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夢中問答集 / 『夢中問答集』学解は優れど行いは凡夫

問末代なりといへ共、內典外典の血脈相承たへず。各先德の意趣を解了して、其の家の法門を無窮に談ずる人はあれ共、儒者の中にも孔孟のごとく。心に五常を存する人もなし。佛敎の諸宗を學する人も、其宗の先德の行儀にも似ず。禪門の下語說禪機辨自在なる人も、死生禍福の間において、古人のごとく繫縛せられさるはまれなり。法門の相承は古今かはらずといへ共、學者の行儀は勝劣同じからざる事は何ぞや。 答經に云く、若し人多聞ありといへども、修行せざれば愚人にことならずと云云。世間の諸事も其の義を心得て人に語る事はやすく、其の語のごとく其の事をなす事はかたし。番匠のしわざ造作のたくみは、われ〱までも常の番匠にはおとらじと存ずれども、まことに手斧かんなを取て木をけづる事はかなはず。其故は番匠の家業をつぐべきことゝ思はねば、其しわざを稽古したることのなき故なり。此分にては下品の番匠の內にも入るべからず。番匠の家に生れたる者は幼少の時より、其のしわざを練磨するが故に、いかに非器なる者もさすがに、其の家業をつげる分はあり、今時內外典を相承する人は其家の才學をのみ論じて心を修する練磨なし。先德のごとくならざることは偏に是れ此故なり。昔孔子世に出て五常の道を述べられし時、其の門弟となれる人面々に其仁義禮智信の理を心にかけて修練しき、某人は仁を學び得たり。某人は義を學び得たりと孔子の印證し給ひしは、其の心に仁あり義ある人の事なり。たゞ仁義の才學をのみ談論して、心に仁義なき人をば印證し給ふことなかりき。今時儒敎を學び給ふ人は、たゞ仁義のいはれを習ひ得つれば、我は儒敎の達者なりと思ふて、仁義の道を心に修練せらるゝことなし。この故に仁義の才學は孔孟にもおとらぬやうに見ゆれども、其の心に仁義のかけたることは、つねさまの愚人とかはれる所なし。佛敎も亦かくのごとし。佛在世の時なればとて、人ごとに皆上根にして、やがて解脫自在を得たることなし。しかれども中下根の人も如來の法門を聽聞して、其の聞解のごとく修練せし故に、分に隨つて益を得ざる人はなかりき。佛滅後にも上古には一宗の法門を聞く人面々に、其の宗に敎へたるごとく修行せし故に、皆得益の分ありき。其故は利鈍ことなりといへども、宿殖深厚の人の佛法を信ずることは、偏に出離生死化度衆生のためにして、世俗の名利をかへりみることなかりし故なり。末代に生れたる人は宿熏淺薄なる故に、在家の人の中にたま〱佛法を信じ給ふも、大略は世俗の名利のためなり。出家の形になりて佛法を學する人も多くは、是れ榮耀名譽のためなり。しかれば修練の功をつまるゝ事もなし。只偏に諸宗の義理をだにも學び得つれば各滿足の思をなし給へり。故に學解のまさるに隨つて我慢も亦高し、つねさまの凡夫はたゞ人我ばかりあり。佛法を學せる人は本の人、我の上にかさねて法我を添へたり。この故に法門を談論することは上古の先德にもおとらず。行儀を較量すれば下賤の凡夫とかはりめなし。番匠鍛冶等の才藝を學ぶ者はたとひ、其才學を吐く辨說は拔群なりとも木をけづるてうはうもなく、釘をだにつくりえぬ分劑ならば、鍛冶番匠の內にも入るべからず。況んや此の才學をたのみて世をわたる活計とせんや。然らば卽ち彼等が家に生れたる者は、幼少より其の業を練磨するほどに末代までも上古に恥ることなし。內外典を學し給ふ人も、かやうにだにならば何ぞ上古にはづることあらんや。たとひ鈍根にして、やがて解脫自在をこそえずとも、などかつねさまの凡夫よりも人情我執のやはらぐ分はなからんや。しかれども今時はたゞ人に勝れたる學解だにあれば、其の心の邪僻なるをもかへりみず。其の行の浮淺なるをも耻給はざれば、諸宗の學者の先德のごとくにおはせぬこそ、ことはりなれ。古人云く一丈を說得せんよりは一尺を行取せんにはしかじと云云。然らば卽ち禪門の宗師同く一切の學解を放下して自ら參じ、自ら究めよとすゝめ給へり。しかるを今時禪門の學者もまた語錄をよみ、文章をたしなみて其の中の才學日來よりまされる所あれば、大我慢をおこして眞實の悟入なき事をば耻らるゝことなし。是故に敎門禪宗の所學ことなりといへども、祖師先德の行儀にそむける事は、是れ同じ是れ卽ち末世法滅の相なり。なげかしきことのこれよりも、まされるはあるべからず。

