夢中問答集 / 『夢中問答集』学解を捨てても妄想の病は残る
問斯樣の法門を信じて、智慧をも求めず、經敎をも學せざる人もありけるなれども、それによりて悟る分もなきことは何ぞや。 答學解をつみて智慧を得たるを得法と思へるは、あたらずといふ語によりて、さらば學解を捨て、道にかなはんとする者あり。また此妄想に障へられて道にかなふことあたはず。華嚴經に云く、奇なるかな一切衆生具に如來の智慧德相あり。たゞ妄想執著あるが故に證することを得ずと云云。たとへば世間に身力强健にして才藝拔群なる人あり。忽ちに大病を得て身力もよわく、才藝もわすれたること三歲の小兒のごとし。傍らに無病の人ありて、才能をほどこし力量をたくましくするを見て、彼の病人自身に本より才能も力量も具足せることをしらず。他人のふるまひをうらやみて、病中に藝能を習ひ、ちからわざを好むとて身心を苦勞する故に、病氣いよいよ增して所望いまだ達せざるに、死苦すでに到るがごとし。此の病人若し才能力量は本より具足せり。只病に障られてあらはれずといふ事を信じて、先づ其の病を療治せば、才藝力量皆な本のごとくあらはるべし。學道もかくのごとし。如來の智慧德相は人々具足すといへ共、妄想顚倒の病にさへられて、現成受用する事あたはず。此理をしらずして、妄想の病床にしづみながら、諸の聖賢の智力をたくましくし德用をあらはし給ふを見聞してうらやむ心を起して、或は內外の典籍を習學し、或は祖師の言句を記持し、或は神通妙用をもとめ、或は奇才俊辨をねがふ。皆な是れ妄想の病を增する因緣なり。本有の智慧德相、何れの時かあらはれんや。
新字:問斯様の法門を信じて、智慧をも求めず、経教をも学せざる人もありけるなれども、それによりて悟る分もなきことは何ぞや。 答学解をつみて智慧を得たるを得法と思へるは、あたらずといふ語によりて、さらば学解を捨て、道にかなはんとする者あり。また此妄想に障へられて道にかなふことあたはず。華厳経に云く、奇なるかな一切衆生具に如来の智慧徳相あり。たゞ妄想執著あるが故に証することを得ずと云云。たとへば世間に身力強健にして才芸抜群なる人あり。忽ちに大病を得て身力もよわく、才芸もわすれたること三歳の小児のごとし。傍らに無病の人ありて、才能をほどこし力量をたくましくするを見て、彼の病人自身に本より才能も力量も具足せることをしらず。他人のふるまひをうらやみて、病中に芸能を習ひ、ちからわざを好むとて身心を苦労する故に、病気いよいよ增して所望いまだ達せざるに、死苦すでに到るがごとし。此の病人若し才能力量は本より具足せり。只病に障られてあらはれずといふ事を信じて、先づ其の病を療治せば、才芸力量皆な本のごとくあらはるべし。学道もかくのごとし。如来の智慧徳相は人々具足すといへ共、妄想顛倒の病にさへられて、現成受用する事あたはず。此理をしらずして、妄想の病床にしづみながら、諸の聖賢の智力をたくましくし徳用をあらはし給ふを見聞してうらやむ心を起して、或は内外の典籍を習学し、或は祖師の言句を記持し、或は神通妙用をもとめ、或は奇才俊弁をねがふ。皆な是れ妄想の病を增する因縁なり。本有の智慧徳相、何れの時かあらはれんや。
書き下し
問斯樣の法門を信じて、智慧をも求めず、經敎をも學せざる人もありけるなれども、それによりて悟る分もなきことは何ぞや。 答學解をつみて智慧を得たるを得法と思へるは、あたらずといふ語によりて、さらば學解を捨て、道にかなはんとする者あり。また此妄想に障へられて道にかなふことあたはず。華嚴經に云く、奇なるかな一切衆生具に如來の智慧德相あり。たゞ妄想執著あるが故に證することを得ずと云云。たとへば世間に身力强健にして才藝拔群なる人あり。忽ちに大病を得て身力もよわく、才藝もわすれたること三歲の小兒のごとし。傍らに無病の人ありて、才能をほどこし力量をたくましくするを見て、彼の病人自身に本より才能も力量も具足せることをしらず。他人のふるまひをうらやみて、病中に藝能を習ひ、ちからわざを好むとて身心を苦勞する故に、病氣いよいよ增して所望いまだ達せざるに、死苦すでに到るがごとし。此の病人若し才能力量は本より具足せり。只病に障られてあらはれずといふ事を信じて、先づ其の病を療治せば、才藝力量皆な本のごとくあらはるべし。學道もかくのごとし。如來の智慧德相は人々具足すといへ共、妄想顚倒の病にさへられて、現成受用する事あたはず。此理をしらずして、妄想の病床にしづみながら、諸の聖賢の智力をたくましくし德用をあらはし給ふを見聞してうらやむ心を起して、或は內外の典籍を習學し、或は祖師の言句を記持し、或は神通妙用をもとめ、或は奇才俊辨をねがふ。皆な是れ妄想の病を增する因緣なり。本有の智慧德相、何れの時かあらはれんや。
現代語訳
問:このような法門を信じて、智慧をも求めず、経教も学ばない人もいるけれども、それで悟る見込みもないのは、どういうわけか。 答:学解を積んで智慧を得たことを法を得たと思うのは当たらない、という言葉によって、それなら学解を捨てて道にかなおうとする者がいる。これもまたこの妄想に妨げられて、道にかなうことができない。華厳経に言う。不思議なことだ、すべての衆生には、ことごとく如来の智慧と徳相がそなわっている。ただ妄想と執着があるので、これを証することができない、と。たとえば世間に、身の力が強く才芸が抜きんでている人がいる。突然大病を得て、身の力も弱くなり、才芸も忘れて三歳の幼児のようになった。傍らに病のない人がいて、才能を発揮し力量を強く示すのを見て、その病人は、自分にももとから才能も力量も具わっていることを知らない。他人のふるまいをうらやんで、病の最中に芸能を習い、力わざを好むとして身心を苦しめるので、病はますます重くなり、望みがまだ達せられないうちに、死の苦しみがすでに来る。この病人がもし、才能も力量ももとから具わっているが、ただ病に妨げられて現れないのだと信じて、まずその病を治療するなら、才芸も力量もみな元のとおり現れるだろう。学道もこのとおりである。如来の智慧と徳相は一人一人に具わっているというが、妄想顚倒の病に妨げられて、現れ受用することができない。この理を知らず、妄想の病床に沈みながら、聖賢たちが智力を強く発揮し徳のはたらきを現されるのを見聞きしてうらやむ心を起こし、あるいは内典外典を習い学び、あるいは祖師の言句を記憶し、あるいは神通や妙用を求め、あるいは奇才や俊弁を願う。これらはみな妄想の病を増す因縁である。本有の智慧と徳相は、いつ現れるだろうか。
解説

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