、先づ其の題をよく心得べし。月の題をとりて花の事を案ぜばよろしからず。佛法も亦かくのごとし。禪宗に本分の事といへるは何の事ぞや。凡にありても減ぜず。聖にありても增せず。人々具足し、箇々圓成すといへり。此の本分の題をとりながら、我れは迷人なりと思ふて悟りをひらくべき修行を習はんとする人は本分の題にそむける人なり。たとひ詩歌の風情は心にうかばざれ共、月の題をとりたる人は花のことをば案せぬがごとく、本分の題を信ずる人、我れは迷人なりと執著して別に悟りを求むる事はあるべからず。しかれども、いまだ箇々圓成せる處を分明にうけがふことのなき程は、日來の迷悟を存し、凡聖をへだてつる妄情を放下して、或は自ら直下に參究し、或は知識に參ずさはあれども念佛を申して往生の行にあて、陀羅尼を誦して悉地をもとめ、乃至敎門の中にあかせる觀念をこらして、證理をまつには同じからず。かやうの人は本分の題をわすれぬ學者なり。古人悟道の機緣を見れば上代なりし故にや、直下に大悟することはなかりし人も、本分の題をば信ぜし故に本分にかなふべきため、工夫用心とて、人にたづね問へることはなし。たゞ直に問て云く、如何なるか是れ佛、如何なるか是れ禪、如何なるか是れ佛法的々の大意、如何なるか是れ祖師西來の意、如何なるか是れ諸佛出身の處と云云。學者の問もかやうに直問なり。知識の答も亦直答にして、或は卽信卽佛とこたへ、或は庭前柏樹子としめし。或は東山水上に行くといふ。宗師かやうに答ふる事、皆な是れ本分の直示なり。此の語を以て修行の資糧となさしめんためにはあらず。然れども學者若し鈍にして、知識の直示をあきらめざれば、彼のしめすところの話頭に額をついて、或は一兩日、或は一兩月、乃至五年十年も此の直示を參決せり其の間をば修行とも申しぬべし。されども敎家に解行證をたてゝ、諸の觀を修する用心には同じからず。敎外別傳といへる題目は此の謂れなり。今時の人多くは是れ此の題をわすれて、善知識にあふて修行用心をたづね問ふ知識たる人の中にも、學者のために修行用心をおしへらる。或は公案を人にあたふるも往生のために念佛を申し、悉地のために陀羅尼をみつるがごとく、此の公案を提撕して本分に到らしめんと思へり。この故に學者も各用心の體をかたりて勝劣をたくらへ、知識の言のかはれる處について是非を批判す。皆な是れ世俗の戯論なり。
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夢中問答集・『夢中問答集』一心三密の観法をも許さず問大乘敎の中に或は行者の一念について、三諦の觀行を修せしめ、或は行者の當體について、三密の加持を作しむ。かやうの法門は皆身心の所作なればいたづら事と申すべしや。 答佛事門の中には、有漏の戒善小乘の修行をも拾つる事なし。况んや顯密大乘の深旨をや、しかれ共衆生を化導する各の方便門は其差別なきにあらず。禪門の宗師の手段いかでか敎門と同じからんや。敎門は生佛すでにわかれたる處について、衆生を引導して、佛境界に入らしむる法門を設けたり。禪門は生佛いまだわかれざる本分の田地に直に到らしめんとす。然らば卽ち身口意業の修行をも論ぜず。一心三密の觀法をもゆるさず。三祖大師の云く、心を用ふるは大なる錯なり。古德の云く、無用心の處これ諸佛用心の處なりと云云。