新字:問末代なりといへ共、内典外典の血脈相承たへず。各先徳の意趣を解了して、其の家の法門を無窮に談ずる人はあれ共、儒者の中にも孔孟のごとく。心に五常を存する人もなし。仏教の諸宗を学する人も、其宗の先徳の行儀にも似ず。禅門の下語説禅機弁自在なる人も、死生禍福の間において、古人のごとく繋縛せられさるはまれなり。法門の相承は古今かはらずといへ共、学者の行儀は勝劣同じからざる事は何ぞや。 答経に云く、若し人多聞ありといへども、修行せざれば愚人にことならずと云云。世間の諸事も其の義を心得て人に語る事はやすく、其の語のごとく其の事をなす事はかたし。番匠のしわざ造作のたくみは、われ〱までも常の番匠にはおとらじと存ずれども、まことに手斧かんなを取て木をけづる事はかなはず。其故は番匠の家業をつぐべきことゝ思はねば、其しわざを稽古したることのなき故なり。此分にては下品の番匠の内にも入るべからず。番匠の家に生れたる者は幼少の時より、其のしわざを練磨するが故に、いかに非器なる者もさすがに、其の家業をつげる分はあり、今時内外典を相承する人は其家の才学をのみ論じて心を修する練磨なし。先徳のごとくならざることは偏に是れ此故なり。昔孔子世に出て五常の道を述べられし時、其の門弟となれる人面々に其仁義礼智信の理を心にかけて修練しき、某人は仁を学び得たり。某人は義を学び得たりと孔子の印証し給ひしは、其の心に仁あり義ある人の事なり。たゞ仁義の才学をのみ談論して、心に仁義なき人をば印証し給ふことなかりき。今時儒教を学び給ふ人は、たゞ仁義のいはれを習ひ得つれば、我は儒教の達者なりと思ふて、仁義の道を心に修練せらるゝことなし。この故に仁義の才学は孔孟にもおとらぬやうに見ゆれども、其の心に仁義のかけたることは、つねさまの愚人とかはれる所なし。仏教も亦かくのごとし。仏在世の時なればとて、人ごとに皆上根にして、やがて解脱自在を得たることなし。しかれども中下根の人も如来の法門を聴聞して、其の聞解のごとく修練せし故に、分に随つて益を得ざる人はなかりき。仏滅後にも上古には一宗の法門を聞く人面々に、其の宗に教へたるごとく修行せし故に、皆得益の分ありき。其故は利鈍ことなりといへども、宿殖深厚の人の仏法を信ずることは、偏に出離生死化度衆生のためにして、世俗の名利をかへりみることなかりし故なり。末代に生れたる人は宿熏浅薄なる故に、在家の人の中にたま〱仏法を信じ給ふも、大略は世俗の名利のためなり。出家の形になりて仏法を学する人も多くは、是れ栄耀名誉のためなり。しかれば修練の功をつまるゝ事もなし。只偏に諸宗の義理をだにも学び得つれば各満足の思をなし給へり。故に学解のまさるに随つて我慢も亦高し、つねさまの凡夫はたゞ人我ばかりあり。仏法を学せる人は本の人、我の上にかさねて法我を添へたり。この故に法門を談論することは上古の先徳にもおとらず。行儀を較量すれば下賤の凡夫とかはりめなし。番匠鍛冶等の才芸を学ぶ者はたとひ、其才学を吐く弁説は抜群なりとも木をけづるてうはうもなく、釘をだにつくりえぬ分剤ならば、鍛冶番匠の内にも入るべからず。況んや此の才学をたのみて世をわたる活計とせんや。然らば即ち彼等が家に生れたる者は、幼少より其の業を練磨するほどに末代までも上古に恥ることなし。内外典を学し給ふ人も、かやうにだにならば何ぞ上古にはづることあらんや。たとひ鈍根にして、やがて解脱自在をこそえずとも、などかつねさまの凡夫よりも人情我執のやはらぐ分はなからんや。しかれども今時はたゞ人に勝れたる学解だにあれば、其の心の邪僻なるをもかへりみず。其の行の浮浅なるをも耻給はざれば、諸宗の学者の先徳のごとくにおはせぬこそ、ことはりなれ。古人云く一丈を説得せんよりは一尺を行取せんにはしかじと云云。然らば即ち禅門の宗師同く一切の学解を放下して自ら参じ、自ら究めよとすゝめ給へり。しかるを今時禅門の学者もまた語録をよみ、文章をたしなみて其の中の才学日来よりまされる所あれば、大我慢をおこして真実の悟入なき事をば耻らるゝことなし。是故に教門禅宗の所学ことなりといへども、祖師先徳の行儀にそむける事は、是れ同じ是れ即ち末世法滅の相なり。なげかしきことのこれよりも、まされるはあるべからず。

書き下し

問末代なりといへ共、內典外典の血脈相承たへず。各先德の意趣を解了して、其の家の法門を無窮に談ずる人はあれ共、儒者の中にも孔孟のごとく。心に五常を存する人もなし。佛敎の諸宗を學する人も、其宗の先德の行儀にも似ず。禪門の下語說禪機辨自在なる人も、死生禍福の間において、古人のごとく繫縛せられさるはまれなり。法門の相承は古今かはらずといへ共、學者の行儀は勝劣同じからざる事は何ぞや。 答經に云く、若し人多聞ありといへども、修行せざれば愚人にことならずと云云。世間の諸事も其の義を心得て人に語る事はやすく、其の語のごとく其の事をなす事はかたし。番匠のしわざ造作のたくみは、われ〱までも常の番匠にはおとらじと存ずれども、まことに手斧かんなを取て木をけづる事はかなはず。其故は番匠の家業をつぐべきことゝ思はねば、其しわざを稽古したることのなき故なり。此分にては下品の番匠の內にも入るべからず。番匠の家に生れたる者は幼少の時より、其のしわざを練磨するが故に、いかに非器なる者もさすがに、其の家業をつげる分はあり、今時內外典を相承する人は其家の才學をのみ論じて心を修する練磨なし。先德のごとくならざることは偏に是れ此故なり。昔孔子世に出て五常の道を述べられし時、其の門弟となれる人面々に其仁義禮智信の理を心にかけて修練しき、某人は仁を學び得たり。某人は義を學び得たりと孔子の印證し給ひしは、其の心に仁あり義ある人の事なり。たゞ仁義の才學をのみ談論して、心に仁義なき人をば印證し給ふことなかりき。今時儒敎を學び給ふ人は、たゞ仁義のいはれを習ひ得つれば、我は儒敎の達者なりと思ふて、仁義の道を心に修練せらるゝことなし。この故に仁義の才學は孔孟にもおとらぬやうに見ゆれども、其の心に仁義のかけたることは、つねさまの愚人とかはれる所なし。佛敎も亦かくのごとし。佛在世の時なればとて、人ごとに皆上根にして、やがて解脫自在を得たることなし。しかれども中下根の人も如來の法門を聽聞して、其の聞解のごとく修練せし故に、分に隨つて益を得ざる人はなかりき。佛滅後にも上古には一宗の法門を聞く人面々に、其の宗に敎へたるごとく修行せし故に、皆得益の分ありき。其故は利鈍ことなりといへども、宿殖深厚の人の佛法を信ずることは、偏に出離生死化度衆生のためにして、世俗の名利をかへりみることなかりし故なり。末代に生れたる人は宿熏淺薄なる故に、在家の人の中にたま〱佛法を信じ給ふも、大略は世俗の名利のためなり。出家の形になりて佛法を學する人も多くは、是れ榮耀名譽のためなり。しかれば修練の功をつまるゝ事もなし。只偏に諸宗の義理をだにも學び得つれば各滿足の思をなし給へり。故に學解のまさるに隨つて我慢も亦高し、つねさまの凡夫はたゞ人我ばかりあり。佛法を學せる人は本の人、我の上にかさねて法我を添へたり。この故に法門を談論することは上古の先德にもおとらず。行儀を較量すれば下賤の凡夫とかはりめなし。番匠鍛冶等の才藝を學ぶ者はたとひ、其才學を吐く辨說は拔群なりとも木をけづるてうはうもなく、釘をだにつくりえぬ分劑ならば、鍛冶番匠の內にも入るべからず。況んや此の才學をたのみて世をわたる活計とせんや。然らば卽ち彼等が家に生れたる者は、幼少より其の業を練磨するほどに末代までも上古に恥ることなし。內外典を學し給ふ人も、かやうにだにならば何ぞ上古にはづることあらんや。たとひ鈍根にして、やがて解脫自在をこそえずとも、などかつねさまの凡夫よりも人情我執のやはらぐ分はなからんや。しかれども今時はたゞ人に勝れたる學解だにあれば、其の心の邪僻なるをもかへりみず。其の行の浮淺なるをも耻給はざれば、諸宗の學者の先德のごとくにおはせぬこそ、ことはりなれ。古人云く一丈を說得せんよりは一尺を行取せんにはしかじと云云。然らば卽ち禪門の宗師同く一切の學解を放下して自ら參じ、自ら究めよとすゝめ給へり。しかるを今時禪門の學者もまた語錄をよみ、文章をたしなみて其の中の才學日來よりまされる所あれば、大我慢をおこして眞實の悟入なき事をば耻らるゝことなし。是故に敎門禪宗の所學ことなりといへども、祖師先德の行儀にそむける事は、是れ同じ是れ卽ち末世法滅の相なり。なげかしきことのこれよりも、まされるはあるべからず。

現代語訳

問:末世とはいえ、内典(仏教)・外典(儒学など)の血脈の相承は絶えていない。それぞれ先徳の趣旨を理解し、その家の教えを際限なく語る人はいるが、儒者の中にも孔子・孟子のように心に五常を持つ人はいない。仏教の諸宗を学ぶ人も、その宗の先徳の振る舞いには似ていない。禅門の下語や説禅、機弁が自在な人でも、生死や禍福のはざまで、古人のように束縛されずにいられる人は稀である。教えの相承は古今変わらないのに、学者の行いの優劣が同じでないのはなぜか。 答:経に、たとえ多聞であっても、修行しなければ愚人と変わらない、とある。世間の諸事も、その意味を心得て人に語ることはたやすいが、語ったとおりにそれを行うことは難しい。大工の仕事や造作の巧みさは、私などでも普通の大工には劣らないと思うけれども、実際に手斧や鉋を取って木を削ることはできない。それは、大工の家業を継ぐつもりがないので、その仕事を稽古したことがないからである。これでは下等の大工の内にさえ入れない。大工の家に生まれた者は、幼いときからその仕事を鍛えるので、どれほど不器用な者でも、さすがに家業を継ぐだけの力はある。ところが今、内典外典を相承する人は、その家の才学ばかり論じて、心を修める鍛錬がない。先徳のようにならないのはひとえにこのためである。昔、孔子が世に出て五常の道を述べられたとき、その門弟になった人々はそれぞれ、仁義礼智信の理を心にかけて修練した。誰は仁を学び得た、誰は義を学び得たと孔子が認められたのは、その心に仁があり義がある人のことである。ただ仁義の才学ばかり談論して、心に仁義のない人は、お認めにならなかった。今、儒教を学ぶ人は、仁義のいわれを習い覚えると、自分は儒教の達人だと思って、仁義の道を心に修練しない。そのため仁義の才学は孔子・孟子にも劣らないように見えるが、心に仁義が欠けている点では、普通の愚人と変わるところがない。仏教もまた同じである。釈尊の在世のときだからといって、人がみな上根で、すぐに解脱自在を得たわけではない。しかし中根・下根の人も如来の教えを聞いて、聞いて理解したとおりに修練したから、分に応じて利益を得ない人はいなかった。仏滅後の上古にも、一宗の教えを聞く人はそれぞれ、その宗の教えのとおりに修行したので、みな得るところがあった。その理由は、才能の鋭さ鈍さは違っても、過去からの善根が深く厚い人が仏法を信ずるのは、ひとえに生死を離れ衆生を教化するためで、世俗の名利を顧みることがなかったからである。末世に生まれた人は過去の薫習が浅く薄いので、在家の人の中にたまたま仏法を信ずる人があっても、おおむね世俗の名利のためである。出家の姿になって仏法を学ぶ人も、多くは栄耀や名誉のためである。だから修練の功を積むことがない。ただひたすら諸宗の義理を学び得さえすれば、それぞれ満足している。そのため学解が増すにつれて慢心も高くなる。普通の凡夫にはただ人我(自他の区別への執着)があるだけだが、仏法を学ぶ人は、もとの人我の上に法我(教えへの執着)を重ねている。このため教えを談論することは上古の先徳にも劣らないが、行いを比べれば下賤の凡夫と変わりがない。大工や鍛冶などの技芸を学ぶ者は、たとえその才学を語る弁舌が抜群でも、木を削る手並みもなく、釘ひとつ作れないようなら、鍛冶や大工の内に入れない。まして、その才学を頼りに世渡りの手段にするなどできようか。だから、そうした家に生まれた者は幼いときからその業を鍛えるので、末代までも上古に恥じることがない。内典外典を学ぶ人も、もしこのようであれば、何で上古に恥じることがあろう。たとえ鈍根で、すぐに解脱自在を得ることはできなくても、普通の凡夫よりは人情や我執の和らぐ分がないはずがあるまい。しかし今は、人にまさる学解さえあれば、その心がよこしまでも省みず、その行いが浅はかでも恥じないので、諸宗の学者が先徳のようでないのは、当然である。古人は、一丈を説き得るより、一尺を行い取るに及ばない、と言った。禅門の師たちが同じく一切の学解を投げ捨てて自ら参じ、自ら究めよと勧められたのはこのためである。それなのに今の禅門の学者もまた、語録を読み、文章をたしなんで、その才学が以前よりまさるところがあると、大いに慢心を起こし、真実の悟りがないことを恥じない。だから、教門と禅宗とで学ぶ内容は異なっても、祖師・先徳の行いにそむいている点は同じである。これこそ末世・法滅の相であり、これ以上に嘆かわしいことはない。

解説

知識は昔の先徳に劣らないのに、行いは凡夫と変わらないのはなぜか、という問いです。夢窓は大工の例えで、語れることとできることの差を示します。家業を継ぐ者は幼いころから手を動かして鍛えるが、学者は才学を論じるだけで心を鍛えない。しかも名利が動機なので、学解が増えるほど慢心も高くなると指摘します。末世の仏教者への厳しい批判ですが、そのまま現代にも通じます。資格や理論を語る力がついても、現場の振る舞いが伴わなければ評価されません。知っていることと、毎日やっていることの差を見つめ直す問答です。
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人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

学解修行末世法我五常番匠

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